あかりの日記

おっ あっ 生きてえなあ

中村元『慈悲』

お慈悲ぃ・・・

 

 

我々の信じている仏教というのは慈悲の宗教である。観音や阿弥陀は現世で苦しみあえぐ我々を大悲の力で救済してくださる。一方で、色々と見てきたように、部派仏教、伝統的な仏教については、何かこう、自分さえ良ければいいみたいな、そういう価値観がどこかありそうな感じもする(少なくとも伝統的に大乗の側からはそういう言い方がされてきた)わけだ。ということで、仏教における慈悲の位置づけについて勉強していきたい。

 

原始仏典における慈悲

これはこれまでにも検討してきたところだが、釈尊はそもそも、29歳で悟りに至ったわけであり、まあ仏教の素晴らしい教えはそこで釈尊独り自己完結していてもよかったわけだ。しかしそこで、仏伝ではバラモン教の主神ブラフマンが釈尊に対して、衆生に悟りの境地を教えてくれと、頼み込んだとされている(梵天勧請)。

そのとき世尊は梵天の意願を知り、また衆生に対するあわれみにより、仏の眼を以て世間を見わたした。(p46)

すなわち、釈尊は悟りの境地をひとりじめするのではなく、衆生に教え広めることを決意したわけである。これが仏教の始まりとされているわけだ(中村元、三枝充悳 『バウッダ[佛教]』① - 三浦あかり、これの最後の方に書いたように三枝先生はこのことをニルヴァーナから世俗への「還」と表現している。釈尊は悟りの境地からこっちの世界に一旦もどってきた、という解釈である)。

で、そうだとすると、仏教の始まりは釈尊の慈悲によるものであり、釈尊の慈悲がなければ仏教はそもそも存在していなかったと、これはそう言わざるをえないだろう。

他にも、仏伝のジャータカでは釈尊が前世に自らの体を飢えたタカに食わせた、などのエピソードが出てくる。

このように、原始仏教では、この「慈悲」の実践それ自体が極めて重要な徳であるとされている。

 

「慈」と「悲」は仏典では区別して理解されていた。上座部仏教では、「慈」(metta)は「利益と安楽をもたらそうと望むこと」であり、「悲」(karuna)は「不利益と苦を除去しようと欲すること」である、と解されており(p33)、このような解釈はナーガールジュナの大智度論などを通じて大乗仏教にも採用され、日本にも伝わっているらしい。

原始仏典には、これに「喜」(悟りの境地を喜ぶこと)と「捨」(心の平静を獲得すること)を併せた「慈悲喜捨」という4つの徳を、無限定に(無量に)持つこと(四無量心)を、達成すべき目標と設定している記述もある。

 

部派の慈悲

もっとも、釈尊が亡くなって時代が下っていくと、釈尊は次第に神格化されていく。それとともに、仏の慈悲も凡夫には達成し得ないものと考える考え方も出てくる。凡夫の慈悲と区別した仏の大悲の観念の誕生である。

他方において、釈尊死後の部派仏教においては、厳しい修行の実践によって心の平静に到達する、というところがフォーカスされていく。その中で、他の人に優しくするという側面は、言葉を選ばず言えば軽視されていった。

部派最有力の有部のアビダルマでも、慈悲や四無量心自体はたくさん説かれている。しかし有部は慈悲について「その生理的物理的な効果」を説くのであり、「もはや慈悲に特別の意義は認められていない。単なる観念のしかたの一つとしての位置が与えられているだけにすぎない」そうである(p65)。まあつまり、「慈悲」というのが単なる「精神修行」みたいなのと同義に捉えられていた、ということかな。

まあとはいえ、少なくとも今東南アジアとかで信じられている上座部仏教がそれほどまでにドライだとは僕は思わんがな。

 

大乗の慈悲

よく知られているように大乗仏教は部派のこういう姿勢を批判して「菩薩行」を説いたところからスタートしているわけだ。「菩薩」は、時代が下ると大悲を授けてくれる観念的存在になっていくけれど、大乗の始まりのあたりでは少なくとも、慈悲を実践する実在する在家信者こそが「菩薩」だったわけだ。

大乗の始まりである般若経典波羅蜜を説き、それは最終的に六波羅蜜に整理される(その最も中心的なものが般若波羅蜜)のだが、ナーガルジュナはこの六波羅蜜は全て慈悲に基づくものであると整理したようである。

「施しと戒と忍ぶことと精進と禅定と智慧とは慈悲を体となす。(p78、大智度論

すなわち、「般若波羅蜜」を含む大乗仏教の目標とは慈悲であるということができそうだ。

菩薩行というのは、よくいわれることだが、「生きとし生けるものどもを救うために、みずからは究極のニルヴァーナの境地に入らぬ」(p88、下線はあかりが付した)ということである。自分一人で悟りに入っちゃうより、入れるだけの徳がある人があくまでこの汚い世俗に残って人々を救うというのがより徳が高いと考えられたわけね。

