あかりの日記

おっ あっ 生きてえなあ

寺田隆信『物語 中国の歴史』①

 

本書は、中国史(清末まで)の通史を、文明という視点から1冊にまとめたものである。山川の教科書を引っ張り出して、中国史の復習をしていこう。

 

古典の時代

★ 初めに結論を言っておくと、本書で提示された中国の文明とは「儒教」(儒学)である。まずは、周代まで、孔子以前の時代についてみていく。

三皇五帝~殷

国史の建国神話として「三皇五帝」が説かれることがあるが、司馬遷史記は「五帝本紀」から始まる。五帝とは、黄帝顓頊、嚳、堯、舜。中国四千年の歴史は黄帝から始まったということになっている。いずれも人格者で、帝位は禅譲され、天下はよく治まっていたという。

舜が禅譲したから、王位は世襲されるようになり、これが中国史最初の王朝であるである。

夏は17代目桀王に至って人望を失い、湯王に倒された(放伐)。天命を失った王朝が交代するという易姓革命が初めて起こったのだ。

殷朝は、名宰相伊尹が善政をしたり、中期以降に殷(殷墟)に都したりして、繁栄を誇った。しかし、紂王に至って腐敗し、いわゆる酒池肉林の暴政を行うと、西方に起こったの武王に討伐された。

考古学的視点

と、いうのが、史書の語る初期の中国史であるが、19世紀頃には、周以前の王朝の実在性は疑われていた。しかしながら、地下からの発見がこうした見方を変えてきた。

考古学的には、中国には、約70万年ほど前から人類が住み始め(いわゆる北京原人は少し新しい。)、前4000年頃までには新石器時代に入った。仰韶文化の彩陶、竜山文化の黒陶等が有名である。

20世紀に殷墟が発掘され、甲骨文字の刻まれた骨片が多数出土すると、殷朝の実像が明らかになった。

この発見をもとにすると、殷朝は前1600年頃に黄河流域に成立し、氏族集団の都市(邑)の連合体として発展した。いわゆる祭政一致をとり、占卜で神意を聞いて政治的意思決定をしたが、非常に高度な青銅器の武器・祭具等を製作した。

少なくとも殷は地下からの証拠が出てきた。残念ながら夏はまだ確たる証拠が出ていないようだが、人類のあくなきロマンが、いつか何かを発掘するかもしれない。

西周

渭水周辺に起こった周は、文王の代、名宰相太公望*1を得て勢力を伸ばした。その子武王の代に、牧野の戦いで殷を破ってこれを滅ぼし、鎬京に都して王を名乗った。前11世紀頃のこと。

次の成王は幼少だったため、叔父の周公旦が摂政した。周公旦は内乱を治めると、いわゆる封建制を確立した。すなわち、血縁関係を重視する組織原理たる宗法に基づき、一族や功臣を諸侯とし、邑を分封して経営させたのである。

こうした支配制度は一定の安定を実現し、後世から理想の時代とみなされた。孔子は周公旦を聖人と仰ぎ、「周は二代に監み、郁々乎として文なるかな。吾は周に従わん」と述べた。中国の「文明」が周までの時代をいかに捉えていたかを端的に表した言葉だと思われる。

文明形成期

★ 「郁々乎」の時代から動乱の時代に入り、中国人は政治哲学を中心とした思想を極めていく。

春秋戦国時代

前770年、周は異民族に鎬京を占領され、洛陽に遷都した。これ以降の周を東周と呼び、ここから秦による統一がされる前221年まで、中華は長い分裂時代に入る。前半(晋が正式に分裂した前403年とする説などがある。)を史書になぞらえて春秋時代と呼び、それ以降を「戦国策」に由来して戦国時代と呼ぶ。

春秋初期に250ほどあった諸侯の都市国家は、抗争を繰り返して数を減らしていき、周室の権威を戴いて諸侯の連合(会盟)の盟主となり勢力を握った覇者が現れた。「五覇」とも言われ、北の晋、斉、南の楚、呉、越などが挙げられることもある。はじめ、太公望の封国と伝わる斉の桓公管仲を得て勢力を伸ばしたが、その後晋文公が勢力を握った。

しかし、前403年*2晋が内部分裂を起こして韓、魏、趙になると、斉、燕、秦、楚を併せた7大国(七雄)がそれぞれ王を名乗る戦国時代となった。七雄は後述する諸子百家の思想や鉄製武具を取り入れて覇を競った。魏の文侯は法家の李克を、楚は兵家の呉起を登用して改革を行い、これが秦での商鞅(法家)の変法に受け継がれた。秦は移民奨励や土地私有制等の改革で勢力を増し、戦国最強となったが、それぞれ国を執政した四君子(斉の孟嘗君、趙の平原君、魏の信陵君、楚の春申君)はいずれも人材集めに注力し、秦に対抗した。

孔子諸子百家

前551年*3春秋時代の魯という小国に、孔子は生まれた。彼は魯→斉→魯と仕えるが、クーデターで失脚して各国を流浪。思想を説いて回るも理解されず、魯国で私塾を開いて教育に力を入れた*4

孔子の思想とは何か。

孝という独自の概念を生みだし、孝にもとづく家族倫理をつくり、その上に政治理論を組み立てたのが孔子である。(略)

孔子は人間の才能の表現のうちの最も重要な要件として、徳行、言語、政事、文学をあげ、(略)それらの前提となる基礎的徳目として、礼の実践をとりわけ重視した。(略)

このような学問と教養を身に着けた人(君子)によって担われるのが政治であり、より広く文明の継承と創造も同じであるとする観念が、やがて社会的に定着するが、その原型はかくの如く孔子によって提示されたのである。中国における文明のあり方は、孔子がその基盤を確立したといっても過言ではない。(p34~35)

孔子は(略)常識人であって、平凡な常識のなかに真理を見付けようと努力した人であった。(略)神について語ることは稀れで、何よりも人生を直視し、人間いかに生きるべきか、現世に解答を求める姿勢を貫いた。(p36)

とのことである。ん、まあやはりこの本だけだとよくわからないが、いつか入門書でも読んでみよう。この記述からうかがえる孔子思想の特徴をいくつか挙げると、①「良い政治を実現できる人間になるにはどうすればいいか」という方向から人間のあり方を考察した政治道徳であること、②今でいう人文系の教養重視であること、③あんまり形而上学的なテーマを好まず、現実的な人生訓を説いたこと、などだろうか。例えば仏教思想は、「苦しい現世からの脱出」とか「世界の隠れた真の姿の探究」みたいな方向に向かっていったが、中国思想は「現実世界で役に立つ人間になるにはどうすればいいか」という方向を向いている。この辺りの思考の関心が、その後の中国思想を方向付けていくことになる。ということかなあ。

孔子は弟子の教育に力を入れ、弟子の孟子荀子を皮切りに儒学が発展した。さらに、大国の君主等のパトロンを得て、道家老子荘子墨家墨子、法家の商鞅韓非李斯縦横家蘇秦張儀など、多くの学者が学派に分かれ、発展しつつあった斉の臨淄をはじめとする大都市を中心に華々しく議論を戦わせた(諸子百家)。

秦の統一

秦はもともと周の故地である関中の咸陽に本拠地を置いた。戦国最強となった秦に対し、他の六国は蘇秦の合従策や張儀の連衡策で対抗したが、秦にが即位し、法家の李斯を用いて国力を増大させると、統一事業に乗り出し、前221年に統一を成し遂げた。

「皇帝」の時代

★ 皇帝による統一政権により、2000年近く続く中国文明の基本的な形が形成された。その辺りと儒学との関わりも見ていく。

始皇帝

統一を成し遂げた政王は始皇帝号を採用し、封建制を廃止して郡県制をとり、中央が派遣した官吏に全国を統治させた。度量衡、貨幣、漢字、車輪の幅などを統一したほか、大規模な思想統制焚書・坑儒)をした。統一の時代に多様な思想は不要であり、多くの諸子百家はここに滅んだ。蒙恬による匈奴討伐や、戦国時代の長城をつなげた万里の長城の建設、華南、南越の編入などの対外政策も実施した。さらに、阿房宮や驪山陵の建設を行ったが、急激な統一政策と大規模な土木事業は民衆を疲弊させた。

始皇帝死後、末子胡亥が二世皇帝となるが、宦官趙高の言いなりとなり王朝は凋落。陳勝呉広が反乱を起こすと、各地に反秦運動が広がり、その中で項羽劉邦が頭角を現した。

勢力の大きい項羽は反秦軍の実質リーダーとなるが、劉邦が先に関中に入って咸陽を落としてしまう。まだ勝ち目がないと悟った劉邦は、関中に入った項羽の陣中の飲み会から命からがら脱出し(鴻門の会)、関中を落ちる。代わって項羽が関中に入るが、皇帝を殺して略奪を行い、論功行賞も偏っていたため、反発を招く。田舎の漢中を封じられた劉邦だが、好機を得て対項羽の戦いを開始した。当初劣勢だった劉邦軍だが、張良、蕭何などの能臣に恵まれて関中を落とし、さらに国士無双韓信の大活躍もあり、ついに項羽を垓下に追い詰めて勝利。漢(前漢による統一が成った。

