あかりの日記

おっ あっ 生きてえなあ

立川武蔵『空の思想史』⑤

 

さて、この本の話も今日で終わりにしようじゃないか。今日は11章から最後まで、東アジアに伝来した空思想を外観する。

 

東アジアへの仏教伝来概観

このテーマもまた、個別的に検討したいと思うが、話の前提としてざっくりみておく。

仏教は紀元前後にはシルクロードを通って中国に伝来していた。魏晋南北朝の時代には鳩摩羅什や法顕などの活躍により仏典の漢訳が進み、隋唐時代には中国独自の教学の成立をみた。具体的には、インド仏教哲学の有力な流れである有部、中観派唯識派に対応する宗派として倶舎宗三論宗法相宗が生まれ、隋代には法華経を中心とする天台宗華厳経を中心とする華厳宗が成立した。唐代には大日経金剛頂経を基礎とする中国密教が成立、発展する。宋代には禅と浄土教を中心として仏教が民衆に広まる。

中国から日本への仏教の輸入はは、538年に仏教が伝来してから、奈良時代までにはいわゆる南都六宗(三論、成実、法相、倶舎、律、華厳)が揃う。そして平安時代の初期に入唐した最澄空海により天台宗真言宗が開闢され、両者とも密教思想として発展する。鎌倉時代以降には、比叡山で勉強したお坊さんを中心に鎌倉仏教(浄土系、禅、日蓮法華宗等)が成立し、民衆に広まっていく。

まあ学校の教科書レベルだが以下の議論との関係ではひとまずこんなもんでいいだろう。

それで、まず先に中国思想から見ていくが、空思想との関係で東アジア独特の思惟が発展したものとして著者が注目するのは、天台思想と華厳思想である。

 

天台仏教

はっきりいって僕は天台思想に結構興味がある。素人向けでわかりやすい本があればぜひ読みたいと思う。それは一つには、もう1年くらい前だが、栗田勇という人の「最澄」というクッソ長い伝記を読んだからである。まあとりあえずこの本にあった限度で触れる。

中国天台宗の実質的な開祖は6世紀の智顗である。天台山で修行していたから天台大師と呼ばれたり、智者大師と呼ばれたりする。天台山で開闢されたから天台宗なのだ。天台智者大師といえば、法華経をトップにお経をランク付けする五時八教説という教相判釈をしたことが有名である(中村元、三枝充悳 『バウッダ[佛教]』① - 三浦あかり参照)けど、今回は天台宗における空思想にフォーカスを当ててみる(なお教判の話も円了のところで出てくる)。

そう、天台宗の思想の要は、ただ法華経がエライと言っているというだけではなくて、法華経の思想に従って竜樹いらいの空思想を解釈したというところなのだ。というわけでまたまた中論の話をするぜ。

さて、立川武蔵『空の思想史』③ - 三浦あかりの復習だが、竜樹は中論の最後の方で「縁起」について述べている。

縁起なるもの、それをわれわれは空性と呼ぶ。

それ(空性)は仮説であり、中道である。(p114)

それで、この記述で竜樹自身が言いたかったことは、「空性に至った者が、そのような世界の見方をあえて言葉で語るとき、その言葉を仮説と言い、その人が仮説を説く場面を「中道」と言う」ということらしい(p234あたり参照)。ポイントなのは、「仮説」は「仮」という言葉は使っているけど、凡夫の汚れに満ちた世界のことじゃなくて、「清浄な世界に至ったホトケがする表現」のことを言っている、ということと、「中道」というのは「ホトケが仮説を説いている場面」を指しているのであって、極端に触れないようにするとかほどほどにするとかそういうことを言っているのではない、ということである。ここまでは復習。

しかしながら、天台思想においては、中論のこの空性、仮説、中道(それぞれ「空」、「仮」、「中」と1文字で言われることが多いので以下そう記す)を全然別の意味で解した。*1すなわち、天台は、「縁起は⑴空であり⑵仮であり⑶中である」と解したのである(p229)。この3つを三諦(3つの真理、というような意味)と言う。そして、それぞれの中身の理解も竜樹とは異なる。すなわち、まず、天台思想では「仮」には、仏の言葉や見た世界などだけではなく、迷える凡夫の言葉や見た世界も含む「空」は「無い」という意味というよりは「根元」という意味が強い。そして「中」とは、根本としての「空」と、そこから現れ出た「仮」が調和する、というような意味合いを示している。

