あかりの日記

おっ あっ 生きてえなあ

義務

僕の宗教の話をする。神も仏もいない、信者は僕一人だけで、この先他に信者が現れるべくもない、僕の心の中だけの宗教だ。

人はなぜ働くのか。それは義務だからだ。ここでいうのは、雇用契約上の役務提供義務ではない。ただそこに抽象的に義務があると考える。自分が幸せになるとか他人を幸せにするとか、そういうのは、目的のためのいわばチェックポイントではあるが、目的そのものではない。目的は義務を履行すること。やらなきゃいけないからやらなきゃいけないのだ。

僕は、人間は幸せになるために生きているのではないと思う。だってもし、幸せが人生の目的なんだとしたら、数多くの不幸な人間にとってあまりに救いがなくないか。今まさにガザに生まれ、まもなく訳もわからず死んでいく赤ん坊に、幸せになるのが人生の目的だ、などと言えるか?不幸を煮詰めて煮詰めて煮詰めるだけの人生にも、それに相応する何らかの意味が価値があるに違いない。

僕らにはなにか抽象的な役割があって、そのときどきに応じた義務を与えられていると、僕はそう思うんだ。それは、世俗の価値観を求めることと常に矛盾するものではないと思う。世俗の幸せを追求することがそのまま役割になっている人もたくさんいるだろう。

別にこういう考えを他人に分かってほしいとは思わない。これが他人にも妥当する普遍の真理とも思わないし、他人に教えたいと思わない。他人が何をしようとしまいと、あんま興味がない。自分に対してだけ通用する、客観性皆無の、純主観的な話をしているだけ。ただ一方で、自分だけが特別な存在だとも思わない。「僕の中では僕も含めたみんながそうってことになってる」ということだ。

とにかく、僕の主観の中では、僕らは、そのときどきで役割に応じたやるべきことを与えられている。なぜ義務があるかとか、だれか超越的な存在がそれを課しているかどうかとか、そういうのはどうでもいい。神は多分いないし、輪廻も業も多分ないだろう。ただ、ここにあることを、やらなきゃいけないからやらなきゃいけない。それだけ。

何で義務があると思うのか?それは、そうであってほしいからだ。自分にやるべきことが、役割があってほしい。だから、あることにする。

義務が義務として浮かんでいるだけ。これが僕の信仰だ。数年前、四国の山を歩いていたとき。それから、コロナの頃、引きこもってなんかモゾモゾしていたとき。

自分は何をしているんだろう。こんなことをして自分は幸せになれるのか?こんなことをして誰かのためになるのか?こんなことばかり続けた先で、どんな恐ろしい未来が待っているんだ?

義務が義務としてあるだけ。そう心の底から信じることができれば、すべての雑念が消えるはずだ。ただ手元にあるやるべきことを処理する。幸せになるためではない。誰かを幸せにするためではない。神が命じたからでも、輪廻から解脱するためでもない。抽象的に、義務が義務としてあるだけ。だから、たとえ幸せになれなくても、誰も救われなくても、神も仏もいなくても、そんなことでやめてはいけない。

もちろん、自分や他人の世俗的な幸せは、義務を履行するインセンティブにはなるだろう。お遍路における「札所」と一緒だ。でも、決してそれ自体が目的ではない。ただ義務があるだけ。道があるから歩かなきゃいけないだけだ。

では、具体的に何をしなければならないのか?それは、人に教えてもらうものではない。どんな教祖様もインフルエンサーも、そんなことは分からない。自分が生きている日常だけが、それを示してくれる。自分が生きているまいにちを繰り返す。手元にあるものを処理する。きた球をひたすら打ち返す。義務を履行することに自覚的になる必要すらない。だけど、ふとやめたくなったとき、ふと疑問が湧いてきたとき、この義務という概念が、最後の防波的になるだろう。

…からっぽの僕にとっては。他の人にとってどうかしらん。他の人がどう思うかはどうでもいいし、誰かにわかってほしいわけでもない。以上、僕の宗教の話。