…というあたりについての話は、項羽と劉邦、面白いから読め。

しかして、秦朝、15年しかもたなかったけど、外征、苛政、宦官の専横、民衆反乱、滅亡後の分裂と、その後の王朝に共通する事象がてんこ盛りだな。中華王朝のバイオリズムは、一番最初からずっと変わっていないといえるかもしれない。

高祖

前202年、劉邦は皇帝に即位し、高祖と号された。彼は農民出身で、主たる功臣も農民時代の友達という異例の政権である。高祖は国都を咸陽に近い長安に置くと、まず論功行賞を行い、韓信などの功臣には土地を分封して、郡県制と封建制を併せた郡国制を敷いた。高祖は民力回復のために穏健な統治を行ったが、治世の後半は封地の諸王の粛清に明け暮れ、異姓諸王を取り潰して劉氏に代えていった。また、匈奴を攻めるも、冒頓単于率いる軍勢に大敗し、和親策をとった。

高祖没後、外戚の呂氏の専横を退けた漢朝だが、力を蓄えた劉氏諸王と対立し、ついに呉楚七国の乱が勃発するも、鎮圧し、実質的な中央集権制を確立した。

武帝

このような状況で、前141年、武帝が即位し、中華王朝は未曽有の大躍進をとげる。

内政面では、年号の制定等皇帝権力を増大したほか、儒学を漢学化した。董仲舒をして五経(易、書、詩、礼記、春秋)を教授させた。ここに、儒教を修め教養を身に着けた者が皇帝を補佐し、国家と文明を維持する、という方針が政治制度として定着し、儒教国家の体制が確立された。このことは、中国官僚制における文官優位の原則が確認されたともいえる。

国力を蓄えた武帝匈奴に対し積極策に出た。衛青霍去病といった名将の騎兵隊によって匈奴に大勝利をおさめ、これを漠北に追いやると、河西回廊に敦煌などの西域四郡を設置し、タリム盆地までを支配下におさめ、長城も玉門関まで延長した。さらに、南は南越を滅ぼし、東は楽浪などの朝鮮四郡を置いてこれを支配した。その後も匈奴への遠征は繰り返され、蘇武李陵などの悲劇も伝説になっている。

さらに武帝は、月氏と同盟して匈奴を討つため、張騫を西域に派遣した。彼は目的を達することはできなかったが、大宛や烏孫、さらにその西にペルシャやインドといった文明地域があることを発見し、またこれら西方の国の使者を長安に連れ帰った。これにより、西方諸国と漢はお互いを認識するに至り、中央アジアを経由した交易が始まった。シルクロードの基礎を築いたのは張騫ということができる。

武帝の時代、文化面では、司馬遷紀伝体*5による歴史書史記を記載した。範囲は黄帝から武帝まで。この後の正統な史書は全て紀伝体を受け継ぎ、また、東アジアに広く影響を与えた。我が国の日本外史大日本史紀伝体である。

武帝の度重なる外征によって財政が疲弊すると、塩鉄の専売制や禁輸・平準法などの経済統制策でこれをしのいだが、民衆の不満は高まった。武帝は晩年には呪術に傾倒し、それを契機に反乱が起きるなどしたが、前87年に没し、半世紀以上にわたる治世に幕を閉じた。

王莽

武帝死後、朝廷では外戚や宦官が力を持ち、その中で外戚王莽が勢力を拡大する。王莽は8年に、古の帝王に倣い禅譲を受けて帝位につき、と号する王朝を建てた。殷いらい王朝交代は放伐によったが、この先禅譲によって交代するケースも出てくる。

王莽は周を理想とする儒教国家を目指し、土地を国有化する王田制を行ったがすぐに失敗。赤眉軍などの民衆反乱が勃発し、漢室の血を引く劉秀ら豪族も加勢して、昆陽の戦いで劇的な勝利を飾る*6赤眉軍長安を攻略し、王莽を殺害して、新をわずか15年で滅ぼした。

光武帝

新滅亡後、最初は劉玄が更始帝として即位したが、悪政を敷いて赤眉軍に直ちに放逐された。最終的には、25年、劉秀が光武帝として即位し、ここに漢(後漢)が復興された。光武帝は相当な人格者として知られ、史上最良の皇帝として名が挙がることも多い。彼は洛陽に都し、王莽の制度を廃止したほか、行政機構や軍備の縮小、減税などの改革を行う一方、儒教に基づく国家建設(教育や官吏登用等)については王莽を継承した。30年余りの治世の間失策も少なく、王朝は安定した。

光武帝ののち、2世、3世の時代も、皇帝権力は比較的安定する。その中で、司馬遷を継いだ班固紀伝体の「漢書」を儒教主義に基づいて記し、鄭玄らが経典解釈学である訓詁学を始め、官学としての儒学を発展させた。蔡倫による製紙法に加え、天球儀や地震計などが発明され、1世紀のうちに仏教が伝来した。

外交面では、南北に分裂した匈奴のうち南匈奴を服属させ、北匈奴を放逐した*7。西域支配を復活させ、班固の弟班超が派遣された。班超はローマと交渉をもとうと甘英を西方に送り、目的は達しなかったものの、シリアまで到達し多数の朝貢国を得た。2世紀に入ると大秦王安敦使節が海路ベトナムに到着したという。

なお、光武帝は東に浮かぶ小島の領主に漢委奴国王の金印を与えて朝貢させたらしい。

後漢の衰退

しばらく安定していた後漢も、1世紀末、4代皇帝の頃から傾き始める。例によって外戚・宦官が朝廷を牛耳る。他方、前漢以来私有地を拡大した富農が豪族となり、儒学を学んだ知識人(士大夫)として政界に進出して、外戚・宦官と対立した。2世紀後半には知識人層による大規模な国政批判である清議が起こるが、宦官による大弾圧(党錮の禁)を受けた。

こうした状況のもと、2世紀末、なぜかおれたち日本人もよく知っている時代に突入する。

魏晋南北朝

★みんな大好き三国志の頃から、中国は長い分裂の時代に入る。いわゆる魏晋南北朝時代について、文明という視点を踏まえてみてみる。

黄巾の乱三国時代

この時代は説明不要かもしれないが、さくっと流れを追っていこう。

後漢王朝が混迷していた184年、道教系・太平道張角が大規模な農民反乱、黄巾の乱を起こし、鎮圧後も各地の豪族が武装して群雄化。献帝を擁立して政権を握った董卓に対し、有力だった袁紹が諸侯を糾合して対抗すると、董卓は洛陽を焼いて長安に逃亡し、配下の呂布の裏切りで暗殺。次いで力をつけた曹操袁紹官渡の戦いで破り、華北を平定した。曹操は南征軍を起こすが、江南の大領主孫権と、諸葛亮を軍師として自立の機を窺う劉備の連合軍に痛恨の敗北を喫し(赤壁の戦い)、撤退。曹操は志半ばで病死し、長子曹丕禅譲を受けて帝位につき、洛陽に都してを建国。次いで益州に入った劉備成都に都してを、江南の孫権が建業(のちの建康)に都してを建国し、三国時代となった。

魏においては九品中正という官吏登用法を行ったが、家柄の固定化を招き、門閥貴族の力が増大した。土地制度として屯田を敷き、流民の定着化を図った。

曹操は宦官の子であったが、儒学の教養をよく身に着けた文人で、詩の世界にも大いに功績を残しており、悪役という感じではない。諸葛亮は蜀の国政を一手に担った名宰相で、高潔な人物だったとされるが、冷静に見ると軍事的な天才だったかは微妙である。この辺りが、陳寿の正史に基づく正当な評価らしい。

ちょっとだけ雑談をすると、著者はこのように、演義での過剰な曹操sage、孔明ageの風潮に疑問を呈している。本書は97年発行のものだが、この当時は三国志と言えば吉川・横山であり、正史はまだよく知られていなかったのだろう。だが、それから30年経った現代には、蒼天航路もスリキンもあるからね。正史通りのイメージかは措くとしても、曹操の再評価などは割と進んでいるようにも思われる。スリキンは、よいぞ、よいぞ。雑談終わり。

 

西晋の統一

諸葛亮は魏に北伐を敢行するが、将軍司馬懿を倒せず、五丈原の陣営で没する。司馬一族は無能な皇帝に代わって魏の実権を握り、懿の子司馬昭は蜀を滅ぼし、次いで息子の司馬炎が魏から禅譲を受け、晋(西晋を建国。さらに孫権末期からボロボロだった呉も滅ぼし、280年に中華を統一した。

武帝司馬炎)は魏に倣った占田課田制をしき、九品中正も受け継いだ。引き続き門閥貴族の力が増していった。また、武帝は一族に封土を与え、王号も名乗らせた。一門を信頼していたのだろうが、案の定、王国は独立国化した。

武帝の死後、外戚や諸王の争いが激化し、骨肉相食む八王の乱が起きた。乱は鎮圧されたが、諸王国はこれの鎮圧のために五胡匈奴、羯、鮮卑、氐、羌)を積極的に導入し、諸民族の活動を喚起した。

