あかりの日記

おっ あっ 生きてえなあ

【判例】最高裁令和4年(オ)第39号同5年3月9日第一小法廷判決・民集第77巻3号627頁

https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=91846

 

【判示事項】

 行政機関、地方公共団体その他の行政事務を処理する者が行政手続における特定の個人を識別するための番号の利用等に関する法律(令和3年法律第36号による改正前のもの)に基づき特定個人情報(個人番号をその内容に含む個人情報)の収集、保管、利用又は提供をする行為と憲法13条

 

【事案の概要】

 本件は、行政手続における特定の個人を識別するための番号の利用等に関する法律(以下「番号利用法」という。)の規定に基づき個人番号を付与されたXらが、Yが番号利用法に基づきXらの特定個人情報(個人番号を含む個人情報)の収集、保存、利用又は提供(以下、併せて「利用、提供等」という。)をする行為は、憲法13条の保障するXらのプライバシー権を違法に侵害するものであると主張して、Yに対し、プライバシー権に基づく妨害予防請求又は妨害排除請求として、Xらの個人番号の利用、提供等の差止め及び保存されているXらの個人番号の削除を求めるとともに、国家賠償法1条1項に基づき、慰謝料等の支払を求めた事案である。

 原審がXの請求を棄却したところ、Xが上告した。

 

【裁判要旨】

 上告棄却。

 「行政機関、地方公共団体その他の行政事務を処理する者が、行政手続における特定の個人を識別するための番号の利用等に関する法律(令和3年法律第36号による改正前のもの)に基づき、特定個人情報(個人番号をその内容に含む個人情報)の収集、保管、利用又は提供をする行為は、憲法13条の保障する個人に関する情報をみだりに第三者に開示又は公表されない自由を侵害するものではないと解するのが相当である。」

 

☆検討

 「プライバシー権」の内容についての学説は、情報社会の進展に伴い、私人間の私生活秘匿権→国家に対する自己情報コントロール権→(その具体的内容として)システム構造の適切性や堅牢性に審査の重点をおく必要がある、というふうに展開してきた。

 この3番目の点に関して、最高裁平成20年3月6日第一小法廷判決・民集第62巻3号665頁(住基ネット訴訟最高裁判決)は、憲法13条は個人に関する情報をみだりに第三者に開示又は公表されない自由を保障しているとした上で、住基ネットシステムによる情報の収集、管理又は利用がこの自由を侵害するかについて、①前記行為が、法令等の根拠に基づき、正当な行政目的の範囲内で行われているものということができるかのみならず、②住基ネットにシステム技術上又は法制度上の不備があり、そのために本人確認情報が法令等の根拠に基づかずに又は正当な行政目的の範囲を逸脱して第三者に開示又は公表される具体的な危険が生じているかも検討した上で、前記自由の侵害を否定した。

 本件についても、侵害が問題になっている権利は住基ネット訴訟最高裁判決と同様のものであり、最高裁は同判決の枠組みを踏まえた判断を行った。すなわち、番号利用法による特定個人情報の利用、提供等が前記事由を侵害するものであるか否かにつき、①番号利用法は、個人番号等の有する対象者識別機能を活用して、情報の管理及び利用の効率化、情報連携の迅速化を実現することにより、行政運営の効率化、給付と負担の公正性の確保、国民の利便性向上を図るという、正当な行政目的を有するものと認められるところ、厳格な規制により個人番号の利用や特定個人情報の提供等の範囲が限定されていることから、番号利用法に基づく特定個人情報の利用、提供等は前記の正当な行政目的で行われているということができるのみならず、②番号利用法がその種々の規制の実効性を担保するための制度を設けるとともに、情報提供ネットワークシステムが個人情報の漏洩等の危険性が極めて低いものとなるように設計されていることから、番号利用法に基づく特定個人情報の利用、提供等に関して法制度上又はシステム技術上の不備があり、そのために特定個人情報が法令等の根拠に基づかずに又は正当な行政目的の範囲を逸脱して第三者に開示又は公表される具体的な危険が生じているということもできないとして、前記のとおりの判断をした。

 本件と住基ネット訴訟の相違点としては、住基ネットで扱うのは本人確認情報のみであるのに対し、マイナンバー制度における特定個人情報の中には個人の所得等の秘匿性の高い情報が多数含まれていたという点であり、これにより、②すなわち情報提供ネットワークシステムの適切性、堅牢性についてはより慎重な審査がされたといえる。

 

 なお、②のうち、「システム技術上の不備」というのは文字通りの意味だが、「法制度上の不備」において具体的に審査されている内容は、漏洩を行った際に適切な措置をとることができる仕組みや、漏洩を行った職員に対しての適切な制裁があるかなどの、「情報が漏洩しないような人的・組織的コントロールが適切にされているか」であると思われる。

 

☆おまけ

 ぽまいら、マイナンバーカード、作ったか?マイナポイントがあったから、まあ流石にカード自体は作ったという人が多いのかな。今年で保険証廃止もされちゃうらしいし。口座との紐付けのミスみたいな問題とかあったけど、あれもカードというよりマイナンバー制度の問題*1であって、カードを作らなければ自己防衛できるという話じゃないしね。僕もポイントに釣られて作ったくちではあるが、去年は確定申告とかパスポートとかふるさと納税とか色々使いたいところはあった。あったのだが、携帯のNFCが(搭載されてはいるはずなんだけど壊れているのか)反応しなくて、携帯でカードを読み取ることができず、全然活用できなかったのよな。携帯早く買い替えろって話なのだが。参った参った。

 

 

*1:判例との関係でいうと、「法制度上の不備」のところで論じる余地はないわけではないのかもしれないが、多分制度設計というよりは現場の職員の対応のミスレベルの話なので、もし仮にこの問題が審理の中で俎上に上がっていても、結論に影響はなかったかなあと思う。

