イカれたメンバーを紹介するぜ。
謀反人・荒木村重の隠し子 又兵衛!
晩年は塀の中で過ごした 山雪!
鶏好きのおじさん 若冲!
自称大明帝国皇帝の子孫 蕭白!
恨まれすぎて毒殺された 蘆雪!
幕末のおたずね者 国芳!
以上だ!
荒木村重を知ってるか。知らなければたけしの『首』を観ろ。まあ観たってよく分かんねーけど。
村重。信長の有力家臣で、結構な風流人だったが、謀反を起こして失敗(有岡城の戦い)。村重本人は逃げおおせたが、一族郎党は皆殺しとなった(映画で女子供のグロい処刑シーンがあったよね。)。…はずだったが、妾の子が1人、乳母に担がれて有岡城を脱出していた。その子こそ又兵衛である。
本願寺に匿われた又兵衛は武門の再興を諦めたが、画業に頭角を現し、織田信雄の御伽衆になったり、秀吉の茶会に出たりと、京都周辺で画家として活動。大坂夏の陣で豊臣家が滅ぶと、京を離れて越前に移り、結城秀康の子・松平忠直の庇護のもと、寛永13(1636)年に亡くなるまで制作を続けた。生まれが天正6(1578)年だから、桃山から江戸前期、戦乱の時代の雰囲気が色濃いころを生きた画家といえる。出てくる名前がいちいちビッグネームなんだよなw
著者の辻先生の博論のテーマがこの又兵衛らしく、又兵衛の章はかなり気合が入っている。本書では、伝又兵衛作の3つの絵巻、山中常盤、堀江物語、浄瑠璃がフィーチャーされている。
www.moaart.or.jp
この3つの作品は、古い御伽草子等がもとになっており、その話自体が割と悪趣味なわけだが(いずれも、母や愛する人がむごい死に方をして、仇討ちをする、みたいな話だ。)、それを非常に生々しいグロさで描いているのだ。「山中常盤」では、牛若のカーチャンの常盤が悪党に惨殺されるシーンをめっちゃ執拗に何度も反復して描いたり、その後牛若が悪党をやっつけるシーンでは、牛若が切った人間の断面(著者は「切り身」と呼ぶ。)が奇妙に描かれたりしている。
これらの作品、学界では「又兵衛作じゃない説」も有力だったようだが、著者はこれらを又兵衛に帰属させた上で、又兵衛作品に以下の独自性をみる。
①表現主義的な性格。耕作図屛風(出光美術館)なども、風景を描きながら、そこに一種の気うとさを表現している。
②卑俗で当世風の描写。上記3絵巻もその性格がみられ、ほかにも、官女観菊図(重文、山種)などの古典主題の作品や、洛中洛外図屏風(国宝、東博)、豊国祭礼図屏風(重文、徳川美術館)などでも、同時代の風俗を描いている。
こういう風俗画を描く作風から、彼は同時代の人から「浮世又兵衛」と呼ばれていたようで、ここから、彼は浮世絵の元祖とされている。
www.yamatane-museum.jp
www.tnm.jp
www.tokugawa-art-museum.jp
③独特の人物描写。ここまでに挙げた絵をみれば分かるが、人の顔の頬がしもぶくれ、顎が長い。
そんで、著者は、「山中常盤」は、カブキ大名・松平忠直に頼まれて描かれたものだと推測している。忠直の親父の結城秀康は秀忠の異母兄であり、2代将軍たり得る血筋だったが、豊臣の養子だったことが災いし、越前に封じられて不遇をかこつ。それもあって越前家はもともと幕府に目をつけられていた。その上息子の忠直は反幕的かつ目に余る悪政を働いた(ということにされている)ため、最終的に幕府は彼を豊後に改易する。ま、そういう不遇なカブキ者だった忠直が、うっぷんを晴らすため、いっちょエグい奴を描いてくれやと又兵衛に依頼したんじゃないかと、こういう推測をしているわけだ。
その真偽のほどは分からんが、著者はこの、表現主義的で大衆にウケるヘンな絵を描いた又兵衛を、以下に述べていく近世の奇想の画家の出発点とみたのである。
ここから先は有名な戦国武将とか絡んでこないからペースアップしていくぞ。
狩野山雪。狩野山楽の弟子筆頭として、山楽死後のいわゆる京狩野を率いた。
