明らけく のちの仏の 御世までも 光りつたへよ 法(のり)のともしび
釈尊の説いた教えから、はるばる日本やチベットにまで伝わった教えに至るまでの仏教全体の通史を、「お経」を軸にして概観する。
そう、この本ね、経典論、特にアーガマ/阿含経(このあと説明する)についての経典論のパートがやたら長いのよ。アーガマ/阿含経の成立史や構成については、僕のような馴染みのない人にはやや詳しすぎというくらい詳細である。それ以外の箇所は仏教の入門書としてちょうどいい内容と量だと思うんだけどな。
では、それはなぜなのか。近代以降の仏教「学」において、原始仏典というのがどういうポジションだったのか。その辺りについての僕の感想も混ぜつつ、内容を振り返ってみる。
仏教とは
仏教と一口に言っても、世界各地にいろんなバリエーションがあるが、ある信仰が「仏教」といえるための必要条件として、「三宝(仏法僧/ブッダ・ダルマ・サンガ)を信仰すること」が挙げられる。三宝については前にもぶつ切りに書いてきた。
石井米雄『タイ仏教入門』 - 三浦あかり(特にサンガについてはここでまとめた。)
ざっくりと概観すると、釈尊やその死後しばらくの時代には「ブッダ」とは悟りを開いた釈尊その人のことであり、釈尊の説いた教えが「ダルマ」であり、それに従って出家生活を送っていた人(ビク、ビクニー)の集団が「サンガ」だった。大乗仏教になると、大乗経典が「ダルマ」として説かれ、その中で描かれた、過去仏や未来仏、別世界の仏などのいろんな「ブッダ」(諸仏)が信仰されるに至った。
アーガマ
仏伝
アーガマとは、原始仏教及び現在に至るまでの上座部仏教が依拠している経典であり、釈尊の直接の教えに最も近い経典である(釈尊が言ったことがそのままの形で残っているわけではないにせよ。)。アーガマ以外の経典(大乗経典)は、基本的に釈尊の説いた教えではない(このことは大乗経典のパートでやや詳しく検討しようと思う。)
ここではまずアーガマおよびその漢訳たる阿含経の成立・構成とその中身を検討するが、その前に前提として、軽く釈尊の生涯(仏伝)に触れておく*2。
釈尊は、紀元前7世紀(異説あり)くらいに、ルンビニ(今のネパール)に生まれた。王子として不自由なく暮らしながら人生に悩み、29歳で出家する。
6年の苦行ののち、苦行ではダメだとわかり、ネーランジャラー川のほとりで沐浴していたところ、スジャータという少女にミルク粥をもらって回復し、ブッダガヤの菩提樹の下で瞑想をして悟りを開く(成道)。
その後、遊行をしながら、サールナート(鹿野園)での初説法(初転法輪)を経て、マガダの王舎城(ラージャガハ)やコーサラの舎衛城(サーヴァッティ。祇園精舎があったとこ)などを中心に説法を行い、弟子を増やし、教団(サンガ)を拡大する。
やがて80歳になり死期を悟った釈尊は、わずかな弟子と共に故郷に近いクシナガラに向かい、沙羅双樹の間に横たわって亡くなる(般涅槃)。
太字の土地は四大聖地*3として今でも多くの仏教徒が巡礼している。
釈尊死後の仏教史とアーガマの成立
⑴ アーガマの成立
釈尊の死後。ここからが本書の内容である。
釈尊は、教えをクチで伝えており、文章で書き残してはいなかった。
釈尊が亡くなる段階で、すでに教団はかなり拡大し、ビクはインド各地に散らばって遊行していた。釈尊の死の直後、各地のビクは教えの散逸を防ぐ為に集まり、オーソドックスな釈尊の教えを編集する作業を行った(第一結集)。ここで編纂された経(スッタ)が現在伝えられているアーガマの原型である*4が、この時のものは残ってはいない。
それから100年くらい経つと、サンガはかなり拡大し、規律をめぐる対立も増えてきた。そこでこの時期に第二結集が行われたが、対立を解消できず、それまで統一されていたサンガは保守的な上座部と進歩的な大衆部(だいしゅぶ)に分裂する(これを根本分裂という)。その後さらに数世紀のうちに、それぞれの部がさらに細かく分裂(枝末分裂)し、仏教は部派仏教の時代に入った。上座部でもっとも力を持ったのは説一切有部(略称有部)であり、東南アジアとかに伝わっている南伝仏教は基本的に有部の教えである。この根本分裂とほぼ並行して、インドの仏教は初の統一王朝たるマウリヤ朝のアショーカ王の手厚い保護を受けてインド中に拡大し、第三結集が行われ*5、インド仏教は全盛期を迎えた。