立川武蔵『空の思想史』⑤

 

さて、この本の話も今日で終わりにしようじゃないか。今日は11章から最後まで、東アジアに伝来した空思想を外観する。

 

東アジアへの仏教伝来概観

このテーマもまた、個別的に検討したいと思うが、話の前提としてざっくりみておく。

仏教は紀元前後にはシルクロードを通って中国に伝来していた。魏晋南北朝の時代には鳩摩羅什や法顕などの活躍により仏典の漢訳が進み、隋唐時代には中国独自の教学の成立をみた。具体的には、インド仏教哲学の有力な流れである有部、中観派唯識派に対応する宗派として倶舎宗三論宗法相宗が生まれ、隋代には法華経を中心とする天台宗華厳経を中心とする華厳宗が成立した。唐代には大日経金剛頂経を基礎とする中国密教が成立、発展する。宋代には禅と浄土教を中心として仏教が民衆に広まる。

中国から日本への仏教の輸入はは、538年に仏教が伝来してから、奈良時代までにはいわゆる南都六宗(三論、成実、法相、倶舎、律、華厳)が揃う。そして平安時代の初期に入唐した最澄空海により天台宗真言宗が開闢され、両者とも密教思想として発展する。鎌倉時代以降には、比叡山で勉強したお坊さんを中心に鎌倉仏教(浄土系、禅、日蓮法華宗等)が成立し、民衆に広まっていく。

まあ学校の教科書レベルだが以下の議論との関係ではひとまずこんなもんでいいだろう。

それで、まず先に中国思想から見ていくが、空思想との関係で東アジア独特の思惟が発展したものとして著者が注目するのは、天台思想と華厳思想である。

 

天台仏教

はっきりいって僕は天台思想に結構興味がある。素人向けでわかりやすい本があればぜひ読みたいと思う。それは一つには、もう1年くらい前だが、栗田勇という人の「最澄」というクッソ長い伝記を読んだからである。まあとりあえずこの本にあった限度で触れる。

中国天台宗の実質的な開祖は6世紀の智顗である。天台山で修行していたから天台大師と呼ばれたり、智者大師と呼ばれたりする。天台山で開闢されたから天台宗なのだ。天台智者大師といえば、法華経をトップにお経をランク付けする五時八教説という教相判釈をしたことが有名である(中村元、三枝充悳 『バウッダ[佛教]』① - 三浦あかり参照)けど、今回は天台宗における空思想にフォーカスを当ててみる(なお教判の話も円了のところで出てくる)。

そう、天台宗の思想の要は、ただ法華経がエライと言っているというだけではなくて、法華経の思想に従って竜樹いらいの空思想を解釈したというところなのだ。というわけでまたまた中論の話をするぜ。

さて、立川武蔵『空の思想史』③ - 三浦あかりの復習だが、竜樹は中論の最後の方で「縁起」について述べている。

縁起なるもの、それをわれわれは空性と呼ぶ。

それ(空性)は仮説であり、中道である。(p114)

それで、この記述で竜樹自身が言いたかったことは、「空性に至った者が、そのような世界の見方をあえて言葉で語るとき、その言葉を仮説と言い、その人が仮説を説く場面を「中道」と言う」ということらしい(p234あたり参照)。ポイントなのは、「仮説」は「仮」という言葉は使っているけど、凡夫の汚れに満ちた世界のことじゃなくて、「清浄な世界に至ったホトケがする表現」のことを言っている、ということと、「中道」というのは「ホトケが仮説を説いている場面」を指しているのであって、極端に触れないようにするとかほどほどにするとかそういうことを言っているのではない、ということである。ここまでは復習。

しかしながら、天台思想においては、中論のこの空性、仮説、中道(それぞれ「空」、「仮」、「中」と1文字で言われることが多いので以下そう記す)を全然別の意味で解した。*1すなわち、天台は、「縁起は⑴空であり⑵仮であり⑶中である」と解したのである(p229)。この3つを三諦(3つの真理、というような意味)と言う。そして、それぞれの中身の理解も竜樹とは異なる。すなわち、まず、天台思想では「仮」には、仏の言葉や見た世界などだけではなく、迷える凡夫の言葉や見た世界も含む「空」は「無い」という意味というよりは「根元」という意味が強い。そして「中」とは、根本としての「空」と、そこから現れ出た「仮」が調和する、というような意味合いを示している。

つまり、縁起の理法というのは、聖なる世界としての「空」と、俗なる世界としての「仮」が矛盾なく調和している「中」なのである。この調和を説く思想こそがもっともレベルの高い教えということになる。ついでに言うと、そのもっともレベルの高い教えが「法華経」ですね、ということになっている。

著者は、このような天台思想は、竜樹の思想にあった「俗から聖に行って、聖から俗に帰ってくる」という時間的な要素を捨象するようにもみえ、宗教的実践のプロセス・階梯を基礎づける思想になりうるのか、どうか、みたいな問題意識を示している(p239以下)。まあ実際には、天台の教えが実践面で弱い教えだということは全く無いのだとは思うが、たしかに、天台思想においては、インドの空思想にあった、強烈な自己否定・世界の否定の要素はかなりナーフされているようにみえるな。しかし、その代わりに、「今ここにある世界をそのままの形で肯定する」という側面は、インドやチベットにはなかったくらいに強化されているようにも見える。

華厳仏教

華厳宗はその名の通り初期大乗経典たる華厳経を根本経典とする宗派であり、開祖は厳首大法蔵である。天台の思想とは、根源的なものの存在をみとめ、現象世界はそれが何らかの形で現れているものとみる点では共通している。

