地下室に引きこもっている自意識過剰な40歳弱者男性(以下「地下室男」という。)の独白。
第1部が彼の思想、第2部はその思想を具体的に裏付ける、地下室男24歳のときの出来事。
あらすじ(第2部)
地下室男は過剰な自意識に苛まれる小役人で、金はなく、人付き合いも悪く、しょぼくれた風俗通いで憂さ晴らしをしていた。彼の趣味は、読書と、「美にして崇高なるもの」の妄想(後述する。)。ある日彼は、仲が悪い知り合いの送別会に、よせばいいのに勢いで参加、酒が入ってのべつ悪態をつきまくり、相手にされなくなり、暖炉とテーブルの間を3時間ひたすらうろうろし続け、最悪な気分になる。知り合いたちは地下室男をハブって風俗に行くが、地下室男は復讐のために追いかけ、入った風俗店で、なぜか嬢に突然説教をしかける。あまりに酷いことを言うんで嬢は号泣するも、ちょっとフラグが立ち、住所を渡して帰宅。数日後、嬢が家に訪ねて来た。地下室男は、小汚い家や服装を見られて動転し、号泣しながら嬢に散々悪態をつき、一発やる。帰り際、嬢に金を渡すも、彼女は金をペッと投げ返して去っていった。
パーソナリティ
まあかくいう俺も地下室みてーな所に住んでいて、自意識過剰なところがある(俺は風俗には行かないけど。)ので、どきっとする記述が結構あった。
ぼくは、相手を軽蔑するにしろ、あがめるにしろ、だれと会ってもほとんど例外なく、目を伏せてしまったものだった。(p81)
人の目を見て喋るの、ニガ手なんだよな。
実はこうした血のにじむような屈辱、だれから受けたともわからぬ嘲笑こそ、例の快楽のはじまりなのであり、ときにはそれが官能的な絶頂感にも達するわけなのだ。(p28)
心の中で自分を嘲笑する。それが快感になる。俺にもそういうクセがあるけど、これやっちゃうと、どんどん行動できなくなっていくんだよな。
いったい自意識をもった人間が、いくらかでも自分を尊敬するなんて、できることだろうか?(p28)
諸君、誓っていうが、ぼくはいま書きなぐったことを、一言も、ほんとうに一言も信じていないのだ!(p70)
自分に自信がない人間というのは、なんか根本のところで、他人も拒絶しちゃうので、どんどん孤独になっていくんだよな。
ぼくは現代の知的人間にふさわしく、病的なまで知能が発達していた。ところが、やつらときたら、どいつもこいつも鈍感で、しかも、まるで羊の群れのように、お互い同士そっくりなのだ。(p81)
地下室男は周りの人間はみんなバカだと繰り返し繰り返し述べるが、俺はそこはあんまり共感できないかな。いやこれはガチ。社会生活を送っていて自分より愚かだと感じることはほとんどいない。まあ、俺がそう思うのは、俺のような孤独な人間にとってそういう他人を見下す思考や他責思考はキケンだ、という無意識レベルの危機感が働いていて、他人に評価を与えるのを無意識的に回避しているからかもしれない。
あ、あとさ、
人類がこの地上においてめざしているいっさいの目的もまた、目的達成のためのこの不断のプロセス、いいかえれば、生そのものの中にこそ含まれているのであって、目的それ自体のなかには存在していないのかもしれない。(p60)
これって、俺がかねてから考えている「義務」の考え方とかなり近くて、びっくりした。
義務 - あかりの日記
俺は、人生におけるあらゆる目的として設定されているものは、それに向けた何らかの行為をさせるためのチェックポイントにすぎないと思っている。「目的」はそのじつ「手段」なのである。ただプロセスだけがある。いっとくけど、俺のこれ、ドストエフスキーの受け売りじゃないからね?俺は、俺の地下室で、思いついたんだ。でもさあ、やっぱ、グルグル考えていくと、そーいう結論に行き着くよな?
「美にして崇高なるもの」
地下室男が耽っている「美にして崇高なるもの」の空想。何か哲学的で抽象的な思索なのかと思いきや…
たとえば、ぼくは万人に勝利した、というような気持ちがそれである。(p106)
だが僕は、靴も履かず、食物もろくにとらず、新しい思想を伝道に赴き、石頭どもをアウステルリッツで撃砕する。やがてマーチが奏され、大赦が布告されて、法王はローマからブラジルへの遷都を承知される。つづいて、コモ湖畔はボルゲゼの離宮で、全イタリアのための舞踏会が催される。(p107)
あ、そうですか。意外と俗っぽい感じなのな。
これさ、今でいう「異世界転生」にかなり近い発想だよな(異世界じゃないけど。)。オレは実は軍略の天才。敵を氷上に追い込んで、氷に砲弾を打ち込むぜ。こんなことを思いつくのは世界でただ一人。その上、政治や思想にも明るい。世界を征服して、民法典なんか作っちゃって、無知な民衆に自由や平等を啓蒙するのだ…
いつの時代も現実に敗れた者の考えることはそう違わない。そして、そのようなアイデアには、(というより、そのアイデアを考えるそのひと自身に、かもしれないが、)ある種の儚い美しさがある。そういう意味では、「美にして崇高」というのは、言い得て妙なのかもしれない。
近代合理主義の否定
で、えーと、なんだっけ?地下室男が、一番言いたいのは、「人間は自己の利益になるように善良で高潔な行動だけを取ることはありえず、時として理に適っていない汚らわしい行動をとる」ということだっけ?
