本書は、中国史(清末まで)の通史を、文明という視点から1冊にまとめたものである。山川の教科書を引っ張り出して、中国史の復習をしていこう。
古典の時代
★ 初めに結論を言っておくと、本書で提示された中国の文明とは「儒教」(儒学)である。まずは、周代まで、孔子以前の時代についてみていく。
三皇五帝~殷
中国史の建国神話として「三皇五帝」が説かれることがあるが、司馬遷の史記は「五帝本紀」から始まる。五帝とは、黄帝、顓頊、嚳、堯、舜。中国四千年の歴史は黄帝から始まったということになっている。いずれも人格者で、帝位は禅譲され、天下はよく治まっていたという。
舜が禅譲した禹から、王位は世襲されるようになり、これが中国史最初の王朝である夏である。
夏は17代目桀王に至って人望を失い、殷の湯王に倒された(放伐)。天命を失った王朝が交代するという易姓革命が初めて起こったのだ。
殷朝は、名宰相伊尹が善政をしたり、中期以降に殷(殷墟)に都したりして、繁栄を誇った。しかし、紂王に至って腐敗し、いわゆる酒池肉林の暴政を行うと、西方に起こった周の武王に討伐された。
考古学的視点
と、いうのが、史書の語る初期の中国史であるが、19世紀頃には、周以前の王朝の実在性は疑われていた。しかしながら、地下からの発見がこうした見方を変えてきた。
考古学的には、中国には、約70万年ほど前から人類が住み始め(いわゆる北京原人は少し新しい。)、前4000年頃までには新石器時代に入った。仰韶文化の彩陶、竜山文化の黒陶等が有名である。
20世紀に殷墟が発掘され、甲骨文字の刻まれた骨片が多数出土すると、殷朝の実像が明らかになった。
この発見をもとにすると、殷朝は前1600年頃に黄河流域に成立し、氏族集団の都市(邑)の連合体として発展した。いわゆる祭政一致をとり、占卜で神意を聞いて政治的意思決定をしたが、非常に高度な青銅器の武器・祭具等を製作した。
少なくとも殷は地下からの証拠が出てきた。残念ながら夏はまだ確たる証拠が出ていないようだが、人類のあくなきロマンが、いつか何かを発掘するかもしれない。
西周
渭水周辺に起こった周は、文王の代、名宰相太公望*1を得て勢力を伸ばした。その子武王の代に、牧野の戦いで殷を破ってこれを滅ぼし、鎬京に都して王を名乗った。前11世紀頃のこと。
次の成王は幼少だったため、叔父の周公旦が摂政した。周公旦は内乱を治めると、いわゆる封建制を確立した。すなわち、血縁関係を重視する組織原理たる宗法に基づき、一族や功臣を諸侯とし、邑を分封して経営させたのである。
こうした支配制度は一定の安定を実現し、後世から理想の時代とみなされた。孔子は周公旦を聖人と仰ぎ、「周は二代に監み、郁々乎として文なるかな。吾は周に従わん」と述べた。中国の「文明」が周までの時代をいかに捉えていたかを端的に表した言葉だと思われる。
文明形成期
★ 「郁々乎」の時代から動乱の時代に入り、中国人は政治哲学を中心とした思想を極めていく。
春秋戦国時代
前770年、周は異民族に鎬京を占領され、洛陽に遷都した。これ以降の周を東周と呼び、ここから秦による統一がされる前221年まで、中華は長い分裂時代に入る。前半(晋が正式に分裂した前403年とする説などがある。)を史書になぞらえて春秋時代と呼び、それ以降を「戦国策」に由来して戦国時代と呼ぶ。
春秋初期に250ほどあった諸侯の都市国家は、抗争を繰り返して数を減らしていき、周室の権威を戴いて諸侯の連合(会盟)の盟主となり勢力を握った覇者が現れた。「五覇」とも言われ、北の晋、斉、南の楚、呉、越などが挙げられることもある。はじめ、太公望の封国と伝わる斉の桓公が管仲を得て勢力を伸ばしたが、その後晋の文公が勢力を握った。