ところで、立川武蔵『空の思想史』② - 三浦あかりで検討したが、インド仏教はインド唯名論(ダルミンとダルマに明確な区別はないという立場)の中で、ダルミンが存在しないと考える立場であった。これに対してこの華厳思想をみると、現象世界は根源的なものが現れているとみる、という点では唯名論ではあるのだろうが、しかし、根本原理(基体ダルミン)の存在は認めているんじゃないだろうか。この点で、インドの中観思想と華厳の思想とは根本的な相違があるのではないか。と、著者は指摘する。

天台・華厳と、中国独特の思想である禅を通底している考え方として、中国人の思惟の中には今ここにあるものの存在に対する懐疑が薄いということがある。「存在の否定」という要素が薄いわけだ。

中国人は眼前のものの存在を疑わない。彼らはものがあるところからすべてを始めるのである。(p264)

このような方向で理解された仏教思想が日本にも入ってきている。

最澄空海

中国から輸入された仏教における空思想が日本において大成したのは、最澄空海においてであるとのことである。いつもの二人という感じだが、この二人について空思想の観点から見ていこう。

最澄

せっかく最澄の話になったので少しだけ脱線するが、上記のとおり僕は最澄のくっそ長い伝記を(なぜか)読んだので、最澄という人物にかなり興味がある。これはかなり怒られるかもしれないが、日蓮に限らず法華経にハマった人たちというのは独特のイデオロギー的熱意があるなあという感じがする。最澄も、南都とバチバチにバトルしたり、晩年は大乗戒壇設立をしつこすぎるくらい申し入れたりと、結構思想強めの人だったんじゃ無いかなあと思うのだ。別に何ら悪くいうつもりはない。そうでもなきゃ現代まで続く大宗派の設立なんてできっこないからね。

話を空に戻すが、最澄の思想において重要なのは「諸法実相」の考え方を前面に押し出したことらしい。この思想は、源流は法華経にあり、中国天台宗で提唱されたものらしいが、日本ではかなり強調された。諸法実相を強調することによって仏教がジャパナイズされたという側面がある、というようなことが触れられている。

ここまでで何度か触れてきたように、仏教・中観派は世界の基体ダルミンの存在を認めない。世界は現象(属性ダルマ)の総体であるとみる。この点は天台思想も変わらない。その常に変わり続け捉えどころのない世界を、だから究極的にみれば「ない」んだ、というような、言ってみれば否定的な世界の捉え方をするのが、竜樹以下のインド中観思想であった。これに対して、移り変わる属性だけで構成される世界について、それはそれとしていいじゃないか、かけがえのないものじゃないか、という、肯定的な捉え方をすると、諸法実相になる。ということらしい。

すでに中国の段階でも見えていることだが、最澄までくると、「空」は「欠いていること」ではなく「世界の清浄なる真理の姿」という意味合いがかなり強くなってきている。

(この先は自分で考えたことだが)こういう現実に対するかなり楽観的・肯定的な「諸法実相」観が、のちのいわゆる本覚思想とか鎌倉仏教とかにつながっていき、極めて世俗性の強いジャパニーズ仏教が成立する理論的支柱になった、ということなのかなと思う。かなり雑な議論だと思うが。

空海

僕は四国八十八か所を回ったことがあり、空海大好きなので、彼についても色々話したいことがあるんだが、まあその話はいずれする機会があるだろうからここでは割愛する。

さて、空海密教者である。前回(立川武蔵『空の思想史』③ - 三浦あかり)検討したとおり、密教は空思想によって聖化された世界とは具体的にどういうものなんですか、というところに強い関心をもつ。そういうことで、空海は、日本の前近代の思想家の中では異例なほどに、空の論理によると世界は何なのか、ということを言っている。その一つの例が、マンダラについての言及である。

六大無礙にして常に瑜伽なり。

四種曼荼各々離れず。

三密加持すれば速疾に顕わる。

マンダラにはこの世界の真実の姿を模式的に表したものという側面がある。この辺りは密教についてまた別の機会に触れたいと思う。

また、空海は、実践者のたどる心の流れを「十住心論」などで記述している。これは要するに空海版の教相判釈なわけだが、しかし、空の思想を実践していくとその人が見る世界がどうなっていくのか、ということを表現している。このように、「宗教的実践によってどこかからどこかへ行く」というプロセスを表現していることが重要なのだと、著者は繰り返し説いている。

井上円了

円了は明治時代の仏教学者で、仏教の近代化に努めた人物である。彼は、日本の伝統的な仏教思想を統一的に理解しようとした。そして彼がやったのはおなじみの教相判釈である。結局、東アジアにばらばらと入って発展してきた仏教思想を統一的に理解するには、並べてランク付けをするみたいなのがどうしても必要になるのである。しかし、彼の教判には、著者的には極めて重要な特徴があった。それは、思想を並べるときの考え方として、「俗から聖に行き、聖から俗へ帰ってくる」という視点が導入されていたことである。

具体的には彼は、日本の伝統仏教のうち、倶舎、法相、三論、天台、華厳、真言の6つを、彼が信じる仏教の歴史的展開に従って、今述べた順に並べた。つまり円了的には真言宗が最も発展した仏教ということになるわけだ*2。そして、これらを並べる視点として、「事」と「理」という視点を導入した。事というのは個物に関する理屈のことで、理とは普遍的な理屈のことである?これまでの議論と対応させるなら、事が現象世界のことで、理が真理(空)の世界のこと、というふうに分類してもいいか。そして、彼は上記の思想を次のように、一種の思考の順序に従って並べる。

まず、倶舎宗は事についてのみ、それがあると語る。そこから、法相宗を経由して、三論宗に至ると、理すなわち空について、それが否定的に語られるに至る。このように一度空性に至ると、次に、天台宗が事について否定的に語る。そこから、今度は事と理の円融した理のあり方を肯定する方向の検討が進。華厳宗を経由して、真言宗に至って、空性を経て事と融合した理の存在を肯定するに至る。