釈尊の時代からこの根本分裂ーアショーカ王までの時代を「初期仏教」といい、そこから4世紀にグプタ王朝が成立するまでの時代を「中期仏教」といい、その後13世紀にインド仏教が滅ぶまでを「後期仏教」という。
そして、この各部派はそれぞれ、自らの部派の教理を整備するために、アビダルマ(論)を競って作ったが、その前提として各部派ごとに聖典たるアーガマを、主として当時の口語であるパーリ語で整備した。この時代の、各部派が整備していたアーガマこそ、現代に残っているアーガマなのである。
なお、今テクストとして残っているパーリ語のアーガマは、イギリスとかドイツ*6などの西洋を中心とする学者が発掘して編集したものである(PTSというらしい)。以下は私的な感想なので後でしれっと消すかもしれないが、近代仏教学は西洋人による原始仏典の文献学的研究から始まっており、その影響で、我が国でも、現代に至るまで、「仏教を学問する」とはつまり「原始仏典を文献学的に調べる」ことである、というイメージがかなり強くついているんじゃないかと思う。何が言いたいのかというと、西洋人が昔のインドの言葉や考え方を調べる為に開闢した近代仏教学は、ともすると原始仏典に偏重し、「モンスーンアジア一帯でそれぞれの地域の文化として発展してきたそれぞれの仏教」にあまり注目しないか、あるいは軽視する傾向にあるんじゃないか、ということだ。それはなんかどうも、功罪あるような気がしないでもない。重ねて言うけどこれは僕の個人的な感想であり、非常におかしなことを言っているかもしれない。すみません。
中期仏教以降の時代には仏教は各地に伝えられた。中国へはシルクロードを通って、たとえば5世紀の鳩摩羅什や7世紀の玄奘といったクレイジーな冒険家名僧達の仏典漢訳により伝えられた。
少し、脱線する(脚注の方がいいかもしれないけど、僕的にかなり重要なことなので、本文に書く)。そもそも釈尊という、2500年以上前の遊行者、といえば聞こえはいいが要するに浮浪者だが、その人一人が言っていたことが、ろくに移動手段もない時代に、何らの武力による征服・改宗も伴わずに、まずインド全域に広がり、それから自発的に遥か彼方から学びにきた留学生を通じてモンスーンアジア全域に広がった、というのは、めちゃくちゃ凄まじいことだと思うのだ。インド洋やシルクロードを渡って、命懸けで教えを伝えたお坊さん達。その系譜の最果てに、東の端っこの小さな島から命懸けで唐に渡った弘法大師や伝教大師らがいて*7、さらにその最澄が開山した山から鎌倉の始祖達が出てきて、今の日本仏教に至る。仏法、「三宝」とは、これだけ広い地域の人がこれだけ長い間、魅力を感じて脈々と守り伝え、発展させてきた、文字通り人類の「宝物」なのだ。そう考えると、ぞくぞくとロマンを感じる。冒頭の句も、まさにそのロマンを体現しているようにみえるから、好きなんだよね。
話を戻す。中国に仏教が伝えられた頃にはすでに大乗の経典(後述)が成立していたので、アーガマと大乗経典は同時に伝えられた。大乗経典は後述のように、釈尊その人の教えではないにも関わらず、釈尊が説いたかのような記載になっているので、当時の中国人は当然ながらそれぞれの仏典をどう読めばいいのか迷った。アーガマと大乗経典は(あるいは大乗経典相互でも)結構食い違うことを言ってたりする。そこを、中国のお坊さん達は、このように考えた。すなわち、お経は全て釈尊一人が45年の説法の中で説いた教えに他ならない。それはそう書いてあるんだからそうとしか読めない。しかし、説いた時期によって教えが違う。「このお経はこの時期に説かれたもので、まだ教えとして完成してはいない」、とか、そういう考え方をする。このように、お経がどの時期の釈尊によって説かれたかを判定することを教相判釈(教判)という。この考え方を完成させた人こそ、五時八教説を説いた中国天台宗の開祖、天台大師(智者大師)智顗であった。
