あかりの日記

おっ あっ 生きてえなあ

中村元『原始仏典』

 

 

労働が忙しくて、なかなか本を読む時間が取れないぞ。とはいっても、無限の時間があったらあったで、その分こういう用でもない*1モノを読んだりするかと言われると怪しいんだよな。ある程度時間が貴重だと思うから休みの日に本を読んだりする、というのもあると思う。

 

「バウッダ」では、経典の成立史などがメインテーマだったが、本書は原始仏典の概説書になっている。スッタニパータ、ダンマパダ、サンユッタニカーヤ、大パリニッバーナ経、テーラガーター、テーリガーター、ジャータカなどのアーガマ経典のほか、アショーカ王の碑文とか「ミリンダ王の問い」などの、厳密には経典ではないがそれに準ずるテクストの解説もされている。

 

各経典については原典にあたろうと思っているので、気になったところだけ検討していこうと思う。

 

釈尊と人間関係

まず、原始仏教の結構大きな謎だと思っているのが、釈尊の述べる法に従った生き方において人間関係をどう捉えればよいかである。

やはり釈尊は、家族を捨てろと明確に言っているわけである。

妻子も、父母も、財宝も穀物も、親族やそのほかあらゆる欲望までも、すべて捨てて、犀の角のようにただひとり歩め。(「スッタニパータ」60)

釈尊の教えのテーマの一つは執着を捨てることであるが、経典のある部分では明確に、親や家族は執着として扱われているわけである。であるからこそ「出家」をすべし、ということになるわけだ。

世俗の家族や友人とかは執着だ。出家して、悟りという同じ目標を目指す仲間だけが、維持するに値する人間関係なのだ。

 

このあいだ、ある人に対して、初期の仏教とはこういうものらしいよ、と話したところ、「なんとエゴイスティックで冷たい教えなのか、全く理解できない」と言われてしまった。んー、たしかにそう思うのが普通だよなあ。実際、釈尊の教えのこういう側面がフォーカスされていってしまって、それへのアンチテーゼとして「菩薩行」を重視する般若経大乗仏教が成立していったという面もあるからな。

 

それでまあ、その一方で、釈尊は「家族を大事にしなさい」ということを経典のいろんなところで説いているわけだ。

実に次の五つのしかたによって、子は、東方に相当する父母に対して奉仕すべきである。『われは両親に養われたから、かれらを養おう。かれらのために為すべきことをしよう。家系を存続しよう。財産相続をしよう*2。そうしてまた祖霊に対して適当な時々に供物を捧げよう』と。実にこれら五つのしかたによって子は、東方に相当する父母に対して奉仕すべきである。(p303、「シンガーラへの教え」)

まあこれは現代でもよく通用する、極めて常識的なことを言っている。

これら2つは矛盾することを言っていそうだし、しかも原始仏教の理解の根幹に関わりそうな矛盾な気がするのだが、しかしどちらも、確かに釈尊の言葉なのだろうと思われる。もちろん釈尊という人物のことを知っているわけではないが、なんとなく、どっちも言ってそうな気がするよね(笑)。こういう矛盾がだな、経典、とくに原始仏典の中には、探せばいっぱいありそうな気がするんだよな。

 

それで、これを解消する理解の方法だが、大きく分けると、①矛盾したことを言っていると割り切った上で、相手に合わせて内容を変えているのだ、という考え方と、②氷山の一角のようなものであって、大きな目で見れば矛盾はしておらず、統一的に理解できる、という考え方があると思われる。

 

①の方は、我々東洋人につとに馴染み深い「方便」という考え方である。釈尊は相手に合わせて言うことを変える「対機説法」を行ってきた。教えの矛盾は聞いた相手が違うことによって生じたものである。という感じ。相手に合わせて言うことを変えている、聞き手は自分が受け取ったなりに理解すればいいんです、ということは、維摩経法華経などでは正面から肯定されている(らしい。ちゃんと読んでないから伝聞だが)。

そして、まあこの対機説法という宗教的概念をそのまま受け入れるかという問題はあるが、現実問題、これまでに勉強してきたように、仏教、特に原始仏教テーラワーダ仏教には大きく分けて、⑴「出家者の仏教」と⑵「在家者の仏教」という2つの、実質的には別の教えがあるのである(石井米雄『タイ仏教入門』 - 三浦あかり等参照)。そして、人間関係を捨てろという教えは⑴に、大事にしろと言うのは⑵によく馴染む考え方だ。というわけで、この「相手に合わせて別なことを言っていたのだ」という考え方は、テクストを無理矢理解釈するのではなく素直に読むことができるし、「いろんな立場の人がいろんな違う解釈をしている」という現実の仏教のあり方ともよく整合するので、基本的に仏典の矛盾の理解についてはこの考え方でいいんじゃないかと思う。整合的に解釈しようとするからドグマに陥っていくのであって、無理に「一つのことを言っている」と読む必要はないのだ。

