あかりの日記

おっ あっ 生きてえなあ

しっかりとつかめなかった話

 

「しっかりとつかむ」必要がある。つまり、党委員会はおもな工作をかならず「つかむ」必要があるばかりでなく、かならず「しっかりとつかむ」必要がある。なにごとによらず、しっかりとつかんで、すこしも緩めないようにしなければ、つかんではいられない。つかんでも、しっかりつかまなければ、つかまないにひとしい。手のひらをひろげていたのでは、もちろんなにもつかんではいられない。たとえ手を握っても、しっかりと握りしめなければ、つかんだようには見えでも、やはり物をつかんではいられない。われわれの一部の同志は、主要な工作をつかむにはつかむが、しっかりとつかまないために、やはり工作がうまくやれないでいる。つかまなければだめだが、つかんでも、しっかりつかまなければ、やはりだめである。
 「党委員会の活動方法」(1949年3月13日)

 

僕がこの一節を知ったのは庄司薫の『赤ずきんちゃん』だ。

 

 

僕は当時17歳くらいで、いやほんとに恥ずかしい話なんだけど、薫くんに本気で憧れてたんだ。アンポ闘争みたいなことをしたかったし、世界を転覆したいと思ってたし、マルクスとかシェークスピアとかに詳しくなりたかったし、「現代は、ショーペンハウエルの時代なんだ」と思ってたし、それに何より、その頃は、さる同志の女の子と恋人になりたいとすら思ってたんだぜ。そういうわけだから(?)、僕は毛主席語録を枕元に置いて、毎朝一節ずつ読んでいた。造反有利ってのをよく意味もわからず言ってたわけだ。

 

しかしながら僕はそれからというもの、学校のお勉強しかしなかった。それ以外なんにもしなかった。そうしたら、とりあえず大学は出て、小役人ともいうべき人間にはなったけど、それ以外、何ひとつ残らなかったんだぜ。語録は最後まで読んでないし、文革安保闘争どころか、今や吊るされる側の「ベーテー」の「走狗」でしかないし、「労働価値説」なんて1ミリも勉強しなかったし、「ホレーショよ」とか「ワレモコウ」なんてクサくてとても言えないし、恋人に至っては、宇宙が百億回生まれ変わったってできそうにないんだ。恐ろしい話だろう。やれやれ、まいったまいった。

 

今、実家で久しぶりに毛主席語録を開いている。

 

世界はきみたちのものだ。またわたしたちのものだ。だが、結局、きみたちのものだ。きみたち青年は、生気はつらつ、まさに元気旺盛な時期にある。朝の八、九時ごろの太陽のようだ。希望がきみたちの身に託されている。(略)

「モスクワにおいて中国人留学生・実習生に会ったさいの談話」(1957年11月17日)

 

文革が「正しかったのか」については、現代のこの国に生きる僕の立場としては、とてもじゃないけど正しかったとは言いがたい。少なくとも、中国仏教の一大聖地・五台山をはじめとして各地の仏教史跡を破壊しまくり、お坊さん達に冒涜の限りを尽くした点については、他の一切の点を宥恕するとしても、どう頑張っても擁護する論理が思いつかん。文革がもたらした結果は間違いなく最低最悪だった。

でもね、そんなことはここではどうでもいい。その若さの圧倒的エネルギーに、僕ははっきりと憧れていたわけだ。紅衛兵たちはそのエネルギーで燃えるような恋をしただろう。恋人たちは、毛主席の言葉を借りて愛を伝えあっただろうし、肩を寄せ合って世界中のプロレタリアが連帯する未来を熱っぽく語り合っただろう。僕はこの、半世紀も前の、世界史上でも類を見ない「学生が主役の時代」の学生をやってみたかったんだ。だけど、結局僕はやってみたかっただけだった。心の中で思っていただけだ。僕らの時代にベトナム戦争はないし、佐世保エンタープライズは来ないし、謎の棒を振って歩く学生の集団もいなければ、ソバカスの永田洋子もいない。でもそれが悪いんじゃない。そうじゃなくて、やっぱり、僕自身がなんにもしなかったのがいけないんだよ。今だってやろうと思えばできたんだよ。半世紀前に生きてたって、きっと僕は同じように後悔したはずだ。悪いのは世の中じゃなくて僕なんだ。それは分かってる。僕は、「しっかりとつかむ」ことができなかったんだ。

今の僕の体たらくを、17歳の頃の僕が見たら、怒りに震えるだろうか?泣くだろうか?君は(今の僕とは違って)いい奴だから、きっと笑って許してくれるだろうけど、それだから僕はもっと辛いんだよ。ああ、同志よ、僕はもう正午を過ぎた。僕はもう間に合わないのか?

 

われわれには、批判と自己批判というマルクス・レーニン主義の武器がある。われわれは、よくない作風をすて、すぐれた作風を保つことができる。

中国共産党第七期中央委員会第二回全体会議における報告」(1949年3月5日)