第一次中東戦争
エジプト、ヨルダンをはじめとするアラブ連合側は、イスラエルに数では大きく優っていたが、各国間の統制が取れておらずイスラエルの反撃を許す。結局イスラエルは国連決議とほぼ同程度の土地を守って停戦となり、ユダヤ人国家の独立は維持された。この結果、パレスチナのアラブ人地区はガザとヨルダン川西岸(以下単に「西岸」という。)に分かれ、それぞれエジプトとヨルダンが支配することとなり、現在のように2つの別の独立国の様相を呈する契機となった。エルサレムについては、旧市街を含む東部はヨルダン領、西部はイスラエル領となった。
イスラエルの独立は2つの変化をもたらした。一つはユダヤ人移民の激増であり、もう一つはいわゆるパレスチナ難民の発生である。
これまでも多少見てきたが、歴史上、ユダヤ人はパレスチナだけでなく西アジア、北アフリカ全域に住んでいた(イスラム国家が異教徒に比較的寛容だったからというのもあるだろう。)イラクなんてバビロン捕囚の頃からの伝統的ユダヤ人コミュニティがあったらしい。しかしながら、第一次中東戦争は、「ユダヤ対アラブ」の構図を明確にさせ、イスラム国家に住むユダヤ人は居づらくなった。他方で、それこそユダヤ人の「ナショナルホーム」を建国の(建国前からの!)理念にしていたイスラエルは、ユダヤ人移民に対し門戸を広く開いた。その結果、イスラエルにはヨーロッパだけでなく、中東全域からも多くのユダヤ人が集まった。冷戦終結後には、(昔からユダヤ人差別が厳しかったとされる)ロシアや、諸々の事情でユダヤ人の多かったエチオピアなどからも、多くの移民がやってきたらしい*1。
とはいえ、そんな急に来たって住むところはないのだ。ユダヤ人は時には占領地のパレスチナ人を追い出して入植を開始し、追い出されたパレスチナ人は西岸やガザに逃げ込み、難民となった。*2難民の子は難民とカウントされるので、パレスチナ難民の数は現在もどんどん増えていっている。
第三次中東戦争(六日間戦争)
1956年、エジプトのナセルはスエズ運河の国有化を宣言し、イスラエルは、反発した英仏と共にエジプトに侵攻した(第二次中東戦争)が、米ソの勧告を受けて撤退。エジプトはナセルの下一躍アラブの盟主になった。
巻き返しを図ったイスラエルは1967年、エジプトへの奇襲を皮切りに周辺諸国に侵攻し大勝利をおさめる(第三次中東戦争。(神の天地創造と同じ)6日間で終わったことから六日間戦争とも呼ばれている。)イスラエルはこの戦争で、西岸、ゴラン高原を占領し、エジプトからはガザだけでなくシナイ半島まで奪った。
何よりの戦果は旧市街を含む東エルサレムを占領したことだ。イスラエルは占領した東部を一方的にエルサレム市に併合するとともに、それまでテルアビブに置いていた首都機能をエルサレムに移した。これは国際社会の大きな批判を浴び(イスラエル建国以来、ほとんどの国の大使館はテルアビブに置かれていたものの)すべての国がエルサレムからテルアビブへと大使館を移した。なお現在では、アメリカのトランプ前大統領がエルサレムに大使館を移転したのをはじめ、5か国がエルサレムに大使館を戻している。ユダヤ人は併合した東部に大手を振るって入植を進め、ヘブライ大学や官庁街など重要施設が次々と建設された。東エルサレムの住民は、ヨルダン国籍のままでも、イスラエル人とほぼ同等の権利を与えられた。六日間戦争の勝利はイスラエルに絶対の自信をもたらした。
国連では、安保理決議242が採択され、イスラエルの占領地の確保を認めず、その撤退を求めた。イスラエルは勿論これに従わなかったし、アラブ側からも批判が出たが、その後の中東和平交渉の基礎とされた。
第四次中東戦争(ヨム・キプール戦争)
ユダヤ暦は太陰太陽暦であり、秋分の日辺りが一年の始まりになっている。また、一日は夕方から次の夕方までである。ユダヤ教では、神は新年から10日間かけてその年に死ぬ者を決めることになっている。最終日はヨム・キプールと呼ばれ、ユダヤ教徒は家で断食をする。社会活動は一切停止する。
1973年のヨム・キプールは10月6日だった。この日の午後2時、シリアとエジプトはイスラエルに同時に侵攻を開始し、第四次中東戦争(ヨム・キプール戦争)が始まった。ナセルの跡を継いだサダトは、シリアのアサド(※今のアサド大統領の父)と通じ、奇襲作戦での失地回復に打って出たのだ。