こう書いてもよくわからないかもしれないが、気になった人はこの本を買ってp313の図を見てくれ。要は、この著者が言いたいのは、円了はこれらの思想を、⑴現象世界を空性によって否定するプロセス、⑵空性に至ったプロセス、⑶空性からそれと一体となった現象世界へと帰るプロセス、に沿って並べた、ということである。

 

全体的な感想

さて、近代日本までたどり着いたのでまとめに入る。アビダルマを批判して中論を打ち立てた竜樹から出発して、中観派の発展、その思想のチベット、中国、日本への伝播を見てきた。

まず感じたのは、仏教史における竜樹の影響の大きさである。中観派だけでなく、密教や天台思想なども竜樹の理論に直接的に立脚して構築されている。八宗の祖といわれるのも納得ですわ。

あと、竜樹も含めてインド中観派の議論は極端に難解である。この日記を書いていて思ったけど、僕は理解できていない(笑)。理解できていないことは人に説明できないものである。この点はいずれまた取り組む機会があるだろう。

そして最後に、僕自身忘れていたのだが(笑)、この検討の初めに、「なぜ空の理論が他者への宗教的実践を基礎づけるのか?」というような問いを立てた(立川武蔵『空の思想史』① - 三浦あかり)のだった。それについての今の考えを書いておく。すなわち、まあはっきり言って、仏教思想は全体として、まさにそこが弱い、すなわち、リロン的にぐちゃぐちゃこねくり回しているところと宗教的実践、特に集団的な実践との結びつきが、例えばキリスト教イスラームとか、あと現代の人権思想なんかと比べると弱いと言わざるを得ないのではないだろうか。著者はそのことを分かった上で、仏教がこれまで積み重ねてきた論理を基礎としてそのあたりの説明を充実させていくことこそが、仏教・空が現代思想として生き残っていくために重要なんだ、というようなことを言っているように思える。

人類全体も自らが望み得ることを見定めるために、「自己否定」を行う必要がある。このような意味の集団的実践については、空の思想はこれまでの歴史において具体的、総括的な理論の構築をしてこなかった。(p336)

そんで、この著者は、これまでに積み重ねられてきた空思想のうちこの理論構築に対して有用なものを高く評価しているように見えなくもない。具体的には、筆者が高く評価する思想は、何度も出てきたところだが、「俗から聖に行き、俗に帰ってくる」という構造をもっているものである。この「俗から聖に行く」というプロセスはつまり、今の自分は不十分だという自己否定をおこなって実践を行うということである。こういう構造をもっている思想を出発点として、集団的な実践を基礎づける現代思想としての空思想を構築できないか。筆者はこういうことを投げかけているように思われる。

 

少し自分の思ったことを書くが、現代の思想は極端に世俗化し、人間のあらゆる行為規範は究極的には、形而上のものや、集団それ自体の利益などではなく、個人がこの現実世界で享受する幸福に根拠を求めなければならないことになっている。個々人やある集団の営為に対する否定や肯定は必ずこの視点から行われる。別にそれを批判したいわけではなく、まあ僕の仕事柄というのもあるが、それはそうでないとまずいと思う。例えば個人とは独立したアンシュタルトな集団の論理みたいなものによって行為規範を基礎づけることは危険であるし、そもそもそれをやろうにも、もはや「この世界の真実の姿はマンダラなんだ」みたいな認識に後戻りすることもできない。しかしね、前近代の人が多く信じていた思想というのは、究極的な根拠が形而上のものであってその意味で非論理的だったりするかもしれないが、現に多くの人間の行為を基礎づけてきたという意味での経験的な正しさがある程度保障されているものはあると思う。我々が近現代のアタマを作る際に、古く非合理的だと切って捨ててきた思想の中には、現代に有用な価値観がまだ残っているのではないか。それを掘り起こして現代人の思考に取り入れる余地はあるだろう。それで、仏教の中にそのような「忘れ去られた有用な価値観」を求めるとしたら、それはこの「空」の徹底した自己否定なんだろうと思う。現代思想の中に空を取り入れろ、というのは、例えば脱構築とかそういうところでもうやってるとか、色々あるのだろうが、まだ空の思想には現代的に顧みられるだけの価値がある。その可能性もある。あるんじゃないかなあ。あるかもな。あるかなあ。うーん。どうだろう。

 

 

*1:現代の理解からすると、中論を誤読していたということになるのかもしれない。しかし、これはどちらかというと、鳩摩羅什の訳の問題であったと指摘されている。

*2:書いていて思ったけど、アビダルマ、大乗の哲学、大乗の中国思想、密教と、確かに成立年代順にはなっている。この辺りは、近代の人なので、ある程度は意識して並べたのかな。

立川武蔵『空の思想史』④

 

 

もうとっくに年も明けてしまった。本当はお正月にやろうと思ったんだけど、気づいたらもう1月も半分近く終わってる。ままええわ。

さて、前回は7章の、自性(スヴァバーヴァ)の話まで行った。ぶっちゃけどんな話だったかは忘れちゃったのだけど、今日は8章以下、竜樹以降のインド・チベットの「空」について検討する。前回までに引き続き生煮えな理解だがメモしておく。

 

中観派自立論証派による空の論証

竜樹の空の思想を研究する仏教の学派は中観派と呼ばれ、後に成立する唯識派と並ぶインド仏教哲学の2大潮流になる。そして中観派は、背理法的な論証を行う帰謬論証派と、インド型の論証式を用いて論証を行う自立論証派に分かれていくが、自立論証派が次第に優勢になっていく。ここまでが前回までのおさらい。

ということで、自立論証派の思考を少し詳しく検討してみる。代表選手として、6世紀頃に活動した清弁の論証を検討してみる。

 

論証式

その前提として、まず、インド型の論証式というのを検討する。これを発明したのはディグナーガという唯識派のお坊さんである。ひとまずは、ディグナーガの論証式の例として挙げられているものを書き写してみる。

 

