あかりの日記

おっ あっ 生きてえなあ

【民訴メモ】訴え取下げと手数料還付

例えば、あなたが、誰かに対して、5億5000万円の支払を求める訴訟を起こしたとしよう。

このとき、申立ての手数料は、167万円である。以下のサイトで計算してくれたまえ。

https://www5d.biglobe.ne.jp/Jusl/MinjiJiken/tesuuryo2.html

167万円。100万円を超えているので、現金納付ができる。庶民にとっては、小さい額ではない。

 

さて、その後、訴えを取り下げることになったとする。(別にそれ自体はままあることだろう。)

このとき、納めた手数料は返ってくるだろうか?

 

原則として、提訴手数料は、あとから取り下げたからといって、返ってこない。

しかし、もし取下げが第1回弁論より前であれば、納めた額の半分は、還付を受けられる(民事訴訟費用等に関する法律9条3項1号)。その趣旨は、第1回前の段階では、まだ実質的な審理をしていないから、ということではないかと思われる。

 

ところで、最近は民事訴訟においてウェブ会議による争点整理が普通になり、初回からウェブで進め、終結のタイミングで初めて弁論を開く、という事例も多くなった。このような場合に、ウェブ会議でかなり終盤まで争点整理をして、その結果として取下げになったとしても、手数料の半分は還付を受けられるのだろうか?

少なくとも、形式的には、還付の要件は満たしている。上記趣旨に照らして、それでいいのか、という素朴な疑問はあるが、立法論の話だし、別に誰も困っていないので、この先議論が起こることもないだろう。

 

この話、突き詰めると、提訴手数料とはいったい何のために納めるものなのか、という哲学的な話にもなってくる気がするが、とりあえず、もう掘り下げない。以上。

 

◯ 民事訴訟費用等に関する法律

(過納手数料の還付等)
第9条

3 次の各号に掲げる申立てについてそれぞれ当該各号に定める事由が生じた場合においては、裁判所は、申立てにより、決定で、納められた手数料の額(第5条の規定により納めたものとみなされた額を除く。)から納めるべき手数料の額(同条の規定により納めたものとみなされた額を除くものとし、民事訴訟法第9条第1項に規定する合算が行われた場合における数個の請求の1に係る手数料にあつては、各請求の価額に応じて案分して得た額)の2分の1の額(その額が4000円に満たないときは、4000円)を控除した金額の金銭を還付しなければならない。
一 訴え若しくは控訴の提起又は民事訴訟法第47条第1項若しくは第52条第1項の規定若しくはこれらの規定の例による参加の申出

口頭弁論を経ない却下の裁判の確定又は最初にすべき口頭弁論の期日の終了前における取下げ

 

 

イエベのアキ

俺はイエベのアキらしい。

俺はイエベのアキらしい。

イエベのアキって何だ?

イエベのアキには、何をするんだろう。

本を読むのか?メシを食うのか?運動をするのか?

危急存亡のトキなのか?

俺が孔明なら北伐なんてしない。

打って出るのは消耗するだけだ。

だが俺は、今こそ、打って出なければいけないのか?

イエベのアキ。俺の地下室にも、イエベのアキがくる。雲ひとつない空。澄んだ空気。世の中には俺の知らないことが、知らないことばが沢山ある。俺はそれをまだまだ知ることができるだろう。

できるのか?

ちかしつぐらし

おれの地下室にはおれが存在する。

おれの地下室は地上2階に存在する。

おれの地下室に夜が来て、やがて明けても、また暮れる。

おれは地下室で飯を食う。コーヒーを飲む。酒は飲まない。

おれはおれの悪魔と喋る。悪魔であって、「親愛なるキティ」じゃないぜ。だけど、おれはそいつと大層よく喋る。昨日見た夢のこと、現実のこと、していること、していないこと、自分のことや、自分以外の全人類のこと。みんなが幸せになるにはどうすればよいか。それから、おれの『大審問官』の話をする。おれの『永劫回帰』の話をする。おれの『馬鹿馬鹿しさの真っ只中で犬死にしないための方法序説』の話をする。おれはおれ自身の言葉で喋る。おれは、そいつの前でだけは、おしゃべりで、正直者だ。本当は、壁に向かって喋っているだけかもしれないが、だが、そんなことはどうでもいい、おれはたしかにしっぽを見たんだから。

