あかりの日記

おっ あっ 生きてえなあ

中村元、三枝充悳 『バウッダ[佛教]』③

 

 

大乗の経典及び教えとして一般的に言われているものをこの本の順番に従って概観していく。もちろん僕は(法華経の一部と般若心経を除いて)読んだことがないので、こんな感じらしい、という話にとどまる。

 

大乗経典

1 般若系経典

般若経」=「般若心経」ではない。なんとか般若経というタイトルのお経はめちゃくちゃたくさんあり、その総称が「般若経」である。

般若経は大乗経典の中で最も初めに成立したものと言われており、初めて「大乗」を宣言した経典である。大乗はサンスクリット語の「マハーヤーナ」の漢訳であり、「大きな乗り物」という意味である。*1

般若経とは何を説いているお経なのか。

(略)菩薩は般若ハラミツによって、一切の障害は消滅し、恐れもなくなり、転倒(ひっくり返る)した思いから遠く離れて、仏教の理想の極地であるニルヴァーナに至り完成する。(p352)

それならば、般若ハラミツとは何か。(略)その般若とは(略)「空」の思想であり、それの徹底が般若ハラミツにほかならない。(p346)

つまり、般若経というのは、どうやら、「菩薩が、の思想を徹底する、すなわち般若波羅蜜に至ることによってニルヴァーナに至る。」ということを説いているらしい。それが「大乗」の教えだというのだ。(アーガマにおける、精神修行をして悟りに至る、というプロセスに、「空」という概念が追加されている、ということかな。)「菩薩」は前回説明したので、「般若波羅蜜」と「空」について少しだけ検討したい。

まず「般若ハラミツ」という概念について。これはサンスクリットの「プラジュニヤー・パーラミター」の音写である。プラジュニヤーは「知恵」、パーラミターは「到達すること」というような意味のようである。ナーガールジュナ(後述)作の、「摩訶般若波羅蜜教」の注釈書である「大智度論」の「智度」は「般若波羅蜜」と同じ語を意訳したということだね。

それで、そうすると般若ハラミツというのは「知恵に至ること」というような意味になりそうだけど、それは何を指しているのかというと、「空」の思想を徹底すること、のようだ(空と般若ハラミツを別の概念として設定する必要があるのか疑問だが、「般若ハラミツ」という概念が生み出されることで、その般若ハラミツに至るための特殊な修行法とかおまじないとかが考案されていく、という関係にあったのかもしれない。)。それでは、般若経で説かれる「空」とは何か。

(略)「空」の思想は、「般若経」に終始一貫して説かれ、(略)きわめて実践的な在り方を示して、一言で表わすならば、「こころにとどめつつも、とらわれるということがない」「とらわれない」「無執著」と解される。(p346)

とらわれない、ということらしい。この初期の般若経における「空」は、釈尊が説いた「無常」「無我」と比較的近く、執着しない心のありようについて説いている、言うなれば自己啓発論みたいなもののようだ。

この空を、ナーガールジュナ(龍樹)が「実体がないこと」というような意味で理論化し、ここに「空」は西洋でいうところの存在論哲学というべきものへと進化を遂げる。(般若心経で説かれているは既に龍樹による理論化を経た後の「空」のようだ。)

しかして、般若経典では一切が「空」であることを、くどいくらい繰り返して、極めて力強く説く。そのエネルギーが、旧来の仏教からの改革運動の原動力になったようだ。

 

 

2 維摩経

維摩経般若経の系譜を受け継いで、空の思想を説いた経典である。維摩居士維摩さん)という在家の仏弟子が病気になったので、お釈迦様が弟子たちにお見舞いに行かせる。舎利子や目連などは維摩と論戦してやり込められたので行きたがらず、文殊菩薩が行く。そこで色々と問答して、維摩さんが空・般若ハラミツについて語った、というような内容らしい。また、このお経は、釈尊の待機説法や「方便」の概念に関連して、

仏は一音をもって法を演説するに、衆生は各々に解する所に随う。(p357)

といい、仏の教えを「聞いた人それぞれがそれぞれの理解の仕方をする」ことに肯定的な考え方を示している。このような寛容の思想が大乗仏教の一つの特徴といえそうだ。

 

 