その一方で、人々を救うためにあえて究極のニルヴァーナに入った菩薩もいるんじゃないか、とも考えられた。この、「まさに専ら慈悲のために悟りを開いた仏」に対する信仰こそが、阿弥陀如来の信仰をはじめとする浄土信仰に他ならないわけである。浄土信仰の中身は僕の日記でも何度か触れてきたので割愛。

 

慈悲の理論的基礎づけ

釈尊の原始仏典においては、慈悲は極めて明快な理論づけがされている。(中村元『原始仏典』 - 三浦あかり、ここでも引用したが)世の中の全ての人にとって、その人自身が一番大切である。だからこそ、自分以外のいかなる人も害してはならない、ということである。これは釈尊の他の教えともよく整合する考え方であり、かつ、現代人の倫理観のもとでも違和感なく理解できる極めて優れた思想だと、個人的には思う。2500年前にこれを説いていた人がいるというのはかなり驚きだ。

これに対して、大乗仏教では上に書いたように、六波羅蜜は全て慈悲に基づくとされるように、慈悲の実践をその教えの究極の到達点においているところがある。一方で、六波羅蜜の中心である般若波羅蜜とはの思想の理解である(中村元、三枝充悳 『バウッダ[佛教]』③ - 三浦あかり、これの般若経のところで少しだけ検討した)そうだ。そうすると、空を理解・体得することが慈悲の実践につながる、ということになるらしい。おそらくこれは般若経やナーガールジュナの思想のかなり根幹部分であると思われ、かつ、現在に至るまで大乗仏教を通底する非常に重要なテーマだと思われる。空の思想はまさに慈悲の実践を理論的に基礎づけるために説かれている側面がある、らしいのだ。

・・・のだが、なんで空が慈悲を基礎づけるのだろうか?あんまりよくわからなかった。「自分自身」という観念を捨てて考えたとき、純粋に他者に尽くすという考え方につながる、というあたりまでは、まあそうかなと思うのだが、般若経や龍樹のいう「空」というのは結局「一切何もかもが空」なわけでしょ?そうすると、慈悲を受ける相手や、慈悲の実践それ自体も空ということになってしまわないのか?なんで一切が空だと悟った人は慈悲を実践できるようになるのか?それが人間のもっとも本質的な本性だから、ということなのだろうか。正直この辺りはよくわからない。

 

「慈悲」から導かれる仏教的価値観

仏教に特有のいろんな価値観は、慈悲の考え方に基づくといえるらしい。まず仏教の平等観は慈悲に由来するものだ。具体的には、カースト間の平等や男女の平等などが説かれた(もっとも、仏教にかこつけて身分や性別による差別を固定化する言説がなされてきたこともまた事実だ)。それから、私有財産の否定を説いた仏教者もいた。

それから動物の殺生を否定する考え方も、慈悲の対象を生命全体まで拡大した考え方といえるだろう。我が国でも仏教聖職者が伝統的に殺生を否定してきたことはよく知られている。

 

愛と慈悲

また、慈悲は愛と区別される概念である。

多くの経典等は性愛について否定的である。性愛は相手に対する独占欲に結びつき、相手から裏切られた場合に激しい憎しみに転ずるからである。慈悲の心は見返りを求めないので、憎しみに転ずることがない。

他方で、慈悲の心はよく親子の愛情に喩えられる。これは多くの場合無償の愛であり、慈悲に近い性質をもつ。

現実のわれわれの人間生活においては、子に対する愛情を通じて、それの純粋化されたものとして慈悲が理解されるのである。

それからあと、キリスト教の神の「愛」(アガペー)と慈悲はよく同列で語られる。これらはまあ近いのだが、著者によれば両者は別らしい。まず、神には慈悲はないという人もいるのだ。キリスト教をはじめとする、創造者を想定する宗教には、「世界を創造した神は、何故にこのような不完全な世界をつくったのであるか」(p181、下線はあかりが付した)という問いが常について回る。(神なんか必要ねえんだよ ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』(上)(新潮文庫) - 三浦あかり、「大審問官」のあたりでイワンも疑問を呈していたな。)

まあもっとも、この辺りはキリスト教に深く帰依する人からすれば色々と言いたいことがあるだろう。僕はキリスト教と仏教の優劣を語るつもりは全くないし、そんな恐れ多いことをできるだけの知識もない。