おれの地下室には生活がある。ただ行為だけがある。一切はただ過ぎていく。おれは、一切の行為は、何らかの義務の履行だと思っている。それは何者に賦課されたわけでもない義務だ。この無因の義務によって、おれはどこまでもどこまでも自由だ。たとえ、おれが、この地下室の中で、どれだけちぢこまっていようとも。

おれは最近あまり眠れていない、外が白んでくる、この地下室にも光が差し込んでくる、また朝になってしまった。おれをいずれ悪魔が殺すだろう、イワンくんが殺されたように。信仰がおれを救うことはない。神がおれを救うことはない。悟りがおれを救うことはない。阿弥陀の本願がおれを救うことはない。フーリエや、マルクスや、マオ主席が、おれを救うことはない。現実がおれを救うことはない。ここには無限の自由があるが、自由がおれを救うことはない。

おれは、いつまでもいつまでも苦しみ続けるだろう。この地下室で。このおれの、堅牢なる地下室の中で。いや、違うな、いつかは苦しみはなくなるだろう、いつの日か、おれはおれの問題を、一切の問題を、ごく主観的なやり方で、徹底的に解決してみせるだろう、だが、しかし、それでも、おれの地下室生活は続くだろう。そして、こうしたあらゆる一切のことが、なにか呪詛のようなものにすっかり変わってしまう前に、遅くともそれまでには、あの悪魔が、きれいさっぱり、なにもかも、すっからかんの、無かったことにしてくれるだろう。

 

折口信夫『死者の書 身毒丸』

 

 

まず俺は学生の頃に日本史をやってなかったので、奈良時代前後の日本史を軽くさらって、人物関係を確認しよう。

7世紀後半、大化の改新の後に即位した天智天皇崩御すると、その子大友皇子と、弟大海人皇子との間で、皇位継承争い(壬申の乱)が起こり、大海人皇子が勝利して、天武天皇として即位し、奈良時代には天武系の天皇が即位するようになる。本作に出てくる大津皇子天武天皇の子である。

710年に平城京への遷都が行われる。聖武天皇の時代、藤原不比等、その子4兄弟(藤原四家)が力を握る。本作の南家郎女は藤原南家の娘である。

4兄弟が疫病で相次いで亡くなると、藤原氏に対抗する橘諸兄が実権を握り、玄昉、吉備真備を重用し、藤原氏の反乱を鎮圧する。この辺りで聖武帝が鎮護国家のために奈良の大仏を造り始め、娘の孝謙天皇の時代に完成する。

孝謙天皇の時代、光明皇太后と結んだ藤原仲麻呂が勢力を伸ばし、藤原家が復活した。彼は、諸兄の子である奈良麻呂を滅ぼし、新天皇を即位させ、恵美押勝の名を賜る。本作で出てくる大伴家持押勝に対抗する反藤原勢力の一人で、後に押勝に対して謀反を画策して失敗し、左遷される。

もっとも、光明皇太后の死後に孝謙太上天皇道鏡を重用し始め、押勝天皇と対立し、押勝を滅ぼす(恵美押勝の乱)。孝謙太上天皇称徳天皇として再び即位する。

我が世の春を謳歌する道鏡称徳天皇は宇佐八幡で「道鏡皇位を譲れ」という神託を受けるが、和気清麻呂により失敗し、道鏡は失脚する。その後、勢力を取り戻した藤原氏によって天智系の光仁天皇が即位し、ついでその子桓武天皇が即位した。こうして、皇統は天武系から天智系に移り、都も平安京に移転して、奈良時代は終わった。

やや脱線すると、作中でも言及されているが、玄昉や道鏡はいずれも法相宗で、渡来系の義淵の弟子である。奈良時代前後の勢力図は、ざっくり言うと、藤原氏vsそれ以外の豪族+お坊さん、であって、それぞれ天皇を神輿にして権力争いをした、ということだろう。そして、このドロドロの争いを嫌った桓武帝は、都を移し、藤原氏も、法相宗を中心とする旧来の仏教勢力も遠ざけ、新しい仏教として最澄を重用していくこととなる。