 

とはいうものの、少なくともこの人間関係についての矛盾点については、②の考え方をとってもそんなに無理な解釈にはならなそうだ。

中村先生の引用するサンユッタニカーヤの非常に興味深い記述がある。

「どの方向に心でさがし求めてみても、自分よりさらに愛しいものをもどこにも見出さなかった。そのように、他人にとっても、それぞれの自分がいとしいのである。それ故に、自分のために他人を害してはならない」(p281)

すなわち、「人間関係を捨てろ」というのは、まず自分の人生は自分のものだと言うことを思い出しなさい、ということを言っているわけである。その上で、誰にとってもその人の人生があるのだから、「他人を大事にしろ」ということになるわけだ。人間関係についての釈尊の考えは、やっぱり少しドライな感じもするが、しかしかなり明瞭に一本筋が通っている感じはする。

 

無我/非我とは、なにが「我」ではないのか?

次に釈尊の無我説(中村先生は「非我」と訳している。)である。のちのアビダルマ時代においては、無我説は輪廻との整合性などをめぐって極めて抽象的な理論化がされていくが、少なくとも釈尊が説いた「無我」はもっと実践的な、(適切な言い方かわからないが)自己啓発的な意味を持っていたといえる。

無我説が説かれた目的はあくまで「執着を捨てるべき」という自説の理屈づけのためである。そして執着を捨てるというのは、ざっくり言えば、自分の思い通りにならないものにこだわるのをやめることである。つまり釈尊は「自分の思い通りにならないものは自分ではないのだから、それを思い通りにしようとかかずらわうのをやめなさい」ということを言いたいわけである。

例えば欲しいものが手に入らないとか、好きな子に振り向いてもらえないとかね。そういうのを「自分(のもの)じゃないんだから諦めなさい」と言ってるわけである。ここまではわかりやすい。

そして、そこから演繹して、「自分自身だと思っているもののうちでも、思い通りにならないものがあるので、それを思い通りにしようとしてかかずらわうのをやめなさい」というわけである。これこそが釈尊の説いた無我説なのだ。

具体的には、釈尊の説いた無我説とは、「『色、受、想、行、識』という人間の精神作用は我ではない」というものである。これは、これらの精神作用は自分の意志の力ではどうにもならず、自分の心に「こう思え!」と考えてもその通りになるわけではない。だからそういう自分の精神作用が万能だと過信するのをやめなさい、という、そういう感じなのではないかと思う。

全然違うことを言っているかもしれないが、今はこう考えた、ということを残しておこうと思う。

 

仏教と女性

例えば、前に読んだ法華経においては、「変成男子」と言って、女性が一度男性に生まれ変わってから成仏した、という場面がある。古代の男尊女卑の時代に作られた教えであった以上、仏教に男性だけが成仏できるとか、男性が成仏しやすいとか、そういう思想が入り込んでいることそれ自体はある程度は仕方がないものなのかとも思う。しかし、この前にタイに行ったときに聞いた話では、女性の出家者はあまりおらず、男性が幸せのために出家するのに対して、女性は悲しいことがあったから出家するということのようである。このように、仏教が男女を分けて扱うという構図は、まさに仏教思想が古代の人にとっては完成されたものであって、現代にまで保守的に継承されてきたからこそ、現代においてもかなり根強く残存していると言わざるを得ないだろう。仏教を学ぶからにはそのことに目を背けてはならないと思うが、それだけで仏教の文化的な価値が全て阻却されるというのは言い過ぎであるとは思う。

「婦女の身であることは、苦しみである」と、丈夫をも御する御者(ブッダ)はお説きになりました。(他の婦人と)夫をともにすることもまた、苦しみである。また、ひとたび、子を産んだ人々もであります。

か弱い身で、みずから首をはねた者もあり、毒を仰いだ者もいます。死児が胎内にあれば両者(母子)ともに滅びます。(p172、「テーリガーター」)

釈尊や初期のサンガは女性をどのように位置付けたのか。また、当時の社会のなかの女性に対して仏教はどう向き合ったのか。「テーリガーター」をはじめとする原始仏典を検討する際には、そういう視点も一応持っておいたほうが良いように思った。

 

 

*1:今知ったんだが、これ方言だったらしいね。僕の地元の方言、「うんちをまる」以外にもあったんだなあ。

*2:相続することは親孝行なのか、という疑問があるかもしれないが、世の中のもめごとに多少なりとも関わっている身から言わせてもらうと、相続人同士の間で円満に、かつその後に紛争が再燃しないような形で遺産分割等をしっかり処理することは、被相続人の間の利益になるだけでなく、社会全体の公益にも資することだし、翻って天国の被相続人の本望でもあるに違いない。この点は釈尊に、特に激しく同意する。マジで遺産分割とか遺留分とか、当事者間で、他の相続人との公平も考えてきっちりと処理してくれよな(涙)