あかりの日記

おっ あっ 生きてえなあ

日本には妙好人がいるぞ 鈴木大拙『日本的霊性』②

①の続き。

 

日本的霊性は「男性性」である?

著者は、日本的霊性が大地性を有し、武士のものであるというと同時に、男性的なものであるともいう。だけど、はっきり言ってこの議論は結構問題がある。

枕草子とか、源氏物語について)思想において、情熱において、意気において、宗教的あこがれ、霊性的おののきにおいて、学ぶべきものは何もない。これらの女性およびさまざまの日記・物語類の作者を出した平安文化は優雅で、或る意味の上品さを示したということのほかに、まず取り柄がないと言ってよい。

深き創造はどうしても男性的であるらしい。

 

著者は、平安朝の文学を「女性的」と評し、それは優美だが、弱々しく、また思索的・宗教的深みがないと言ってこき下ろしている。(仮名文字を作ったところとかは評価しているようだが)

それと対比して、鎌倉期の法然親鸞系の思想や、武家に受容された禅が、宗教的思索に富んだものとされている。ということはまあそれは「男性的」という趣旨なんだろうな。

 

これはどうなんだろう。まずそもそもさ、文化の話なんだから、二つのものの優劣を論じるというその姿勢がちょっとどうなんだ。別に平安期以前の文化を「劣った」ものと位置づけなくたって、鎌倉以降の宗教意識の話できただろ。

それから、百歩譲って鎌倉以降の日本人の宗教意識がそれまでより優れて深まったと言えるとしても、それをわざわざ男性/女性と結びつけて論じる意味がないでしょう。著者自身も指摘している通り、男の平安貴族もたくさんナヨナヨした歌読んでるし、(文中ではあまり触れられていないが)女の妙好人だってたくさんいただろうに。

 

「大地性」に関する議論はまあそうかなと思ったんだけどなあ。でも、戦時中に書かれた本だからね。また、そもそも宗教とか哲学とかこの手の話ってエビデンスゼロの純粋なる感覚論だから、この著者はそう思ってるんだな、というだけの話でもある。だから、あまり目くじら立てるのもヤボか。

とはいえ、この本の主題に近い部分なので、全く無視するのもなあと思って、一応触れた。僕のイデオロギーセンサーに引っかかってしまったんだ。

 

ちなみに僕の思想だが、全人類をネトウヨ、ケンモメン、ツイフェミの頂点からなる三角形の中に位置づけるとすると、ケンモメンとツイフェミの2点の間の辺上の、真ん中より少しケンモメン寄りの所にいると思ってもらえればよろしい。いや、全然よろしくはないが。……この話はやめようか。

 

日本的霊性は「すべての東洋性」である?

それからね、もう一箇所、どうしても看過できないところがある。

インドで発生した仏教は固よりインド性をもっている。それが中央アジアを通ったので又その地方性をもってきたが、それからシナで一大転換をやったので、シナ性は十二分にある。そうして最後に日本に入ってきて日本的霊性化したので、日本仏教はすべての東洋性をもっている

ここまではいい。おお確かにな、と思った。

インドの深い思索と自由な想像力。メシア信仰とかの西方の宗教の影響。中国の実証性、世俗化。いろんなものが混ざって混ざりきった最後のものが日本に入ってきている。そういう意味で「すべての東洋性」があるかもな、と思う。

だが…

それらの特殊の性格が、ただ雑然として物理的・空間的に日本仏教中に並列しているのではなく、日本的霊性が中枢になって、それらを生かし、働かしているのである。東洋を引っくくって一つにして、それを動かす思索がどこにあるかというと、それは「日本」仏教の中に探すほかあるまい。

これはちょっとどうなんだろう。日本の宗教が、他の東洋の宗教を統率していく棟梁になる、と言わんばかりである。意地の悪い見方かもしれないけど、日本が他の東洋を政治的に指導していくことを支持する宗教的ロジックを与えている、というふうにとられてもおかしくない記述な気がする。

 

 

なんかなー。すごく示唆に富んだ考察をしているのに、どうして何でもかんでも優劣の枠組みで捉えちゃうのかなー。

 

 

まあ、でも、これもね。戦時中に書かれた本であるから、検閲があったのは間違いない。また、検閲の点を措いても、当時の日本人の中に、東洋で唯一近代化を遂げた国であるとして、他の東洋人に対して無意識レベルで優越感のようなものがあったとしても、それほど責められるものではないのかなあという気もする。

 

浄土系信仰が日本的霊性といえるゆえん

辛気臭い政治の話はこの辺にして、浄土系の信仰の話にうつる。

ところで、僕は最初からずっと「浄土宗」とか「浄土真宗」とか言わず、「浄土系」という言葉を使っている。これはまさに著者がこの言葉を意識的に使っているからである。

日本的霊性の人格的開顕という点から見ると、法然上人と親鸞聖人を分けない方が合理的かと思われる。(中略)念仏称名の本当の意義は両者によりて発揚せられたのである。

だそうである。

その心は。親鸞というと、越後に流罪になって非僧非俗の暮らしを送る中で、「悪人」の救済を切に考えた結果として、悪人正機の考えに至った、といわれている。しかし著者は、それはもともと法然の思想の中にすでにあった、というのだ*1

