注:日記のサムネイルが本の表紙だととっつきにくいという意見を頂いたので、ブッダにしてみた。特に深い意味はない。
さて今日は、4章〜9章の、インド仏教における空思想をみていくことにする。本書の核となるパートだ。
大乗までの空
原始仏典の中にも空の概念を説いたものはある。その一例が「小空経」である。
このお経のテーマとして釈尊は、アーナンダに対し
「(略)わたしは今も空性の住まいによっていくども住んでいる」(p89)
と説く。そして、この「空性に住んでいる」ことの説明として、「〇〇は空であるが、××は存在する」、「××は空であるが、〜〜は存在する」…という説明をえんえんと重ねていく。
ここで「空」というのは、真理に至るための否定プロセスであるという意味では大乗の空と共通するものの、最高真理そのものというわけではなく、修行の一環としての否定作業という意味で説明されている。まあつまり、原始仏典にも空は出てくるけど、大乗経典とはちょっと使い方が違うし、そこまで重要概念だと捉えられてもいなかった、ってことね。
ところで、若干視点が変わるが、サンスクリット語の文法における「空」(シューニャ)という言葉の使い方について、留意すべき点が一つある。
このお経の2つの箇所を見てみる。
例えばアーナンダよ、このミガーラマータ殿堂(注:このお経の中で釈尊がいる場所。)は、象とか牛とか馬に関して(略)空である。(p89)
そこに生じないものについては「それは空である」と見る。(p91)
前者の「ミガーラマータ殿堂は象について空である」とは、「ミガーラマータ殿堂に象はいない」というような意味である。このように、「空」の語の用法の一つとして、「yはxについて空である」という使い方があり(以下「用法1」という)、これは、「yはxを欠いている」という他動詞として訳すべきものである。用法1において「ない」と言われているのは主語ではなく目的語の部分だな。
これに対し、91頁の用法は、「xは空である」という使い方(以下「用法2」という。)であり、「xは存在しない」という自動詞として訳すべきものである。89頁で語られた内容を用法2で表すなら、「(ミガーラマータ殿堂において)象は空である」という使い方になるだろう。用法2で「ない」と言われているのは(当たり前だが)主語である。
このように、空の語には2つの用法がある。大乗経典や論でもこの両方が用いられており、どっちの意味で使ってるのかや、註釈者がどっちの意味で読んだのかには留意する必要があるようだ。
さて、釈尊の空はこのような形だったが、その死後の部派の時代になると、世界の理解の仕方は変質していく。説一切有部の教義では、釈尊の「五蘊*1はアートマンではない」という立場を維持しつつも、世界の最小構成単位が存在することを認め、そこを基点とする因果関係によって世界が成立している、という論理を展開した。
この論理が、般若経典と龍樹の批判対象になっていき、大乗仏教はそこから花開いていくことになる。
中論1-テーマと批判対象
(1) 「俗→聖→俗」というテーマ
1世紀頃に空を説く般若系経典が現れ始め、2世紀の竜樹によって空の思想は理論的に体系化される。ここからは竜樹の主著である「中論」の中身を見ていく。
まずここまでの流れから、「空」というのは何かしらを否定するプロセスなんだなということは言えそうであるが、竜樹は空の思想によって何を言おうとしたのか。そのテーマについて本書では、以下のようなことが繰り返し語られる。
すなわち、我々はまず「俗なる世界」に住んでいる。しかし、修行を積み世界や自己を否定していくことで、「聖なるもの(空性)」に到達する。一度空性に至ると、俗なる世界は肯定されることになる。
竜樹における空の実践、つまり空を体得しようとする行為の構造は、「聖なるもの」と「俗なるもの」という一対の概念によって指し示すことができる。迷いの世界という現状から修行という手段を経て空性を体得するに至り、そしてその空性の働きによって迷いの世界が浄化されるというのが空性を求める行為の全体像である。(p109)
前に中村元、三枝充悳 『バウッダ[佛教]』① - 三浦あかりの「ニルヴァーナ」のところでも似たような議論をした気がするが、どうも仏教の宗教的実践は、「(修行を積んで)こちらからあちらに行って、あちらに到達して、(仏として救済のために)あちらからこちらに帰ってくる」というイメージを基本的にもっているように思われる。竜樹はそのイメージにおける「あちら」を空と設定した、ということかな。
(2) 「俗→聖」
さて話を戻す。中論の具体的な内容を概観する。まず中論の記載の大半は「俗→聖」のプロセスについて語る。竜樹は、「どのようなものも生じない」とか「どのような人も歩かない」とか、そういう一見非常識な命題を立証することにより、「世界のあり方を言葉で表すことはできない」と主張する。竜樹はこのことを、「言葉はプラパンチャ(戯論)である」という言い方で表現している。プラパンチャは「分裂」というような意味らしい。そして、この「言葉によって世界を表せない」という主張が、そのまま、「世界が実在しない」という主張に繋がっている。この辺りの思考過程を下記2で検討する。
また、竜樹の思想と、その後の空思想の展開を理解する上では、スヴァバーヴァ(自性)という概念が重要なようである。この詳細を下記3で見る。
