あかりの日記

おっ あっ 生きてえなあ

神なんか必要ねえんだよ ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』(上)(新潮文庫)

 

俺の大事な神が!(アリョーシャ)

 

 

僕がこれを読むのは初めてじゃなくて、何年か前、学生の頃に途中まで、確か長老が死んで死体が腐るあたりまでは読んだ(当時読んだのは光文社の亀山訳だったと記憶している。もう内容はあんまり覚えてないが)。当時は若くお金が必要だったので、図書館で借りて読んでいたのだが、その辺りで物語がいよいよ胸糞悪くなってきたのと、僕自身の生活が忙しくなってきて「人類の永遠の問題」どころではなくなってきたので、結局返却期限までに読みきれず、そこで挫折して、そのままになっていた。

それにしても、僕の仕事は世間的に見ると結構忙しい方で、学生の頃より自由時間は減ったと思うのだが、それでも今の方が精神的にはゆとりのある生活を送れている気がする。むかし挫折した本などに取り組むだけの余裕を確保できている。それは、当たり前のことかもしれないが、当面の生活のための金と地位が保障されるめどがたったのが大きい。つくづく学生時代は不安と焦りと孤独しかない最悪な日々だったと思うぜ。今は前の2つはかなり軽減したからな。前の2つはね。

 

「大審問官」

 

さて新潮文庫の原訳の上巻は、有名な「大審問官」の章まで。親父が死ぬフラグは立ちまくっているけど、まだまだ事件は起こらない。この作品は、一言でいうと「誰が親父を殺したかのミステリー」というような語られ方をすることがあるけど(「一言で言う」ならそれが正しいんだろう)、この作品を専らそんな感じの作品だと思って読み始めてしまうと、上巻はひたすらながーい前置きに感じられて困惑するよな。出来事の間の会話文がめちゃくちゃ長くて、はっきり言ってテンポ悪いよな。文章自体は読みやすいと思うんだけどね。

 

全体のあらすじなどは面倒なので省略するが、「大審問官」の章は有名だし、やはり語るべきことがあるように思ったので、ここに絞って感想を述べることにする。

僕はキリスト教の知識は全然ないので不正確だとは思うが、この章の老審問官の独白は要約するとこんな感じだろうか。

 

マタイ福音書によるとキリストは悪魔の3つの試みを破ったとされる。①石ころをパンに変えてみよ、という試みに対して、「人はパンのみにて生きるのではない」と言って退けた。②神の子なら高い神殿の上から飛び降りてみよ、という試みを「神を試してはならない」と言って退けた。③地上の権力をやる、という試みも断った*1

このエピソードは要するに、実利や権威につられて神を信じるのではなく、自分の自由な意思での思考によって神を信じ生きよ、という、信仰の模範的なあり方をキリスト自身が示したものである。キリストは、実利、奇跡や権威の力で自分の教えを人々に信じさせることもできたのに、それをせず、「自由にしろ」ということを説いたのだ。そこには、キリストの、人間が自由に耐えうるほど強い存在なはずだ、という人間への信頼があった。

しかし、ほとんどの人間はキリストの想定より弱っちかったわけだ。人々は奇跡によって信じるし、自由よりもパンという実利をくれる権威への服従を望む。むしろ服従こそが多くの民衆の幸福でもある。キリスト亡き後の教団はそのような信念のもとに変質してきた。教会は地上の権力を手に入れ*2、パンを与え、異端を裁き、民衆を支配することによって幸福を与える存在になった。そのような、キリストの教えとは真逆の信念に基づく支配がこの16世紀セヴィリアでようやく完成しようとしている。もはやキリストの新しい言葉も奇跡も必要ない。帰れ帰れ。

 

イワンのこの話が、キリストは自由を説いた、しかし民衆は自由に耐えられない、そこで教会(のうちのある部分)はキリストの教えを換骨奪胎して「支配」をしている、というようなことを言っているところまでは多分そうなんだろうが、問題は、その話をしてイワンがアリョーシャに何を言いたかったか、ということだ。おそらく、イワン自身も(そして作者自身も)何か明確に言いたいことが定まっていたというわけではなく、思考の過程をそのまま垂れ流したのに近いということだとは思うのだが、ここをもう少しだけ検討したい。

