あかりの日記

おっ あっ 生きてえなあ

ソーニャちゃん助けて ドストエフスキー 『罪と罰』(下)(新潮文庫)

こっちのソーニャちゃんは人殺しとかは絶対しない。

 

「俺は『罪と罰』を読んだことがあるんだぞ。」

この一言が言いたいがためだけに、僕は5年くらい前に買ったのだ。というより、どちらかというと、当時は(今も割とそうだが)こういった類のものを読んでいないことに強い恥を感じていた、というのが正確である。なんとまあ浅ましい人間なことか。(この忌まわしい「恥」については、いつかもっとアカデミックなもの、例えば「プロリン」なんかを攻略した暁には掘り下げようと思う。まあそんな日は永遠に来ないかもしれないが(笑))

しかしながら僕は悲しいことに、それから、おそらく一度も、中を全く開かずに放置した。5年の月日を経て、ようやく言えるようになったのだ。それだけで結構満足なのだ。もっとも、僕には友達がいないので、そんな話をする機会などおよそないんだけど。

 

しかるに、流石に読んでそれだけというわけでもないぞ。僕は、これに取り組んでいて、一つ極めて重要な発見をした。僕は今までこの手の長い小説をあまり読んでこなかった*1のだが、これは極めて心の慰めになる、ということだ。勿論、ドストエフスキーという作家の文章が割とエンタメ的で読みやすくて、中でもこの作品は読みやすく、さらに訳もよかった、といういろいろな条件が重なったのだろうが、それでも、読了して、長めの小説を他にも色々読んでみようという気持ちがかなり湧いてきた。今になってそう思うようになったのには、こういうもので頭を満たしていないと潰れそうになるほど、僕が孤独になった、という事情も影響しておるのだろう。実は僕は、最近はほとんど発狂しそうなんだぜ。

 

そう、孤独ね、孤独は人間をダメにするぜ、ロジオン・ロマーヌイチ。ほんとね、僕は彼の思考がわかる。いや、具体的な理論の中身のレベルで賛同できるというわけでは全くないのだが、僕もひどく狭い都会のアパートで他人を拒絶して引きこもっていた時期があったから、そういう状況になると、自分の思考がどんどん極端に先鋭化していくというのは経験済みなのだ。どういうプロセスで人間の思考がああなっていくのかがわかる。僕の思考は彼と逆の方向、すなわち自分が地球上で最も劣った存在であるという方向に驀進していったんだけど、とにかく歯止めが効かなくなるんだよね。それで田舎の親なんかが気づいたときにはもう手遅れだ。それを救うことができるのは友達と恋人だけだぜ、実際。彼には、手遅れではあったけど、それらはあった。聖人のような友達と天使のような恋人の尽力により、彼は究極の救済の境地に至る。

言っちゃ悪いけど、僕が引きこもってるときに見まくった某アニメと全く同じ構図だな、とくに、ソーニャちゃんみたいな都合のいい女の子は現実に存在しねーよwwwwwwっうぇっうぇwwww・・・と思ったのだが、そのあたりに関する話はいずれ気が向いたらしよう。

 

しかし、そう、「思想」の話なんだが、この作品はラスコーリニコフの思想による犯罪と、そこからの救済をとおして、当時のロシア社会を覆っていた進歩的な考え方に警鐘を鳴らすと共に、キリスト教を通した人間性の回復をすべきだ、というような考え方を提示していたようだ。