【主張】 あの山に火がある。

【理由】 (あの山には)煙がある。

【肯定的必然関係と同類例】 煙のあるところには火がある。台所におけるように。

【否定的必然関係と異類例】 火のないところには煙はない。湖水の表面におけるように。

 

・・・ぶっちゃけこの本の説明を読んでも、何が言いたいのかよくわからなかったのだが、自分なりに考えてみるに、この論証式というのはつまり、「【理由】に当たる事実があるとき、【肯定的必然関係】と【否定的必然関係】がともに正しいなら、【主張】は成り立つ。」ということが言いたいのだろう。(同類例、異類例というのは、肯定的必然関係とか否定的必然関係を成り立たせるための間接事実みたいなものであって、まああんまり本質的に重要なものじゃないのだろう、多分。)上の例にてらしていうと、「「あの山に煙がある」という事実から、「あの山に火がある」という事実を推認するためには、「煙のあるところには火がある」という法則と、「火のないところには煙はない」という法則が成り立つ必要がある。で、これらは両方成り立つので、この推認は許される。」ということが言いたいのだろう。

 

ところで、これとは別に、我々が慣れ親しんだ西洋式の論証式というものがある。

【大前提】 煙があるところには火がある。

【中前提】 あの山には煙がある。

【結論】  あの山には火がある。

これは、大前提が正しいとき、中前提たる事実から結論たる事実を推論することができる、という議論である。そんで、この西洋の論証式とインドの論証式は、一見似ているように見える(主張=結論、理由=中前提、2つの必然関係=大前提?)が、これらは微妙に違うらしい。

どこが違うのか。これもよくわからないのだが、一応自分なりの理解を書いてみる。西洋の議論というのは、煙があるから火がある、というためには、「煙があるところに火がある」と言う必要はあるけど、「煙がないところに火がない」と言う必要まではない(逆が真である必要はない)よね、みたいな、あくまで命題間の関係に注目した考察なのである。これに対して、インド論証式の分析は、基体(ダルミン)と属性(ダルマ)の関係に着目した議論なのである。インド論証式の形式を一般化すると、

【主張】 場(ダルミン)には証明されるもの(ダルマ)がある。

【原因】 場に目印(ダルマ)があるから。

【肯定的必然関係と同類例】 目印があるところに証明されるものがある。同類例のように。

【否定的必然関係と異類例】 証明されるものがないところに目印はない。異類例のように。

 

これを言い換えると、論証式において適切な目印が設定されていることの条件は次のように整理される。

⑴ 目印は、場に存在しなければならない。

⑵ 目印は、証明されるものが存すると言う意味で場と類似しているが、場以外のもの(類似場)の全てあるいはいくつかに存しなければならない。

⑶ 目印は、証明されるものが存しないという意味で場とは類似していないもの(非類似場)に存してはならない。

⑴は【原因】たる事実が正しいこと、⑵は肯定的必然関係が成り立つこと、⑶は否定的必然関係が成り立つことにそれぞれ対応していると思われる。

 

このように(?)インドの論証式は、ある場(ダルミン)にある属性(ダルマ)があるかどうかを、その場にある別の目印たる属性(ダルマ)の存在から推認する、という考え方をしている。

「あの山には煙があるから火がある」と言える理由の説明として、古代ギリシャ人は「煙のあるところには火があるという命題が成り立つから」と言うのにたいし、古代インド人は「煙というダルマが存するダルミンには火というダルミンも存するから」と言う、という感じだろうか?

 

これを書く前よりは理解に近づいたと思うのだが、この辺りの議論は正直謎に包まれている。ネットに転がっているものも参考にしたりしたが、やっぱりよくわからない。

 

清弁の論証

では、この論証式を用いて清弁が空をどう論証したか見てみよう。具体的に清弁が論証したことは、例の中論の「歩く人は歩かない」である(本文では「行く者は行かない」になっているが、「歩く人」でもおんなじ議論になると思うので、「歩く人」で検討する。)*1。好きだねえこれww 中観派というのは、ある意味では、「歩く人は歩かない」ことをどうにか論証しようと心血を注いだクレイジー人たちだったと言えるのではないかと思う。

ひとまず、清弁の論証式を見てみる。

【主張】 最高真理においては、歩く人は歩かない。(「歩く人」には、「歩かないこと」がある。)

【理由】 歩く人は、動作と結びつくから。

【肯定的必然関係】 動作と結びつく人は歩かない。止まる人のように。

【否定的必然関係】 歩く人は動作と結びつかない。

うん、まったく意味がわからない。まずこの、「最高真理においては」というところが気になるが、これは一旦無視する。で、じゃあこの「歩く人は動作と結びつくから歩かない」という論理式が、「あの山には煙があるから火がある」と同じように成り立つのか、上記⑴から⑶に照らして検討してみるか。

まず⑴すなわち【理由】に挙げた事実が正しいかだが、「動作と結びつく」と言うのがどういう意味なのかよくわからないけど、まあ字義通り捉えるなら一応正しいってことにしとくか。では⑵と⑶についてはどうか。

上の論証式を整理すると、

場(ダルミン)=歩く人

目印(ダルマ)=動作との結びつき

証明されるもの(ダルマ)=歩かないこと

となる。そして、⑵について、目印たる「動作との結びつき」は、「止まる人」という、類似場(歩かない人)のうちの少なくとも一つには存しているので、⑵はOK。

また、⑶について、この命題における非類似場は、証明されるものである「歩かないこと」がない場、すなわち「歩く人」であるはずだが、他方で、場である「歩く人」以外のものである必要がある。そうすると、この命題には非類似場が存在しない。非類似場がないということは、非類似場に目印があることもないので、⑶はOK。

 