しかし、前403年*2晋が内部分裂を起こして韓、魏、趙になると、斉、燕、秦、楚を併せた7大国(七雄)がそれぞれ王を名乗る戦国時代となった。七雄は後述する諸子百家の思想や鉄製武具を取り入れて覇を競った。魏の文侯は法家の李克を、楚は兵家の呉起を登用して改革を行い、これが秦での商鞅(法家)の変法に受け継がれた。秦は移民奨励や土地私有制等の改革で勢力を増し、戦国最強となったが、それぞれ国を執政した四君子(斉の孟嘗君、趙の平原君、魏の信陵君、楚の春申君)はいずれも人材集めに注力し、秦に対抗した。
孔子と諸子百家
前551年*3、春秋時代の魯という小国に、孔子は生まれた。彼は魯→斉→魯と仕えるが、クーデターで失脚して各国を流浪。思想を説いて回るも理解されず、魯国で私塾を開いて教育に力を入れた*4。
孔子の思想とは何か。
孝という独自の概念を生みだし、孝にもとづく家族倫理をつくり、その上に政治理論を組み立てたのが孔子である。(略)
孔子は人間の才能の表現のうちの最も重要な要件として、徳行、言語、政事、文学をあげ、(略)それらの前提となる基礎的徳目として、礼の実践をとりわけ重視した。(略)
このような学問と教養を身に着けた人(君子)によって担われるのが政治であり、より広く文明の継承と創造も同じであるとする観念が、やがて社会的に定着するが、その原型はかくの如く孔子によって提示されたのである。中国における文明のあり方は、孔子がその基盤を確立したといっても過言ではない。(p34~35)
孔子は(略)常識人であって、平凡な常識のなかに真理を見付けようと努力した人であった。(略)神について語ることは稀れで、何よりも人生を直視し、人間いかに生きるべきか、現世に解答を求める姿勢を貫いた。(p36)
とのことである。ん、まあやはりこの本だけだとよくわからないが、いつか入門書でも読んでみよう。この記述からうかがえる孔子思想の特徴をいくつか挙げると、①「良い政治を実現できる人間になるにはどうすればいいか」という方向から人間のあり方を考察した政治道徳であること、②今でいう人文系の教養重視であること、③あんまり形而上学的なテーマを好まず、現実的な人生訓を説いたこと、などだろうか。例えば仏教思想は、「苦しい現世からの脱出」とか「世界の隠れた真の姿の探究」みたいな方向に向かっていったが、中国思想は「現実世界で役に立つ人間になるにはどうすればいいか」という方向を向いている。この辺りの思考の関心が、その後の中国思想を方向付けていくことになる。ということかなあ。
孔子は弟子の教育に力を入れ、弟子の孟子や荀子を皮切りに儒学が発展した。さらに、大国の君主等のパトロンを得て、道家の老子、荘子、墨家の墨子、法家の商鞅、韓非、李斯、縦横家の蘇秦、張儀など、多くの学者が学派に分かれ、発展しつつあった斉の臨淄をはじめとする大都市を中心に華々しく議論を戦わせた(諸子百家)。
秦の統一
秦はもともと周の故地である関中の咸陽に本拠地を置いた。戦国最強となった秦に対し、他の六国は蘇秦の合従策や張儀の連衡策で対抗したが、秦に政が即位し、法家の李斯を用いて国力を増大させると、統一事業に乗り出し、前221年に統一を成し遂げた。
「皇帝」の時代
★ 皇帝による統一政権により、2000年近く続く中国文明の基本的な形が形成された。その辺りと儒学との関わりも見ていく。
始皇帝
統一を成し遂げた政王は始皇帝号を採用し、封建制を廃止して郡県制をとり、中央が派遣した官吏に全国を統治させた。度量衡、貨幣、漢字、車輪の幅などを統一したほか、大規模な思想統制(焚書・坑儒)をした。統一の時代に多様な思想は不要であり、多くの諸子百家はここに滅んだ。蒙恬による匈奴討伐や、戦国時代の長城をつなげた万里の長城の建設、華南、南越の編入などの対外政策も実施した。さらに、阿房宮や驪山陵の建設を行ったが、急激な統一政策と大規模な土木事業は民衆を疲弊させた。