3 三昧経

バウッダの説明だと、結局「三昧経」には何が書いてあるのかがわからない(バウッダの書き方は、「三昧経」が何であるか自体は知っている人に向けて、その周辺情報の解説をしているように見えるんだが、一応入門書のはずなのでもう少し易しく書いてほしいw)のだが、ウィキペディアによると、精神を統一することで仏を現前に見ること(観仏)ができるということと、観仏のための具体的な修行方法が書いてあるらしい(まずここから説明してほしかったw)。この辺りから、般若ハラミツは単なる精神修行を超えて何かオマジナイ的な方向に進むことになるらしく、密教の萌芽が既にあると言えるかもしれない。

 

4 華厳経

毘盧遮那仏という世界中を照らす究極の仏の存在を荘厳な文章で描写しているらしい。ちょっと内容についてはよく理解できなかったので(笑)改めてどこかで勉強したい。この段階で指摘できることとしては、毘盧遮那仏大日如来として真言宗の中心に据えられているし、「十住」という概念も説かれているようであり、どうも空海華厳経に結構影響を受けていそうだということだ。また、如来蔵思想と唯識思想という中国仏教の二大潮流の源泉になった教えらしい。

 

5 浄土系経典

浄土経典として有名な①無量寿経観無量寿経*2阿弥陀経浄土三部経という。)は、(中身を読んだことがあるかはおいておいてw)その内容は我が国においてはかなり馴染み深い経典なのではないかと思う。①無量寿経において、西方において法蔵菩薩が本願(一切衆生を救うという願い)をかけて阿弥陀如来になったことが説かれ、さらに各経典において念仏を唱えることの重要性が説かれる。

これが中国で浄土教として体系化され、それが我が国に輸入されて浄土系の宗派として広く信仰されている。浄土教の教えの概要としては、⑴阿弥陀仏を信仰して念仏を唱えると、死後に浄土世界に生まれ変わることができる。⑵浄土世界は汚れのない所なので、そこに転生すれば誰でも成仏できる。⑶釈尊の時代(正法の時代)には自分で修行をして悟りに至ること(聖道門という)もできたかもしれないが、それからだいぶ時間が経って世の中が荒れた現代(末法の時代)にあっては、人々は教えを正確に理解することができず、⑴⑵の方法で阿弥陀の本願に縋って成仏する(浄土門という)しかない。

大体こんな感じの教えだと理解している。

 

6 法華経

法華経は諸経の王ともいわれる。前半(迹門ともいう)、後半(本門ともいう)に分かれ、前半のハイライトは、声聞・縁覚・菩薩いずれもが悟りに至れるという一乗思想を説いた「方便品第二」であり、後半のハイライトは、釈尊の寿命が永遠であるという「久遠実成の本仏」たる釈尊を説いた「如来寿量品第十四」である。後半には(後世の付け足しらしいが)「観世音菩薩普門品第二十五」という章があり、日本では観音経と呼ばれ、極めてよく親しまれている。

中国では(これまで何度か出てきた)天台大師智顗により最も優れた経と位置付けられ、天台宗の最重要経典となった。この天台思想が最澄により日本にもたらされて(日本)天台宗となり、またその系譜を継いだ教えとして日蓮法華宗が成立した。(天台教学については個人的には結構興味がある。漠然としたものだけど)

一度抄訳を読んだことがある*3んだが、僕は「薬草喩品第五」(薬草の喩え)が好きだ。モンスーンによる大雨がザーッと降って、大地に大小の草が鬱蒼と、枯れては生え、枯れては生えを繰り返す。周りの人と押し合いへし合いしながら、こんなにたくさん人がいるのに、自分一人が生きる意味ってなんなんだろう、とか考えたりする。ああ、これが東洋の宗教だよな、と思うのだ。勝手な妄想だけど、一神教系の宗教の人間観が「砂漠に咲く一輪の痩せこけた花*4」だとしたら、モンスーンアジアの宗教のそれは「そこらへんにぼうぼうと茂る雑草」という感じじゃないか。そのイメージを端的に表した秀逸な譬喩だと思う。

 

7 龍樹

ナーガールジュナ(龍樹)は、初期大乗経典が出揃った2世紀〜3世紀インドに現れた、歴史上最も優れた仏教哲学者である。「中論」が最も有名で、他にも先述した「大智度論」「十住毘婆沙論」など多くの優れた論書を残した。後世の大乗仏教は全て龍樹の影響下にあると言われ、日本では「八宗の祖」とも言われる。

特に「中論」において、般若経以来の空の思想を完成させたといわれる。もともと「空」(シューニャの訳。ゼロという意味もあるらしい)は単なる否定(〇〇でない)であったところ、彼はその「空であること」を、「固定した実体が存在しないこと」「存在が相対的であること」と説明し、存在論における述語の概念に昇華した。これが彼の功績である(?ということであっているのかはよくわからないw)勉強します。