・・・清弁の論証はこんな感じである。どうですかね。いかにも詭弁だよねwww

では、この議論のどのあたりが詭弁なのか。⑶の部分について、この議論は、あらかじめ、場を「証明されるダルマがないダルミン」となるように設定しているので非類似場が存在しないことになってしまっているのだが、非類似場が想定し得ないものについてディグナーガの論証式というのは適用される余地があるのだろうか?「証明されるダルマがあるか、ないか」自体を場の定義に用いることはディグナーガの論証式では想定されていない、というか、一応言葉として成り立たせることはできるかもしれないけど、何の意味もない論証になるのではないか。例えば、「煙のあるところには煙がない、属性があるから」という命題だって成り立ってしまう気がする。この辺りはまた考えてみたい。

 

清弁は他にも、「歩かない人は歩かない」という命題も論証式で論証しているが、こちらにも問題があるらしい(疲れたのでこちらは割愛する。)。しかし、清弁は重要なポイントとして、この命題に「最高真理では」という留保をつけている。この文句で、論理の綻びや批判をかわしたのかもしれないが、ここで重要なのは、竜樹にあっては「歩く人は歩かない」というのが唯一絶対の正解であって「世俗の世界では歩く人は歩くんだけどね」みたいな例外の考え方は無かったのであるが、時代が下るごとに、中観思想家は、空の最高真理と世間的真理の間には超え難い隔たりがあることを段々と認めざるを得なくなっていった、ということである。僕の頭ではこのくらいの理解が限界だった。

 

シャーンタラクシタ

8世紀のナーランダー僧院のお坊さんシャーンタラクシタは、中観派(自立論証派)でありながら唯識の思想との統合を図り、瑜伽行中観派を成立させたとされる。彼はチベットに精力的に布教し、事実上のチベット仏教の開祖といわれる。彼の弟子カマラシーラはチベットにおいて中国の禅僧との論争(サムイェー寺の宗論)に勝利し、その後のチベット仏教をインド仏教に準拠したものとする礎を築いた。禅は直ちに悟れると説く(頓悟仏教)のに対し、シャーンタラクシタらのインド仏教は厳しい修行の階梯を踏んだ先に悟りがあると説く(漸悟仏教)。チベットが中観思想を中心とする漸悟仏教を受け入れたことは、その後のチベット密教化とも深く関わり、極めて重要である。

 

インド密教チベット仏教と空

竜樹以来の空の思想は、言語による世界の表現・認識の否定にあったということは間違いなさそうであり、仏教の(というかあらゆる宗教においてそうかもしれないが)基本的な考え方である、「最高の真理は言語を超えたものである」ということを理論的に基礎づけるものであったとは言えると思う。少なくとも一面ではそういう側面があったとは思う。そして竜樹はその言葉を超えた世界のあり方を「縁起の理法」とか言いつつ、そこはあんまり語らなかったわけだが、仏教や空思想の関心は時代が下るにつれて次第に、「ではその言葉を超えた世界ってのはどんな感じなのか」という方に比重が移っていく。

そういった空思想の関心と結びついたのが密教である。密教の具体的内容については絶賛勉強中なので後で別途まとめようと思うが、日本でも広く親しまれている胎蔵マンダラを説いた大日経や、チベットゲルク派等の根本経典である秘密集会タントラなどにおいても、世界の本質は空性であることが語られている。

ツォンカパが14世紀頃に創始したゲルク派と空との関わりだけ、軽くみておく。まず、小空経(立川武蔵『空の思想史』② - 三浦あかり)や般若心経(立川武蔵『空の思想史』③ - 三浦あかり)で触れたが、サンスクリット語の「空」は、「yはxを欠いている」(用法1)というのと、「xはない」(用法2)という2つの使い方がある。そんで、般若心経の読み方のところで触れたように、インドでは用法1で使うことが多かったわけね。しかしツォンカパは「五蘊がスヴァバーヴァシューニャである」を、「五蘊は自性として成立していることを欠いている」というような感じで、用法2っぽく読んだ。自性としての五蘊はない。つまり、自性でない五蘊はある、というふうに読んだのである。自性でないものというのは、竜樹のいう縁起の世界であって、その意味でツォンカパの理解は竜樹と大きく変わるものではない。しかし、竜樹やインド中観派は、自性でないもの、は突き詰めると非常に狭く解してきたのに対して、ツォンカパが自性であるとして否定したのは、「縁起によらず、独立不変の実体として存在しているもの」というくらいであり、「自性でないもの」の範囲を広く解している。ツォンカパはインド中観派と比べてかなりこの現実の世界のあり方を肯定的に捉えているのだという。それは、ツォンカパは仏教を国家存立のイデオロギーにしなければならず、一般的世間的な思惟を伴った思想にしなければならなかったから、らしい。この辺りの、チベット仏教の事情については、チベットの歴史も踏まえて別のところでまとめたいと思う。

 

さて、今回は竜樹以降の中観思想の変質をみた。竜樹はこの現象世界を厳しく徹底的に否定したが、その後のインド・チベット仏教では、竜樹と基本的に同じ立場に立ちつつも、最高真理と世俗の真理を分けたり、「自性」を限定的に解したりと色々工夫して、この眼前に広がる現実世界を肯定する考え方を模索してきた。

これに対して、東アジアに伝来した空思想はまるきり姿を変え、空は世界を否定する論理から、今ここにある世界の在り方をそのまま肯定する論理へと換骨奪胎されていくのである。次はそれをみることにして、いい加減次でこの本の話は終わりにしよう(笑)

【判例】最高裁令和4年(許)第16号同5年2月1日第三小法廷決定・民集77巻2号183頁

www.courts.go.jp

 

【判示事項】

 破産管財人が別除権の目的である不動産の受戻しについて前記別除権を有する者との間で交渉し又は前記不動産につき権利の放棄をする前後に前記の者に対してその旨を通知するに際し、前記の者に対して破産者を債務者とする前記別除権に係る担保権の被担保債権についての債務の承認をしたときに、その承認は前記被担保債権の消滅時効を中断する効力を有するか