この作品が出た1860年代というと、あのあれだな、アレクサンドル2世がクリミア戦争に負けて、近代化しなきゃというんで、農奴解放なんかをやって、ロシアにもフランス流の自由主義の波が来ていた時代なんだな*2。そういう時代に発表されたこの作品は、主として性急な自由主義の受容を批判する立場に立っているようだ。ラスコーリニコフの思想は、彼個人の極端な考え方というだけではなく、当時ロシアに入ってきた自由主義思想の成れの果てだ、というニュアンスが、おそらく含まれている。全体の利益のために「持つべき者」が持つことを肯定するのなら、最終的には全体の利益のために人を殺すことだって肯定することになるんじゃないか。*3また彼の他にも、自由主義者のルージンは(おそらく意図的に)極めて俗悪な人物に描かれているし、同じく流行り物の思想に染まったレベジャートニコフもバカっぽく描写されている。理屈だけの自由主義の行き先はニヒリズムであり、ニヒリズムに染まったスヴィドリガイロフさんは自殺する。それと対比して、学問はないけどヒューマニズムに満ち溢れた、希望の象徴として、キリスト者たる人物(ソーニャとかリザヴェータとか)を描いている。ラスコーリニコフも前者を捨てて後者に帰依することで救済を受ける。かなり露骨に政治的な示唆をもって対比されている。

著者は読者に一定の政治的な示唆を与えることを使命と考えていたらしく、他の作品も同じようなトーンだ。僕は実はカラマーゾフも途中(長老の死体が腐るとこくらい)まで読んで挫折したことがあるんだが、確かに結構説教臭かった気がするぜ。

そして(著者の死後だと思うが)たしかロシアではポーランドの反乱とかによって政治が反動化して、田舎の百姓の啓蒙には失敗し、絶望した知識人層がみんなニヒリストになって、アレクサンドル2世が暗殺されるんだよな。まあこの辺りの事情もあって、著者は預言者と呼ばれたりするのかね。

この辺の、リベラリズムに対する懐疑的な態度は、ロシア国内を超えて思想的な影響力が大きそうだ。20世紀の思想家、例えばこないだ読んだEHカーなんかにはダイレクトに影響を与えていそうだね。カーはドストエフスキーの伝記を書いているみたいなんで、いずれ読んでみるか。

 

あと、ここまででも少し書いたが、登場人物の点について、男は極めて俗悪に描かれているが、女は聖人みたいな描写が多い。ラスコーリニコフをはじめ、ルージンやスヴィドリガイロフ、マルメラードフとか、男は発狂してるヤバいやつがわんさか出てくる。女キャラはソーニャ、ドゥーニャ、リザヴェータと聖女ばっかりだ(やや人格の描写がのっぺりしている感もなくはない。いや、というより、男が気持ち悪いくらい細密にリアルに描写されているだけか)。ソーニャちゃんなんていかにも創作的なキャラで、それこそ宇宙が百億回生まれ変わっても、こんな女の子が自分の前に突然現れて自分のために全てを捧げて祈ってくれるなんて起こり得ないだろう。まだスヴィドリガイロフさんみたいな変態紳士の方が現実にいそうだぜ。

これは、まあなんというのかな、著者の趣味なんだろうなと思った。他の作品でもそうなのかな。

 

いや、とても人に読ませる文章ではない、とりとめもないメモになってしまった。ほんと物語の感想をまとめるのって苦手だなあ。まあどうせ誰も読んでいないしこんなところでいいか。それにしても、僕は今現在の気分において、この人の書く、極めて根暗で陰惨で、ゴシップ的な面白さがあって、それでもやはりどこか文学的な深みのある文章がかなり気に入ったのだぜ。「大審問官」なんかにももっかいチャレンジしてみようかな。

 

 

 

 

*1:厨房の頃はイキって坂の上の雲とかパウルカレルの独ソ戦史とか、やたら長いのを読んでたけどな。いやそれにしても、パウルカレルがナチ党員だったという事情を踏まえて読み返してみると、あれは極めて国防軍を英雄的に描いているよな。そのくせキエフで包囲殲滅された60万人のソ連兵がどこに行った・・・・・・のかなどは一切触れてないからね。いや全く関係ない話だが

*2:学生の頃、世界史を勉強した頭がもっと残っているうちに読むべきだったなあ

*3:前にも書いた気がするけど、このテの思想は、ある側面では前世紀の終わりくらいから再び優勢になって、今では割と支配的な考え方になっているような気がしている。「集団自決がなんたら」なんて、まさに、(新)自由主義とか「全体の利益」からの演繹として、一部の個人の犠牲を正面から肯定する議論にほかならないじゃないか。