五胡十六国北朝

帝が代わると改めて大乱が起き(永嘉の乱)、匈奴劉淵が建てた漢が洛陽・長安を占領して、西晋は統一から36年で滅亡した。中原は五胡により多数の政権が興亡する制御不能状態に陥り(五胡十六国時代)、晋室の司馬睿は317年、建康に逃れて東晋を建てた。

北では漢から分裂した羯の石勒が建てた後趙華北の大半を得て、漢人の尊重や仏教の導入を進めたが短命で滅亡。暫くして今度は氐の前秦苻堅華北を統一し、東晋に侵攻するも、淝水の戦いで大敗。苻堅は羌族に捕殺され、再び華北は分裂状態になった。*8

その中で、鮮卑拓跋氏北魏が勢力を伸ばし、5世紀前半、武帝華北を統一した。彼の時代までに、鮮卑族は定住・農耕化を進めた。彼は道教寇謙之を重用して仏教を弾圧したが、既に定着しつつあった仏教は彼の死後勢力を取り戻し、雲崗・竜門の石窟が造られた。

孝文帝均田制、三長制を敷いて農耕民社会の安定に努めたほか、北方の大同から洛陽に遷都し、鮮卑の習俗・言語を禁止するなど積極的な華化政策を行った。

孝文帝没後には国内の不満が噴出する。南遷した鮮卑に代わってモンゴル高原で力を得た柔然に対抗するため、北方に配置された軍隊(鎮)は、冷遇による窮乏に耐え兼ね、武川鎮を中心に反乱を起こした(六鎮の乱)。これを鎮圧した爾朱栄(やはり武川鎮)と朝廷の対立を経て、6世紀前半に北魏は東西に分裂した。6世紀後半、西魏は武川鎮ルーツの宇文覚の北周に代わり、これが東魏に代わった北斉を倒して華北を統一するが、間もなく同じく武川鎮出身の楊堅禅譲を受け、文帝として即位した。

上に挙げた以外の北朝文化と言えば仏教だ。仏図澄鳩摩羅什が仏典の翻訳に努め、法顕は天竺を訪れて仏国記を記した。西域の敦煌では、これより千年の時をかけ、莫高窟などに塑像や絵画が残されていった。

六朝

江南では建康に都して漢族の5王朝が相次いで起こり、孫呉と合わせ六朝と呼ばれる。東晋華北から門閥貴族を招いて一応安定し、苻堅も撃退して暫く存続するが、移住貴族と土着豪族等との対立を調整できず、反乱が多発。420年、軍閥劉裕禅譲を受けて宋を建てた。宋は名家の力を抑えようとしたが、やがて熾烈な政争を招き衰退した。なお、倭の五王は宋以降の南朝に多数回朝貢している。

衰退した宋室から、やはり軍閥出身の蕭道成が禅譲を受けて斉を建てるも、血みどろの政争が絶えず、502年、蕭衍禅譲を受け、武帝として即位した。彼もまた軍人だが、教養も高く、仏教に深く帰依して皇帝菩薩とも呼ばれた。皇太子の昭明太子は「文選」に四六駢儷体の美文を残し、学問も発展した。しかし、武帝末期の6世紀半ば、格差による社会不安等を背景に将軍侯景*9が反乱を起こす。彼も武川鎮出身で爾朱栄の元部下であった(みんな武川鎮だ。)。

この乱を契機に、将軍陳覇先が帝位を奪い、陳を建てたが、内乱で疲弊した南朝は隋の侵攻に抗しきれず滅亡。589年、中国はようやく統一を回復した。

南朝は絶え間ない抗争の時代だったが、開発が進んだ江南、建康の経済力を背景に、漢族の文化をよく継承・発展させた。士大夫は阮籍ら「竹林の七賢」をはじめとして清談にふけり、囲碁や賭博にいそしんだ。陶淵明や謝霊運の詩作、顧愷之の絵画、王羲之の書をはじめ、文化が大いに発展した。

南朝文化については、もう一つ特筆すべき点がある。なかなか興味深いので、原文を引用しておく。

南朝の諸王朝もすべて軍事国家であって、武力こそ唯一の価値と認められていたにもかかわらず、(略)少なくとも文明の形成については、文人貴族の実力を無視できなかった(p124)

ほとんど武力をもたない彼らが、(略)生命が常に風前の灯であるような乱世を、(略)教養ある知識人としての貴族の立場を守り抜き、王朝の興亡とは関係なく超然と存続し、政治を含めた文明の担当者でありつづけた(p124-125)

のだそうだ。戦乱の時代でも文化の担い手は文人貴族層であった。なるほど確かに、これは中国文明のカラーをよく表しているように思われる。武士が経済・文化の面でも貴族階級に取って代わってしまったわが国とは、かなり対照的である。

隋唐帝国の時代

★長い動乱を治めた統一王朝は、東アジア全域に影響を及ぼす巨大帝国として華開く。

隋による統一

統一を成し遂げた文帝は、北朝伝来の税制、均田制や徴兵制度たる府兵制などを取り入れる一方、階級を固定化していた曹魏いらいの九品中正を廃止し、科挙を創始した。これこそ20世紀まで存続する世界無比の受験地獄である。

科挙制度は、隋唐の当初はいくつかの科目があり、儒教経典への精通度をはかる明経科や、詩や作文の能力をみる進士科のほか、法律の能力を図る明法科や理数系の能力を図る明算科もあった。しかし、時代の流れとともに明法科や明算科は廃止され、宋代には進士一本になってしまった。

明法と明算は科目の廃止とともに、世人の関心から外れ、これを学ぶ者は段々少なくなってしまった。こうした科挙の制度的変遷は、文学の際を特別扱いする気運を生じ、中国文明の在り方に大きな与える一方、明法と明算2科の廃止は、この分野に才能をもつ有為の人材を文明の形成から排除する結果を招き、後日、国家と民族の運命に致命的損失をもたらすことになる。(p135-136、下線はあかりが付した。)

これは非常に興味深い。倭国人のおれから見るに、周辺国にとっての中華帝国とは、その人文的な文化レベルもそうだが、どちらかというと、高度な法律(律令)と、四大発明をはじめとする科学技術、これらの点でこそ、見習うべき大国だったように思われる。それなのに、中国文明は、このそれぞれについて、あるところから発展を止めてしまい、周辺国にとっても学ぶところがあんまりなくなる。そして、ルネサンスを経た西洋文明にじわじわ引き離され、19世紀には水をあけられてしまう。

そこのところと、科挙の試験科目とに関係がある、というのは、結構目から鱗の説だった。(まあ、そもそも民族的関心がなかったから試験科目から消えたかもしれないので、どっちが原因でどっちが結果か、というのは直ちには言えないところがあるが。)

文帝の時代、中国の国力はかなり回復した。しかし、文帝を殺して帝位を奪った煬帝は、国富を浪費したとされる。すなわち、華北と江南を結ぶ大運河の開削と、度重なる高句麗への遠征である。運河は長期的に見れば中国の経済発展に寄与したが、民力は疲弊し、遠征の失敗が追い打ちをかけた。そんな中、またもや武川鎮軍閥出身の李淵が挙兵し、長安を落として煬帝を殺害、傀儡として立てた幼い帝からの禅譲を演出して即位し(高祖)、618年にを建国した。

太宗と武則天

高祖は626年に息子の李世民に退位させられる(玄武門の変)。太宗として即位した李世民の治世は貞観の治と称えられる太平時代だった。隋に倣って均田制、府兵制、租調庸制をしき、律令に基づいて皇帝の下に三省六部などを設置し、整然とした統治機構を整備した。軍事面では、東突厥を攻めて服属させた。

律令について。科挙のところでも触れたが、中華帝国では「近代科学が伸びなかった」とよく言われるが、おれ的には、公法学の分野にこそ、もう少し伸びしろがあったんじゃないかという気がする。6、7世紀の時点でかなり素晴らしい律令があったのだ。科挙官僚が、その思考のリソースの何割かでも、律令の研究に割いていれば、例えば「普遍的な天帝の法で皇帝権力を規律する」みたいな方向に展開する余地も、まあまああったのではないか。*10まあ、今となっては全てたらればの話だが…

閑話休題。太宗没後、病弱の高宗のもと、皇后の武則天が実権を握った。彼女は政治的手腕に優れ、690年には自らが帝位について国号を周とした。女性による執政を快く思わない儒教的価値観を前提に、次の韋后と併せて「武韋の禍」といわれることもあったが、たしかに敵対勢力には厳しく対応したものの、科挙官僚を積極的に登用するなど、普通に善政を敷いたとの評価が近年は主流のようである。実質半世紀にわたる治世に農民反乱がほぼないこともこれを裏付けている。

この時代、東は百済高句麗を破り、西は西域に進出して、最大版図を実現した。占領地には都護府を置き、現地民に間接統治をさせる羈縻政策をとったが、都護府はやがて節度使に置き換わり、次第に軍閥化していった。