 

【事案の概要】

 本件は、X所有の不動産について、Xの破産手続終了後、Yを根抵当権者とする根抵当権(以下「本件根抵当権」という。)の実行として競売の開始決定がされたところ、Xが、Xを債務者とする本件根抵当権の被担保債権(以下「本件被担保債権」という。)が時効によって消滅したことにより本件根抵当権は消滅したと主張して、Yに対し、前記競売手続の停止及び本件根抵当権の実行禁止の仮処分命令の申立て(以下「本件申立て」という。)をした事案である。

 原原審が本件申立てを却下したところ、Xは抗告許可の申立てをし、原審が抗告を許可した。

 前記破産手続において、Xの破産管財人(以下「本件破産管財人」という。)は、本件被担保債権が存在する旨の認識の表示をしていたことから、前記表示が本件被担保債権についての債務の承認(民法(改正前)147条3号)としてその消滅時効を中断するか否かが争われた。

 

【裁判要旨】

 抗告棄却。

 「破産管財人が、別除権の目的である不動産の受戻しについて上記別除権を有する者との間で交渉し、又は、上記不動産につき権利の放棄をする前後に上記の者に対して破産者を債務者とする上記別除権に係る担保権の被担保債権についての債務の承認をしたときは、その承認は上記被担保債権の消滅時効を中断する効力を有すると解するのが相当である。」

 

☆検討

 破産管財人のした、破産者の債務の存在を認める旨の認識の表示が、当該債務の時効中断事由である「承認」に当たるかが問題となっている。

 「承認」は、時効の利益を受けるべき者が、時効によって権利を失うべき者に対し、その権利の存在の認識を表示することをいう。また、「承認」には相手方の権利の処分権限を有することを要しないとの規定(改正前民法156条。改正後152条2項に対応)の反対解釈から、管理権限は有することを要するとされている(大判大8・4・1民録25・643参照)。

 破産管財人は破産財団に属する財産につき処分権限すら有しているのであるから、管理権限は有しているといえる。しかし、破産管財人の職務は破産財団の処理をすることにあるから、破産管財人の行為が「承認」といえるためには、当該行為が破産管財人の職務の遂行の範囲に属するものである必要がある。

 そして、破産管財人が、①別除権者との間で、任意売却すべくその受戻し(破産法78条2項14号)*1に向けてその条件等を交渉することや、②別除権者に対し、権利の放棄(同項12号)をする前後にその旨を通知することは、いずれも破産管財人の職務の遂行として行われたものといえるので、債務の承認に当たるといえる。本決定はこのことを示した法理判例といえる。

 管財人のした債務の存在を認める表示であっても、それが職務の遂行の範囲外ということになれば、「承認」とは評価できない場合もあるだろう。

 

☆おまけ

 「上記」と「前記」という言葉があるんだが、僕はいつも使い分けにちょっと悩む。この決定文は「上記」で統一しており、解説文は「前記」で統一しているようである。まあ一つの文章の中ではどっちか揃えたほうがいいわな。ただなんか、あまり近いところにあるのに「上記」も少し変だし、かなり前に出てきたのに「前記」というのもちょっとなあという気もするんだよな。参った参った。

*1:別除権者に担保目的物の評価額に相当する金銭を支払って担保を解除してもらうこと。当然被担保債権の存在を認めていることが前提となる。

今年の振り返りなど

 

 

岬ちゃんは今年も来なかった。

中原岬は今年も来ない - YouTube

僕らの日常は、いつまでもいつまでも、薄らぼんやりした不安に満たされているだけだ。世界を覆う巨大な闇の組織の陰謀はますます活発になってきた。だが僕はまだ、負けて帰るわけにはいかない。腹に革命爆弾を抱え、起爆のときを窺いながら、一年を乗り切ったのだ。…乗り切ったのか?

 

労働

僕は今年の1月くらいから働き始め、一年のほとんどを働いて過ごした。朝9時半から夜の10時まで働き、土曜も働いた。そのことはこの間も書いた(帰宅 - 三浦あかり)。

僕はやりがいを感じているので、来年も再来年も、たくさん働くだろう。だが、僕は来年は、労働の質を上げつつ、労働時間は減らさねばならない。少なくとも、土日は出ないようにしようか。

 

今年は30冊くらいは読もうと思っていたが、読めたかなあ。しかし、今年は仏教を学んだ、学びつつあった、とは言っていいと思う。

栗田勇最澄」⑴〜⑶(日記には書いていない)

最澄〈1〉

最澄〈1〉

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鈴木大拙「日本的霊性

日本には妙好人がいるぞ 鈴木大拙『日本的霊性』② - 三浦あかり

中村元三枝充悳「バウッダ」

中村元、三枝充悳 『バウッダ[佛教]』① - 三浦あかり

中村元訳「大パリニッバーナ経」

中村元訳『ブッダ最後の旅−大パリニッバーナ経−』 - 三浦あかり

立川武蔵「空の思想史」

立川武蔵『空の思想史』② - 三浦あかり

来年も引き続き仏教は研究していきたい。それ以外の本もぼちぼち読んでいきてえなあ。月に3冊くらいが目標かなあ。

 

その他

海外旅行に行ってみた。

タイに行ってきた話① - 三浦あかり

年末に少しましになったとはいえ、円安傾向は続くものと思われる。しかし、とても楽しかったし良い経験になったと思うので、多少金がかさんでも、来年もどこか行きてえなあ。WLBという観点から見たとき、僕の仕事の数少ない取り柄は、夏休みが長いところなのだ。

 