始皇帝死後、末子胡亥が二世皇帝となるが、宦官趙高の言いなりとなり王朝は凋落。陳勝・呉広が反乱を起こすと、各地に反秦運動が広がり、その中で項羽と劉邦が頭角を現した。
勢力の大きい項羽は反秦軍の実質リーダーとなるが、劉邦が先に関中に入って咸陽を落としてしまう。まだ勝ち目がないと悟った劉邦は、関中に入った項羽の陣中の飲み会から命からがら脱出し(鴻門の会)、関中を落ちる。代わって項羽が関中に入るが、皇帝を殺して略奪を行い、論功行賞も偏っていたため、反発を招く。田舎の漢中を封じられた劉邦だが、好機を得て対項羽の戦いを開始した。当初劣勢だった劉邦軍だが、張良、蕭何などの能臣に恵まれて関中を落とし、さらに国士無双・韓信の大活躍もあり、ついに項羽を垓下に追い詰めて勝利。漢(前漢)による統一が成った。
…というあたりについての話は、項羽と劉邦、面白いから読め。
しかして、秦朝、15年しかもたなかったけど、外征、苛政、宦官の専横、民衆反乱、滅亡後の分裂と、その後の王朝に共通する事象がてんこ盛りだな。中華王朝のバイオリズムは、一番最初からずっと変わっていないといえるかもしれない。
高祖
前202年、劉邦は皇帝に即位し、高祖と号された。彼は農民出身で、主たる功臣も農民時代の友達という異例の政権である。高祖は国都を咸陽に近い長安に置くと、まず論功行賞を行い、韓信などの功臣には土地を分封して、郡県制と封建制を併せた郡国制を敷いた。高祖は民力回復のために穏健な統治を行ったが、治世の後半は封地の諸王の粛清に明け暮れ、異姓諸王を取り潰して劉氏に代えていった。また、匈奴を攻めるも、冒頓単于率いる軍勢に大敗し、和親策をとった。
高祖没後、外戚の呂氏の専横を退けた漢朝だが、力を蓄えた劉氏諸王と対立し、ついに呉楚七国の乱が勃発するも、鎮圧し、実質的な中央集権制を確立した。
武帝
このような状況で、前141年、武帝が即位し、中華王朝は未曽有の大躍進をとげる。
内政面では、年号の制定等皇帝権力を増大したほか、儒学を漢学化した。董仲舒をして五経(易、書、詩、礼記、春秋)を教授させた。ここに、儒教を修め教養を身に着けた者が皇帝を補佐し、国家と文明を維持する、という方針が政治制度として定着し、儒教国家の体制が確立された。このことは、中国官僚制における文官優位の原則が確認されたともいえる。
国力を蓄えた武帝は匈奴に対し積極策に出た。衛青、霍去病といった名将の騎兵隊によって匈奴に大勝利をおさめ、これを漠北に追いやると、河西回廊に敦煌などの西域四郡を設置し、タリム盆地までを支配下におさめ、長城も玉門関まで延長した。さらに、南は南越を滅ぼし、東は楽浪などの朝鮮四郡を置いてこれを支配した。その後も匈奴への遠征は繰り返され、蘇武や李陵などの悲劇も伝説になっている。
さらに武帝は、大月氏と同盟して匈奴を討つため、張騫を西域に派遣した。彼は目的を達することはできなかったが、大宛や烏孫、さらにその西にペルシャやインドといった文明地域があることを発見し、またこれら西方の国の使者を長安に連れ帰った。これにより、西方諸国と漢はお互いを認識するに至り、中央アジアを経由した交易が始まった。シルクロードの基礎を築いたのは張騫ということができる。
武帝の時代、文化面では、司馬遷が紀伝体*5による歴史書の史記を記載した。範囲は黄帝から武帝まで。この後の正統な史書は全て紀伝体を受け継ぎ、また、東アジアに広く影響を与えた。我が国の日本外史や大日本史も紀伝体である。