つまり、縁起の理法というのは、聖なる世界としての「空」と、俗なる世界としての「仮」が矛盾なく調和している「中」なのである。この調和を説く思想こそがもっともレベルの高い教えということになる。ついでに言うと、そのもっともレベルの高い教えが「法華経」ですね、ということになっている。

著者は、このような天台思想は、竜樹の思想にあった「俗から聖に行って、聖から俗に帰ってくる」という時間的な要素を捨象するようにもみえ、宗教的実践のプロセス・階梯を基礎づける思想になりうるのか、どうか、みたいな問題意識を示している(p239以下)。まあ実際には、天台の教えが実践面で弱い教えだということは全く無いのだとは思うが、たしかに、天台思想においては、インドの空思想にあった、強烈な自己否定・世界の否定の要素はかなりナーフされているようにみえるな。しかし、その代わりに、「今ここにある世界をそのままの形で肯定する」という側面は、インドやチベットにはなかったくらいに強化されているようにも見える。

華厳仏教

華厳宗はその名の通り初期大乗経典たる華厳経を根本経典とする宗派であり、開祖は厳首大法蔵である。天台の思想とは、根源的なものの存在をみとめ、現象世界はそれが何らかの形で現れているものとみる点では共通している。

ところで、立川武蔵『空の思想史』② - 三浦あかりで検討したが、インド仏教はインド唯名論(ダルミンとダルマに明確な区別はないという立場)の中で、ダルミンが存在しないと考える立場であった。これに対してこの華厳思想をみると、現象世界は根源的なものが現れているとみる、という点では唯名論ではあるのだろうが、しかし、根本原理(基体ダルミン)の存在は認めているんじゃないだろうか。この点で、インドの中観思想と華厳の思想とは根本的な相違があるのではないか。と、著者は指摘する。

天台・華厳と、中国独特の思想である禅を通底している考え方として、中国人の思惟の中には今ここにあるものの存在に対する懐疑が薄いということがある。「存在の否定」という要素が薄いわけだ。

中国人は眼前のものの存在を疑わない。彼らはものがあるところからすべてを始めるのである。(p264)

このような方向で理解された仏教思想が日本にも入ってきている。

最澄空海

中国から輸入された仏教における空思想が日本において大成したのは、最澄空海においてであるとのことである。いつもの二人という感じだが、この二人について空思想の観点から見ていこう。

最澄

せっかく最澄の話になったので少しだけ脱線するが、上記のとおり僕は最澄のくっそ長い伝記を(なぜか)読んだので、最澄という人物にかなり興味がある。これはかなり怒られるかもしれないが、日蓮に限らず法華経にハマった人たちというのは独特のイデオロギー的熱意があるなあという感じがする。最澄も、南都とバチバチにバトルしたり、晩年は大乗戒壇設立をしつこすぎるくらい申し入れたりと、結構思想強めの人だったんじゃ無いかなあと思うのだ。別に何ら悪くいうつもりはない。そうでもなきゃ現代まで続く大宗派の設立なんてできっこないからね。

話を空に戻すが、最澄の思想において重要なのは「諸法実相」の考え方を前面に押し出したことらしい。この思想は、源流は法華経にあり、中国天台宗で提唱されたものらしいが、日本ではかなり強調された。諸法実相を強調することによって仏教がジャパナイズされたという側面がある、というようなことが触れられている。

ここまでで何度か触れてきたように、仏教・中観派は世界の基体ダルミンの存在を認めない。世界は現象(属性ダルマ)の総体であるとみる。この点は天台思想も変わらない。その常に変わり続け捉えどころのない世界を、だから究極的にみれば「ない」んだ、というような、言ってみれば否定的な世界の捉え方をするのが、竜樹以下のインド中観思想であった。これに対して、移り変わる属性だけで構成される世界について、それはそれとしていいじゃないか、かけがえのないものじゃないか、という、肯定的な捉え方をすると、諸法実相になる。ということらしい。