あと、素晴らしいmy favoriteであるasian kung-fu generationthe band apartのライブに行ったりした。

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ピークアウトしたおじさん達かもしれないが、僕は最近の曲だってちゃんと好きだ。ninja of fourもサーフブンガクカマクラ完全版も何度も聴いたのだ。来年は板フェスにだって行くだろう。ゴッチやライさんやハラさんが元気で活動し続ける限り、僕は"推し"続けるだろう。(もっとも、ゴッチもハラさんも健康が心配になってきたが…)

 

来年のこと

今年は殆ど労働しかしなかったが、来年は私生活を充実させてえなあ。

前にも書いたんだけど、僕は、人は幸せになるために生きているわけではないと思う。だって、もし幸福が人生の目的なんだとしたら、不幸なまま死んでいく数多くの人々にとってあまりにも救いがないからな。かなしみやくるしみを煮詰めて煮詰めて煮詰めるだけの人生には、それに相応する何らかの価値があるに違いない。

だが、人生の目的が幸福以外のなにかであるとしても、ある程度健康な生存をすることは、少なくとも、その目的に達する道筋のうちの一つではあるはずだ。だから…だからというわけでもないけど、来年は、労働の対価を使って、買うんや、幸福を。このままだと、貯金と投資信託の残高が増えていくのを楽しむだけの人生になってしまう(まあそれはそれでいいのかもしれないが)。

具体的には、①家具や家電を新調する、②親とか女のひととかにちょっと良い贈り物をする、③計画的に有給を取って旅行行く、④趣味をなんか一個増やす。これくらいなら今年と同じくらいの強度で働きながらでもできそうだよな。目標って程大したものでもなくなっちゃったけど。まあそんな感じでいくか。来年も戦うか。巨大な闇の組織と。薄らぼんやりした不安と。岬ちゃんはきっとこねーけどな。

 

 

日常

僕たちはどんどん忘れていくだろ。昨日何を食ったのかも思い出せない。いや嘘、それは覚えてるけどさ。でもどんどん忘れていくだろ。生きているなかで、たまーにだけど、すごく深く考えたり、すごく鋭く感じたりすることがあるとする、そのことをもう、次の日には、忘れてる。そのうちのある種のものは、忘れないように脳裏に叩き込むだろ、例えば、僕の乏しい人生経験からはこんな例えしか出てこないけど、受験勉強みたいに。それからまた、ある種のものは、意識しなくても、なにか強く刻み込まれたりするだろ、例えば、、まあいいや、まあいいんだけど、とにかく、そういうものですら、次の瞬間にはもう忘れていっている。そうして、手なりの日常が進行していくだろ。日常はおぼえていなくてもできる。というかむしろ、はっきり言ってさ、日常に記憶はじゃまなんだよな。全部覚えていたら、とてもじゃないけど、日常はこなせない。世界史を忘れた大学生。民法を忘れた弁護士。アレを忘れた僕。アレ、アレってなんだったかな。アレ…

帰宅

最近の僕の精神状態はかなり良好だ。2年くらい前に書いていた日記(ここではない)を見返すと、僕はかなり病んでいる。人生に絶望している。それも無理もない。あの頃はコロナというのがあって、狭いアパートでひとりぼっちで何ヶ月も引きこもっていた。一応、かろうじて、全く何一つしてなかった、という、わけではないんだけど、引きこもっていたことには違いない。金もなく友達もいなかった。今年はもう冬だけど、マスクをしてる人はそんなにいないんだ。僕はなんとか職にありつき、当面生きていくだけの金はなんとか手に入れ、少し広い家に引っ越し、まあ友達は少ないけど、それでもあの頃よりは、人と関わっている。僕はいまでも人生に絶望してるけど、でも、あの頃の閉塞感をだんだん忘れつつある。よのなかもだんだんコロナを忘れつつある。僕たちはどんどん忘れる。いいのかな、とたまに思う。だけど、どんどん忘れないと、幸せになれないよな。まあ、人間は幸せになるために生きているわけではない*1ような気もするんだが。まあいいか。

 

そうそう、働き始めてからもう1年…まではいかないけど、11ヶ月くらい経ったんだよな。引きこもっていた頃に一番心配していたのは、働くことができるかどうか、だったんだが、まあなんとかやれているな。忙しいときは忙しい。体感で、平日は9時半から21時くらいまで働き、月の土日の半分くらいは何らかの労働をしている。でもさ、意外と僕は働けているし、そこまで消耗してる感覚もないんだよな。人にも恵まれているな。真面目に働き、人間的なかどのない善良な人ばかりだ。おそらく僕はこの仕事をそこまで無理せずに長く続けられるだろうし、それなりにやりがいをもって続けられるだろう。いやわからん。来年には心を病んで辞めざるを得なくなっているかもしれないが。

もっと過剰に労働して、もっと過剰に金を得る選択肢もあった。だけど、もしそっちを選んでいたら、これくらいの精神的余裕があるかわからないものだ。まああったかもしれないけど。だけど、「隣の芝生」みたいな気持ちには不思議とほぼ全くならないのだから、やはりこの仕事に就いてよかったと思う。来年もこの仕事で働けているかはわからないけどな。

 

僕は、普通の人になりたいと思ってたんだ。社会から隔絶された部屋の中で、もう、普通の人生はないんだろうと思ってたんだ。だけど、なれたのか?普通に。これでいいのか?まあ、たしかに、恋人はいない。誰からも、あいされたことはない。生まれてこの方。だけど、それ以外の問題は、解消されつつある。当面の金がある。当面のやることがある。もう、いいのだろうか。僕はもう許されたのか?僕の額の、カインのしるしは、もう消えたのか?もうくるしまなくていいのだろうか。あの謎の、何かに追いかけられるようなあの感覚は、もう来ないのか?ある日突然、気づかないところから、アレがやってきて、全てが崩壊するんじゃないか?ああ、そうか、そうだよな。もう、だめか、やっぱり。

 

 

*1:だってもしそうなら、こんなに多くの人間が不幸に喘いでいることにあまりに救いがないからな。