隋~唐前期の文化として、玄奘は陸路、義浄は海路で天竺に行き、多数の仏典を持ち帰った。ただ翻訳するだけでなく、天台大師の天台宗、賢首大師の華厳宗、不空・恵果の中国密教などが発展し、次いで中国特有の浄土教や禅の萌芽も見られた。

儒学については、科挙の開始に伴い訓詁学が重視され、孔穎達の「五経正義」などが記された。

玄宗安史の乱

武則天の後、政権を狙った韋后などの排除を経て、玄宗が即位し、唐は開元の治といわれる最盛期を迎えた(この時期を盛唐ともいう。)。

農業生産が回復して人口は増え、貨幣経済が復活した。100万都市の長安にはシルクロードを通って西方の商人が多数往来し、祆教、景教マニ教、回教が伝来して、国際色豊かな雰囲気が漂っていた。科挙で詩作が重視されたことと関連し、李白杜甫王維白居易といった詩人が活躍したほか、韓愈柳宗元の古文復興、呉道玄山水画顔真卿の書などの文化が花開いた。

しかし、玄宗後期になると、格差はいよいよ拡大し、地主の大土地所有に伴う農地の不足により均田制が緩み、府兵制も崩れて募兵制(傭兵を利用すること)に代わった。辺境防衛のための節度使が力をつけ、藩鎮という地方軍閥になった。

楊貴妃に耽溺する玄宗に対する反発は、755年、節度使安禄山史思明の反乱(安史の乱)を招き、唐軍は北方のウイグルの援軍を得て8年後にようやくこれを鎮圧した。この乱により華北は荒れ、地方軍閥はいよいよ勢力を増し、盛唐期は終焉を迎えた。

唐の滅亡

安史の乱後の財政危機は租調庸制では賄えず、780年に両税法が採用された。人頭ではなく現実に所有する土地に応じて貨幣で課税する方法であり、格差の存在を政府が公式に認めたことになる。また、塩の専売も強化され、次いで茶や酒も専売とされ、密売人は厳しく取り締まられた。これらの変化は、武川鎮軍閥につらなる武力国家だった唐が、両税法による徴税に依存する財政国家に変質したことを意味する。

王朝が揺らぐと、漢末のような官僚と宦官との党争も激化した。重税にあえぐ民衆の反感は高まり、9世紀後半に塩の密売人である黄巣の乱が起きて、一時は長安を占領した。節度使の独眼竜・李克用が乱を平定したが、反乱軍から投降した同じく節度使朱全忠が彼を打ち破り、長安を占領して宦官を皆殺しにした。彼は唐から禅譲を受け、運河と黄河の交錯点である開封に都して後梁を建てた。ここに907年、唐は滅亡した。

五代十国

この後中国は五代十国と呼ばれる時代に入る。中原には50年余の間に短命の5王朝(五代)が興亡するが、支配領域は中原に限られ、その外側には節度使の独立政権(十国)が興った。いずれも軍閥支配の武人政治の時代であった。

唐末から五代は、東アジア諸民族が自立する時代でもある。五代の晋を建国した石敬瑭は抗争の過程で北の契丹に支援を受け、見返りに燕雲十六州を奪われた。漢人王朝は相当の期間この土地を取り戻せなかった。

五代の周の世宗は名君と謳われ、中華統一を目指したが、志半ばで倒れ、周の将軍であった趙匡胤が軍に推されて太祖として帝位につき、を建国した。

唐末以降の混乱の中で、従来の門閥貴族は没落していき、新興の地主層(形勢戸)が小作人佃戸)を使った農業を拡大して勢力を伸ばしていった。

 

 

*1:実在があやしいというのは有名な話だ。

*2:分裂は前453年で、周室がこれを承認したのが前403年らしい。

*3:ちなみに、ブッダとほぼ活動時期がかぶっている。ソクラテス孔子ブッダが亡くなった直後に生まれる。よく言われているが、世界史的に、その後の文明の基礎となる思想が生まれ始めた時期だったといえる。

*4:官僚と在野との往来、各地の旅行・遊説、私塾の開設。この辺りを読んでいて思ったが、松陰先生を筆頭とする幕末の文化人は、儒学の教養があったから、おそらく意識的に、このようなスタイルでの活動をしたのではないか。

*5:本紀、列伝等、人物ごとに記載された歴史書

*6:新軍100万人を劉秀が3000人で倒したらしい。盛り過ぎだろ(笑)

*7:さらに東西に分裂し、西匈奴がフンの名で東欧に侵入し、ゲルマン人の大移動を引き起こした。

*8:高校の授業だと鮮卑くらいしか出てこなかったけど、こうしてみると、五胡それぞれに見せ場があったんだな。

*9:「宇宙大将軍」の二つ名で知っている人も多いだろう。

*10:おれは、近代行政法学における「行政行為の法的統制」の議論というのは、必ずしも社会契約説やら人権思想やらを前提にしなくても、「政治は合理的に行われるべき」という価値観の下に、「国家の統治機構を法で形作る」という思考を進めていきさえすれば、おのずと辿り着けるような気がするんだよな。特に、中国文明では、徳による政治とか、易姓革命・陰陽五行説とか、「皇帝権力も無謬ではなく、これを縛るなにものかがある」という価値観自体は肯定していたわけじゃん。良い政治を追求し続けた中国思想にこそ、(民主主義とか三権分立とかは無理でも、)行政法学を生み出してほしかった。

松原諏方神社の野ざらしの鐘

長野県南佐久郡小海町。

戦国時代、武田軍はこの辺りを通って信濃に侵攻を繰り返した。

ここにある松原湖のほとりに、諏方神社という神社がある。

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祭神は諏訪神。

境内に、「野ざらしの鐘」という重要文化財がある。

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鎌倉期に造られた長野県最古の在銘梵鐘とのこと。もともと別のところにあったが、戦国時代に侵入した武田軍(信玄のひいおじいちゃん)により略奪され、この神社に寄進されたらしい。

後代に地域で数度の火災があり、この鐘のたたりということにされ、野ざらしにされていたので、この名で呼ばれている。現在は重文なので、さすがに屋根がついている。

諏訪神の信仰が篤かった信玄も、この神社に何度も祈願文を送ったようだ。

 

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松原湖は鎌倉期の御家人畠山重忠ともゆかりがある。小栗旬と殴り合いの喧嘩をしたことで有名な人物だよな。うん。

キャプションいわく、

頼朝が病になったとき、夢で竜の肝を飲めとのお告げを聞いて、重忠に探しに行かせた。重忠が松原湖に来たとき、突然重忠の母が現れ、「入水して大蛇に化けるから、討ち取って肝を主君に送れ」と言い、本当に入水して蛇に化けて出た。重忠が母の言うとおりにすると、頼朝の病気はたちまち治ったので、頼朝は、湖畔にて重忠の母を供養する塔を建てた。

とのことである。ほーん。

関西3国宝展行脚②

 

奈良国立博物館に到着、国宝展2つ目。あんまり移動していないが、仏像をじっくり観ているので、かなりきついスケジュールだ。

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土曜でそれなりに観光客が多かったが、これがもう素晴らしい展覧会であった。

入場するや、正面に法隆寺百済観音が現れる。細身、長身、衆生を見下ろす伏し目がちなアルカイックスマイル。これこそ救済の仏像だ。「百済観音」の名付け親は和辻哲郎らしいが、実際には作者も制作場所も不明らしい。もっとも、幾何学的な衣などはたしかに飛鳥仏だ。光背の付け根には山形の模様があり、須弥山を表しているらしい。パート①でも書いたけど、展覧会の仏像は後ろから見るに限るぜ。

脇侍に法隆寺四天王立像広目天多聞天がいる。これも飛鳥仏。おれらの想像する四天王は(例えば戒壇院の奴らみたいな)武神だが、法隆寺のものは文官の装いで、表情もやさしい。踏まれている悪鬼もどことなくコミカルだ。

中の展示エリアにも国宝仏がずらり。法隆寺地蔵菩薩立像は9世紀の作、神護寺薬師如来に似ている気がした(要調査)。東大寺弥勒仏坐像も9世紀作、前に突き出た頭が特徴的。「試みの大仏」(大仏の試作)と言われているそうだが、時代合わなくね?(要調査)東大寺俊乗堂の重源上人坐像は、鎌倉期の東大寺再建に献身した高僧の像で、運慶作の説があるが、生前に制作されたこともありきわめて写実的である。

鑑真以降の奈良時代の木彫像もたくさん。唐招提寺伝獅子吼菩薩・薬師如来元興寺薬師如来など。いずれも一木造り。腕がないなど、過酷な歴史に耐えてきたことがうかがえる。明治期は廃仏毀釈を逃れて奈良博で保管されていたらしい。奈良博にはそういう役割があったんだね。

釈迦如来像の典型として、中国請来の清凉寺釈迦如来立像(少し詳しく山本勉『日本仏像史講義』② - あかりの日記で取り上げた。)のほか、白鳳仏たる深大寺釈迦如来倚像と、9世紀の室生寺釈迦如来坐像が鎮座していた。全く異なる3種のお釈迦様のイメージ。