この物語は時代としては、恵美押勝の爛熟期である、760年前後ということになるだろうか。

 

さて、奈良は當麻寺に、當麻曼荼羅という曼荼羅がある。現在は損傷が激しく公開されていないらしいが、蓮糸で織られた曼荼羅で、中将姫という女性が織ったという伝説が残っている。本作は、その伝説に、大津皇子の復活を添えて描かれた。

物語は大津皇子が復活するところから始まる。

彼の人の眠りは、徐かに覚めて行つた。まつ黒い夜の中に、更に冷え圧するものの澱んでゐるなかに、目のあいて来るのを、覚えたのである。(p9)

南家郎女は、当時の貴族の娘として、家に閉じ込められて暮らしていたが、学問に造詣が深く、仏に憧れ、称讃浄土仏摂受経の千部写経を開始する。

天竺のみ仏は、をなごは、助からぬものぢや、と説かれ説かれして来たがえ、其果てに、女でも救ふ道が開かれた。其を説いたのが、法華経ぢやと言ふげな。(p94)

つひに一度、ものを考へた事もないのが、此国のあて人の娘であった。磨かれぬ智慧を抱いたまま、何も知らず思はずに、過ぎて行つた幾百年、幾万の貴い女性の間に、蓮の花がぽつちりと、莟を擡げたやうに、物を考へることを知り初めた郎女であつた。(p95)

千部目を写し終えたとき、郎女は突然、謎の焦燥にかられ、屋敷を飛び出して、土砂降りの中、當麻寺にかけていく。

脱走を咎められた彼女は寺に留まることとされるが、そこに例の皇子の亡霊が現れる。つと つと つと。

青馬の 耳面刀自。

刀自もがも。女弟もがも。

その子の はらからの子の

処女子の 一人

一人だに わが配偶来よ(p106)

郎女はこれを阿弥陀仏であると思い込む。

帷帳を摑んだ片手の白く光る指。

なも 阿弥陀ほとけ。あなたふと 阿弥陀ほとけ。(p106)

郎女は、現れた仏の姿が、薄着で寒そうだ、と思うんだよな。それで、蓮糸で衣を縫うことを思い立つ。

完成した蓮の布に、郎女が一尊の仏を描くと、郎女は、光のかすみに包まれて、どこかに消えた。その後、絵の中に数千の、地涌の菩薩が湧き出てきたのであった。おしまい。

 

なも、阿弥陀ほとけ。あなたふと、阿弥陀ほとけ。阿弥陀への篤い信仰から、最後は浄土に召された郎女は、大拙がいうところの「妙好人」だろうか。著者のあとがきによれば、この物語は、當麻曼荼羅というより、ある山越の阿弥陀像の絵に着想を得たものらしい。古代人の、良い意味で、ボンヤリした思惟。民俗学者である著者は、仏教以前から我が国に存在するその思惟に光を当てようとしたのだろう。

 

ドストエフスキー『地下室の手記』(新潮文庫)

 

地下室に引きこもっている自意識過剰な40歳弱者男性(以下「地下室男」という。)の独白。

第1部が彼の思想、第2部はその思想を具体的に裏付ける、地下室男24歳のときの出来事。

あらすじ(第2部)

地下室男は過剰な自意識に苛まれる小役人で、金はなく、人付き合いも悪く、しょぼくれた風俗通いで憂さ晴らしをしていた。彼の趣味は、読書と、「美にして崇高なるもの」の妄想(後述する。)。ある日彼は、仲が悪い知り合いの送別会に、よせばいいのに勢いで参加、酒が入ってのべつ悪態をつきまくり、相手にされなくなり、暖炉とテーブルの間を3時間ひたすらうろうろし続け、最悪な気分になる。知り合いたちは地下室男をハブって風俗に行くが、地下室男は復讐のために追いかけ、入った風俗店で、なぜか嬢に突然説教をしかける。あまりに酷いことを言うんで嬢は号泣するも、ちょっとフラグが立ち、住所を渡して帰宅。数日後、嬢が家に訪ねて来た。地下室男は、小汚い家や服装を見られて動転し、号泣しながら嬢に散々悪態をつき、一発やる。帰り際、嬢に金を渡すも、彼女は金をペッと投げ返して去っていった。