法然上人はあるとき、遊女から、罪深い生き方をしてきてしまった、後世どう助かればいいのだろうか、と声をかけられた。その際上人曰く、

げにもさようにて世をわたりたまわらん罪障まことにかろからざれば、酬報またはかりがたし。もしかからずして世をわたり給いぬべきはかりごとあらば、すみやかにそのわざをすて給うべし。もし余りはかりごともなく、また身命をかえりみざるほどの道心いまだ起こり給わずば、ただそのままにて、もはら念仏すべし。弥陀如来はさようなる罪人のためにこそ、弘誓をもてたまえることにてはべれ。…

ずっと遊女として生きてきたあなたは、もはや他の生き方をできないだろう。ならばそのままでいい、なにかもっと徳の高い生き方を選び取る必要はない、ただ念仏すればいい。あなたのような者のためにこそ、阿弥陀は本願をかけたのだ。云々。

これはまさに悪人正機そのものだろう。法然親鸞が一体になっている、というのはまあそうなのかなと思う。

 

この世の生活が罪業と感ぜられる。そうしてその罪業がなんらの条件もなしに、ただ信の一念で、絶対に大悲者の手に摂取せられるということを、我らの現在の立場から見ると、その立場がそのままそれでよいと肯定せられることなのである。

みずからは愚かでろくでもない人生を生きてきた。その強烈な自己否定の意識から、直接に、阿弥陀の大悲を受けとる。仏教者がやたらよく使う考え方だが、アタマで理解するのではなくて「直覚」するのである。禅の言葉でいうと「不立文字」である。多分。

 

こういう直覚に至る信仰が「霊性」なのであるという。うーん、「霊性」の何たるかが、すこーしだけわかってきた気がする。いや、やっぱり全然わからないな…

 

妙好人の歌を聞け

で、この浄土系の熱心な信者、すなわち日本的霊性に生きた人々を「妙好人」と呼ぶそうだ。

著者は日本的霊性の核心に迫るべく、妙好人伝を紹介するが、とくに浅原才一を厚く論じる。著者はまあとにかくこの才一の大ファンなのである。

才一は石見に生まれ、そこで幕末から昭和初期くらいまでを生きた。後半生を下駄職人として過ごし、仕事の合間、かんな屑に膨大な量の歌を書き残した。それは例えば、こんな調子である。

歓喜の御縁にあうときは、

ときも、ところも、ゆわずにをいて、

わしも歓喜で、あなたもくわんぎ、

これがたのしみ、なむあみだぶつ。

慈悲があみだ三、なむあみだぶと、

をがませてくださる慈悲がなむあみだぶつ。

わが罪を功徳仏になさる大恩、

なむあみだぶつ。

とにかく、とりあえず、なむあみだぶつである。

阿弥陀さんも流石にもう聞き飽きただろう。

 

信心深いのはわかるが、学もない田舎の下駄職人である、なにか歌に深淵なる意味合いが込められているとはあまり思えんのだが、しかし、才一の大ファンである著者は、かれの歌を必死に解釈しようとする。

 

なむ仏はさいちが仏でさいちなり。

さいちがさとりを開くなむ仏。

これをもろたがなむあみだぶつ。

どうもね。著者によれば、才一と阿弥陀仏は、「なむあみだぶつ」を媒介にして一体化しているようなのだ。この歌はそれを表現しているようなのだ。うん、そうかなあ。

そもそもさ、それを言っているのだとして、この、「なむあみだぶつを媒介にして阿弥陀と一体化する」というのは何なんだ。それは少なくとも僕の理解している浄土系の信仰ではないが(①を参照してくれ)。誰か教えて。

 

だけど、才一の歌はやっぱり何かしら本質を捉えているような気がする。

わしが阿弥陀になるじゃない。

阿弥陀の方からわしに来る。

なむあみだぶつ。

阿弥陀は向こうから来てくれると断定しているわけである。これはまさに「絶対他力」の深い理解に基づく考えである、といえなくもない。

 

極めつけはこれである。

わたしや久遠のまよひでも、

わしのおやさま久遠のおやで、

御恩うれしや、なむあみだぶつ。

「おや」とは阿弥陀のことである。自分が仮に輪廻転生をこの先繰り返し続けるとしても、常に自分は阿弥陀の慈悲の元にある。だから輪廻を繰り返しちゃっていいということ。なのか(?)

生の世界が阿弥陀の大悲で常に充満しているのであれば、成仏する必要すらない。仏教の一番中核の目標を捨てている。一方で、まあ確かにつきつめるとそうなのかな、という気もする。

 

 

 

まあこういった細かい中身の話よりも。どうしようもない生を生きるそこらへんの民草が、大悲の直覚によって、何らかの形でそのどうしようもない人生を肯定して、往生した。

自分自身もまた、どうしようもない民草であるところの僕には、その事実が、一番胸を打った。気がする。

うん。

 

 

 

*1:僕はあんまり詳しくないので、従前はどう思われていたという前提で著者が話しているのかよくわからんが。もしかしたら、「悪人正機的な発想は法然に既にあった」というのは、僕がここで改めて語るまでもなく常識なのかもしれない。