今日は1章〜3章くらいまでをまとめることを目標としたい。
検討の対象
本書は空思想を検討するわけだが、検討対象をもうちょっと明確にしておく。空の思想というのは、「世界は空である」という主張なわけだ。空という考え方を明確に主張したのは般若経典である。中村元、三枝充悳 『バウッダ[佛教]』③ - 三浦あかりのとおり、般若経典はたくさんあるようだが、その思想のエッセンスを短く的確に伝えており、そして何より、古今東西のお坊さんが最も中心的に研究対象として来たのは、みんな大好き「般若心経」である。特に、般若心経においてみんなが研究対象としてきたのは
rūpaṃ śūnyatā, śūnyataiva rūpam rūpān na pṛthak śūnyatā, śūnyatāyā na pṛthag rūpaṃ
色不異空、空不異色、色即是空、空即是色
のところである。ルーパ(色)とは物質や現象世界のことを指し、「ルーパが空である」というのはつまり「世界は空である」というような意味で捉えられる。「色即是空」、「世界が空である」というのはどういう意味なのか。これについて各時代の各地のお坊さんが考えて来たことを検討する。
ダルマとダルミン
空を理解する前提として、インド思想の根本的な世界の捉え方を把握しなければならない。仏教に限らず伝統的なインド思想は、世界を基体(ダルミン)と属性(ダルマ)に分けて分析する傾向がある。著者の例だと、インド思想においては、例えば「白い紙がある」ということがらを、「紙」というダルミンに「白い」というダルマが乗っていると考える、ということのようだ。この考え方を突き詰めていくと、この世界のあらゆるものはダルマが現れているということになりそうだが、ここで、2つの軸に基づいて思想を分類できる。一つは、ものごとには現実に現れた属性としてのダルマと区別した本質であるダルミンがあるのか(ダルミンとダルマは区別されるのか)であり、もう一つは、ダルミンはあるのかである。
ヒンドゥー系の主流の思想は、ダルマとダルミンは区別でき(これを著者は「インド型実在論」と呼んでいる*1。)、かつ、ダルミンはあるという考え方のようだ。この考え方は、「物事には現象として現れたものからは隠れた基本原理がある」という方向に行く考え方だ。
これに対し、ダルマとダルミンには区別がない(属性として現れたものとは別の本質はない。これを著者は「インド型唯名論」と呼んでいる)という考え方がある。このインド型唯名論の中で、このようなダルマ=ダルミンが「ある」と考えるのがヒンドゥーの一派ヴェーダーンタ学派であり、ダルマ=ダルミンは「ない」と考えるのが仏教であるようだ。
で、この「ない」というのは何を指しているのか、という問題である。仏教が本質の存在も現象世界の存在も否定したことの根底には、世界を表す「言葉」と表される「世界」の対応関係を疑った、というところがある。この後深く検討するが、インド仏教における空の思想というのは突き詰めると、言葉(そして言葉で構成されるところの論理)で世界を表したり理解したりすることはできない、という思想であり、言葉を超えたところに世界があること自体は否定していないというか、むしろそれこそが真実なのだ、という思想であると思われる。ただしこれは仏教がインドの外に出るとともに変質していっている。
仏教を理解する上では、ダルマとダルミンを結局区別しないんだから、こんな細かい説明必要かね、と思わんでもないが、この本のこの後の議論では、ダルマとダルミンとか、唯名論と実在論とかの概念を用いて、空を周辺のインド思想と比較して検討する場面がよく出てくるので、用語の説明をしておいた。
インド仏教の空思想概観
これから、インド仏教において空(シューニャ)がどのように解釈されたのかを見ていくが、本書の構成に倣って、最初に全体を概観した後、個々の中身を見ていくことにする。
まず、般若経典以前の仏教においても空の思想はあった。釈尊はダンマパダやスッタニパータで無我(非我、五蘊はアートマンではないという思想)を説いたが、原始仏典の中には、このような考え方に至る思考方法として空を説いているものがある。すなわち、あれは空だ、これも空だ、…という思考を繰り返していくことで、最終的に無我の境地に到達する、というようなことを言っている。ここでは「世界が空である」ことは結論ではなくて、結論に至る思考プロセスという位置付けになっているのであり、「空」という概念それ自体が特別視されているわけではない。
まあとはいえ、この釈尊の思想というのは方向性としては「何もない」という方を向いた考え方であって、般若経の空と近くはあるわけだ。しかしながら、釈尊死後の部派の時代に隆盛を誇った説一切有部の教義は、唯名論から離れていく。有部は、最小構成要素を起点とする因果関係によって世界は成り立っていると考えた。これはモノと言葉の対応関係を認める考え方であり、実在論に接近している。
これに対して厳しい批判を加えたのが2世紀頃の龍樹(ナーガールジュナ)である。龍樹の思想はこれから検討するが、ようは一切が空であると説いて、有部の実在論的な議論を攻撃したのである。
龍樹の流れを継いで空を研究する学派は中観派(マーディヤミカ)とよばれ、仏教哲学の一つの大きな潮流になる。中観派は大きく分けると、背理法的に空を論証する帰謬論証派と、インド論理学の論証式に従って空を論証する自立論証派に分かれていくが、次第に後者が優勢になる。帰謬派には仏護や月称、自立派には清弁やシャーンタラクシタといった優秀なお坊さんが続々と現れ、緻密な理論が構築されていく。詳細は後で検討する。
中観派と並ぶインド仏教哲学の潮流になったのが、4世紀の弥勒(マイトレーヤ)*2が開闢し、世親や無著が体系化した唯識派(瑜伽行派、ヨーガチャーラ)である。唯識派も空思想に依拠してはいるが、中観派との違いは、唯識派では認識作用の存在は認めるということ、のようである。ただ認識作用だけがあるので「唯識」ということらしい。唯識も大変面白そうだが、本書の対象とはややずれるので、あんまり詳しくは語られない。
さて、上に述べたような中観派の思想は、「真実の世界は言語で語れないようなものとしてある」という考えと親和する。龍樹は「世界は言葉では表せない」というところまでしか語らなかったが、「じゃあ言葉では表せない世界とはどんな感じなのか」については後世に検討されていく。そして、仏教が考えた一つの答えが密教なわけだ*3。宇宙とは大日如来の体であり、言葉で説明できなくても、曼荼羅に描いて象徴的には表せる。「大日経」や「秘密集会タントラ」などの密教経典は空の思想を基礎理論として成立した。
ここまでがインドの空思想の概観である。空の思想は「世界を言葉で表せない」という世界観であると思われるが、インドのお坊さんたちはそのこと自体を、なんとかして「言葉で表そうと」苦心してきたようである。本書に従って、その謎に包まれた思想の中身を、少し詳しめに検討していく。