あかりの日記

おっ あっ 生きてえなあ

中村元訳『ブッダ最後の旅−大パリニッバーナ経−』

 

 

今週はゆっくりと休みが取れたので、お経を検討していきたい。(ダンマパダの方も書かなければならんのだが。)

さて、このお経は原始仏典(パーリ三蔵長部収録の「マハーパリニッバーナ・スッタンタ」および長阿含経収録の「大般涅槃経」。詳しくは中村元、三枝充悳 『バウッダ[佛教]』① - 三浦あかり)である。9種の異本があるところ、訳者は、できるだけ後代に付け足されたであろう神話的な要素を排除することに心を配って訳している(p323)。

内容としては、訳者の邦題のとおり、釈尊が最後の旅に出てから亡くなるまでの出来事を物語形式で描いている。現実の釈尊が経験した出来事をここまでありありと描いた経典は実はあんまりない(2500年前の人なんだから当たり前っちゃ当たり前だが)らしく、当時の人々の有様が生き生きと伝わってくる貴重な経典である。心なしか訳者の訳にも力がこもっており(中村元『原始仏典』第3章も参照)、なんともこう、湿っぽい感じの人間ドラマになっている。原文を読んだわけではないが、ここまで読みやすくなっているのはひとえに訳者の力量によるものではないか。こういう偉大な訳者が現代に現れたというのもありがたいことだなあと思うのだ。

 

旅立ち

悟りを開いて45年、齢80になった釈尊は、マガダ国王舎城霊鷲山*1にいた。そのとき、国王の使いの者から、ヴァッジ人を攻めたいんだけど上手くいくかなあ、と相談を受け、「ヴァッジ人は昔自分が説いた繁栄の法を守っているから攻めても無駄ですよ」と説く。そして釈尊は、何かを思ったのか、修行僧を集めて、ヴァッジ人に説いたのと同じ〈衰亡を来さざる法〉を説いた。その後、一番弟子アーナンダと修行僧らを伴って、旅に出る。

この場面、普通に物語の導入として秀逸だと思う。王様への説法といういつもの釈尊の風景から始まったと思ったら、その説法と同じことを修行僧らに説く。その内容は、「集団が衰亡しないための法」なのである。釈尊が死期を悟っており、自ら亡き後のサンガを案じていることが既に示されている。

 

そして、釈尊は旅路で立ち寄った村で、人々から托鉢を受け、説法を行う。釈尊の遊行の有様が生き生きと描かれている。

…修行僧たちよ。〈苦しみ〉というすぐれた真理がさとられ、通達された。〈苦しみの起るもと〉という尊い真理が悟られ、通達された。〈苦しみの止滅〉という(略)〈苦しみの止滅にみちびく道〉という(略)もはや迷いの生存を受けるということはない(p44)

アーナンダよ、ここに、立派な弟子がいて、ブッダに対して清らかな信仰を起している。(略)またかれは法に対して清らかな信仰を起している。(略)かれはサンガ(つどい)に対して清らかな信仰を起している。(略)これこそが〈法の鏡〉という名の法門であって、それを具現したならば、(略)みずから自分の運命をはっきりと見極めることができるであろう。(p50)

四諦三帰依といった釈尊の教えの中核部分が端的に繰り返し説かれている。

この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりにせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。(p63)

これは漢訳仏典では「自灯明 法灯明」と訳されているものである(中村元、三枝充悳 『バウッダ[佛教]』① - 三浦あかりでも触れたが、パーリ語だと島と灯りが同じ単語なのだ。)。最澄の「法のともしび」の句と、比叡山の「不滅の法灯」はここからきている。釈尊の説いた法は、(必ずしもそのままの形ではないにせよ)現代にまでちゃんと受け継がれている。

 

ヴェーサーリーのアンバパーリー

印象的なエピソードを一つ挙げたい。ヴェーサーリー市において在家信者である遊女アンバパーリーに説法する場面だ。

遊女と言っても、アンバパーリーは土地の大所有者の資産家であり、所有するマンゴー林を釈尊の遊行に使わせてあげていた。このように釈尊は、各地の金持ちから土地の利用権や所有権の寄進を受けている(サーヴァッティー祇園精舎などもその一例。)。で、彼女は、釈尊が来ていると知って飛んでいき、説法を受け、翌日の食事に招待した。そのとき、同市の貴族の一団が、釈尊を飯に誘おうと向かっていたのだが、アンバパーリーは彼らが釈尊の下に向かうのを見つけると、車を寄せ、

軸と軸、輪と輪、軛と軛を衝突させた。(p55)

 