次のフロアに行くと、平安時代初期の唐風檀像である宝菩提院菩薩半跏像に続いて、平安時代末期の円成寺大日如来坐像がいた!運慶の初期の作品で、11か月かけて制作した力作。引き締まった体躯や胸を張って緊張感のある姿勢は、当時の標準だった定朝様式*1と一線を画するといわれる。おれの特に好きな仏像の1つだ。

聖武帝の金光明経や最澄の久隔帖などの書写エリアや、古墳時代百済からの法具、七支刀を過ぎ、最後のフロアにいたのは中宮寺菩薩半跏像。黒く輝く白鳳仏は限りなく穏やかな表情であり、和辻曰く「至純」の美しさである。

展示内容もさることながら、ケースに入った展示物のキャプションが裏側からも見られるようになっているなど、展示方法にも配慮がみられ、とても完成度の高い展覧会だった。

 

 

3日目。大阪に移動して国宝展3つめ。天王寺大阪市立美術館の日本国宝展だ。

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日曜の大阪は大盛況であり、入場制限もしていたのに、中もごった返していた。

第2会場には、大阪ゆかりの仏像として、獅子窟寺薬師如来坐像道明寺十一面観音立像がいた。

前者は9世紀末頃作で、承和年間の作品より穏やかな表情や、美しい翻波式衣文*2が特徴。後者は9世紀前半の作で、カヤ材の檀像*3であり、菅原道真公が彫ったそうだ(ほんとか?)。*4

第3会場には、薬師寺聖観音菩薩立像がいた!天平*5銅像の最高傑作の一つだ。暗めの展示会場に黒光りが映える。薬師寺東堂の水煙も展示されていた。次に奈良を訪れたら、是非とも、東塔や薬師三尊を拝みたいぞ。

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仏像と同形式だが和の神の装いの、東寺女神坐像(9世紀、カヤ材の一木造)も印象的だった。

次のエリアには大倉集古館普賢菩薩騎象像がいた。12世紀前半の円派 *6作品で、定朝様を踏襲しつつ、台座などに残る模様から、鮮やかな彩色の跡がうかがえた。生で観ると想像よりデカかったぜ。

また、唐招提寺鑑真和上坐像もいた。我が国最古の肖像らしく、急にリアリティが上がってちょっとびびった。

その他、狩野派の屏風、馬具や刀剣、火焔土器など、多様な国宝が揃っていた。展示期間の関係で雪舟や金印を観られなかったのが残念だが、大満足であった。

 

 

最後、大阪中之島美術館で開催中だった上村松園展(※既に終了。)に行った。

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あまりゆっくり観られなかったが、同行者が松園の専門家なので、レクチャーを受けながら鑑賞できた。明治〜昭和の日本画界で、当時としては珍しい女性画家として、またシングルマザーをやりながら、気品ある女性を美人画に描いたそうだ。

美人画というと、女性の艶めかしさを強調して描くイメージがあるが、松園は、既婚者(四季美人図)やお母さん(母子)なども含めて、女性の気品や清澄さを描いたようだ。服装や髪型を凝ったり、年齢を服装の色で表現したりするなど、女性ならではの視点(という言い方が適切か分からないが)もみられるようである。松園自身より少し前の明治初期の風習を描いたり、古典(花がたみ、序の舞等)を描いたりするといった作風も特徴的だ。

 おれ、なんというか、フェミニンを強調した創作物がちょっとニガ手なんだよな。いや、もちろん家ではエロ漫画読んだりするけどさ、例えば、駅とか街中とかに、乳のでかい女の子の萌え絵がどーんと出てると、何かいたたまれないというか、目のやり場に困るというか*7。しかるに、松園の絵はジッと観ていてもそういういたたまれなさをあまり感じなかった。それは、単に美術品だからかもしれんけど、やはり、作風の影響もあるのかなと思う。エロくない。それでいて、美しい女性の描き方。とても心地よく鑑賞できました。

それから、松園氏、その経歴や作風から、ジェンダー論的な視点からもかなり語れそうな人物だと思った。まあ、その辺はネットに書くと色々あれなので、心の中で検討することにしよう。

 

 

なかなか過酷なスケジュールだったが、学びの多い旅行だった。仏像をはじめとして、美術鑑賞への関心がとても高まった。こういうのでいいんだよ。

3国宝展はいずれも6/15まで、まだ間に合う。お前らも急げ。

一緒に行ってくれた方、ありがとうございました。

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(左から、円成寺大日如来坐像、法隆寺百済観音、中宮寺菩薩半跏像、大倉集古館普賢菩薩騎象像)

 

 

*1:山本勉『日本仏像史講義』② - あかりの日記

*2:大波と小波が交互になっている衣紋。

*3:山本勉『日本仏像史講義』② - あかりの日記の注1参照

*4:なお、『日本仏像史』p50「伝試みの観音」とは別物。道明寺には文化財たる十一面観音像が2体いるんだな。

*5:山本勉『日本仏像史講義』① - あかりの日記でも述べたが、白鳳仏説も有力。

*6:山本勉『日本仏像史講義』② - あかりの日記

*7:ゾーニングとか表現規制とかの話をしたいわけではないので、念の為。

関西3国宝展行脚①

 

5月某日(金)。有給を取り京都へ。万博にかこつけて開催されている、関西3国宝展の行脚に向かう(※万博そのものには行きません。)。

有給、いつぶりだろう。ポチメゎ労務管理されない奴隷なので、40日ほぼ丸々あまってるゾ。おっ、あっ、くるしいめう、

 

京都国立博物館。豊臣家ゆかりの方広寺の跡地にある。国家安康、君臣豊楽。

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 平日の昼間っからジジババでごった返していた。展示数が約200と大ボリュームであり、かなり時間がかかったぜ。

目玉の展示品は、宗達風神雷神図屏風北斎富嶽三十六景風神雷神のキャプションには、「『琳派』なる概念は近代に創られた」みたいなことが書いてあったような気がする。興味深い。西洋美術のバロックロココとかに対応するような系譜を、こういう屏風絵とかに見出そうとしたってことかね。知らんけど。

国宝仏としては、安祥寺五智如来坐像がいた。9世紀後半の木像、いわゆる承和様式*1の作品だ。五智如来とは、金剛界曼荼羅*2に現れる如来。真ん中が智拳印を結んだ金剛界大日如来。静謐、厳格、密教風。表情等は神護寺五大虚空蔵菩薩等にも通ずるものがある。

国宝ではないが、宝誌和尚(重文)や、范道生の羅睺羅尊者(撮影可)がいた。范道生は中国人の黄檗僧。黄檗宗は仏像も独自の様式を持っており、黄檗*3などと言うのだそうだ。

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羅睺羅尊者、髪の毛が生えてるんだぜ。展覧会の仏像の醍醐味は、後ろから観ることだ。寺にいるやつは前からしか観れないものも多いからな。

他のものでいうと、仏画が多かった。国宝だと、十二天像、六道絵など。展示期間の関係で雪舟が見られなかったのは残念だったな。

 

時間が余ったので東寺を観光。

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大師堂の大師像・不動明王像(国宝)は見られなかったが、国宝・五重塔の中を見学できた。

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堂内の心柱の周りには4体の如来像がある。心柱を大日如来とする五智如来ということなのだろう。

講堂の立体曼荼羅別当空海指揮のもとに作成された仏像群で、承和様式の代表作。五智如来、五菩薩、五大明王に、四天王と梵天帝釈天の合計21体が、スキのないマンダラを構成する。五智如来以外の16体は全て国宝で、うち15体は創建当時の姿をとどめる。すばらしく静謐な密教空間だ。

宝物館の千手観音像・国宝兜跋毘沙門天や、国宝十二天屏風も鑑賞。毘沙門天は異国情緒あり。十二天って結構ポピュラーな画題なんだな。有名な両界曼荼羅は公開されていなかった。

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こういう解釈でいいのか?まあいいか。

おん、あぼきゃ、べいろしゃのう、まかぼだら、まに、はんどま、じんばら、はらばりたや、うん。四国お遍路で数百回唱えたのでよく覚えている。密教寺院に行くと、おれは四国や高野山を思い出す。また行きたいものだ。

 

2日目(土)。奈良に移動。雨の奈良公園を通って東大寺へ。

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南大門・金剛力士像。こちらも参照*4。実物を観ると、門のワクに対しての造形のコンセプトの違いがよくわかる。

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大仏殿の前には、創建当時の八角燈篭(国宝)が残り、その表面には音声菩薩が彫られている。大仏殿は、平安末と戦国期の2回焼けているが、この精巧な彫刻が残ったのは素晴らしいことだ。

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大仏殿に鎮座する大仏は江戸時代再建だが、国宝である。創建時の姿が残る台座には、大仏のモチーフたる華厳経の蓮華蔵世界が描かれる*5虚空蔵菩薩如意輪観音(いずれも重文)がわきを固める。

大仏のふもとの台座のレプリカの前で、同行者に、「蓮華蔵世界ってはね(ニチャア」とウンチクを垂れていたら、外人のオバハンにどついて押しのけられた。まあ邪魔なところにいて申し訳ないんだけど、どいてほしいなら口で言えよ(怒)