武帝の度重なる外征によって財政が疲弊すると、塩鉄の専売制や禁輸・平準法などの経済統制策でこれをしのいだが、民衆の不満は高まった。武帝は晩年には呪術に傾倒し、それを契機に反乱が起きるなどしたが、前87年に没し、半世紀以上にわたる治世に幕を閉じた。
王莽
武帝死後、朝廷では外戚や宦官が力を持ち、その中で外戚の王莽が勢力を拡大する。王莽は8年に、古の帝王に倣い禅譲を受けて帝位につき、新と号する王朝を建てた。殷いらい王朝交代は放伐によったが、この先禅譲によって交代するケースも出てくる。
王莽は周を理想とする儒教国家を目指し、土地を国有化する王田制を行ったがすぐに失敗。赤眉軍などの民衆反乱が勃発し、漢室の血を引く劉秀ら豪族も加勢して、昆陽の戦いで劇的な勝利を飾る*6。赤眉軍は長安を攻略し、王莽を殺害して、新をわずか15年で滅ぼした。
光武帝
新滅亡後、最初は劉玄が更始帝として即位したが、悪政を敷いて赤眉軍に直ちに放逐された。最終的には、25年、劉秀が光武帝として即位し、ここに漢(後漢)が復興された。光武帝は相当な人格者として知られ、史上最良の皇帝として名が挙がることも多い。彼は洛陽に都し、王莽の制度を廃止したほか、行政機構や軍備の縮小、減税などの改革を行う一方、儒教に基づく国家建設(教育や官吏登用等)については王莽を継承した。30年余りの治世の間失策も少なく、王朝は安定した。
光武帝ののち、2世、3世の時代も、皇帝権力は比較的安定する。その中で、司馬遷を継いだ班固は紀伝体の「漢書」を儒教主義に基づいて記し、鄭玄らが経典解釈学である訓詁学を始め、官学としての儒学を発展させた。蔡倫による製紙法に加え、天球儀や地震計などが発明され、1世紀のうちに仏教が伝来した。
外交面では、南北に分裂した匈奴のうち南匈奴を服属させ、北匈奴を放逐した*7。西域支配を復活させ、班固の弟班超が派遣された。班超はローマと交渉をもとうと甘英を西方に送り、目的は達しなかったものの、シリアまで到達し多数の朝貢国を得た。2世紀に入ると大秦王安敦の使節が海路ベトナムに到着したという。
なお、光武帝は東に浮かぶ小島の領主に漢委奴国王の金印を与えて朝貢させたらしい。
後漢の衰退
しばらく安定していた後漢も、1世紀末、4代皇帝の頃から傾き始める。例によって外戚・宦官が朝廷を牛耳る。他方、前漢以来私有地を拡大した富農が豪族となり、儒学を学んだ知識人(士大夫)として政界に進出して、外戚・宦官と対立した。2世紀後半には知識人層による大規模な国政批判である清議が起こるが、宦官による大弾圧(党錮の禁)を受けた。
こうした状況のもと、2世紀末、なぜかおれたち日本人もよく知っている時代に突入する。
魏晋南北朝
★みんな大好き三国志の頃から、中国は長い分裂の時代に入る。いわゆる魏晋南北朝時代について、文明という視点を踏まえてみてみる。
黄巾の乱~三国時代
この時代は説明不要かもしれないが、さくっと流れを追っていこう。
後漢王朝が混迷していた184年、道教系・太平道の張角が大規模な農民反乱、黄巾の乱を起こし、鎮圧後も各地の豪族が武装して群雄化。献帝を擁立して政権を握った董卓に対し、有力だった袁紹が諸侯を糾合して対抗すると、董卓は洛陽を焼いて長安に逃亡し、配下の呂布の裏切りで暗殺。次いで力をつけた曹操が袁紹を官渡の戦いで破り、華北を平定した。曹操は南征軍を起こすが、江南の大領主孫権と、諸葛亮を軍師として自立の機を窺う劉備の連合軍に痛恨の敗北を喫し(赤壁の戦い)、撤退。曹操は志半ばで病死し、長子曹丕が禅譲を受けて帝位につき、洛陽に都して魏を建国。次いで益州に入った劉備が成都に都して蜀を、江南の孫権が建業(のちの建康)に都して呉を建国し、三国時代となった。
