あかりの日記

おっ あっ 生きてえなあ

ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』(中)(新潮文庫)

 

性欲とは神が与えし大罪。逃れられるカルマ。(アリョーシャ)

ああ逃れられない!(ミーチャ)

 

 

 

上巻

https://akariakaza.hatenablog.com/entry/2023/07/29/143352

 

さて中巻だが、まず、ゾシマ長老が亡くなる。聖者の死体は腐らないという伝承に反し、その亡骸は腐臭を放ち出し、修道院の内外から亡長老は貶められる。アリョーシャは絶望に修道院を飛び出すも、グルーシェニカとのやり取りで希望を取り戻し、長老の遺言に従って還俗する決意を固める。

一方ミーチャは、カテリーナに金を返そうと必死に金策を試みるが、悉く失敗する。他方ではグルーシェニカが親父の元に向かい、親父の枕元には彼女に渡す金が用意されている。絶望したミーチャはカラマーゾフ邸の塀を越え、そして…。それからミーチャは、モークロエの宿屋でグルーシェニカと馬鹿騒ぎの限りを尽くした後、駆けつけた予審調査官ら*1の取調べを受け、ついに逮捕される。

 

天の頂は地平線にかけて、まだおぼろな銀河がふた筋に分れて走っていた。動き一つないほど静かな、すがすがしい夜が大地を包み、教会の白い塔と金色の円屋根がサファイヤ色の空にきらめいていた。(略)彼は泣きながら、嗚咽しながら、涙をふり注ぎながら、大地に接吻し、大地を愛することを、永遠に愛することを狂ったように誓い続けた。(p246)

 

大気はひんやりとさわやかで、澄み切った空には大きな星がかがやいていた。(略)この瞬間には全存在が、最後に一目見るためにこうして馬車をとばしてゆく、ただ彼女のほうへのみ、さからいえぬ力で引き寄せられていた。(p363)

 

「鈴を鳴らせ、アンドレイ、ギャロップでとばすんだ。鈴を鳴らせ、鳴物入りでぶっとばしてやれ。だれが来たか、みんなにわかるようにな!俺が来たんだぞ!みずから乗りこんできたんだ!」(p372)

 

星の降る夜、アリョーシャは「大地に接吻」し、ミーチャはトロイカでモークロエに向けて疾走する。好対照なシーンだ。

 

ロシア人

 

ドミートリーという男は、直情的で性欲や浪費が抑えられないが、いい奴で周りからもまあまあ愛されている。彼の描写で興味深い点は、そのような情熱的な人間として描かれている彼が、また彼なりに強い信仰を持っているようにも描かれている、ということだ。カラマーゾフ3兄弟、というか、この作品に出てくる大半の人間はなんだかんだいって信心深い。強い信仰を持つためには人間への強い愛が必要なのだ。ドストエフスキーはロシア人を、信仰に堪えるだけの人間への素朴な愛をもつ民族と描き、それと同時に、そうあるべきだと示唆しているようにも見える。これは、多くのネームドキャラだけでなく、無数の「ロシアの民衆」の描写からも見てとれる。

 

民衆はわれわれの流儀で神を信じているのであり、神を信じぬ指導者はたとえ心が誠実で、知力が卓抜であろうと、わがロシアでは何一つできるはずがない。(略)民衆は無神論者を迎えてこれを倒し、やがて統一された正教のロシアが生れることだろう。(p131)

 

他方において、モークロエでミーチャが、ポーランド人である将校とヴルブレスキーとやり合う場面がある。将校はかつてグルーシェニカを捨てた男だが、彼女が金持ちになった今、金を目当てに復縁を図る。彼らはミーチャに対して賭けでいかさまをしかけようとするが、ばれてしまい、捨て台詞を吐いて広間の隣室に閉じこもる。

この描写は、直接的にはここにいた2人が卑劣だというものに尽きるが、わざわざこの役回りをポーランド人に設定したあたり、ポーランド人一般に対する侮蔑のニュアンスを含んでいると、感じざるを得なかった。少なくともポーランドの人がそう読んだとしても自意識過剰だと非難したりはできないのではないかと思う。

本作は世界史上の名作だが、それと同時に、まず第一に、ロシア人の「国民文学」なのだ。それはロシアから支配と服従を強いられた国や地域の人々との関係でもそうなのだ。そのことは、念頭に置いておいたほうが良いと思った。

 

一本の葱?