「貴公子さまがたよ。たとえあなたがたが、わたくしにヴェーサーリー市とその領土とをくださっても、このような素晴らしい食物のおもてなしをゆずりは致しません。」(p56)

そして、その後貴公子たちが釈尊を食事に誘うが、先約があるからと断り、釈尊はアンバパーリーの家で食事をご馳走になった。彼女は最後にこう言った。

尊い方よ。わたくしはこの園林を、ブッダを上首とする修行僧のつどいに献上します。」(p58)

めでたしめでたし。

 

…どうだろうか、この話。まず、いうまでもないが、これは、遊女であっても分け隔てなく教えを授けた、ということを示すエピソードであって、釈尊が飯の相手として男より若い女を選んだとかそういう見方は流石に全くおかしいだろう。

…とは思うのだが、僕はこれを読んで、第一印象として、誠に極めて不敬ながら、2つのことがパッと頭に浮かんだ。一つは、最近も問題になった「ホスト狂いでおっさんから金を巻き上げる若い女の子」であり、もう一つは、「高額の骨董品などを売りつける某団体」である。もちろん、釈尊や伝統的仏教のサンガは一切人を騙すような詐欺的な説法を行ってはいないし、教えを求めた人に授けるだけであって、求めていない人に押し付けることはしていない。これは僕の贔屓目ではなく、サンガが2500年間にわたって社会とうまく折り合いながら生き残ってきた処世術でもあるのだから、実際そうであると言い切っていいとは思う。そこはいい。しかし、しかしだ。やはり仏教も、その最初期から、宗教なのだ。信仰心は、やはり人の金銭感覚を、世俗のそれとは乖離させてしまうのだと思う。タイなんかでは現代でも未だに、金持ちが寺に寄進して、それこそ60メートル級の金ピカ大仏が建ったりする(タイに行ってきた話③ - 三浦あかり参照。ワット・パクナムの大仏は実に6、7年前に完成したものだ。)わけだが。その金の使い方は、信仰心の薄い者から見ると、やはり少し、驚きを禁じ得ない。釈尊やサンガに寄進した者たちは皆自らの完全に自由な意思で行った。だからセーフなのだ。それはそうだと思う。しかし、宗教である仏教は、現代日本、特に最近のこのご時世において、まさに宗教であるという点で厳しい目に晒されうるものだというところは、心のどこかに留めておいた方が良いのではないかと思った。

 

話を戻す。旅の道中にも、釈尊の体調は徐々に悪化していく。釈尊は悪魔の囁きを受けて、入滅を決意する。

「悪しき者よ。汝は心あせるな。久しからずして修行完成者のニルヴァーナが起るであろう。いまから三ヶ月過ぎて後に修行完成者は亡くなるであろう」(p71)

一度決意したからには、アーナンダが止めても聞かない。

しかし、アーナンダよ。わたしはあらかじめこのように告げてはおかなかったか?

『愛しく気に入っているすべての人々とも、やがては、生別し、死別し、(死後には生存の場所を)異にするに至る』と。(p94)

釈尊が繰り返し説いてきたことを改めて伝え、アーナンダを諭すのだ。

 

チュンダのキノコ料理

釈尊は、立ち寄った村で、鍛治工チュンダに教えを授け、食事に招待される。チュンダは在家信者の例に漏れず、素晴らしい食事を用意して釈尊をもてなすわけだが、その中にきのこ料理があった。釈尊はそれをもらうのだが、一口食べると、こう言った。

「チュンダよ。残ったきのこ料理は、それを穴に埋めなさい。神々・悪魔・梵天・修行者、バラモンの間でも、また神々・人間を含む生きものの間でも、世の中で、修行完成者のほかには、それを食して完全に消化し得る人を、見出しません」(p110)

せっかく出してもらった料理なので気を使ったのかはわからんが、ようは腐ってるから捨てろということである。釈尊はこのチュンダのきのこ料理で腹を下し、これを直接のきっかけにして入滅するのである。このエピソードは、多分実際にあった話なんだろう。

釈尊は激しい病に苦しむ。

アーナンダよ。わたしに水をもって来てくれ。わたしは、のどが渇いている。わたしは飲みたいのだ。(p111)

なんとも人間らしい姿だ。あのクールな釈尊が、水が欲しいと呻いている。胸が詰まるようなシーンで、いかにも実際にあったのだろうと思われるが、しかし経典の編纂者は、この、見方によっては少しみっともない部分を、なんであえて残したのだろうか。(一応、この後、アーナンダが水を汲みに行くと、川の濁流が釈尊の神通力でたちまち清水になった、という、釈尊の名誉を回復するエピソードが入ってはいるが。)