魏においては九品中正という官吏登用法を行ったが、家柄の固定化を招き、門閥貴族の力が増大した。土地制度として屯田制を敷き、流民の定着化を図った。
曹操は宦官の子であったが、儒学の教養をよく身に着けた文人で、詩の世界にも大いに功績を残しており、悪役という感じではない。諸葛亮は蜀の国政を一手に担った名宰相で、高潔な人物だったとされるが、冷静に見ると軍事的な天才だったかは微妙である。この辺りが、陳寿の正史に基づく正当な評価らしい。
ちょっとだけ雑談をすると、著者はこのように、演義での過剰な曹操sage、孔明ageの風潮に疑問を呈している。本書は97年発行のものだが、この当時は三国志と言えば吉川・横山であり、正史はまだよく知られていなかったのだろう。だが、それから30年経った現代には、蒼天航路もスリキンもあるからね。正史通りのイメージかは措くとしても、曹操の再評価などは割と進んでいるようにも思われる。スリキンは、よいぞ、よいぞ。雑談終わり。
西晋の統一
諸葛亮は魏に北伐を敢行するが、将軍司馬懿を倒せず、五丈原の陣営で没する。司馬一族は無能な皇帝に代わって魏の実権を握り、懿の子司馬昭は蜀を滅ぼし、次いで息子の司馬炎が魏から禅譲を受け、晋(西晋)を建国。さらに孫権末期からボロボロだった呉も滅ぼし、280年に中華を統一した。
武帝(司馬炎)は魏に倣った占田課田制をしき、九品中正も受け継いだ。引き続き門閥貴族の力が増していった。また、武帝は一族に封土を与え、王号も名乗らせた。一門を信頼していたのだろうが、案の定、王国は独立国化した。
武帝の死後、外戚や諸王の争いが激化し、骨肉相食む八王の乱が起きた。乱は鎮圧されたが、諸王国はこれの鎮圧のために五胡(匈奴、羯、鮮卑、氐、羌)を積極的に導入し、諸民族の活動を喚起した。
五胡十六国と北朝
帝が代わると改めて大乱が起き(永嘉の乱)、匈奴の劉淵が建てた漢が洛陽・長安を占領して、西晋は統一から36年で滅亡した。中原は五胡により多数の政権が興亡する制御不能状態に陥り(五胡十六国時代)、晋室の司馬睿は317年、建康に逃れて東晋を建てた。
北では漢から分裂した羯の石勒が建てた後趙が華北の大半を得て、漢人の尊重や仏教の導入を進めたが短命で滅亡。暫くして今度は氐の前秦の苻堅が華北を統一し、東晋に侵攻するも、淝水の戦いで大敗。苻堅は羌族に捕殺され、再び華北は分裂状態になった。*8
その中で、鮮卑拓跋氏の北魏が勢力を伸ばし、5世紀前半、太武帝が華北を統一した。彼の時代までに、鮮卑族は定住・農耕化を進めた。彼は道教の寇謙之を重用して仏教を弾圧したが、既に定着しつつあった仏教は彼の死後勢力を取り戻し、雲崗・竜門の石窟が造られた。
孝文帝は均田制、三長制を敷いて農耕民社会の安定に努めたほか、北方の大同から洛陽に遷都し、鮮卑の習俗・言語を禁止するなど積極的な華化政策を行った。
孝文帝没後には国内の不満が噴出する。南遷した鮮卑に代わってモンゴル高原で力を得た柔然に対抗するため、北方に配置された軍隊(鎮)は、冷遇による窮乏に耐え兼ね、武川鎮を中心に反乱を起こした(六鎮の乱)。これを鎮圧した爾朱栄(やはり武川鎮)と朝廷の対立を経て、6世紀前半に北魏は東西に分裂した。6世紀後半、西魏は武川鎮ルーツの宇文覚の北周に代わり、これが東魏に代わった北斉を倒して華北を統一するが、間もなく同じく武川鎮出身の楊堅が禅譲を受け、隋の文帝として即位した。
上に挙げた以外の北朝文化と言えば仏教だ。仏図澄や鳩摩羅什が仏典の翻訳に努め、法顕は天竺を訪れて仏国記を記した。西域の敦煌では、これより千年の時をかけ、莫高窟などに塑像や絵画が残されていった。
六朝