ペースアップといったが「京狩野」は説明する必要があろう。漢画系統の狩野派は室町~桃山頃、元信、永徳という巨匠を輩出し日本画壇のトップに上り詰めたが、関ケ原後の過渡期になると、生き残りを図り「多面作戦」に出る。すなわち、永徳の実子筋を徳川や宮廷に出仕させる一方、養子の山楽を京に置き豊臣に仕えさせたのだ。この作戦は成功し、探幽ら江戸狩野は御用絵師として繁栄したが、豊臣の滅亡により、京に残った山楽は狩野派の外様扱いとなってしまった。この山楽一派を京狩野というわけよ。
山楽は養父永徳の画風をきわめて忠実に再現し、桃山の巨匠の1人に数えられた。山雪はその筆頭の弟子として頭角を現し、山楽死後には京狩野のリーダーに。清水寺や東福寺などの重要案件を歴任し、1647年、58歳で画家の名誉称号である法橋*1を授かり、4年後に亡くなるまで制作を続けた。彼はまた美術史の研究にも熱心であり、彼の残した草稿は、子の永納によって「本朝画史」として出版される。
という感じで、優等生的な画家が想像されるのだが・・・
驚いたことに、法橋に叙された後の晩年の山雪が、永納に宛てて、獄中から出した手紙、というのが残っておるのだ。投獄されてから毎日神を拝んでいたら神託を受け、正直さが通じてたのもしく思う云々。だいぶ参ってしまっている。何が起きたのか、濡れ衣なのか、今となっては分からないが、山雪はこのまま獄死した可能性すらあるのだ。永納によると、山雪は付き合いがよくなく、引きこもり体質だったらしい。栄光から急転直下の没落、それは彼の気難しい性格に起因するものなのか?
まあこの話はこれ以上深めようがないので、山雪の作品をみていく。結論から言うと、彼は師の山楽とは違い、永徳風とは一線を画す、かなりヘンな絵を描いたのである。
天球院の「梅に山鳥図」、「竹に虎図」。天祥院の「老梅図」。真正極楽寺「寒山拾得図」。
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bunka.nii.ac.jp
彼の樹木などの描写は、桃山のダイナミックさとは異なり、生命力あふれる木をグニャグニャ曲げて無理やり襖の中に押し込めてしまっている。その押し込め方がかなり幾何学模様チックなのである。言われないと気付かなかったんだが、竹に虎図襖の北側部分の、上のサイトだと右から3~5枚目の正方形に注目すると、2つの対角線を引いたときの下の二等辺三角形の中に、岩がすっぽり収まっているのだ(これはぜひ喋りたいウンチクだなw)。寒山拾得図の人物描写も極めてグロテスクである。なんとなく、投獄とか気難しい人というイメージに結びついちゃうよね。
著者によると、老梅図襖の「グロテスクな巨樹の痙攣」が、1世紀後の、若冲、蕭白、芦雪ら「京都奇想派」の先駆としての意義ももつらしい。
ということで次行くぞ。
若冲は、享保元(1716)年に京の青物問屋の子に生まれた。が、全然商売にやる気を出さず、仏門に深く帰依。家業を早々に弟に放り投げ、若くしてアトリエに隠棲し、大量の鶏を放し飼いにして写生し続けた。まあようは、ボンボンだったので周りを気にせず死ぬまで好きな絵を描き続けたってことだ。羨ましい限りだ、おれも隠居したいぜ。
彼の代表作・もと相国寺の動植綵絵を観よう。
shozokan.nich.go.jp
分類としては花鳥画なのだが、下等生物や昆虫、貝類をいっぱい書き込むなど、まず画題が伝統から離れている。
また、若冲は応挙と同様、写生にこだわった画家らしいが、若冲の写生について、著者は極めて重要な指摘をしている。
ニワトリやシャモを、若冲は自宅の庭に勝って執拗に観察し、写生したわけだが、鶏の専門学者にいわせると、各部分のプロポーションや器官のかたち、位置などが、応挙のそれにくらべてはるかに不正確であり、写生画としてはあまりよい点がつけられないそうだ。だが、そのような外形の正確な再現が若冲の〈物〉に即することだっただろうか?(略)「群鶏図」では、抽象模様に置き換えられた羽根のパターンの幻想的な交響と、その間にちりばめられたトサカの、赤い妖星を思わせるフォルムの反復とが、制作意図のありかを示している。(略)彼のいう〈物〉に即しての観察写生とは、結局のところ、そうした固有の内的ヴィジョンを触発させるための手段にすぎなかったのではなかろうか。(p105)