この教判に基づいて天台大師が作り、伝教大師が日本に伝えた思想の体系も非常に興味深いのだが、その点は今回はおいておいて*8、とにかく本題との関係で重要なのは、この教判によると、アーガマは大乗経典と比べて、釈尊の説いた教えの中ではレベルの低いものとされてしまった、ということなのだ。これにより中国仏教、そしてそれを輸入した日本仏教では、アーガマは近代に至るまで全く軽視、ほとんど無視されてきてしまったのである。ここは著者の三枝先生が非常に重要視する点だ。
とまれ、中国にはアーガマは伝わり、「阿含経」という名前で訳された。
この、パーリ語のアーガマと、漢訳の阿含経が、現在伝わっている原始仏教のテクストということになるわけだ。
⑶ アーガマの構成
アーガマは先述のとおり、釈尊が言葉で説いた教えを仏典結集や部派の整備によって成立したもの(極めて俗悪な比喩だが、ひろゆきとかが死んだ後に、ファンが配信上の発言を編集して、一つの自己啓発本として出版した、という感じだろうか。)であり、その編集は、話の長さごとに整理されている。長いもの、中くらいのもの、短いもの、超短いもの、その他、すなわち、「長部、中部、相応部、増支部、小部」の5パートに分かれている(これをパーリ五部という)。このうち、漢訳では、前の4つに対応して、「長阿含、中阿含、雑阿含、雑一阿含」という4つが訳されている(これを漢訳四阿含という)。小部については、一部対応するものが漢訳されてはいるが、「小部」としてまとまっているわけではなく、それぞれバラバラになっている。
でさ、原始仏典と言ったら、我が国だと岩波とかから、スッタニパータとかダンマパダとか長老偈とか和訳が色々と出てるじゃないすか。あと有名なのは、仏伝のジャータカとか。そういうのは結局、上の五部四阿含のどれなんだ?というと、これらは「小部」の中に入っており、漢訳はあったりなかったりする*9。今の日本でよく読まれてるやつは大体小部。他に有名な大パリニッバーナ経は長部/長阿含経に収録されている。という具合だ。
小部のなかで、スッタニパータは最も古いお経である。これに対し、ダンマパダは中国でも「法句経」として訳されており、全世界の仏教徒が多分読んでいるので、最も読まれたお経といえる。おそらく僕らも知らないうちに、有名な一節を読んだことがある。
ありとあらゆる 悪をば なさず
善なるを 行ない そなえ
みずからの こころを 浄む
これぞ もろもろの ほとけの 教え
諸悪莫作
諸善奉行
自浄其意
是諸仏教
(筆者注:二行目は「衆」善奉行と書くのがポピュラー。)
(p153)
これこれ。一休さんが書いた有名な書の一句ですな。
アーガマのおしえ
これについては、中村元『ブッダ伝』 - 三浦あかりここでもある程度検討した。
まず、人生を苦しみと捉えて、それは執着によるものであるとする。執着は、この世は無常なのにそのことに無知(ここでいう「知」はおそらく頭でわかっているというだけではだめなのだ。)だから生じる。正しい行い(八正道)によって(この正しい行いというのが上の「諸悪莫作」)執着を捨てるとき、心の平穏にたどり着く。それこそがニッバーナ、悟りの境地。
「無常」について少し検討すると、無常というのは原始仏教では「生じるものは必ず滅する」という、生と滅の関係を表現したものである。その間には「住」という、一定期間実体をもつように見えるものもあるが、「住」は刹那(極めて短い時間)しか維持されず、常に移り変わるものである。という説明がされている。無常は経験的な観測に基づく考えであり、特に初期においては、理論的な説明はあまりない。
次に「無我」である(中村先生は「非我」と訳していたな)。これは、釈尊はおそらく、執着の否定という理念から説いたものだが、のちの時代に五蘊とか縁起説とか理論化されていくうちに、ものの実体は存在しない、というような存在論哲学の話になっていき、大乗になると般若経典やナーガールジュナによって「空」の思想として理論化される。
そもそも釈尊は、法に従う主体としての自己の存在を肯定している。
自己を洲とし、自己を依りどころとして、他を依りどころとせず、法を洲とし、法を依りどころとして、他を依りどころとせずに、住せよ(p189)
とかね。