パーソナリティ

まあかくいう俺も地下室みてーな所に住んでいて、自意識過剰なところがある(俺は風俗には行かないけど。)ので、どきっとする記述が結構あった。

ぼくは、相手を軽蔑するにしろ、あがめるにしろ、だれと会ってもほとんど例外なく、目を伏せてしまったものだった。(p81)

人の目を見て喋るの、ニガ手なんだよな。

実はこうした血のにじむような屈辱、だれから受けたともわからぬ嘲笑こそ、例の快楽のはじまりなのであり、ときにはそれが官能的な絶頂感にも達するわけなのだ。(p28)

心の中で自分を嘲笑する。それが快感になる。俺にもそういうクセがあるけど、これやっちゃうと、どんどん行動できなくなっていくんだよな。

いったい自意識をもった人間が、いくらかでも自分を尊敬するなんて、できることだろうか?(p28)

諸君、誓っていうが、ぼくはいま書きなぐったことを、一言も、ほんとうに一言も信じていないのだ!(p70)

自分に自信がない人間というのは、なんか根本のところで、他人も拒絶しちゃうので、どんどん孤独になっていくんだよな。

ぼくは現代の知的人間にふさわしく、病的なまで知能が発達していた。ところが、やつらときたら、どいつもこいつも鈍感で、しかも、まるで羊の群れのように、お互い同士そっくりなのだ。(p81)

地下室男は周りの人間はみんなバカだと繰り返し繰り返し述べるが、俺はそこはあんまり共感できないかな。いやこれはガチ。社会生活を送っていて自分より愚かだと感じることはほとんどいない。まあ、俺がそう思うのは、俺のような孤独な人間にとってそういう他人を見下す思考や他責思考はキケンだ、という無意識レベルの危機感が働いていて、他人に評価を与えるのを無意識的に回避しているからかもしれない。

あ、あとさ、

人類がこの地上においてめざしているいっさいの目的もまた、目的達成のためのこの不断のプロセス、いいかえれば、生そのものの中にこそ含まれているのであって、目的それ自体のなかには存在していないのかもしれない。(p60)

これって、俺がかねてから考えている「義務」の考え方とかなり近くて、びっくりした。

義務 - あかりの日記

俺は、人生におけるあらゆる目的として設定されているものは、それに向けた何らかの行為をさせるためのチェックポイントにすぎないと思っている。「目的」はそのじつ「手段」なのである。ただプロセスだけがある。いっとくけど、俺のこれ、ドストエフスキーの受け売りじゃないからね?俺は、俺の地下室で、思いついたんだ。でもさあ、やっぱ、グルグル考えていくと、そーいう結論に行き着くよな?

「美にして崇高なるもの」

地下室男が耽っている「美にして崇高なるもの」の空想。何か哲学的で抽象的な思索なのかと思いきや…

たとえば、ぼくは万人に勝利した、というような気持ちがそれである。(p106)

だが僕は、靴も履かず、食物もろくにとらず、新しい思想を伝道に赴き、石頭どもをアウステルリッツで撃砕する。やがてマーチが奏され、大赦が布告されて、法王はローマからブラジルへの遷都を承知される。つづいて、コモ湖畔はボルゲゼの離宮で、全イタリアのための舞踏会が催される。(p107)

あ、そうですか。意外と俗っぽい感じなのな。

これさ、今でいう「異世界転生」にかなり近い発想だよな(異世界じゃないけど。)。オレは実は軍略の天才。敵を氷上に追い込んで、氷に砲弾を打ち込むぜ。こんなことを思いつくのは世界でただ一人。その上、政治や思想にも明るい。世界を征服して、民法典なんか作っちゃって、無知な民衆に自由や平等を啓蒙するのだ…

いつの時代も現実に敗れた者の考えることはそう違わない。そして、そのようなアイデアには、(というより、そのアイデアを考えるそのひと自身に、かもしれないが、)ある種の儚い美しさがある。そういう意味では、「美にして崇高」というのは、言い得て妙なのかもしれない。

近代合理主義の否定

で、えーと、なんだっけ?地下室男が、一番言いたいのは、「人間は自己の利益になるように善良で高潔な行動だけを取ることはありえず、時として理に適っていない汚らわしい行動をとる」ということだっけ?