この、世界の実在の否定と言語表現の否定というのは、直接的には、上に述べた説一切有部の考え方、すなわち、世界の最小構成単位が存在することを認め、そこを基点とする因果関係によって世界が成立している、という論理への批判になっている。竜樹が直接相手にしたのは有部である、という文脈を理解しておくのは結構大事だと思う。
(3) 「聖→俗」
ここまでが「俗→聖」の話。その後竜樹は、分量は少ないものの、空性という聖なる世界に至った者が世俗の世界をいかに語るのか、つまり「聖→俗」のプロセスを説明する。
縁起なるもの、それをわれわれは空性と呼ぶ。
それ(空性)は仮説であり、中道である。(p114)
中論のこの一節は、中観思想が東アジアに移植された際に大きく理解が変更される箇所であるが、竜樹自身が言いたかったこととしては、「世界は言葉を超えたものである」という空性に至った者が、そのような世界の見方をあえて言葉で語るとき、その言葉を仮説と言い、その人が仮説を説く場面を「中道」と言う、ということのようである。
仮説とは悟った者の言語表現であり、中道とは仮説を働かせる場面をいうのである。したがって、『中論』では仮説と中道はほとんど同じ意味なのである。(p234)
中国や日本で流行した天台思想ではこの部分について大きく異なる読み方をするが、それはまた後述する。
中論2-否定されたもの
竜樹がいかにして「世界を言葉で表すことができない」と論証したのかを少し見ていく。
(※:本書6章にこの部分の記載がある。この章の前半では「否定には名辞の否定と命題の否定がある」ということが語られ、後半で中論の解釈に入るのだが、僕の理解力が足りていないせいで、前半の議論が後半にどうつながっているのかがイマイチ分からなかったので、前半は一旦無視することにする。そのためこの要約は不正確であることをあらかじめ断っておく。)
中論2章では「歩く人は歩かない」という命題を証明しようとする。まず竜樹はこの命題を「いかなる場所も歩かれない」と言い換えた上で、次のように述べる。
(a) すでに歩かれた場所(已去処)は歩かれない。
(b) まだ歩かれていない場所(非已去処、未去処)は歩かれない。
(c) 已去処と非已去処を離れた今歩かれつつある場所(現去処)はない。
(p129)
著者はaとbについて論理学的概念を色々使って説明するが、まあぶっちゃけあんまりぐちゃぐちゃ考えなくてもaとbが正しいことは感覚的にわかるだろう。問題はcである。「今歩かれつつある所」というのは観念できて、そこは「歩かれている」と言えるんじゃないか。何でそれを否定するの?
僕は最初に読んだとき、これは要するに、世界をある一時点でスパッと切ってその時点の状態を把握するということはそもそもできないのだ、というものの見方の立場を主張しているんじゃないかと思った。しかし、どうも竜樹の議論はそっちの方向には行かないらしい。あくまで竜樹は「言葉で表せるかどうか」を問題にしているのであり、世界を言葉で把握するとしてどういう見方で見るか、ということは問題にしていないのである。竜樹は次のように述べる。
今歩かれつつあるところに、歩くことがあるとはどうしていえるか。(p132)
「今歩かれつつあるところ」が成立するためには、ひとつの歩くことが必要であり、さらに「歩くことがある」が成り立つために第二の歩くことが必要である。しかし、二つの歩くことがあるとは正しくない、と竜樹は言う。(p133)
「歩かれつつあるところが歩かれている」という命題は、1つの歩かれることを表現するために2つの「歩く」を用いないといけない。しかし歩くことは1つであるはずであり、2つあるのは矛盾である。もっというと、一つの事象を表すのに、主語と述語という最低2つの語がないと成り立たないのがおかしい。すなわち、言葉は分裂している(=言葉はプラパンチャである)。
どうも竜樹が言いたいのはこういうことのようだ。
…矛盾、してるか?僕は何回か読んでも、「「歩かれているところが歩かれている」という命題が、一つの「歩く」を二つの「歩く」で表しているから矛盾だ」、という理屈がさっぱり分からない。何が問題なんだ?ここで指している二つの「歩く」は同じ事柄を指しているじゃないか。全く理解不能である。
しかしここは、何らかの理解を前提にしないと話が先に進まない。僕のコトバで無理やり説明してみると、人間は世界のできごとを「主語が述語である(主語が述語する)」という「言葉的な型」(?)にはめて理解しようとするが、それが正しくない、ということか?あるいは、言葉は、示されるところの対象そのものとは必ずちょっとずれる、という感じだろうか(そもそもなにかを「対象」として切り出す考え方が否定されていそうなことからすると、前者の方が竜樹の考え方には近いか)。
まとめると、竜樹の主張のエッセンスは「『歩かれつつあるところが歩かれる』という表現はおかしい」というところに集約されるのであり、なぜおかしいかの理由も何か説明はしているが、僕はあんまり納得できなかった。でもこれ以降はひとまず竜樹の論証が正しいという前提で見ていくことにする。
竜樹が「言語には限界がある」と言おうとした、というのはおそらく確かであり、そしてその結論自体は僕はまあ納得できるのだが、竜樹がその結論を導いた理由づけにはイマイチ納得できていない。現代人の僕からすると、「言語には限界がある」ことを論証するんだったら、もっと説得的なやり方があったんじゃないか?という気がしてしまうが…
中論3-「五蘊は『自性』が空である」とは?