階段を上ると法華堂の諸像がある。不空羂索観音と、金剛力士梵天帝釈天、四天王像は、いずれも8世紀半ばの脱活乾漆像であり、国宝である。不空羂索観音は複雑な像様を見事にまとめた抜群の完成度だ。合掌する掌の間には水晶?が挟まっている(意味合いについてはいつか調べたい。)。光背が若干低いが、後世に作り直されたもののようだ。観音の奥には、同じく国宝の塑像・執金剛神がいるが、秘仏であり、見られなかった。

続いても国宝・戒壇堂の四天王像を拝観。これも8世紀の塑像であり、もともとは、後述する伝日光・月光と共に、法華堂の不空羂索観音の脇侍だったらしい。神聖なる戒壇院を憤怒の形相で守るが、よくみると広目天多聞天の表情はかなり写実的。わずかに残る着彩が往時の色鮮やかな姿をうかがわせる。おれもここで受戒してえなあ。

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東大寺ミュージアムでは伝日光・月光菩薩立像を拝観。こちらも国宝、天平塑像の傑作(国宝ありスギィ)。木像の千手観音像(重文)の迫力も立派であった。なぜこれ国宝じゃないんだろうか。

 

長くなってきたのでいったんここで切る。

 

山本勉『日本仏像史講義』③

 

③では鎌倉時代以降を見ていく。

鎌倉時代前期

運慶の御家人造像

1180年の兵火の直後に始まった南都復興は、まず大仏、次いで興福寺の主要堂宇から始まった。これらに慶派仏師が尽力したが、この頃の仏像はあんま残っていない。なお、興福寺東金堂の本尊は、再建ではなく、興福寺僧兵が飛鳥山田寺から奪取した像で代用した(これが現在の興福寺仏頭。パート①参照のこと。)。

興福寺で一仕事終えた運慶は、鎌倉に行き、幕府御家人の造像を担当する*1。鎌倉殿の13人で出てきた名前が次々と登場するぞ。

まずは初代執権・北条時政建立の成就院の諸尊を造る。阿弥陀如来坐像、毘沙門天立像など5体が現存し、印相や着衣などに古典の様式が残る。続いて、侍所別当和田義盛常楽寺阿弥陀三尊等の諸尊を、さらには、宿老足利義兼の依頼で、真如苑大日如来坐像を、それぞれ制作する。

定朝風に比べると力強く男性的で、いかにも坂東武者が好みそうな造形だ。定朝風も運慶風も、パトロンの好みが色濃く出て面白いね。

(ちなみに、真如苑大日如来坐像は東京は半蔵門ミュージアムで公開されている。常設展に加えて、企画展や仏教についてのショートムービー等、なかなか展示が充実していて、おれのような仏教マニアのもの好きには結構おすすめだ。)

康慶の南都復興

そのころ、南都では康慶工房が興福寺南円堂の復興に着手していた。南円堂不空羂索観音菩薩坐像は、焼失前の厚い崇敬を受けていた姿をよく再現できているようであり、古典学習の成果が表れている。法相六祖坐像や、今は中金堂にある四天王像もこの時期に復興された南円堂の像である。

興福寺は、焼き討ちに遭った古仏も多いけど、慶派の全盛期(かつ藤原氏もまだ力が残ってた時代)に復興したから、名作が多く残っていて、国宝も多いな。

慶派は東大寺大仏殿の大仏以外の諸尊も復興する。もっともこれらは後述の近世の焼き討ちにより焼失した。

この間の康慶工房では快慶が活躍した。彼のネームド作品は多く、いくつか紹介する。ボストン美術館弥勒菩薩立像円成寺大日如来像(パート②参照)に似ている。兵庫は浄土寺浄土堂阿弥陀三尊像も有名である。金剛峯寺四天王像は、東大寺大仏殿の像のひな型となった可能性があるらしい。

鎌倉彫刻の完成

東国から畿内に戻った運慶は、頼朝の帰依した文覚の依頼で、東寺、神護寺の修理に携わる。また、金剛峯寺八大童子立像を造営する。さらには、鎌倉アンチの摂政近衛基通の依頼で白檀普賢菩薩像を造る。御家人、貴族、寺院と、幅広く仕事を受けていたことがわかる。

そして、運慶・快慶を含む康慶工房が満を持して制作したのが、言わずと知れた東大寺南大門金剛力士である。この本の記述をそのまま引用しておこう。

阿形は門の限られた空間のなかに自然におさまり、細部の造形もわかりやすく整理されているが、吽形は細部にこだわらず、限られた空間に抵抗するような、やや無理な姿勢によって立体感に富む迫力を生んでいる。前者には快慶の作風を、後者には運慶の作風をみるのが自然である。(p150)

造仏界の頂点に立った運慶が次に担当したのが興福寺北円堂の諸尊である。中尊弥勒仏、脇侍法苑林・大妙相菩薩、四天王、無著・世親の二羅漢の合計9体を造り、弥勒物と二羅漢は現存する。古典に準拠しつつ運慶独特の緊張感のある作風が特徴である。今年トウハクに来るようなので(特別展「運慶 祈りの空間―興福寺北円堂」:祈り 未来へ ~興福寺五重塔 令和大修理~)、ぜひ観に行かねば。

その後は、東大寺俊乗堂の俊乗上人坐像も運慶制作と伝わる。晩年の肖像を映した写実的作品である。

運慶工房の者の他の作品としては、快慶の東大寺勧進所僧形八幡神坐像や、興福寺再興に名が残る定慶(後述する肥後定慶とは別人。)の興福寺東金堂維摩居士坐像などが有名である。

運慶は1223年に亡くなり、美術史ではここまでを鎌倉時代前期とする。これ以降も、慶派工房の活動は続いていく。

 

鎌倉時代中期

運慶・快慶の二代目

運慶の長男湛慶が慶派仏師を率いて活動を継続する。高知・雪蹊寺*2毘沙門天三尊像などを制作。代表作は蓮華王院千手観音菩薩坐像である。

運慶の四男康勝は、東寺西院大師堂弘法大師坐像を造り、これは以降量産される弘法大師像の原型となった。ほかにこの時期の慶派仏師として肥後定慶がおり、鞍馬寺聖観音菩薩立像などを制作した。快慶の弟子の行快なども知られる。

 

鎌倉中期と宋風

鎌倉中期でも、京都周辺では、貴族等の支持を得た院派・円派の勢力はいまだ健在であった。この時期の京都には入宋僧がもたらした宋風の伽藍が少なからずあったという。各派の仏師は宋風を取り込んで造像していくことになった。

鎌倉においては、高徳院阿弥陀如来坐像、いわゆる鎌倉大仏が建立された。極端な猫背の体形などから、当時の宋風の影響が強くうかがえるらしい。この時代の鎌倉は慶派仏師の影響が強かった。

 

蓮華王院本堂の再興

13世紀の後半に、後嵯峨院の発願で蓮華王院本堂の再興がされた。前述のとおり当初は湛慶が大仏師を担ったが、最終的には円・院派の参加が多かったようだ。最終的には本堂の千体千手観音菩薩の再興がなった。

美術史では、本堂の再興がなった13世紀後半をもって、鎌倉時代中期の終わりとするらしい。これ以降、王朝文化圏による大規模な仏像制作は行われず、日本の仏像の栄光の時代はここで幕を閉じるらしい。

 

その後の時代

鎌倉時代後期から、最大のパトロンである朝廷・院政の衰退に伴って、日本の仏像制作はだんだんと勢いを失っていく。各時代をかいつまんでみていく。

鎌倉時代後期

この時期の仏像制作は、概念的な造形が増え、一部では中国風への傾斜がいよいよ強まったそうだ。

慶派では、康円の東京国立博物館文殊五尊像や、善春の西大寺興正菩薩坐像などが知られる。

中央のパトロンが没落した院派や円派も地方進出をしたようで、地方にも造像の例がある。

南北朝時代

鎌倉以来の伝統的な諸派の活動が未だ盛んであった。

鎌倉幕府滅亡後、新たな権力者たる足利幕府といち早く結びついたのは院派であった。院吉方広寺釈迦三尊像を制作した。癖の強い面貌、箱を重ねたような体形、曲線を多用する衣紋など、独特の形式美だが、どことなく中国風の感がある。

慶派は七条仏所と呼ばれ、運慶様に従った造像を続けていたようである。

南都では工房(仏所)が細かく分かれる傾向が表れ、その中で椿井(つばい)仏所などが勢力を増していった。

室町時代

仏像にとっては造形から写実性が失われ、衰退が進んだ時期とされる。

慶派七条仏所や、院派、円派の活動は続いていた。奈良では椿井仏所の活動が盛んであったが、その衰退後も、長谷寺十一面観音菩薩立像などの名作が残されている。

この時代には、松永久秀の兵火により東大寺大仏殿が焼け落ち、諸像が失われている(いわゆる東大寺大仏殿の戦い。)。

桃山時代

信長は比叡山焼き討ちなど仏教にきつく当たったが、秀吉は方広寺大仏の建設など、仏教に概して友好的であった。豊臣氏以来の造像の例は多い。

七条仏師の康正は、秀頼の命により、東寺金堂薬師三尊像を復興した。

江戸時代

徳川幕府は檀家制度により寺院を統治に組み込んだので、幕府の庇護のもとに盛んに造像が行われた。幕府御用の七条仏師の造像としては、東京国立博物館の四方四仏坐像(もと東照宮五重塔)などがあげられる。