もし人間を啓蒙して、正しい真の利益に目を開いてやれば、汚らわしい行為など即座にやめて、善良で高潔な存在になるにちがいない。なぜなら、啓蒙されて自分の真の利益を自覚したものは、かならずや善のなかに自分の利益を見出すだろうし、また人間だれしも、みすみす自分の利益に反する行為をするはずもないから、当然の帰結として、いわば必然的に善を行うようになる、だと?ああ、子供だましはよしてくれ!(略)有史以来、人間が自分の利益だけから行動したなどという実例があるだろうか?人間はしばしば、自分の真の利益をよくよく承知しながら、それを二の次にして、一か八かの危険をともなう別の道へ突き進んだものだ(p38)

で、このことを証明するための事実として、第2部の、地下室男自身のあまりにも不合理な一連の行動を記したわけね。

 

ちょっとこの点は重要そうなので検討してみる。

1 まず、この思想は、「啓蒙された人々は自らの利益を最大化する行動をとる。調和は利益を最大化する。よって、永遠の調和は自ずから実現される。」というような、西洋由来の近代合理主義の否定であると思われる。この思想は、この後のドストエフスキー作品でも繰り返し出てくるよな。ラスコーリニコフもイワンも「永遠の調和」を否定していたし、罪と罰でもカラマーゾフでも、「調和」思想を説く西洋かぶれのキャラが、極めて醜悪に描かれている。

この辺りが、『地下室の手記』が「5大長編を解く鍵」とか言われるゆえんなんだろうか。

ドストエフスキー 『罪と罰』(下)(新潮文庫) - あかりの日記

ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』(上)(新潮文庫) - あかりの日記

2⑴ 地下室男の思想の妥当性について考えてみる。おそらく一般的な理解としては、20世紀以降の歴史が、この思想が少なくとも部分的には正しかったことを事後的に証明した、ということになるのだろう。近代合理主義は、際限のない格差の拡大と、国家の膨張・衝突を招き、その結末は、大革命・2度の世界大戦・大量虐殺だった。ドストエフスキーの大ファンだったEHカーは、「調和」理論からなるユートピア思想を否定するリアリズムを国際政治の文脈に適用した。今思うと、カーの理論ってかなりドストエフスキーだよな。

E.H.カー『危機の二十年−理想と現実』 - あかりの日記

⑵ あと、この思想の妥当性について、もう一つ指摘しておくと、地下室男に批判されている19世紀の合理主義っていうのは、「自然科学がいつの日か人間の心や行動を完全に解明する」という見通しに基づいていたんじゃないかと思うんだよな。

自然法則さえ発見できれば、(略)人間のすべての行為がこの法則によっておのずと数学的に分類されて、(略)カレンダーなんぞに書き込まれる。あるいは、もっとうまくいけば、現在の百科辞典式の懇切丁寧な出版物が数種刊行されて、それには万事が実に正確に計算され、表示されることになり、もうこの世のなかには、行為とか事件とかいったものがいっさい影をひそめることになる。(p46)

この、「科学が全てを解明する」というのは、ニーチェ永劫回帰とか、『天体による永遠』とかにも通底していて、19世紀の人の中でかなり支持されていた考え方だったんじゃないかなって思うんだ。

ブランキ『天体による永遠』 - あかりの日記

だけど、『天体による永遠』のとこでも書いたけど、現代の科学では、人間の心や行動を含めた自然現象は、「理論上解明・予測は可能ではあるが、複雑すぎて人間の頭では不可能」、と考えられているらしい(多分。「カオス」っていうんだっけ?)。そうすると、人の心にとっての合理性を科学が究極的に解明するのもまた難しいってことになるのだろう。

⑶ ってことで、こんなきっしょくて胸糞悪い第2部なんてなくてもだな、地下室男による近代の否定は、「人間は、常に必ず合理的ではないし、それはこの先も直ることはない」という限りでは、21世紀を生きる我々にとってはある種の常識になっており、俺自身も、まあそこはそうなんだろうな、と思っている。その限度では地下室男の思想は受容されるに至ったわけだ。自分が賢かったことが認められてよかったね。