 

ところで、グルーシェニカの「一本の葱」である。これ、読んだ人はみんな感じると思うんだが、芥川の「蜘蛛の糸」の話とそっくり、というか全く同じ話だ。芥川って大正くらいの人だったから、蜘蛛の糸の方が後だな。まさか…?

ちょっと調べてみたところ、芥川はたしかに元ネタをよそから参照したようだが、直接参照したのは、ケーラスというドイツ人の擬似仏教説話『カルマ』の中の物語のようだ。しかし、ヨーロッパ各地に似たような民話があるらしいので、「一本の葱」も無関係ではないといったところか。「蜘蛛の糸」に関しては色々話したいことがあるんだが本題から逸れすぎるのでまたの機会にする*2

 

長老の言葉から

 

個人的に頭に残したい言葉だったので書き写しておく。

 

人はだれの審判者にもなりえぬことを、特に心に留めておくがよい。なぜなら当の審判者自身が、自分も目の間に立っている者と同じく罪人であり、目の前に立っている者の罪に対してだれよりも責任があるということを自覚せぬかぎり、この地上には罪人を裁く者はありえないからだ。(略)目の前に立って、お前の心証で裁かれる者の罪をわが身に引き受けることができるなら、ただちにそれを引き受け、彼の代りに自分が苦しみ、罪人は咎めずに放してやるがよい。たとえ法がお前を審判者に定めたとしても、自分にできるかぎり、この精神で行うことだ。なぜなら、罪人は立ち去ったのち、みずからお前の裁きよりもずっときびしく自分を裁くにちがいないからである。(p146)

 

僕はキリスト教徒ではないので、生まれながらにして罪を背負っているという価値観には立っていない。だけどこの罪の概念は、もっとも傲慢になりうる場面においても慎み深い態度でいるための一種の思考上の装置なんじゃないかと思うのだ。僕はこの慎み深さの重要性について極めて強く共感する。そして、僕がそういう態度でい続けるためにはどうしても「神」や「罪」や、そうでなくてもなにがしかの形而上のものへの信仰がが必要だというのであれば、そういう状況にもしもなったならば、信仰をするという決断をせざるを得ないだろう。僕は本来誰に対しても審判者ではありえないとは思う。そのことを、僕一人きりの力で、この先もずっと、常に必ず、頭におき続けることができるのか?

 

 

 

*1:当時のロシアの刑事司法制度はよくわからん。予審判事と検察の役割分担ってどうなってたんだろうか。戦前の日本とかも似たような制度か?調べてみたい。

*2:小出しにすると、自分も含めてなんだけど、僕たちは宗教的なエピソードに関する知識に疎すぎると思うのだ。個々人の責任ではないにしても。いわゆる「仏伝」に加えて、法華経とか阿弥陀経とかくらいは、国民共通の教養として知っててもいいんじゃないか(まあ聖書でも何でもいいんだけど)。日本は社会主義国じゃないんだからそんなに宗教を敵視しなくていいと思うし、むしろそういうリテラシーがないからこそ怪しい新興宗教が蔓延るんじゃないかという気もする。別に信じる必要はないのだ。知ってさえいればどこかで思考の源泉になるはずなんだ。我々はあまりそこの区別がついてなくて、信じてなければ知らなくていいと思っている。この社会が、こころの問題に関する話をまるっきり軽視し、あるいは敬遠し、ほのかに軽蔑している気さえするのが、僕は少し恥ずかしいと思う。少しだけだけど。