ここで話を変えて、般若心経における「五蘊皆空」というフレーズの意味を検討する。
般若心経のサンスクリットテキストには、「五蘊はsvabhavasunyaである」という文が出てくる。三蔵法師はこれを「五蘊皆空」と訳し、このバージョンが日本に伝わっている。しかるに、svabhavaは現代では「自性」という訳が当てられることが多く、「五蘊皆空」の原文は、「五蘊がみんな空である」というよりは、「五蘊は自性(スヴァバーヴァ)について空である」と訳す方が正確だと考えられている。小空経のところで触れた「空」の用法に照らすと、用法2じゃなくて用法1で訳すのであり、欠けているのは「五蘊」じゃなくて「自性」である、ということね。
ここまでは、ふーんそうなんだ、としか言いようがない。それでは、「五蘊が自性(スヴァバーヴァ)について空である」とはどういう意味なのか?
ここで「自性」という言葉の意味を検討する。自性はヒンドゥー哲学ではあまり出てこず、主として大乗仏教で研究された概念らしい。例えば、火にとっての自性は「熱さ」であり、水にとっての自性は「湿性」である、とか、そういう感じでイメージするとよいらしい。つまり、あるものの本質的な要素、という感じだろうか。自性という概念を考えると、当然、残りのもの、本質的でない要素というものも想定できる。これを便宜上「諸要素」と呼ぶことにする。
注意すべきは、自性と諸要素の区別は、属性(ダルマ)と実体(ダルミン)の区別とは異なるということだ。パート2で述べたように、仏教はインド型唯名論に属し、ダルマと区別されるダルミンの実在を否定する。そのため、ここでいう自性とか諸要素とかは全てダルマである。仏教には色んな学説があるが、「この世に実在するのは現れた属性の方だけで、その裏に隠れた本質などない」という点には共通認識がある。その上で、「属性のうちでどの属性が実在し、どの属性が実在しないか」という点に争いがあるようだ。
それで、仏教哲学は自性と諸要素のそれぞれを実在すると考えるかどうかで4つに分類されるようだ。
パターンⅠ 自性と諸要素はともに実在する。
パターンⅡ 自性と諸要素はともに実在しない。
パターンⅢ 自性は実在せず、諸要素は実在する。
パターンⅣ 諸要素は実在せず、自性は実在する。
釈尊の原始仏教はⅡ、アビダルマ仏教はⅠ、空思想はⅡないしⅢ、その後に出てくる如来蔵思想はⅣに近いらしい。この分類が仏教者全員の理解を得られるものなのかは分からないが、差し当たりここでは、空思想がパターンⅡないしⅢであると言える理由に絞って詳しく見ていく。
上記中論2でみたように、竜樹によれば言葉はプラパンチャなので、世界のあり方は究極的には言葉で表すことはできない、すなわち、世界のあらゆるものが「ある」と言うことはできない。何もない。これはパターンⅡだ。しかしながら、上記中論1でみた「縁起なるもの、それをわれわれは空性と呼ぶ。それ(空性)は仮説であり、中道である。」というフレーズは、空である世界について仏が仮説たる言葉で表した世界はある、と解釈する余地を残している。仮説は世界のもっとも本質的なあり方ではないので「自性」ではなく「諸要素」なのだけれど、そのように仮説で表される世界があることは認めている。よって、竜樹の空思想は、世界の自性の存在は認めないが、諸要素の存在は認めるパターンⅢに発展する可能性を残している。現に竜樹以降の中観思想は、五蘊それ自体は空としつつ、五蘊についての言語活動による現象世界の成立を認める。
さらに時代が下り、仏教が他国(中国や日本)にまで伝播すると、「五蘊が自性について空である」は、「五蘊(世界)の自性は、空性という真実である」という考え方に変化(発展?)していく。この変化は後で詳しく見るが、インド中観派の哲学では「自性が空である」は「ものの自性なんてねえぞ」という否定的な意味合いだったのが、だんだんと、「ものには自性として空性という聖なる性質が備わっている」という肯定的な意味合いに変わっていった、ということである。また空の用法の話になって恐縮だが、竜樹や中観派のお坊さん達は「五蘊はスヴァバーヴァシューニャである」を用法1で読んだのに対し、中国や日本のお坊さんは用法2で読んだ、ということなのかな。
以上、般若心経の「五蘊が自性について空である」について検討してきた。
7章までしか行かなかった。自分の理解がまだまだ不十分であることを思わされるけれども、なんとか自分の言葉にしようとはしてみた。この後、清弁とシャーンタラクシタの、インド型論証式による空の論証という、もう一つ不可解極まりないパートが残っているのだが、ちょっと力尽きたので今日はここまでにする。