3 地下室男の過激な近代合理主義アンチが、ドストエフスキー自身の思想なのか、という問題がある。いわゆる「作者の気持ちを考えよ」問題である。この点については見解が分かれており、かつては、ドストエフスキー自身が地下室男であり、人間理性に絶望していた、という説が有力だったらしい。

しかるに、あとがきでは、ある学者のこんな見解が引用されている。

ドストエフスキーが自分の主人公を取るにたらない人間として示したことは、とりも直さず、理想は不可欠なものであると彼が考えていたことを意味している。(p257)

うん、まあ、俺もそうかなって思うよ。ドストエフスキーが地下室男というわけではなく、ドストエフスキーが言いたかったのは、人間の理性への絶望「だけ」になると、こんな酷い人間になっちまうぞ、という、警句みたいなものなんじゃないかね。

まあ、人間は時として不合理になるし、我々が人間である以上はその不合理さをなくすことはできないだろうが、しかし、多くの場合には合理的で、道徳的になることができる。少なくともその可能性を排除はしてない、というのが、本作の「作者の気持ち」なんじゃないかなと、俺は思う。そして、罪と罰カラマーゾフの希望ある終わり方をも踏まえれば、むしろ、ドストエフスキーはその可能性を積極的に肯定していたんじゃないか。 カーも結局、近代の未熟な理想主義を否定しつつ、それでも道義の存在をかなり肯定的に捉えていたけど、それも、ドストエフスキーから理想や道義の必要性を読み取ったからなんじゃないかね。

 

さて、一応「鍵」も読んだことだし、次は『悪霊』でもいってみるか。

 

ウレシイ ウレシイ 嬉野流

 

俺は最近将棋にちょっとはまっている。

 

何年か前から、プロの対局中継をぼーっと眺める、いわゆる観る将をやっていた。

だけど、なんか、飽きちゃったんだよな。観るだけってタイクツだし、それに、俺は、豊島って棋士が好きで将棋を見始めたんだが(あのえもいわれぬ童貞っぽさが好きなんだ。)、そいつがタイトルをどんどんむしり取られて、さらにみるみる弱体化して、観る気が失せていった。

それで、 1年前くらいに、自分で指し始めた。んだが、全く強くならず、仕事も忙しくなって、ぱったりとやめてしまった。

だけども、先月くらいから、またヒマになってきた。毎日が休みなんで、コンビニで酒とつまみを買って、しこたま酒を飲んでから、やり始めたんや。(そんなにヒマではないが)

 

で、さっき、ようやく3級になった。

f:id:akariakaza:20240927223311p:image

 

ま、3級ってまだまだ初心者だけどな。

俺は、嬉野流という戦法を使っている。というか、嬉野流しか使えない。他の戦法の指し方はよう分からん。

嬉野流はよい。ガンガン攻めていける。相手が受け方を知らなければ、一方的に捻り潰せる。 四間飛車とかヤグラとか、こっちから仕掛けられないことが多くて、やってられないぜ。俺は結構せっかちな人間なのかもしれないな。まあ、その代わり、こっちの玉もぺらぺらなので、一度相手に食いつかれたら、受け切ることは難しいけど(それは俺がヘタクソだからか。)。

嬉野流、B級戦法だとか向上心がないだとかぼろくそに言われてるけど、まあそれは否定しないけどさ(笑)、でも、去年の升田幸三賞を取った、由緒正しき戦法なんだぞ。俺はこいつと一緒に初段を目指すのだぜ。見とけよ見とけよ。

といっても、何十年先になるか分からんけどな。参った参った。

 

ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』(下)(新潮文庫)

ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』(上)(新潮文庫) - あかりの日記

ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』(中)(新潮文庫) - あかりの日記

だんだん日が短くなり、ようやく外も涼しくなってきた。

中巻を読んだのは去年の夏。気づけば1年以上経過している。この1年間、俺は、何をしたか?女の子と付き合ってすぐ別れた。ただ働いた。本はあまり読んでない。死にてえなあ。