江南では建康に都して漢族の5王朝が相次いで起こり、孫呉と合わせ六朝と呼ばれる。東晋は華北から門閥貴族を招いて一応安定し、苻堅も撃退して暫く存続するが、移住貴族と土着豪族等との対立を調整できず、反乱が多発。420年、軍閥の劉裕が禅譲を受けて宋を建てた。宋は名家の力を抑えようとしたが、やがて熾烈な政争を招き衰退した。なお、倭の五王は宋以降の南朝に多数回朝貢している。
衰退した宋室から、やはり軍閥出身の蕭道成が禅譲を受けて斉を建てるも、血みどろの政争が絶えず、502年、蕭衍が禅譲を受け、梁の武帝として即位した。彼もまた軍人だが、教養も高く、仏教に深く帰依して皇帝菩薩とも呼ばれた。皇太子の昭明太子は「文選」に四六駢儷体の美文を残し、学問も発展した。しかし、武帝末期の6世紀半ば、格差による社会不安等を背景に将軍侯景*9が反乱を起こす。彼も武川鎮出身で爾朱栄の元部下であった(みんな武川鎮だ。)。
この乱を契機に、将軍陳覇先が帝位を奪い、陳を建てたが、内乱で疲弊した南朝は隋の侵攻に抗しきれず滅亡。589年、中国はようやく統一を回復した。
南朝は絶え間ない抗争の時代だったが、開発が進んだ江南、建康の経済力を背景に、漢族の文化をよく継承・発展させた。士大夫は阮籍ら「竹林の七賢」をはじめとして清談にふけり、囲碁や賭博にいそしんだ。陶淵明や謝霊運の詩作、顧愷之の絵画、王羲之の書をはじめ、文化が大いに発展した。
南朝文化については、もう一つ特筆すべき点がある。なかなか興味深いので、原文を引用しておく。
南朝の諸王朝もすべて軍事国家であって、武力こそ唯一の価値と認められていたにもかかわらず、(略)少なくとも文明の形成については、文人貴族の実力を無視できなかった(p124)
ほとんど武力をもたない彼らが、(略)生命が常に風前の灯であるような乱世を、(略)教養ある知識人としての貴族の立場を守り抜き、王朝の興亡とは関係なく超然と存続し、政治を含めた文明の担当者でありつづけた(p124-125)
のだそうだ。戦乱の時代でも文化の担い手は文人貴族層であった。なるほど確かに、これは中国文明のカラーをよく表しているように思われる。武士が経済・文化の面でも貴族階級に取って代わってしまったわが国とは、かなり対照的である。
隋唐帝国の時代
★長い動乱を治めた統一王朝は、東アジア全域に影響を及ぼす巨大帝国として華開く。
隋による統一
統一を成し遂げた文帝は、北朝伝来の税制、均田制や徴兵制度たる府兵制などを取り入れる一方、階級を固定化していた曹魏いらいの九品中正を廃止し、科挙を創始した。これこそ20世紀まで存続する世界無比の受験地獄である。
科挙制度は、隋唐の当初はいくつかの科目があり、儒教経典への精通度をはかる明経科や、詩や作文の能力をみる進士科のほか、法律の能力を図る明法科や理数系の能力を図る明算科もあった。しかし、時代の流れとともに明法科や明算科は廃止され、宋代には進士一本になってしまった。
明法と明算は科目の廃止とともに、世人の関心から外れ、これを学ぶ者は段々少なくなってしまった。こうした科挙の制度的変遷は、文学の際を特別扱いする気運を生じ、中国文明の在り方に大きな与える一方、明法と明算2科の廃止は、この分野に才能をもつ有為の人材を文明の形成から排除する結果を招き、後日、国家と民族の運命に致命的損失をもたらすことになる。(p135-136、下線はあかりが付した。)
これは非常に興味深い。倭国人のおれから見るに、周辺国にとっての中華帝国とは、その人文的な文化レベルもそうだが、どちらかというと、高度な法律(律令)と、四大発明をはじめとする科学技術、これらの点でこそ、見習うべき大国だったように思われる。それなのに、中国文明は、このそれぞれについて、あるところから発展を止めてしまい、周辺国にとっても学ぶところがあんまりなくなる。そして、ルネサンスを経た西洋文明にじわじわ引き離され、19世紀には水をあけられてしまう。