釈尊はいよいよ死期を悟るが、かたわらに侍しているチュンダへのフォローを欠かさない。

誰かが、鍛治工のチュンダに後悔の念を起させるかもしれない(略)。

チュンダの後悔の念は、このように言って取り除かれねばならない。〈友よ。修行完成者は最後のお供養の食物を食べてお亡くなりになったのだから、お前には利益があり、大いに功徳がある。(略)修行完成者が供養の食物を食べて無上の完全なさとりを達成したのと、および、(このたびの)供養の食物を食べて、煩悩の残りの無いニルヴァーナの境地に入られたのと(略)この二つの供養の食物は、(略)まさにひとしい果報があり、(略)はるかにすぐれた大いなる功徳がある。(略)〉と。(p123)

悟りを開いた食物とは、おそらく少女スジャータの与えたミルク粥かな?と思われるが、チュンダのきのこ料理もそれと同じだけの最上の功徳があると言っている。完璧なフォローである。

何よりもさ、この釈尊の言葉が、弟子たちによってちゃんとお経に書き残されて後代に伝えられているのがいいよな。弟子たちも釈尊の気遣いをしっかり理解していたということだ。サンガってのはあったけえところだぜ。僕も出家しようかな。

 

スバッダの帰依

釈尊は自らの最後の場所をクシナーラーの2本並んだサーラ樹(沙羅双樹*2の間に定め、ここに寝床をしつらえて、有名な涅槃のポーズで横になる。釈尊が横になると、サーラ樹が季節を外れて満開になり、花びらが降り注いだという。アーナンダはたまらず号泣するが、釈尊に諭された上、「アーナンダには実に色々といいところがあるんだから、私が死んだ後もサンガは大丈夫だな」と褒めちぎられる。(いやほんと、褒めてくれる上司というのは職場の宝である。あんまり関係ないけど)

釈尊は弟子たちに最後の教えを授ける。中にはこんな話も。

尊い方よ。わたくしたちは婦人に対してどうしたらよいのでしょうか?」

「アーナンダよ。見るな。」

「尊師よ。しかし、見てしまったときは、どうしたらよいのでしょうか?」

「アーナンダよ。話しかけるな。」

尊い方よ。しかし、話しかけてしまったときには、どうしたらよいのでしょうか?」

「アーナンダよ。そういうときは、つつしんでおれ。」(p131)

いまわの際でもブレずに女嫌いの釈尊。別に話すくらいはいいじゃんwやはり現代において仏教の話をするときに、仏教は女性を(少なくとも一面では)こんな感じで扱ってきたということを覆い隠してはいけないんじゃないかなあと、僕は思っている。ってか釈尊の死に際にこんなこと聞くなよ。もっと聞くことあるだろ。

 

そのとき、病床の釈尊に教えを請おうと、スバッダという修行者が面会を求めてくる。アーナンダはやめてほしいと伝えるが、釈尊は会ってあげる。

スバッダは、他の弁士の考えをどう思うか、みたいな議論をふっかけようとするが、釈尊はそれを制止し、自らのさとった道を説いた。

スバッダよ。わたしは二十九歳で、何かしら善を求めて出家した。

スバッダよ。わたしは出家してから五十年余となった。

正理と法の領域のみを歩んで来た。

これ以外には〈道の人〉なるものも存在しない。(p150)

釈尊は自らの人生を振り返り、しみじみと語る。スバッダは感激し、釈尊の最後の弟子となった。

なお、このときに「具足戒」(パーティモッカ。石井米雄『タイ仏教入門』 - 三浦あかりで記載した。)を授かったという記述があるが、具足戒の内容や受戒の方法は釈尊死後に整備されたようなので、後代に付け足された記述ということになるだろう。

 

最後の言葉

臨終に際し、釈尊は弟子たちに語る。

お前たちのためにわたしが説いた教えとわたしの制した戒律とが、わたしの死後にお前たちの師となるのである。(p155)

釈尊は、死後に教えや戒律に疑問が生じて困らないように、何かあったら今のうちに聞いておきなさい、というが、修行僧たちからは一つも質問が出ない。皆が釈尊の法とサンガを信じきっていたのである。

釈尊の最後の言葉は次のものだった。

「もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい」(158)

 

終始しめやかな雰囲気に包まれつつも、仏教の教えのエッセンスがふんだんに盛り込まれた、内容の濃いテキストだった。今後も、仏教を勉強していくに当たって逐次参照することになるだろう。

 

 

*1:法華経を説いた舞台でもあるよな

*2:サラソウジュ - Wikipedia  白い花なのね。