もう一つ「慈悲」と神の愛の違いとして挙げられるのは、人は仏になれるが神にはなれないということだ。我々は神の愛を受けることしかできず、神の愛は性質上実践不可能なものだ。これに対し、「慈悲」ないし「四無量心」は、(般若波羅蜜だなんだという話になると、おそらく理論的には、実践できる人間はほとんどいないのだろうが)常に実践すべき目標としての性質を有している。これは結構でかい違いだと思う。

 

慈悲と実践

ということですぐ上に書いたが、慈悲は仏から一方的にくるもの(大悲)だけではなくて、われわれ凡夫においても、少なくとも目標としては実践可能なものなのである。とくに大乗仏教においては、信仰の実践は慈悲に他ならないとされている。

慈心を行ずる者は、即ち文珠を見たてまつることを得。(p195、文珠師利涅槃経)

しかしながら、これまた上に書いたように、完全な慈悲の実践はほぼ不可能なのだ。このことに正面から最もシビアに向き合ったのは我が国の親鸞上人なのではないか。例えば、浄土真宗では肉食を認める。この点で、少なくとも一切の殺生を禁ずる慈悲の実践の一部は放棄している。そして、少し上に書いたように、慈悲を実践できない凡夫である我々は、大悲を実現した阿弥陀如来によって救われるのを待つ存在なのである。

しかしそれでも、浄土真宗は一定の社会的実践をやはりすべきであるとする。

浄土真宗においては、教義学の上では専ら如来の慈悲を強調するにもかかわらず、それは人間と無関係であることは許されず、人間の行為のうちに具現されることが要請されるのである。これは恐らく宗教においては、個人が世俗的人間からそむいて絶対者と直面しようとするにもかかわらず、絶対者との交渉が人倫関係を通じて実現されるという基本的構造に由来しているのであろう。(p214)

 

あとそれから、仏教の慈悲の実践としてよく説かれるのが、教えを説くことである。法華経などはかなりそれを強調しているよな。これの関係で、日蓮は、ときには他宗を排撃することを通しても、正しい教えを説くことこそが慈悲の実践なのだと信じて行動したのだといえる。

 

仏教徒の慈悲は社会的実践として行われる。その考え方の根底には、「みずから未だ救われずとも、先ず他人をすくう」という考え方があったようだ。

…ただ我が身をばわすれて、衆生を益する心をおこせば、…自身のためとて善根を修せざれ共、無辺の善根おのづから円備し、自身のために仏道をもとめざれども、仏道すみやかに成熟す。(p247、夢窓国師夢中問答)

我々の信じる仏教において、宗教的な意味での救済は宗教的な実践としての「他人をすくうこと」の先にのみある、というのはわりとすんなりと納得のいく考え方なのではないだろうか。

 

おまけ 仏教と迫害?

僕の非常に雑な感想だが、仏教は概してとても優しい教えだと思うのだ。勿論、歴史上仏教の教団も幾たびも抗争を繰り返してきたわけだが、教えの体系それ自体の中にはあんまりその、外側への敵意とか、外側から向けられた敵意みたいなものが含まれてないような気がする。一向一揆とかもさ、浄土経典とか親鸞の教えそれ自体に「阿弥陀を信じないものはこうなるよ」みたいなことが書いてあるわけじゃない。別に聖道門で行く人はお好きにどうぞというスタンスだ。例外は日蓮かな、という気もするが、天台とか法華経まで遡れば「どの道を辿ってもみんな成仏できるんだから仲良くしようぜ」ということしか書いてないわけだ。なんていうのかな、聖典それ自体の中で、神様が人類にキレて当たり散らしたり、聖なる言葉を説いた人が残酷な処刑をされたりする聖書なんかと比べるとだいぶ、お経やそれに準じる典籍の記述それ自体は穏当というか、マイルドな感じがする(そもそも僕の知識も浅いので、こういう一般化ができるかどうか怪しいが)。

でも僕は別に、だから聖書よりお経の方がよいと、優劣をつけたいわけでは断じてない。そうではなくて、聖書がああなってるのは、物語を紡いできた人たちが、迫害のつらい歴史を負っていることの裏返しだと思うんだよな。そのつらい出来事をさまざまに意味付けして書き残し、伝えてきたからこそ、耐えてこれたわけだ。釈尊はなんだかんだ言って、自分の意思で苦行をやってたことはあるけど、行く先々で尊敬されて、人からむき出しの敵意を向けられている描写はあんまりない。仏教というのは良くも悪くも、迫害の経験に裏打ちされた思想ではないと思うのだ。

そんでもって、僕は思うのだが。仏教の慈悲の心は、自らに対して最も敵意を向けてくる者の迫害に耐えうるだけの思想的な力強さをもっているのだろうか。どうなのか。別に反語ではなくて、単純な疑問。この本についての話は以上。