イスラエルの公式発表では、イスラエル側は侵攻を全く予期していなかったというが、当時イスラエルに住んでいた著者は開戦の前からエルサレムでものものしい雰囲気を感じていたそうだ。しかしどうであれ、虚をつかれたイスラエル軍はアラブ連合軍の突破を許し、エジプトはシナイ半島に占領地を確保した。もっとも、シリアはゴラン高原の奪還に失敗し、エジプトも逆侵攻を許して、軍事的にはイスラエルは勝利した。
しかし、この戦争でイスラエル側は自信を失った。建国以来の与党である労働党は選挙で敗北し、右派リクードのベギンが首相となった。ベギンはパート②で出てきたテロ組織エーツェルの元リーダーである。
1977年、サダトはイスラエルに降り立ってベギンと和平交渉を開始し、アメリカの調停(キャンプ・デービット合意)のもと、1979年にエジプト・イスラエル平和条約が締結された。エジプトは単独で戦争から離脱し、アラブで初めてイスラエルを国家承認した。エジプトはナセル時代から担ってきたアラブの盟主の地位を降り、アメリカや西側と付き合う道を選んだのである。当然、他のアラブ諸国や、エジプト国内の右派はブチギレである。右派組織のメンバーにサダトは暗殺されたが、跡を継いだムバラクはサダトの親米路線を継続した。
イスラエルは、PLO(後述する)により内戦状態であったレバノンに侵攻してPLOの追放と親イスラエル化を目論んだ(レバノン戦争)が、パレスチナ人難民キャンプでの虐殺事件を起こして国際社会からの非難を浴び、また、反イスラエルを掲げるシーア派組織ヒズボラの活動などによって内戦が泥沼化したため撤退した。難民の虐殺は、イスラエル人とパレスチナ人の関係を悪化させた。
第一次インティファーダとオスロ合意
話を少し戻す。ナセルの時代、アラブ諸国の支援を受け、パレスチナ人組織PLOが設立された。当初はテロ組織の側面が強かったが、有力指導者アラファトの下、6日間戦争以降イスラエルの占領下に置かれた西岸・ガザのパレスチナ人の亡命政権の地位に立った。本拠地はヨルダン→レバノンと移ったが、先述したエジプト和平とレバノン戦争によってレバノンを追放され、チュニジアに移った。
PLOが遠くに行ってしまったパレスチナでは住民独自の新たな運動が起こる。1987年、パレスチナ人によるイスラエル人殺害事件を皮切りに、ガザのパレスチナ人がイスラエル軍に投石を行い始め、やがて西岸にも広がった(第一次インティファーダ)。ラビン政権は強硬な姿勢を取ったが、民衆はあくまで(銃器に頼らず)投石を貫き、国際社会の同情を集めた。イスラエル・パレスチナの関係は悪化の途を辿り、イスラエルの出稼ぎ労働者はパレスチナ人から、冷戦後の東欧やトルコ、タイ、フィリピンからの移民などに交代していった。*3
第一次インティファーダの盛り上がりの中、ガザを中心に、イスラム原理主義による国家形成を謳う政治集団ハマスが勢力を伸ばす。ハマスはこの後のPLOの妥協的な和平交渉に反発し、勢力を拡大した。
冷戦の終結は中東情勢を変動させた。戦後の中東の揉め事の中心地はイラン・イラクとパレスチナの二箇所である。湾岸戦争ではフセインがイスラエルにまでミサイルを飛ばし、パレスチナに紛争を飛び火させようと目論んだが、アメリカがイスラエルを抑えた。これに勝利したアメリカは中東での発言力を増し、91年、中東包括和平会議を開催して、パレスチナ和平に向けた交渉も動き出す。
この会議はPLOが交渉当事者とならなかったこともあり交渉はまとまらなかったが、その後ノルウェーが仲介役を買って出てイスラエル、PLO両者との秘密の交渉を進めた。イスラエルではリクードから中道左派の労働党のラビンが政権を取り返したこともあり、93年、ラビンとアラファトはオスロ合意に調印した。*4そして、これに基づいてPLOはパレスチナに帰還し、パレスチナ自治政府が発足した。自治政府ではアラファトの属する主流派ファタハが政権を握った。