なお、この一節は色んな仏典で出るフレーズらしいが、漢訳だと「自燈明、法燈明」であり、「洲(中洲)」の部分が「ともしび」として訳されている(パーリ原典の単語はどっちとも訳せるが、原典の解釈としては「洲」と訳すのが通説らしい)。冒頭に挙げた最澄の「法のともしび」というフレーズとか、有名な比叡山の「不滅の法灯」とかは、明らかにその漢訳仏典に典拠するものだ。しかしまあ、どっちでも概ね同じニュアンスで理解できるし、むしろ、大河の氾濫が多いインドと東アジアの文化の違いが感じられるようで興味深い。訳した三蔵法師か誰かは、「中洲」と訳してしまうと何を言ってるのかよくわからないな、とか思ってたのだろうか…などと想像するとなかなか面白い。
他の重要概念としては、「涅槃」(ニッバーナ)がある。涅槃とは悟りに至ることである。ところで、前にも指摘したが、釈尊の入滅のことは般涅槃(パリニッバーナ)という(「大般涅槃経」とか。)。完全な悟り、という意味。これは普通のニッバーナとどこが違うのか。
普通の説明だと、釈尊は一応35歳で悟ったけど、生きている以上生存に必要な欲は消せない。亡くなることによってそういうのからも解放されて完全な悟りに至ったのだ、という説明をする。しかし、著者の三枝先生は独自の、より素敵な解釈をする。
つまり、釈尊はそもそも、一回悟りにいたったものの、世俗に戻って布教することを決意するわけだ。釈尊は初転法輪において、悟り(ニッバーナ)の世界から俗世に帰ってきている。そこから、精舎で瞑想してニッバーナに至っては、説法するために俗世に帰ってきていた。すなわち、生前の釈尊はニッバーナと世俗を行ったり来たりしていたのである(三枝先生は「往還」という言葉を使って表現している。)。しかし、釈尊が入滅することによって、釈尊はもはやニッバーナに達した状態のままで、この世俗の世界の人々の心の中に残り続ける。遺された世俗の人たちの視点において、「世俗にありながらニッバーナに至っている釈尊」が存在し続けるのだ。これこそがパリニッバーナ、完全な悟りである、という解釈である。
いわば往を捨象して還にとどまり、現実の世俗の中で仏教徒が仰ぎ見るニルヴァーナこそが、まさに完全なるニルヴァーナすなわちパリニルヴァーナであったにちがいない。(p214)
素晴らしい解釈だと思うが、三枝先生の解釈には若干「キリストの復活」的なニュアンスが含まれていると思ったのは僕だけだろうか。…いや、というかむしろ、福音書よりアーガマの方が古いのだから、「キリストの復活」には「パリニッバーナ」的なニュアンスが含まれている、と言うべきなのか。
あるいはこの三枝先生のパリニッバーナというのは、(僕も現代っ子なので、アニメで例えちゃうこととかにもあんまり抵抗がないわけだが、)「概念になる」というのに近いか。んー、ちょっと違うか。
アーガマのパートはこれで終わりにする。長くなったので、大乗仏典や大乗文化についてはまた後で。
*1:最澄の歌、というものがいくつか残っているが、それを見ても、僕はぶっちゃけそこまで、なんていうか、怒られるかもしれないが、文芸方向の才能は感じないんだが(比較対象が空海なのがいけないかもしれない)、しかるに、この歌はめちゃくちゃ好き。本書のタイトルにふさわしいと思う。本書と最澄はあんまり関係ないけど。
*2:ググれば簡単に出てくるが、自分の頭に入れる為に文字に起こしている。なにかを覚えるときは、何だかんだ「書く」のが最も効果的だと思う。
*3:釈尊の活動領域は大体ガンジス川流域エリアである。この時代のこの地域は商業が盛んで進取の機運に富み、釈尊の他にもいわゆる六師とか啓蒙思想家的な人たちが多く活躍したらしい。
*4:このとき出家者の規律である律(ヴィナヤ)も整理されたが、今回は律は割愛する。律については石井米雄『タイ仏教入門』 - 三浦あかりここで若干検討した。
*5:高校の世界史でやったよな、懐かしい
*6:おそらくは植民地支配と「印欧祖語」の議論がモチベになって、インド文化の研究が盛んだったんだろう
*7:高岳親王とかいう、インドに行こうとした狂人もいるがなw
*8:まあ、天台大師は「天台宗」の開祖なので当然、教判をした結論として、「最も優れたお経は釈尊がいちばん最後に説いた法華経です」という話になっていくわけだが、その辺りは、最澄や法華宗、あるいは法華玄義とかを勉強する機会があったら詳しく検討したい。
*9:漢訳がないってことは、つまりそもそも近代まで日本に伝わってなかったお経ってことだよね