あかりの日記

おっ あっ 生きてえなあ

お経の分類について

キリスト教とかイスラム教とかと違って、仏教は教えの核となる聖典(お経)そのものがいっぱいある。古今東西に色んな学派や宗派があるけど、その違いを生む大きな要因の一つとして、いかなる経典に依るかというところがある。

 

でまあ、それぞれの学派・宗派がどの経典に依拠しているかというのは、そのそれぞれの話をするときに見るとして、今日問題にしたいのは、それぞれの学派が「それ以外の経典」をどう位置付けているか、ということである。一つのアプローチとして、もう無視する、というのもありうるのだろう(浄土系なんかはそれに近いのかな?)が、多くの学派はそうではなく、「他の経典よりも自分の依拠する経典がエラいんだ」という議論をする。古来より仏教を語る人でこの手の話がキライな人はいないだろう(たぶん)。いわゆる教相判釈、お経のランク付けである。大乗非仏説とか近代に西洋人が始めた文献学的手法による聖典研究も、見ようによっては教判と言えるかもな。これについて、今の僕の乏しい知識で分かっていることをふんわりとまとめてみる。

 

まず、東南アジアやスリランカなどの上座部系の仏教においては、アーガマだけが聖典とされている。タイでは釈尊以外の仏像は(中国人向けの観光施設以外では)皆無だった。これらの仏教において大乗経典がどう扱われているのかは要調査である。偽経として積極的に糾弾されているというよりは、無視されているのかもな。

教判の生みの親の天台宗(中国、日本)では、天台智者大師の五時八教説によって法華経がトップとされている。この内容はいずれ少し詳しめに見ていきたい。

華厳宗でも、賢首大師法蔵による五教十宗という教判がされ、こちらは華厳経がトップとされている。

我らが日本が誇る空海は「十住心論」を記し、各宗派をランク付した上で、密教を頂点におく。ここでいう「密教」とは当然だが、空海が持ち帰った大日経金剛頂経に依拠する両部密教だ。

この十住心論は顕密の序列づけだが、密教経典の間での序列については、現在の日本密教界では、上記の両部を「純密」として上位に置いた上で、それ以前を「雑密」、それ以降の後期密教の経典を「左道密」と呼び、それぞれ若干下に見ているらしい。

これに対し、チベット仏教では、密教経典を所作タントラ、行タントラ、瑜伽タントラ、無上瑜伽タントラの4つに分け、最上位の無上瑜伽タントラに後期密教経典(秘密集会タントラ、呼金剛タントラ、時輪タントラなど多数。これを「タントラ経典」ということがある。この辺りはしかるべきところで詳述したい。)を位置付けている。ちなみに大日経は行タントラ、金剛頂経は瑜伽タントラであって、無上瑜伽タントラよりは下という扱いだ。

 

それから前述のとおり、大乗非仏説とか、近代仏教学における成立年代の特定なんかも、ともすると教判のような議論に結びつきやすい気もする。真にブッダの説でないものはダメだ、みたいなね。

 

こういった各宗派の教判のうち、序列づけをしている部分は現代人の僕にとってはまあ無意味だが、仏教と呼ばれるものの全体像を知る上では、経典を列挙して分類するという作業が行われたこと自体は知っておく意味はあるのかなと思う。あと、単純に、こういう話はいかにもオタクっぽくて面白いよな。「この作品のキャラの中で最強は誰か?」みたいなのと一緒じゃないか。僕は漫画などにはあまり詳しくないが、そういう話自体は好きだ。