若冲の写生は応挙のように正確ではない。だが、観たものを写すことを通して、自分の内的世界を発露している。若冲がうけたポイントは、まさにそのような表現主義的性格なのだ。
若冲についてはまた詳しく触れる機会もあろうから、このくらいにしておこう。
蕭白という人間の経歴はあまり明らかになっていない。京都の商家の生まれのようで、1730年代から80年代くらいまでを生きたらしい。曾我派という漢画の一派で学んだ。彼の奇矯な作風の基礎はここにあるらしい。
彼の作風の特徴の一つは、人を食ったような態度である。この絵を観てほしい。蕭白の鷹の絵の方ね。
intojapanwaraku.com
ここの款記に、「明太祖皇帝十四世玄孫蛇足軒 曽我左近次郎暉雄 入道蕭白画」とある。さらに、箱の蓋の裏には、「漢の蕭何の子孫の蕭照という画家が、宋の徽宗(画家として有名)にこの鷹を教えた。さらにその子孫の蕭瀾が明の太祖の皇子に絵を教え、この皇子の子が日本に渡来し、その子孫が自分である。」的なことが書いてある。
うーん、明の太祖洪武帝といえば、頗る狂暴な性格で有名だから、蕭白もその血を引いているのかな・・・?ってそんなわけあるかい。これはおそらく、本気で経歴詐称をしているのではなく、「家柄や肩書万能の御時世に対する彼一流の逆説的皮肉」(p144)なのだそうだ。まあしかし、こういうホラを平気で吹いちゃう人なわけよ。
彼は20代の終わりくらいのころ、伊勢の各地を遊行し、数々の奇行伝説を残した。地元の人々が色々と語り継いでいる。1つ面白い話を紹介する。
ある家に居候していた蕭白は、家老に金屏風を描くよう命じられるが、酒を飲むばかりで一向に取り掛からない。家老が耐えかねて催促をすると、紺青群青金泥など高い画材をいっぱい用意させては、シュロ箒ですり鉢の墨とぐちゃぐちゃと混ぜた。家老が横で見ていると、金屏風一掃を並べさせ、そこにシュロ箒を握って湾曲した線を1本書き、その余勢で家老の顔を塗って、そのまま飄然と去った。家老は激怒したが既に去った後で仕方がない。屏風を見ると、墨が乾いたところに、七色燦然たる虹が現れた。
なんじゃその話は、という感じだが、蕭白の型破りな制作態度がこのような伝説を生んだのだろう。
群仙図屏風(重文、東博)
bunka.nii.ac.jp
一度見たら忘れられないあくの強い描写である。
唐獅子図屏風(重文、朝田寺)
www.kyotobenrido.com
虎図(ボストン美術館)
images.dnpartcom.jp
このような動物のデフォルメの仕方は結構漫画的だと思う。
雲龍図(ボストン美術館)
global.canon
著者は彼の作風を「乾いた金属質のグロテスク」と表現する。しかしながら、このような重要作品が国外に流出してしまっているのは大変惜しいですな。
ところで、著者は先述の群仙図屏風の波の表現が、北斎の神奈川沖浪裏を先取りしているのではないか、という指摘をしている。考えてみれば、北斎だって、その作風も人となりも、奇想の画家に位置付けてよいものであろう。
長沢蘆雪
おれがこの本を読んで一番驚いたのは芦雪の人生である。
1754年、下級武士の家に生まれた芦雪は画才を示し、応挙に弟子入りして高弟となる。1786年、南紀のお坊さんが、応挙に襖絵の依頼をしたが、応挙は多忙で行けなかったため、代わりに芦雪を派遣した。芦雪はこの南紀行きで、師匠の引き写しを抜け出し、独自のスタイルを確立していくことになる。その後も、応挙工房の大乗寺の襖絵等の重要制作に携わるが、1799年に46歳で大坂で客死した。
と、これだけだとふーんって感じだが、彼の人生はかなり破天荒である。まず、応挙に一時破門されていたという話がある。応挙に描いてもらった手本をそのまま持参して直しを請うたら、よくないと言われて少し直され、その後直していったらOKが出た。それが後でばれて破門されたとのことだ。いや、シンプルに、なんでそんなことすんのという話である。これは破門もやむなし。