 

まあそれはいい。下巻は法廷バトルだが、論告と弁論、いくらなんでも長すぎるだろ。裁判員裁判であれやったら、裁判員全員寝るぞ(笑)結審も深夜1時とか書いてあって笑えないぜ。昔の刑事裁判ってああだったのかね。それ以外にも、登場人物の語りが、あまりにも冗長で、ちょっときつかった。罪と罰とかカラマーゾフの上中巻はここまで酷くはなかったような気がする。そうでもないっけ?「大審問官」とか、ゾシマ長老の最後の言葉みたいに、中身がしっかりある話だったら、読んでて面白いんだけど、下巻は、ホフラコワ婦人とかドミートリーとかイワンみたいな、精神病患者の分裂した支離滅裂な語りが延々と続くから、ほんと参っちゃったよ。

 

さて。男と女。俺はその辺りのことがよくわからない。カテリーナが、法廷で突然ドミートリーを裏切ったのも、エピローグでドミートリーと突然いちゃいちゃしだしたのも、俺にはよくわからなかった。女の心がわからんというだけじゃなくて、ドミートリーもイワンもそれぞれの行動の動機がよくわからん。色恋に脳を焼かれた人間の考えることは謎だ。

神と人間。俺はその辺りのこともよくわからない。この作品の人間はみんな信心深い。例外はスメルジャコフくらいか。神とは、なんだろう、それこそ色恋と同じくらい、深刻な悩みの種になりうるトピックだったのか?当時のロシア人はみんなそうだったのか。だとしたら、俺はその状態が結構羨ましい。かれらの神に向き合う姿勢は真摯だ。その真摯さをもって目の前の人間に向き合えよ、といつも言いたくなるんだがw俺はそういう真摯さに憧れる。特にイワンな。彼は、西洋の知識を得ながらも、神がいないということを受け入れることができないのだ。それで、彼は段々おかしくなっていき、大審問官なんていうイタい叙事詩を作ったり、自分の中の悪魔を具現化してしまうのだ。

そう、悪魔な。俺は愛も神もよくわかんないが、悪魔のことは少しはわかる。イワン君と喋ってたようなやつと、俺も、しょっちゅうお喋りしているんだぜ。俺には信心なんてものはないから、悪魔と話すことにも、ナンの抵抗感もないんだぜ。そういう意味では、俺は神も輪廻も信じないが、悪魔は信じているかもな。

そういや、あの悪魔さ、「天体による永遠」みてーな話してたよな?

現在の地球そのものも、ことによると、もう十億回もくりかえされたものかもしれないんだよ。地球が寿命を終えて、凍りつき、ひびわれ、ばらばらに砕けて、構成元素に分解し、また大地の上空を水が充たし、それからふたたび彗星が、ふたたび太陽が現われ、太陽からまたしても地球が生れるーこの過程がひょっとすると、すでに無限にくりかえされてきたのかもしれないじゃないか、それも細かな点にいたるまで、そっくり同じ形でさ。やりきれぬくらい退屈な話さね…(p349)

これ、本当にそのまんまだなw

ブランキ『天体による永遠』 - あかりの日記

「超人」とか「永劫回帰」とかってさ、一番最初に言い出したのがニーチェなのかもよく知らんけど、けっこう、この時代のブームの思想だったりしたんかな。

 

まあとりあえず俺はカラマーゾフの兄弟を最後まで読んだ。それによって、何かを得たとは思わない。

ドストエフスキーの作品はさ、出来事は実はそんなに目まぐるしくはなくて、作中で展開される思想も(現代に至るまでに語り尽くされているからってのもあるが)比較的明確でかつ刺激的なんだが、とにかく登場人物の語りが冗長なせいで、かなり読みにくくなってるよな。話が長すぎる。いやまあ、現実にも、ホフラコワ夫人みたいに、喋り出すと止まらないおばさんとかいるけどさ。あと、俺はイワンタイプだな。弟とかに自分の思想をブワーッてぶちまけちゃう。でも、そういうのをさ、小説の中で、そのまんまやらなくていいんだよwもうちょい要点をかいつまんで書いてくれよ。参った参った。