黄檗宗の范道生や松雲元慶の黄檗様、円空や木喰の造像など、伝統的な枠組みを超えた個性的な造像が行われたのもこの時期である。

 

その後、明治維新における廃仏毀釈の時代に至り、日本仏像史はひとまず終わりを迎えることになる。

 

終盤雑になってしまったが(もっとも、これは俺のやる気の問題だけでなく、仏像史そのものが尻すぼみなのだ。)、なんとなくの流れはつかめたので、実際に仏像を観ながら理解を深めていきたい。

 

*1:運慶って、あちこち移動して時の権力者とめっちゃ関わってるし、「願経」とかドラマチックなエピソードもあるし、大河の主役にぴったりだと思うんだよな。

*2:四国八十八か所の寺が出てきたので、うれしくて挙げてしまった。おれと遍路については、またいつか書く機会があるだろう。

山本勉『日本仏像史講義』②

 

②では平安時代をみていく。美術史では、前半と後半に分けて語られるようだ。

 

平安時代前半(平安遷都〜10世紀前半)

新仏教

桓武天皇長岡京平安京への南都大寺の移転を禁じ、最澄空海が新仏教を生んだ。こうした新仏教の中心地でも仏像制作が発展した。

長岡京時代の像の代表格が神護寺薬師如来立像である。カヤ材のいわゆる代用檀像*1であり、厳しい形相や、太ももを極端に強調する体躯などに特徴がある。俺は去年トウハクで観た(マンダラ - あかりの日記)。同じ時代の木彫像としては、宝菩提院菩薩坐像も有名である。

平安京初期の作品としては、木彫像の薬師寺薬師如来など、木心乾漆造りの仏像としては、唐招提寺薬師如来立像、千手観音立像などが挙げられる。この辺から現存する作品が増えてきて覚えるのがしんどくなってきた(笑)

 

承和様式

空海は嵯峨帝の庇護の下で、神護寺別当、ついで東寺別当となり、仏像制作も指揮する。

代表的な作品が東寺講堂の諸尊である。中央の五仏をはじめとして、五菩薩、五大明王、四天王、梵天帝釈天の合計21体が整然と配置されている。この仏像群は、仁王経の思想を金剛界マンダラ(マンダラ - あかりの日記参照)で表したもので、仁王経マンダラとも呼ばれているらしい。

五菩薩はカヤの一木造り。この時期の密教の影響の濃い作風を、元号をとって「承和様式」と呼ぶらしい。

類似の作例に、神護寺五大虚空蔵菩薩(やはりおれは去年トウハクで観た。)や、観心寺如意輪観音像、広隆寺講堂阿弥陀如来坐像、法華寺十一面観音菩薩立像などが挙げられる。密教的なコンセプトの造像が多く、この時期の中央でいかに空海密教がブームだったかよくわかるな。

しかし、承和様式は比較的短命で衰退し、仏像制作は新たな典型への模索を続けていく。

和様

9世紀末にはいわゆる和様の萌芽があった。仁和寺阿弥陀三尊像は、柔和な表情やゆったりした姿勢が特徴である。定印のポーズも後の流行の先駆けとなった。唐風と奈良時代以来の日本風を融合した和漢融合の様式がみえる。清涼寺阿弥陀三尊像、室生寺薬師如来立像・十一面観音菩薩立像、獅子窟寺薬師如来坐像等にも、同様の傾向が見られる。

また、天平仏の特徴を意図的に取り入れた天平復古の傾向も目立つ。醍醐寺上醍醐薬師堂の薬師三尊像には、ポーズの一部などに奈良時代の様式が見られるようだ。

 

平安時代後半(10世紀前半〜12世紀後半)

和様と中国からの仏像

さっきから出てくる「和様」というのは、一言で表すと、優しくて圧がない、という感じだろうか。

平安時代後半のへき頭に当たるのが法性寺千手観音菩薩立像である。優しい表情、重量感のない体躯。当時の貴族の好みが伺える。空也上人作と伝わる六波羅蜜時十一面観音菩薩立像などにも、古典を摂取しつつ穏やかな雰囲気のある作風がみられるらしい。

この流れとは別に、10世紀後半には、宋代に突入した中国から、1体の仏像がもたらされた。それが清凉寺釈迦如来である。顔立ち、衣、水晶の玉眼をはじめとする技法など、同時代の日本の仏像とは大きく異なっている。この仏像は大いに朝野の崇敬を集めたが、しかるに、わが国のその後の仏像制作にはあまり影響を及ぼさなかったようだ。

清凉寺像の請来が造形の展開に直接的には影響しなかったことに、和様成立を目前にした、当時の日本の仏像の方向性がよくあらわれている(p104)

のだそうだ。へー、おもしろい。

仏師の台頭と康尚

飛鳥時代からここまで、「仏像の作者」の名前はほぼ残っていない。止利仏師を除くと、せいぜい、有名なお坊さん(空海とか)が仏像も作ってた、というパターンが多少あるくらいだ。

だが、この平安後期辺りから、独立した工房を営む仏師の名前が、銘記などに表れはじめる。その最初が、有名な定朝の師匠の康尚である。また、このころから、制作年代の明らかな作品もかなり増えてくる。(なので取り上げる作品も適宜間引いていく(笑)。)

康尚工房は藤原摂関家パトロンにして勢力を拡大。康尚の有名な作品は、木彫像の同聚院不動明王広隆寺千手観音像である。無骨さを排した優しい面貌や全体的な彫りの浅さなどに和様がみられる。また、後者はのちに定型化する寄木造りである。

定朝

康尚の弟子として燦然と現れたのが、日本仏像史の大スター、定朝である。藤原道長の法成寺九体阿弥陀(現存しない)の作成で大いに名声を高める。そして、現存する彼が手掛けた大作が、頼通の依頼で造った、平等院鳳凰堂阿弥陀如来である。

当時の京の貴族は、末法思想のもとに浄土信仰が強かった*2。ということで、この平等院も浄土思想を表現し、極楽を模して造られたといわれる。その堂宇の阿弥陀如来は、超優しい表情である。姿勢もゆったりとして硬い緊張感がない。奥行きが薄く、平べったくて圧迫感がない。造法も日本独自の寄木造である。当時の貴族の趣味趣向に突き刺さったのだろう。この作品が和様の完成形といわれ、しばらくの間圧倒的なブームになる。

鳳凰堂の雲中供養菩薩像も定朝工房の作と伝わり、阿弥陀像と共通する柔和な見た目をしている。でも、定朝の作だと分かっている現存作品は意外とそんなに多くないようだ。あらら。

三派仏師

定朝が完成した和様の作風を「定朝様」と呼び、これがこの後圧倒的なブームになる。定朝系の工房は代を重ねるにつれ、11世紀後半の院政時代には、院派、円派、奈良仏師の3系統(三派仏師)に分かれた。それぞれの代表作をかいつまんでみていこう。

円派は、仁和寺旧北院薬師如来坐像が有名である。定朝の阿弥陀と似ているが、あれよりもっとずんぐりして丸顔である。大倉集古館の普賢菩薩騎象像*3なども同系の作だ。

院派の作としては法金剛院阿弥陀如来坐像などがある。

奈良仏師の作としては、康助の高野山金剛峯寺大日如来坐像や、玉眼が用いられた最初の作品である長岳寺阿弥陀三尊像などが残る。

いずれもそれなりに定朝の伝統に忠実な様式と捉えられているようだ。

康慶と運慶

平安時代の末期、奈良仏師の傍系から、次なる大スターが表れる。それが、上記の康助の弟子たる康慶と、その子運慶である。

運慶のデビュー作ともいわれる名作が円成寺大日如来坐像である。面貌の穏やかさは定朝風だが、ピシッと胸を張って印を結ぶ姿勢には清新な感覚が認められる。

康慶は静岡の瑞林寺地蔵菩薩坐像に銘を残す。源平合戦より前だが、この時点ですでに康慶工房が東国武士と関係を持っていたことを表している。

その後、治承4(1180)年に平重衡が清盛の命で南都焼討ちを行った。以仁王の挙兵に伴って南都の寺が平家政権に楯突いたので、その報復らしい。この辺りは今度じっくり勉強したい。

ともかく、東大寺興福寺が焼かれ、大仏をはじめとする奈良時代の古像が多く失われた。これの復興の中で、康慶・運慶らいわゆる慶派仏師が本格的に活躍することになる。運慶はこの時期、南都復興の願いもかけて、妻子と協力し、法華経の写経を完成させる(いわゆる運慶願経)。

南都復興以降のことは、パート③で詳しく見ることにする。

地方の造像

この時期の地方の造像もみておく。九州は大分の臼杵摩崖仏や、岩手中尊寺金色堂の諸像が有名である。俺は昨年のトウハクの中尊寺展に行き、今年は中尊寺にも行ったが、仏像のみならず金色堂本体も素晴らしい完成度だった。古代末期の東北にこれだけの建築物を造る政治権力があったことに驚きだ。