それから、余興でコマ回しをしていて投げたコマを取り損ね、それが目に刺さり、めちゃくちゃ出血しているのに平然と続けようとしたとか(このせいで芦雪は実は独眼竜だったという説もある。)、応挙の七十七日の忌会に、同じく円山派の高弟の呉春が自分より上席に座ったのにキレて面罵したとか。
そして極めつけは、彼は若くして大坂で客死したわけだが、彼の死因について、毒殺説というのが噂されているようだ。淀藩主に目をかけられて我儘な振舞いをしていたので藩士に毒殺されたとか、他の画工に嫉妬されて大坂におびき出され、弁当に毒を盛られたとか。
まあこういうのは噂だけど、こんな噂が立つ時点であまり素行がよくない人だったことがうかがえる。かわいい犬の人、くらいのイメージしかなかったから、結構意外だったなw
南紀時代の虎図(重文、無量寺)
muryoji.jp
芦雪の代表作。迫力ある虎は、円山派の専売特許である付立てを駆使して描かれている。しかし、応挙の虎と比べるとだいぶかわいいよな。このようにデフォルメされた動物が芦雪の特徴である。例のイヌもしかり。
群猿図屏風
www.hakubutu.wakayama-c.ed.jp
捕鯨図(個人蔵、画像見当たらず)
このような構図の面白さが芦雪の特徴だ。猿の絵と言いながら猿をちょこんと書いてみたり、画面下を真っ黒に塗って鯨に見立てたり。
山姥図(重文、厳島神社)
https://www.tobunken.go.jp/materials/gahou/215775.html
老いというものの醜悪さをここまで正面から表現した作品は珍しいらしい。
著者は、芦雪の作風を、オリジナリティでは蕭白や若冲に劣るとしながら、その特徴を次のように述べる。
蘆雪の面目は、何といっても、南紀での諸作に最もよく表現されたような、大画面を縦横自在に馳せめぐる線描の達人としての水際立った腕前にあり、この点、「鳥獣戯画」や「将軍塚絵巻」以来の、線の芸術としての日本絵画の伝統を、十八世紀上方の庶民的な世界に再現した画家として評価されるべきかもしれない。(p207)
だそうです。
そして、これら18世紀京都奇想派の画風が、幕末の江戸に受け継がれることになるのである。
この本が出版された半世紀前には、近世美術史学界では、歌麿、写楽らの18世紀末が浮世絵の黄金時代であり、それ以降の浮世絵は、北斎と広重の風景画を除いて衰退期に当たる、という見方をしていたらしい。今となっては信じられないが、そのような見方に一石を投じたのがまさに本書ということなのであろう。
ということで、国芳である。1797年生まれの彼は早くから画才を発揮し、歌川豊国に師事。当初は兄弟子の国貞の方が人気があったが、国芳はますます画業に打ち込んだ。
国芳は水滸伝の絵シリーズで大ブレイクし、武者絵の人として一躍有名になる。次いで、当時ブームだった北斎の後を追って「東都名所」シリーズを発売。ここに奇想の画家としての国芳の画風が現れ始める。
museumcollection.tokyo
いやこれ何の絵なんだよと突っ込みたくなるが、首尾の松というのは当時有名だった隅田川ほとりの松。それをタイトルにしながら、手前のフナ虫とかヘンな岩とかを主役にして描き、独特の幻想的な空間が生まれている。そして何より、雲が、当時既に浸透しつつあった洋画の表現なのである。幻想性と洋風表現のミックス。これが国芳の特徴である。
鬼若丸の鯉退治(1845年頃)歌川国芳(拡大画像) | フランシスコ・デ・ゴヤ, 歌川国芳, 絵
この絵なんかも、悪魔的表現をしつつ、鯉の描写は多分オランダの生物図鑑に倣っているのである。
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これの右の顔も、この部分だけ近代の創作版画のような立体感である。
彼は洋画のコピーを多数コレクションしていたようである。多分彼はアルチンボルドも持っていた。