すでに中国の段階でも見えていることだが、最澄までくると、「空」は「欠いていること」ではなく「世界の清浄なる真理の姿」という意味合いがかなり強くなってきている。

(この先は自分で考えたことだが)こういう現実に対するかなり楽観的・肯定的な「諸法実相」観が、のちのいわゆる本覚思想とか鎌倉仏教とかにつながっていき、極めて世俗性の強いジャパニーズ仏教が成立する理論的支柱になった、ということなのかなと思う。かなり雑な議論だと思うが。

空海

僕は四国八十八か所を回ったことがあり、空海大好きなので、彼についても色々話したいことがあるんだが、まあその話はいずれする機会があるだろうからここでは割愛する。

さて、空海密教者である。前回(立川武蔵『空の思想史』③ - 三浦あかり)検討したとおり、密教は空思想によって聖化された世界とは具体的にどういうものなんですか、というところに強い関心をもつ。そういうことで、空海は、日本の前近代の思想家の中では異例なほどに、空の論理によると世界は何なのか、ということを言っている。その一つの例が、マンダラについての言及である。

六大無礙にして常に瑜伽なり。

四種曼荼各々離れず。

三密加持すれば速疾に顕わる。

マンダラにはこの世界の真実の姿を模式的に表したものという側面がある。この辺りは密教についてまた別の機会に触れたいと思う。

また、空海は、実践者のたどる心の流れを「十住心論」などで記述している。これは要するに空海版の教相判釈なわけだが、しかし、空の思想を実践していくとその人が見る世界がどうなっていくのか、ということを表現している。このように、「宗教的実践によってどこかからどこかへ行く」というプロセスを表現していることが重要なのだと、著者は繰り返し説いている。

井上円了

円了は明治時代の仏教学者で、仏教の近代化に努めた人物である。彼は、日本の伝統的な仏教思想を統一的に理解しようとした。そして彼がやったのはおなじみの教相判釈である。結局、東アジアにばらばらと入って発展してきた仏教思想を統一的に理解するには、並べてランク付けをするみたいなのがどうしても必要になるのである。しかし、彼の教判には、著者的には極めて重要な特徴があった。それは、思想を並べるときの考え方として、「俗から聖に行き、聖から俗へ帰ってくる」という視点が導入されていたことである。

具体的には彼は、日本の伝統仏教のうち、倶舎、法相、三論、天台、華厳、真言の6つを、彼が信じる仏教の歴史的展開に従って、今述べた順に並べた。つまり円了的には真言宗が最も発展した仏教ということになるわけだ*2。そして、これらを並べる視点として、「事」と「理」という視点を導入した。事というのは個物に関する理屈のことで、理とは普遍的な理屈のことである?これまでの議論と対応させるなら、事が現象世界のことで、理が真理(空)の世界のこと、というふうに分類してもいいか。そして、彼は上記の思想を次のように、一種の思考の順序に従って並べる。

まず、倶舎宗は事についてのみ、それがあると語る。そこから、法相宗を経由して、三論宗に至ると、理すなわち空について、それが否定的に語られるに至る。このように一度空性に至ると、次に、天台宗が事について否定的に語る。そこから、今度は事と理の円融した理のあり方を肯定する方向の検討が進。華厳宗を経由して、真言宗に至って、空性を経て事と融合した理の存在を肯定するに至る。

こう書いてもよくわからないかもしれないが、気になった人はこの本を買ってp313の図を見てくれ。要は、この著者が言いたいのは、円了はこれらの思想を、⑴現象世界を空性によって否定するプロセス、⑵空性に至ったプロセス、⑶空性からそれと一体となった現象世界へと帰るプロセス、に沿って並べた、ということである。

 

全体的な感想

さて、近代日本までたどり着いたのでまとめに入る。アビダルマを批判して中論を打ち立てた竜樹から出発して、中観派の発展、その思想のチベット、中国、日本への伝播を見てきた。