上記は中央の影響を受けた地方での造像の例だが、それとは別に、地方特有の造像も行われた。立木仏鉈彫りといった、粗削りな風体をあえて残す作風が、東北や関東などで多く見られる。伝統的な自然信仰との関わりもありそうだ。

 

*1:大陸の仏像は香りのある白檀で造られていたところ、わが国には白檀がないため、質感の似たカヤなどを代用することがしばしばあったようだ。

*2:浄土といっても、まだ平安時代なので、親鸞のナムアミダブツじゃなくて、恵心僧都の天台浄土教である。

*3:奈良の作品じゃないけど奈良の国宝展に来てるらしい。

山本勉『日本仏像史講義』①

 

関西の国宝展を見に行くので予習。

①は奈良時代まで。3パートくらいになりそうだ。

 

必要に応じてこちらの本も参照のこと。

 

飛鳥時代(前期)

仏教伝来から7世紀半ば、天智天皇の前くらいまで。

日本に仏教が伝来したのは538年*1とされている。時の欽明天皇は、百済王から贈られた仏像を見て、「仏像の顔きらぎらし」と述べた。仏像は伝来当初から美的鑑賞の対象だったのだ。

飛鳥時代の仏像の製法は、ブロンズ(金銅仏)か木彫りである。現存するもっとも古い金銅仏とされるのは、蘇我馬子の建てた飛鳥寺*2の釈迦如来坐像、通称飛鳥大仏である。作者は鞍作鳥、後述する止利仏師と同一人物とされるが、鎌倉時代に焼損し、補修甚大である。

聖徳太子斑鳩に建立した法隆寺は、670年に焼失して再建されたとされるが、中の仏像は7世紀前半のものもある。止利仏師作の金堂釈迦三尊像は、日本仏像史のへき頭を飾るブロンズ像だ。太子の病気平癒を祈って製作され、没後に完成した。面長の顔、杏仁形の目、アルカイックスマイルなどの顔貌や衣紋などの特徴は当時の仏像のスタンダードであり、止利仏師式ともいわれる。

同時代制作の木造仏として、止利仏師式の特徴をもつ法隆寺夢殿の救世観音のほか、金堂の四天王像などがある。また、同じく法隆寺百済観音は、止利仏師式とは様式が異なるが、この時代の制作という説が有力らしい(百済観音は色々と謎が多いようだ。)。この時代の木像の素材はクスノキである。建物にヒノキが使われていたことからすると、何らかの意味がありそうだが、そこは諸説あるらしい。

京都太秦広隆寺弥勒菩薩半跏像は、推古朝の頃に朝鮮から伝来したとされる。

 

白鳳時代飛鳥時代後期)

美術史では、天智天皇辺りから平城遷都までの飛鳥時代後半を、初唐の美術の影響を受けた時代として白鳳時代と呼ぶ。朝廷による律令制の整備とともに、寺院の建設や仏像の造立も進められた。

金銅仏と木造仏

この時代の代表的な金銅仏が興福寺仏頭である。飛鳥山田寺の本尊であったが、鎌倉期の興福寺復興(後述)の際に強奪され、現在は頭だけ残っている。悪夢に効用があるとされる法隆寺夢違観音や、昭和期に盗まれて右手しか現存しない新薬師寺香薬師等もこの時代の作とされる。現代まで残ってる仏像って貴重なんだね。

中宮寺弥勒菩薩半跏像はこの時代の木彫像の代表例である。伝統に従いクスノキを使いつつ、服装や面貌に止利式より進んだ造形がみられる。

新技法

この時代には、新たな技法として塑像や乾漆像が現れた。塑像とはつまり粘土像であり、技法としてはシンプルだが、日本にも初唐期の流行の影響が及んだ。壬申の乱の功臣・當麻真人国見建立の當麻寺金堂の弥勒仏坐像が代表的である。

乾漆造とは、粘土で原型を造り、その上に麻布を漆で貼り重ねて乾かし、中の粘土を書き出して、最後に表面に木屎漆を塗って整形する技法であり、脱活乾漆造ともいう。

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これとか見ると分かりやすいが、超めんどくさそうである。その上、漆という当時の高級品をふんだんに使うこともあり、時代が下るとあまり作られなくなる(現存する作例も少ない。)。当時の官寺たる百済大寺の本尊釈迦如来像が本邦最古の作例らしいが、残念ながら現存しない。現存する最古の乾漆仏は、當麻寺四天王立像(のうちの持国天)である。

 

奈良時代

平城京の時代、仏教は律令国家の要であり、仏像も南都七大寺(大安寺、薬師寺元興寺興福寺東大寺西大寺法隆寺唐招提寺)を中心に発展した。また、この時代には遣唐使が頻繁に派遣され、盛唐文化がダイレクトに輸入された。代表的な元号をとって天平時代ともいう。

法隆寺

五重塔塔本塑像が有名である。仏伝や維摩経などのエピソードを塑像群で表現している。隋唐期の中国に多い作例らしいが、本場には現存するものはあまりないらしく、法隆寺の塑像は東アジア美術の観点からも重要なようだ。

薬師寺

天武天皇が建てた薬師寺(現在の本薬師寺)が奈良に移転した。

金堂にある本尊の薬師三尊像は東アジア古代彫刻の最高峰とのこと。史料等から白鳳時代制作説も有力らしいが、技法としてはかなり進んだもののようで、未決着らしい。台座にはインドやペルシャの神々も描かれ、国際色豊かである。

東院堂の聖観音も、技法、作風ともに薬師三尊像に匹敵するレベルである。

ともに金銅仏。

興福寺

興福寺は、大化の改新以来の重臣藤原氏の氏寺であり、強大な勢力を誇った。中世には武装して大名みたいになる。 古代・中世を通じて重要な仏教美術展開の場となった。

創建時に造られた脱活乾漆仏のうち、現存するのが、八部衆立像十大弟子立像である。八部衆は、有名な阿修羅像をはじめとして全て現存する。十大弟子で現存するのは6体。唐風の造形の中に日本的な親しみやすさがミックスされているらしい。

東大寺の乾漆像・塑像

聖武天皇国分寺建立の詔で設立された東大寺。初代別当の良弁が、その前身の寺に安置したのが、法華堂の不空羂索観音(乾漆像)と執金剛神像(塑像)である。

不空羂索観音像は、いわゆる雑密*3に属する尊格である。ポーズや衣が複雑だが、よくまとまっており、写実的である。

その周りを、梵天帝釈天、四天王、金剛力士の合計8体の脱活乾漆像が護衛している。そして、不空羂索観音の後ろの厨子内にいるのが、塑像の執金剛神像である。

これらの現在法華堂内にいる10体は全て国宝である。

また、かつて法華堂にいた、伝日光・月光菩薩(現在は東大寺ミュージアム)及び四天王立像(現在は戒壇院)(いずれも塑像)も、すべて国宝である。なんてこった。

当初は不空羂索観音と塑像群がおり、乾漆像群は少し後に作られたらしい。像群の典拠は金光明最勝王経にあるという。

東大寺の大仏

聖武天皇の詔によって造立された金銅仏こそ東大寺大仏である。華厳経・梵網経の盧舎那仏と蓮華蔵世界(木村清孝『華厳経入門』 - あかりの日記参照)をモチーフに造られた。2回の兵火で焼失し、そのたび作り直しているので、本体は当時の面影をほぼ残していないようだが、台座は造立当時のままである。蓮弁には蓮華蔵世界図が描かれている。

唐招提寺西大寺

戒律復興のために中国から請来した鑑真によって建てられた唐招提寺

本尊の盧舎那仏坐像は脱活乾漆造で、鑑真在世中の制作。堂々とした体躯や厳しい表情は東大寺の諸像とは異なる作風である。鑑真和上坐像も乾漆仏。8世紀後半の作で、日本の肖像彫刻の始まりとなる作品である。

西大寺孝謙天皇仲麻呂の乱の鎮圧を祈願して建立し、金銅四天王像を安置したようだが、残念なことに現存しない。

奈良時代の木彫像

奈良時代前半にはあんまり作られなかった木彫像だが、鑑真が来た辺りからまた作られ始めた。そのため、この時代の木彫像は唐招提寺に多い。木彫の進歩に従って、ほかの製法にも、木心塑像や木心乾漆像といった発展がみられた。

唐招提寺の木造梵天帝釈天・四天王立像等は国宝。その他に、木造薬師如来立像を含む数体が、令和元年に国宝に指定されているのだが、上記の『カラー版 日本仏像史』では「重文」と表記されている。

この本は平成13年の出版であり、改定して情報をアップデートしてほしいようにも思える。もっとも、どうも国宝というのは毎年何かしら指定されているようであるから、常に最新の情報を反映する、というのはなかなか難しいのかもしれないな。

 

*1:ないし552年

*2:日本最古の伽藍があったとされる。

*3:密教の話はいつかちゃんとしたいと思っている。