www.fujibi.or.jp
このての有名な作品があるが、これもアルチンボルドの江戸っ子風の翻案なんだよな、多分。
それから、国芳の特徴として、政治風刺をやった、というところがある。浮世絵師は結構そこには触れないようにしてたんだが、幕末になってくると民衆の不満もいよいよ募り、国芳はその代弁者を買って出たのだ。
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これ自体は昔からあるおとぎ話を描いたものなのだが、寝込んでる頼光が当時の将軍、寝ずの番をしている頼光四天王の1人が水野忠邦、妖怪が取り締まりに苦しむ江戸の町人、という含意があるんじゃないかということで、当時大変人気になった。時あたかも天保の改革の最中である。国芳は捕えられて詰問されたが、しらを切りとおし、無罪放免となった。
それ以降、国芳はずっと当局の要注意人物としてマークされており、幕府のスパイに素性を調べられたりもしたようなのだが、結局何も出てこず、お咎めを受けることはなかった。そういうとこちゃんとしてるのはポイントが高いな。彼は猫が大層好きだったようだが、猫の気ままな振舞いに学ぶところがあったのかもしれない。
最後に、著者のあとがきの言葉を紹介しておく。
〈奇想〉という言葉は、・・・因襲の殻を打ち破る、自由で斬新な発想のすべてを包括できる・・・〈奇想の系譜〉を室町時代以降の絵画史の中にたどるならば、雪村の水墨画の奇態なデフォルマションが、先触れとしての意味を持つし、『本朝画史』に”怪怪奇奇”と評された永徳の「檜図屏風」のような巨樹表現がこれにつづき、宗達の「養源院杉戸絵」や「風神雷神図」、光琳の「紅白梅図」などもこの仲間であり、・・・むしろ、近世絵画史における主流といってさしつかえないほどである。そしてまた、それら〈主流〉を背後から動かし、推し進めている大きな力が、民衆の貪婪な美的食欲にほかならないことも指摘されてよいだろう。
ここにあげた六人の画家は、そうした〈主流〉の中での前衛として理解されるべきである。異端の少数派としてその特異性のみを強調することは決して私の本意ではない。(p242)
だそうです。日本の主要な画家はみんな奇想の画家なんだ!うおおおお
感想
もちろん大変面白い本だった。以下は、その上で、という話。
まあね、こう言っちゃなんだけど、2025年現在ではさ、ここに挙がってた人たちってみんな、既に有名で人気じゃん。日本美術の教科書の近世の頁を開いたら、狩野派土佐派光琳とかと並んで、必ず太字で名前挙げられてるぞ。その辺のおばちゃんでも若冲のニワトリくらい知ってるぞ?であるからして、おれ的には、あまり「新発見」という感覚はなかった。
だが、この文章が世に出た半世紀以上前の人々にとっては、それはもう大いに「新発見」だったんだろう(それはこの本の記述自体からもうかがえる。)。というか、これらの画家の今日の地位を確立させたのがまさにこの本だったというべきなのであろう。古典としての価値がある。昭和44年夏に書かれたあとがきには「今からでも遅くはない」とある。これはヤスダ砦に籠る全共闘に対する東大総長の言葉で、当時のバズワードだ。文革やパリの革命があって、東大入試がなくなって、三島由紀夫まだ生きてる、そういう時代の本だ、おれのようなキッズにとっちゃもう古典だよこれは。
まあそれはいいんだけどさ。やっぱ、まだまだいるんじゃないか、忘れられてるけど実はすごい画家、というのは。というか、芸術についていうと、忘れられた価値を「思い出す」っていうよりは、プロの評論によって価値が「創られる」側面があるんじゃないかという気もする。われわれ大衆は、池の鯉みたいに与えられたものをパクパク摂取するしかないが、研究者や評論家は、その筆によって、無視されている芸術の価値をいま一度創り出すことができる。今でも、イーガーな研究者や学芸員の方々などが日夜発掘や評価に勤しんでいるのだろう。皆様頑張ってください、なんか展覧会とかやってたら観に行きますんで。