そこのところと、科挙の試験科目とに関係がある、というのは、結構目から鱗の説だった。(まあ、そもそも民族的関心がなかったから試験科目から消えたかもしれないので、どっちが原因でどっちが結果か、というのは直ちには言えないところがあるが。)
文帝の時代、中国の国力はかなり回復した。しかし、文帝を殺して帝位を奪った煬帝は、国富を浪費したとされる。すなわち、華北と江南を結ぶ大運河の開削と、度重なる高句麗への遠征である。運河は長期的に見れば中国の経済発展に寄与したが、民力は疲弊し、遠征の失敗が追い打ちをかけた。そんな中、またもや武川鎮軍閥出身の李淵が挙兵し、長安を落として煬帝を殺害、傀儡として立てた幼い帝からの禅譲を演出して即位し(高祖)、618年に唐を建国した。
太宗と武則天
高祖は626年に息子の李世民に退位させられる(玄武門の変)。太宗として即位した李世民の治世は貞観の治と称えられる太平時代だった。隋に倣って均田制、府兵制、租調庸制をしき、律令に基づいて皇帝の下に三省・六部などを設置し、整然とした統治機構を整備した。軍事面では、東突厥を攻めて服属させた。
律令について。科挙のところでも触れたが、中華帝国では「近代科学が伸びなかった」とよく言われるが、おれ的には、公法学の分野にこそ、もう少し伸びしろがあったんじゃないかという気がする。6、7世紀の時点でかなり素晴らしい律令があったのだ。科挙官僚が、その思考のリソースの何割かでも、律令の研究に割いていれば、例えば「普遍的な天帝の法で皇帝権力を規律する」みたいな方向に展開する余地も、まあまああったのではないか。*10まあ、今となっては全てたらればの話だが…
閑話休題。太宗没後、病弱の高宗のもと、皇后の武則天が実権を握った。彼女は政治的手腕に優れ、690年には自らが帝位について国号を周とした。女性による執政を快く思わない儒教的価値観を前提に、次の韋后と併せて「武韋の禍」といわれることもあったが、たしかに敵対勢力には厳しく対応したものの、科挙官僚を積極的に登用するなど、普通に善政を敷いたとの評価が近年は主流のようである。実質半世紀にわたる治世に農民反乱がほぼないこともこれを裏付けている。
この時代、東は百済、高句麗を破り、西は西域に進出して、最大版図を実現した。占領地には都護府を置き、現地民に間接統治をさせる羈縻政策をとったが、都護府はやがて節度使に置き換わり、次第に軍閥化していった。
隋~唐前期の文化として、玄奘は陸路、義浄は海路で天竺に行き、多数の仏典を持ち帰った。ただ翻訳するだけでなく、天台大師の天台宗、賢首大師の華厳宗、不空・恵果の中国密教などが発展し、次いで中国特有の浄土教や禅の萌芽も見られた。
儒学については、科挙の開始に伴い訓詁学が重視され、孔穎達の「五経正義」などが記された。
玄宗と安史の乱
武則天の後、政権を狙った韋后などの排除を経て、玄宗が即位し、唐は開元の治といわれる最盛期を迎えた(この時期を盛唐ともいう。)。
農業生産が回復して人口は増え、貨幣経済が復活した。100万都市の長安にはシルクロードを通って西方の商人が多数往来し、祆教、景教、マニ教、回教が伝来して、国際色豊かな雰囲気が漂っていた。科挙で詩作が重視されたことと関連し、李白、杜甫、王維、白居易といった詩人が活躍したほか、韓愈、柳宗元の古文復興、呉道玄の山水画、顔真卿の書などの文化が花開いた。
しかし、玄宗後期になると、格差はいよいよ拡大し、地主の大土地所有に伴う農地の不足により均田制が緩み、府兵制も崩れて募兵制(傭兵を利用すること)に代わった。辺境防衛のための節度使が力をつけ、藩鎮という地方軍閥になった。