もし人間を啓蒙して、正しい真の利益に目を開いてやれば、汚らわしい行為など即座にやめて、善良で高潔な存在になるにちがいない。なぜなら、啓蒙されて自分の真の利益を自覚したものは、かならずや善のなかに自分の利益を見出すだろうし、また人間だれしも、みすみす自分の利益に反する行為をするはずもないから、当然の帰結として、いわば必然的に善を行うようになる、だと?ああ、子供だましはよしてくれ!(略)有史以来、人間が自分の利益だけから行動したなどという実例があるだろうか?人間はしばしば、自分の真の利益をよくよく承知しながら、それを二の次にして、一か八かの危険をともなう別の道へ突き進んだものだ(p38)
で、このことを証明するための事実として、第2部の、地下室男自身のあまりにも不合理な一連の行動を記したわけね。
ちょっとこの点は重要そうなので検討してみる。
1 まず、この思想は、「啓蒙された人々は自らの利益を最大化する行動をとる。調和は利益を最大化する。よって、永遠の調和は自ずから実現される。」というような、西洋由来の近代合理主義の否定であると思われる。この思想は、この後のドストエフスキー作品でも繰り返し出てくるよな。ラスコーリニコフもイワンも「永遠の調和」を否定していたし、罪と罰でもカラマーゾフでも、「調和」思想を説く西洋かぶれのキャラが、極めて醜悪に描かれている。
この辺りが、『地下室の手記』が「5大長編を解く鍵」とか言われるゆえんなんだろうか。
ドストエフスキー 『罪と罰』(下)(新潮文庫) - あかりの日記
ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』(上)(新潮文庫) - あかりの日記
2⑴ 地下室男の思想の妥当性について考えてみる。おそらく一般的な理解としては、20世紀以降の歴史が、この思想が少なくとも部分的には正しかったことを事後的に証明した、ということになるのだろう。近代合理主義は、際限のない格差の拡大と、国家の膨張・衝突を招き、その結末は、大革命・2度の世界大戦・大量虐殺だった。ドストエフスキーの大ファンだったEHカーは、「調和」理論からなるユートピア思想を否定するリアリズムを国際政治の文脈に適用した。今思うと、カーの理論ってかなりドストエフスキーだよな。
E.H.カー『危機の二十年−理想と現実』 - あかりの日記
⑵ あと、この思想の妥当性について、もう一つ指摘しておくと、地下室男に批判されている19世紀の合理主義っていうのは、「自然科学がいつの日か人間の心や行動を完全に解明する」という見通しに基づいていたんじゃないかと思うんだよな。
自然法則さえ発見できれば、(略)人間のすべての行為がこの法則によっておのずと数学的に分類されて、(略)カレンダーなんぞに書き込まれる。あるいは、もっとうまくいけば、現在の百科辞典式の懇切丁寧な出版物が数種刊行されて、それには万事が実に正確に計算され、表示されることになり、もうこの世のなかには、行為とか事件とかいったものがいっさい影をひそめることになる。(p46)
この、「科学が全てを解明する」というのは、ニーチェの永劫回帰とか、『天体による永遠』とかにも通底していて、19世紀の人の中でかなり支持されていた考え方だったんじゃないかなって思うんだ。
ブランキ『天体による永遠』 - あかりの日記
だけど、『天体による永遠』のとこでも書いたけど、現代の科学では、人間の心や行動を含めた自然現象は、「理論上解明・予測は可能ではあるが、複雑すぎて人間の頭では不可能」、と考えられているらしい(多分。「カオス」っていうんだっけ?)。そうすると、人の心にとっての合理性を科学が究極的に解明するのもまた難しいってことになるのだろう。
⑶ ってことで、こんなきっしょくて胸糞悪い第2部なんてなくてもだな、地下室男による近代の否定は、「人間は、常に必ず合理的ではないし、それはこの先も直ることはない」という限りでは、21世紀を生きる我々にとってはある種の常識になっており、俺自身も、まあそこはそうなんだろうな、と思っている。その限度では地下室男の思想は受容されるに至ったわけだ。自分が賢かったことが認められてよかったね。
3 地下室男の過激な近代合理主義アンチが、ドストエフスキー自身の思想なのか、という問題がある。いわゆる「作者の気持ちを考えよ」問題である。この点については見解が分かれており、かつては、ドストエフスキー自身が地下室男であり、人間理性に絶望していた、という説が有力だったらしい。
しかるに、あとがきでは、ある学者のこんな見解が引用されている。
ドストエフスキーが自分の主人公を取るにたらない人間として示したことは、とりも直さず、理想は不可欠なものであると彼が考えていたことを意味している。(p257)
うん、まあ、俺もそうかなって思うよ。ドストエフスキーが地下室男というわけではなく、ドストエフスキーが言いたかったのは、人間の理性への絶望「だけ」になると、こんな酷い人間になっちまうぞ、という、警句みたいなものなんじゃないかね。
まあ、人間は時として不合理になるし、我々が人間である以上はその不合理さをなくすことはできないだろうが、しかし、多くの場合には合理的で、道徳的になることができる。少なくともその可能性を排除はしてない、というのが、本作の「作者の気持ち」なんじゃないかなと、俺は思う。そして、罪と罰やカラマーゾフの希望ある終わり方をも踏まえれば、むしろ、ドストエフスキーはその可能性を積極的に肯定していたんじゃないか。 カーも結局、近代の未熟な理想主義を否定しつつ、それでも道義の存在をかなり肯定的に捉えていたけど、それも、ドストエフスキーから理想や道義の必要性を読み取ったからなんじゃないかね。
さて、一応「鍵」も読んだことだし、次は『悪霊』でもいってみるか。