とはいえ、パレスチナ和平はその当初から暗雲が立ち込めていた。パレスチナ側では、ファタハではアラファト個人への権力集中が進んでおり、組織内での腐敗が進んでいたと言われている(少なくともガザの住民の多くはそのように考えた)。他方、ガザのイスラム原理主義組織ハマスは、ファタハによる和平に反対しつつファタハに代わってガザの社会保障の整備に活躍し、ガザの住民から強い支持を受ける。多数の難民を抱え、国際社会からの支援も十分でないこの地域において、少ない支援を公平に分配するということは極めて重要なのである。アラファトは、両地域にまたがるパレスチナ国家形成の有力な道筋を提示できなかった。
イスラエル側でも和平への抵抗は強かった。オスロ合意の後も和平路線を進めようとするラビンに対して右派は強い反対を示し、政治集会でラビンは暗殺された。その後、パレスチナ人によるテロの頻発等の影響もあって政権交代が起こり、リクードのネタニヤフ政権が発足し、和平交渉は停滞した。
第二次インティファーダ
2000年。上述のレバノン戦争からの撤退後も、レバノン南部にはイスラエル軍が駐屯していたが、ときの労働党バラク政権は厭戦気分を受けて撤退を決めた。これを、野党リクードのシャロンは非難し、選挙を見据えたある政治パフォーマンスに出る。アルアクサ・モスクなどイスラームの聖地のある神殿の丘の視察を強行したのである。すでに述べたが、神殿の丘はもともとユダヤ神殿があったところであり、西壁は現在嘆きの壁というユダヤ教の聖地である。シャロンはこの訪問により、旧市街全域がイスラエルの主権下にあると示そうとした(らしい)。
これはパレスチナ人の激しい抵抗を生み、オスロ合意以来止んでいた投石運動が一気に再燃した(第二次インティファーダ)。オスロ合意以来双方が募らせてきたフラストレーションが爆発したのである。テロの激化の影響もありシャロンは政権を獲得する。アメリカのブッシュは「和平のロードマップ」を打ち出し、シャロンはアラファトに代わり事実上パレスチナの政権を握ったアッバスと交渉を開始するが、これに反対したハマスのテロによって交渉は頓挫した。
この対立の激化は、タカ派のシャロンをして、パレスチナの完全支配は無理だと思わしめた(多分)。その代わり、イスラエルはパレスチナとの分離の道を選んだ。シャロンはガザからの撤退を敢行するとともに、西岸との間には2002年頃から分離壁を建設し始めた。問題は分離壁がユダヤ人入植地を取り込む形で建設されたことである。パレスチナ人労働者等が両地域を往来すること一層困難になり、国内外から多くの批判が集まったが、事実としてイスラエルでのテロは減った。西岸へはイスラエル側の入植が続いている。
同時にこの時期、ハマスはファタハとも武装闘争を展開し、2007年頃にはファタハをガザから追い出してしまった。西岸とガザは事実上別の国になってしまったのである。国際社会が承認しているのはファタハの自治政府だけだが、ファタハと交渉してもガザはついてこないというジレンマがある。2008年にはイスラエルはハマス殲滅のための空爆を行っており、その後も停戦と衝突を繰り返している。
また、一度はレバノンから撤退したイスラエルだったが、前述のヒズボラによるテロに対抗して、2006年にレバノンに再侵攻した。イスラエルはヒズボラを壊滅できず、現在でも北部で対立が続いている。
なんとか現代までたどり着いた。パート①で述べたとおり、これより先の今起きていることの詳しい話はしない。旧約の時代から、ヘレニズム、ローマ、サラセン、十字軍、オスマン、大英帝国、アメリカ。パレスチナを歴史が通過してきたのだなあ。
宗教が悪いんだと、そういう言い方をする人もいる。少なくとも僕は、宗教それ自体が諸悪の根源だとは思わない。逆に、宗教それ自体が宥和の最も中心的な触媒になることも考えにくいのかなあと思う。宗教は共存した時代もそれなりにあった。ただ宗教は(この地域では特に)人を政治的にまとめる道具としての側面が極めて強い。対立を生むのは結局のところ政治だ。同時に、フリードリヒ2世のように、平和を実現するのも純粋に世俗的な政治権力の間の交渉でしかあり得ないだろう。まあそれは当たり前かw
宗教一般の話をもうすこししたい気もするが、ここよりもっと適切な話題が出たところですることにしようと思う。