楊貴妃に耽溺する玄宗に対する反発は、755年、節度使安禄山・史思明の反乱(安史の乱)を招き、唐軍は北方のウイグルの援軍を得て8年後にようやくこれを鎮圧した。この乱により華北は荒れ、地方軍閥はいよいよ勢力を増し、盛唐期は終焉を迎えた。
唐の滅亡
安史の乱後の財政危機は租調庸制では賄えず、780年に両税法が採用された。人頭ではなく現実に所有する土地に応じて貨幣で課税する方法であり、格差の存在を政府が公式に認めたことになる。また、塩の専売も強化され、次いで茶や酒も専売とされ、密売人は厳しく取り締まられた。これらの変化は、武川鎮軍閥につらなる武力国家だった唐が、両税法による徴税に依存する財政国家に変質したことを意味する。
王朝が揺らぐと、漢末のような官僚と宦官との党争も激化した。重税にあえぐ民衆の反感は高まり、9世紀後半に塩の密売人である黄巣の乱が起きて、一時は長安を占領した。節度使の独眼竜・李克用が乱を平定したが、反乱軍から投降した同じく節度使の朱全忠が彼を打ち破り、長安を占領して宦官を皆殺しにした。彼は唐から禅譲を受け、運河と黄河の交錯点である開封に都して後梁を建てた。ここに907年、唐は滅亡した。
五代十国
この後中国は五代十国と呼ばれる時代に入る。中原には50年余の間に短命の5王朝(五代)が興亡するが、支配領域は中原に限られ、その外側には節度使の独立政権(十国)が興った。いずれも軍閥支配の武人政治の時代であった。
唐末から五代は、東アジア諸民族が自立する時代でもある。五代の晋を建国した石敬瑭は抗争の過程で北の契丹に支援を受け、見返りに燕雲十六州を奪われた。漢人王朝は相当の期間この土地を取り戻せなかった。
五代の周の世宗は名君と謳われ、中華統一を目指したが、志半ばで倒れ、周の将軍であった趙匡胤が軍に推されて太祖として帝位につき、宋を建国した。
唐末以降の混乱の中で、従来の門閥貴族は没落していき、新興の地主層(形勢戸)が小作人(佃戸)を使った農業を拡大して勢力を伸ばしていった。
*1:実在があやしいというのは有名な話だ。
*2:分裂は前453年で、周室がこれを承認したのが前403年らしい。
*3:ちなみに、ブッダとほぼ活動時期がかぶっている。ソクラテスは孔子やブッダが亡くなった直後に生まれる。よく言われているが、世界史的に、その後の文明の基礎となる思想が生まれ始めた時期だったといえる。
*4:官僚と在野との往来、各地の旅行・遊説、私塾の開設。この辺りを読んでいて思ったが、松陰先生を筆頭とする幕末の文化人は、儒学の教養があったから、おそらく意識的に、このようなスタイルでの活動をしたのではないか。
*6:新軍100万人を劉秀が3000人で倒したらしい。盛り過ぎだろ(笑)
*7:さらに東西に分裂し、西匈奴がフンの名で東欧に侵入し、ゲルマン人の大移動を引き起こした。
*8:高校の授業だと鮮卑くらいしか出てこなかったけど、こうしてみると、五胡それぞれに見せ場があったんだな。
*9:「宇宙大将軍」の二つ名で知っている人も多いだろう。
*10:おれは、近代行政法学における「行政行為の法的統制」の議論というのは、必ずしも社会契約説やら人権思想やらを前提にしなくても、「政治は合理的に行われるべき」という価値観の下に、「国家の統治機構を法で形作る」という思考を進めていきさえすれば、おのずと辿り着けるような気がするんだよな。特に、中国文明では、徳による政治とか、易姓革命・陰陽五行説とか、「皇帝権力も無謬ではなく、これを縛るなにものかがある」という価値観自体は肯定していたわけじゃん。良い政治を追求し続けた中国思想にこそ、(民主主義とか三権分立とかは無理でも、)行政法学を生み出してほしかった。