あかりの日記

おっ あっ 生きてえなあ

何を信じるのか

仏教は神を信じない。じゃあ何を信じるのか。

僕が思うに、仏教の信仰対象は「世界観」だ。凡夫は六道を輪廻していて、万物はダルマから構成されていて、みたいな、「この世界はこうなっている」という世界観についての説明を信じる宗教なのだ。

でも、そんなこと言ったら、これはアブラハムの宗教だって同じじゃないか?キリスト教とかイスラム教とかも、天国があって地獄があって、という、ある種の世界観についての説明に対する信仰であるともいえる。

だが、この二つには大きな違いがあると思う。それは、「なぜ世界がそうなっているのか」を説明しているかどうかだ。仏教は根拠を説明しない。なぜ六道輪廻が「ある」のか。なぜダルマが「ある」のか。あるいは、なぜそれらが「ない(sunyaである)」のか。そういうルール(法)だから、としか説明しない。そもそも仏教はその辺りの説明にあんまり関心がないと言ってよいと思う。一方、キリスト教の説明は明快だ。なぜ天国があるのか。神が作ったからだ。神は世界観の一部であるとともに、世界観の究極の根拠である。

 

アビダルマ、中観、唯識などの仏教哲学は、自分で一から概念を作って、それを組み合わせて(ある種の理想の)世界観を構築する。仏教哲学の知的関心は、我々の生きる経験的世界のあり方というよりも、誰かが構築した理想の世界観の理解・説明に向けられているといえそうである。理想の世界はふわふわと宙に浮かんでおり、そもそもそれが本当に我々の住んでいる「この世界」の話なのかすらもあんまり気にしていないように思える。理想の世界の分析の議論をいくらしても、地べたを這いつくばって生きる我々衆生の経験的な問いかけへの回答には、残念ながら、あまり役立たないようにも思える。

 

ところで、仏教は科学に近いという話をたまに聞く。モンクット(ラーマ4世)なんかもそう言ったらしいが、それは、どういう意味で、どの限度でそうなのか。

科学は、経験的世界の根拠を説明することを志向するという意味では「神のいる宗教」的だといえるが、他方で倫理的・哲学的な根拠の解明には関心をもたない、という意味では仏教的ともいえる。だが、科学は、人間の経験と推論をともに信じる。なんでもかんでも神のせいにするのは推論の放棄だ。アタマの中だけで世界の仕組みをどんどん想像していくのは経験の放棄だ。

 

仏教は世界の存在意義を説かないという点や、一定の論理の体系を有しているという点は科学と通ずるところがないではないものの、その論理がアタマの中で考えた世界の説明に終始しており、経験的世界の根拠を経験的に説明する方向を向いてない、という点は決定的に異なると思われる。

 

仏教を批判したいわけではない。むしろ、僕は、その、昔の人がアタマの中だけで考え上げた壮大な宇宙の体系を知りたいのだ。