あかりの日記

おっ あっ 生きてえなあ

立川武蔵『空の思想史』①

インド中観派の「空」の説明を核としつつ、各時代・各地域の仏教における「空」の理解を検討する。めちゃくちゃ興味深く、仏教についてもっと広く深く知りたくなるような本だった。

 

最初に断っておくが、この本の感想は確実に長くなる。パート5までにはおさめたいが、はなから短くまとめるつもりはない。もしもこの日記を読んで下さる奇特な方がいたとしても、僕はあんたのためを思った長さと内容の文章は(能力的に)書けないが、まあなんとかついてきてくれや。

 

空はなんでよく分からんのか

 

さて。空とはなんだろうか。

いきなりこの本の内容から脱線する。なんかさ、これは僕個人の感じ方かもしれないんだが、空っていうのは、西洋近代の諸思想なんかよりも遥か昔に我が国に入ってきて、それなりに日本の文化に根付いてきたはずなのに、いまいちそういう西洋の諸概念と比べても馴染みが薄い感じがするんだよな。その理由の一つには、今の国家や社会は西洋由来の諸概念に基づいて作られているがゆえに、学校でそっちばっか習うから、というのが、これは間違いなくあると思う。まあそれは仕方ないわな。僕には東洋思想も学校でもっと教えろ、とかそういう主義主張はない。いまの学生にはもっと色々やるべきことがあるからな。仏教なんて暇な人が趣味でやればいいんや。

で、まあそれはどうしようもないんだが、空がよく分からないのには、それよりももっと大きく深刻な理由があると思う。

仏教における「空」という概念は、カテゴリーとしては、例えば、キリスト教の「神」とか、マルクスの「唯物史観」とか、近代立憲主義における「個人の尊重」とかそういうのと似ていて、ある思想の体系における中心的な世界観というのかな、そういうものだと思う。

でこの世界観について、我々がなんとなく分かったなあと思うのはどういうときか。それは、①その世界観自体がどのように物事を見るのかがなんとなくわかる、というだけではなく、②その世界観がどういう理屈でどういう行為規範を導くのかがわかったときではないだろうか。僕は、思想は究極的には人間に行為規範を与えるために存在すると思う。そのため、②がわかると「その世界観がなぜ主張されたのか」がわかる。そうすると、その世界観がわかった感じがするというものだ。するよね?

 

世界観と行為規範

 

ここで試しに、②の方に注目して上に例示した世界観を見てみる。ほんの一例だけど、全能の創造主がいる→人の命も主にもらったもの→堕胎してはダメ、とか、歴史の発展法則がある→共産主義は資本主義より発展した姿→革命を起こしてブルジョワをやっつけようぜ、とか、個人は国家から自由であるべき→身体の自由は保護されるべき自由の一つ→人をタイホするときは令状をとらないとダメ、とか。(素人の雑な議論で恐縮だが)上に列挙した世界観というのは、それが導く規範との繋がりが割と明確で、その規範を持ち出すためにその世界観がないとダメというのもまあまあ分かりやすいと思う。こういうふうに、その世界観を説くことにどういう意味があるのか、というのがわかりやすいものは、(その世界観にノるかはおいておいて)、比較的、理解した気になるのが容易な世界観だといえる気がする。するよね?

 

次に空という世界観をみてみる。空についてはまず、②に入る前に、そもそも①に謎がある。「世界は空だ」という主張は要するに、世界はどうだと言っているのか。これについては困ったことに、ほとんど一人一説のような感じで、おそらく龍樹以来この問題に向き合った全てのお坊さんが困ってきた。しかし大きな傾向としては、「(言語や論理で表されるところの)世界はない」という考え方と、「世界の本質は空という(神聖な)性質である」という考え方の二つの流れがあるように思った(後で詳しく見る)。

それでまあ、たしかにそっちも難しい。空の難しさというとよく①の方が取り上げられると思う。しかしながら、僕はより深刻なのは②の方だと思うわけだ。つまり、「世界は空である」という世界観を主張することによってどういう行為規範が基礎づけられるのか、がいまいち見えてこんのだ。

もう少し踏み込んでいうと、実は行為規範の方はアタリがついている。空は大乗仏教の中心的思想であるところ、大乗仏教の重要な実践といえば菩薩行すなわち他者の救済、でしょ。観音さんも阿弥陀さんも、空の境地に至った後に衆生の救済をやってるわけだ。そうすると、「空」は「他者の救済」という行為を基礎づけているはずなんだ。しかし、なんでなのか。それがよくわからない。

そう、僕が一番釈然としないのは、なんで「世界が空」だと「他者の救済をしなければならない」ことになるのか、なのだ。「空」は、いやしくも宗教の教理であるはずなのに、宗教的・道徳的実践とのつながりがイマイチ見えてこないのだ。あんまりそこに力点をおかず、自己の救済を専ら考えていた部派仏教の教理がそうだといわれても別に違和感はないんだが、部派とは真逆の立場で、他者の救済を中心に据え、部派を厳しく批判した大乗仏教に、究極の真理プラジュニヤー・パーラミターは「空」なんだ、などと言われてしまっては、非常にもやもやせざるを得ない。

 

だいぶ争点が絞られてきたような気がする。この①と②を明らかにすれば、僕は空の思想についてなにがしかわかった気になれるはずなんや。というわけで、この2点を意識しながら、この本を振り返っていきたいと思う。

 

まあ、先に結論を言っておくと、僕はこの本を読んで、①の方は、かろうじて糸口みたいなものは掴めてきたが、②の方はまだよく分かってない。いや、この本に書いてなかったというわけではなくて、この本にも、そして「中論」以下の関連文献にも、この問題(なぜ「空」が「救済」を基礎づけるのか問題)はちゃんと書いてあったと思うのだが、僕の理解力の問題で、いまいちよく意味が分からなかった。その辺りも考えながらメモしていきたい。

 

まだ本の内容に1ミリも入っていないが、長くなったので続きはまた今度にする。