まず感じたのは、仏教史における竜樹の影響の大きさである。中観派だけでなく、密教や天台思想なども竜樹の理論に直接的に立脚して構築されている。八宗の祖といわれるのも納得ですわ。

あと、竜樹も含めてインド中観派の議論は極端に難解である。この日記を書いていて思ったけど、僕は理解できていない(笑)。理解できていないことは人に説明できないものである。この点はいずれまた取り組む機会があるだろう。

そして最後に、僕自身忘れていたのだが(笑)、この検討の初めに、「なぜ空の理論が他者への宗教的実践を基礎づけるのか?」というような問いを立てた(立川武蔵『空の思想史』① - 三浦あかり)のだった。それについての今の考えを書いておく。すなわち、まあはっきり言って、仏教思想は全体として、まさにそこが弱い、すなわち、リロン的にぐちゃぐちゃこねくり回しているところと宗教的実践、特に集団的な実践との結びつきが、例えばキリスト教イスラームとか、あと現代の人権思想なんかと比べると弱いと言わざるを得ないのではないだろうか。著者はそのことを分かった上で、仏教がこれまで積み重ねてきた論理を基礎としてそのあたりの説明を充実させていくことこそが、仏教・空が現代思想として生き残っていくために重要なんだ、というようなことを言っているように思える。

人類全体も自らが望み得ることを見定めるために、「自己否定」を行う必要がある。このような意味の集団的実践については、空の思想はこれまでの歴史において具体的、総括的な理論の構築をしてこなかった。(p336)

そんで、この著者は、これまでに積み重ねられてきた空思想のうちこの理論構築に対して有用なものを高く評価しているように見えなくもない。具体的には、筆者が高く評価する思想は、何度も出てきたところだが、「俗から聖に行き、俗に帰ってくる」という構造をもっているものである。この「俗から聖に行く」というプロセスはつまり、今の自分は不十分だという自己否定をおこなって実践を行うということである。こういう構造をもっている思想を出発点として、集団的な実践を基礎づける現代思想としての空思想を構築できないか。筆者はこういうことを投げかけているように思われる。

 

少し自分の思ったことを書くが、現代の思想は極端に世俗化し、人間のあらゆる行為規範は究極的には、形而上のものや、集団それ自体の利益などではなく、個人がこの現実世界で享受する幸福に根拠を求めなければならないことになっている。個々人やある集団の営為に対する否定や肯定は必ずこの視点から行われる。別にそれを批判したいわけではなく、まあ僕の仕事柄というのもあるが、それはそうでないとまずいと思う。例えば個人とは独立したアンシュタルトな集団の論理みたいなものによって行為規範を基礎づけることは危険であるし、そもそもそれをやろうにも、もはや「この世界の真実の姿はマンダラなんだ」みたいな認識に後戻りすることもできない。しかしね、前近代の人が多く信じていた思想というのは、究極的な根拠が形而上のものであってその意味で非論理的だったりするかもしれないが、現に多くの人間の行為を基礎づけてきたという意味での経験的な正しさがある程度保障されているものはあると思う。我々が近現代のアタマを作る際に、古く非合理的だと切って捨ててきた思想の中には、現代に有用な価値観がまだ残っているのではないか。それを掘り起こして現代人の思考に取り入れる余地はあるだろう。それで、仏教の中にそのような「忘れ去られた有用な価値観」を求めるとしたら、それはこの「空」の徹底した自己否定なんだろうと思う。現代思想の中に空を取り入れろ、というのは、例えば脱構築とかそういうところでもうやってるとか、色々あるのだろうが、まだ空の思想には現代的に顧みられるだけの価値がある。その可能性もある。あるんじゃないかなあ。あるかもな。あるかなあ。うーん。どうだろう。

 

 

*1:現代の理解からすると、中論を誤読していたということになるのかもしれない。しかし、これはどちらかというと、鳩摩羅什の訳の問題であったと指摘されている。

*2:書いていて思ったけど、アビダルマ、大乗の哲学、大乗の中国思想、密教と、確かに成立年代順にはなっている。この辺りは、近代の人なので、ある程度は意識して並べたのかな。