その前の章の「反逆」では、イワンは、世界中で子供たちが酷い目に遭っているんだぜ、という例をいくつか挙げた上で、大要、「もしこの世界が神の創ったものであって、最終的には全ての人間が高みに到達して「永遠の調和」が達成されることになっているとしても、その結末はずーっと先になりそうだし、仮に今すぐ達成されるとしても、これまでに重ねられた悲しみを償うのには全然値しないんじゃないか」みたいなことを言っている。

 

「俺は、やがて鹿がライオンのわきに寝そべるようになる日や、斬り殺された人間が起き上がって、自分を殺したやつと抱擁するところを、この目で見たいんだよ。何のためにすべてがこんなふうになっていたかを、突然みんながさとるとき、俺はその場に居合わせたい。・・・しかし、それにしても子供たちはどうなるんだ。・・・何のために子供たちまで苦しまなけりゃならないのか、何のために子供たちが苦しみによって調和を買う必要があるのか、まるきりわからんよ。」(p614)

 

この箇所はイワンの思想をよりわかりやすく示していると思う。すなわち、イワンはたんに神を信じていないというより、「神が人間をこんなに愚かなものとして創ったんだとしたら、神なんて信じるに値しない」というように、人間世界に対する不信に陥っているように思える。

 

「結局のところ、俺はこの神の世界を認めないんだ。・・・俺が認めないのは神じゃないんだよ」(p591)

 

このように、イワンが人間を信じていない、ということだとすると、その後に続くこの「大審問官」の話というのは、「確かにキリストその人は人間を信じていたのかもしれないけど、その後の歴史が人間はやっぱり信じるに値しないということを証明したし、教会の連中(の一部?)だってそう思ってるんじゃないか」というようなことを言っているんじゃないか*3

 

とにかくイワンは、神の不信というより人間や社会に対する不信に陥っているといえそうだ。そこからの推論で、神も信じられなくなっている。

よくイワンは無神論者と言われるし、作中でもそういう人物としてみんなに認識されているけど、神や信仰についてとんと無関心な僕からすると、イワンはかなり強い信仰あるいは信仰したいという気持ちを持っているように思われる。その気持ちの裏返しとして神への不信に陥っている。作中によく出てくる表現を使うと「ロシア的」*4無神論者という感じなのだろうか。

 

ぽまいらに言いたいことがある

 

ところで(僕はあまりこういう揚げ足取り的な話はしたくないのだが)、この作品に関してよく「大審問官の章の『神がいなければ、全てが許される』という台詞は有名である」ということが言われている*5んだが、少なくともこの原訳にはその台詞そのものはなかったんだが。似たようなことを言っているところはある(「全てが許される」という発言はある)し、もしかしたらこの先で出てくるのかもしれんし、または原文には書いてあるのかもしれない(有名な台詞なんだったらわざわざ省いて訳したりしないと思うけどね)。しかしとにかく、この原訳のこの章にはその台詞自体はなかった。

 

あのね、僕はつくづくぽまいらに言いたいことがあるんだが、ネットで誰かが言ってるだけのことを鵜呑みにすんなと。そしてまあ、自分で信じるだけだったらいいんだが、裏を取ってないことを断定的に言ったり書いたりすんなと。本にセリフがあるかないかくらいは裏を取ってから書いてくれ。社会のニュースとか自分で裏を取れないものは、語り得ないから沈黙しろとまでは言わんが、せめて断定をすんな。僕はこういうちっちゃい話をいきなり「現代社会は・・・」みたいな大きな話に帰納する論法は好きじゃないんだが、それでもね、こういうちっちゃい話の積み重ねが、イワンよろしく、人間世界への不信につながっていくんだぞ()

いやほんと、結構頑張って該当するセリフを探したんだが、まるで時間の無駄だったぜ、まったく、参った参った。

 

 

 

*1:これらのキリストの返答は旧約聖書申命記の記述を引用したものらしい。

*2:ドストエフスキーは、ピピンの寄進やイエズス会の征服を槍玉にあげるようだが、個人的には、当初は権威への反逆の思想として生まれたキリスト教が地上の権力と明確に結びついたのは、もっと前のローマ帝国キリスト教を受容したミラノ勅令とか国教化とかその辺りなんじゃないかと思う。本題とは関係ないしどっちでもいいんだけど

*3:そもそも「反逆」と「大審問官」が基本的に同じことを言おうとしている、というのが前提だが

*4:あんまりよく意味わかってないけどw

*5:ウィキペディアにもそう書いてある。カラマーゾフの兄弟 - Wikipedia