 

8 如来蔵(仏性)

如来思想とは、あまねく衆生にはその中に如来になる性質?が宿っている、という考え方である。前述の華厳経に端を発するらしいが、その思想を受けて「如来蔵経」や「大般涅槃経*5」などが生み出された。金の鉱石は全然綺麗じゃないが、それを溶鉱炉で溶かせば中からちゃんと金が採れる、みたいな喩えがよく知られているらしい。如来蔵は「仏性」とも言われ、日本ではこちらの方が有名である。各宗の祖師も如来蔵/仏性を説いているよな(真言宗の「即身成仏」、天台宗の「一才衆生悉有仏性」、正法眼蔵の「仏性」の巻とかね。)。

如来蔵思想には、衆生のこころはもともとは清浄なんだ、という性善説的な見方が前提となっている。どんな人でもこころを磨けば仏になれる。しかし、そうだとしても現実の衆生のこころは汚れているのであり、それをどうするか。そこで次の唯識説が展開される。

 

9 唯識

こころを磨くためにはどうすればいいか。ここで、釈尊の行った禅定(ヨーガ、瑜伽行)を実践すべきと考えられ、これに専念する人たちが現れた。そこでその実践と合わせて、唯識思想なるものが発展した。まあ「空」が西洋でいうところの存在論なら、「唯識」は認識論にあたるというべきかな。唯識思想では、心を「アーラヤ識」と定義するなど、独特の用語を用いて認識を分析する(バウッダを読んだだけだとよく理解できなかった。勉強します)。

一つ理解できたことを書いておく。唯識は中国に輸入されて法相宗となり、日本にも輸出された。唯識=法相宗の思想として重要なのが、法華経如来蔵の一乗思想を否定したことだ。法相宗では「五性各別」と言い、人によって悟りに至れるかどうかが違っていると説いている。日本において、法相宗の徳一と天台宗最澄が三一権実論争っていうのをやったけど、あれはまさにこの、「一乗」か「五性各別」かについての論争だよな。多分。*6

 

10 密教

ここまでもいくらか述べてきたように、大乗仏教は時代を下るにつれて、インド社会の混乱やヒンドゥー文化の流入などもあり、オマジナイ的な要素が強くなってくる。仏教は徐々に呪術の要素を取り入れていくことになる。

まず、経典の中等に陀羅尼(ダラニと呼ばれる呪文が多く現れるようになる。既に般若心経にも「ギャーテーギャーテー」ってのがあるよな。

それからそれと関連して、仏ごとの呪文である真言マントラが生み出されていく。さらに、呪法などを行う祭壇としての曼荼羅(マンダラ)が作られるようになり、後世にはそれを模した絵画に描かれるようになっていく。

このような呪法が、7世紀頃に「大日経」「金剛頂経」によって理論的に体系化され、さらに、愛欲を全面的に肯定する「理趣経」なども成立する。空海最澄が貸し借りで揉めたアレですな。

密教の教えは、仏教の最も完成された教えとして中国を経て日本に伝わり、真言宗になった他、インドから直接にチベットに伝わり、チベット仏教として現在でも信仰されている。

 

 

以上が大乗仏教とされているものの大まかな概観になる。「禅」はどこに位置づけられるのかとか、大乗仏教の重要な要素である「利他行」は例えば般若ハラミツとか唯識とかの理論とどう結びついているのかとか、いまいちよくわからんこともあったが、とりあえず仏教の全体像はなんとなくわかった気がするのでよしとするか。

これでバウッダについては以上。

 

 

*1:これに対して部派仏教は小乗(ヒーナヤーナ)という蔑称で呼ばれたという話が有名だが、最初に成立した般若経には小乗の語はないらしい。大乗という概念は最初は部派仏教へのアンチテーゼとして生まれたわけではないらしいのだ。

*2:漢訳しかないので偽経説があるようだ。「偽経かどうか」についての個人的なこの前の記事の下の方を見てほしい。

*3:その著者は某新興宗教を信仰していることでよく知られている人だったんだが、少なくともその抄訳については、直接的にその教義を広めたり教義に近い解釈に誘導したりするものではなかったかなあと思う。

*4:こっちのイメージは「ヨブ記」とか。

*5:同名の経典が原始仏典にもあるよな

*6:こういうことを言うとすごく失礼かもしれず、そのことを承知で言うけど、奈良時代とか平安時代の日本のお坊さんって経典の中身とか経典間の矛盾・対立点をしっかり正確に理解していたんだな。少し安心した。