あかりの日記

おっ あっ 生きてえなあ

帰宅

 同期の結婚式に行った。僕は他人の結婚式に行くのが初めてだ。白いネクタイをしめて、ご祝儀を入れた封筒を入れた「ご祝儀袋」を入れた「フクサ」を入れた「クラッチバッグ」を抱え、式場に行った。

 結婚式というのはめでたいものだ。めでたい雰囲気でいただくと料理も美味しい。中島義道なんかに言わせれば、新郎新婦の幸せそうな顔はツクリモノだというんだろうが、僕はそうは思わなかった。本心で幸せだったんだろう。やはり金はかかるが誘ってもらえたものはできる限り行くのがよいだろう。末長く幸せになってくれ。

 しかし、あのビデオである。あれの破壊力は凄まじい。やはりあれを見ると、独り身のものは、自分の来し方についてさびしい思いを馳せずにはいられない。別に新郎新婦へのやっかみではない。ただ、あの素晴らしい人生に比べて、おれのものは何なんだ。

 そう、僕は気を確かに保つ必要がある。僕はこうやって生きてくるしかなかった。あるいは、選び得た部分は、(やらなかったことも含めて)自分の選択でそうした。そこには親も環境もまったく影響しなかったわけではないだろう(そういう意味で、僕はもっともラディカルな自己責任論みたいなのには与しない)。しかし最終判断を下したのは自分だ。流されるままに空っぽの人生を生きてきたとしても、そうするということを選んだのは自分だ。そういう意味で、「あのときああしておけばよかった」みたいな後悔はあんまりない。一度もないとは言わないが、あんまりない。僕のようなネガティブな奴がそういうことを言っても信じてもらえないかもしれないが、本当にそう思ってるんだぜ。だから僕は、変な話だが、過去の自分のことをそんなに嫌いじゃない。

 だけど、とはいえ、過去の自分はとてもじゃないが人様に見せられるようなものではないと思う。いつの時点でもみぐるしく生きている。僕は僕の生きてきた人生を、僕という人間の本質を、できることなら誰にも知られたくない。恥の塊だ。今日だって(当然こんなところには書かないが)恥を重ねた。恥で固められた過去を思い出したくもないが、そうやって生きてくるしかなかった自分のことはそんなに嫌いじゃないんだ。

 今、天台思想の本を読んでいるが、はっきり言って僕はあの「諸法実相」という概念はあんまり好きじゃない。「ありのままの姿をありのままで受け入れよう」という態度は、まず宗教規範としてどうなのという問題もあるし、世俗の論理としてもそんなに正しくないと思う。「真の自分」というのがもしあるんだとすると、それを曝け出して社会に受け入れてもらえるような人間なら、曝け出していいのかもしれないけど、ある種の人間にとっては、色んなものでがちがちに塗り固めて武装して、それでもぼろぼろと禿げていくわけだが、とにかく最後の最後まで秘匿して守り抜くべきものなんだよ。「実相」が「諸法」だなんてうそっぱちだ。真実は隠されているんだよ。少なくとも僕の、僕自身のあるがままの真実の姿は、世の中のあらゆるものから秘匿して、墓場まで持っていってやる。恥晒しな僕の人生は、決して結婚式のビデオにはならないだろう。あるいは、僕の人生のうち外面に現れたある部分(それだって「諸法」ではあるわけだ)を切り取ったら、なんかいい感じのビデオにすることはまったく不可能というわけではないかもしれないが、それは決して真実の僕、僕の「実相」ではないだろう。真実の僕はもっとずっと醜悪で恥晒しなんだ。そんな真実の自分を、自分だけが知っている。真実は絶対にこの現象の世界には現れない。現れてなるものか。僕は気持ち悪いナルシストで、プライドの塊なんだ。

 多分今日のこの気持ち悪い日記は、まもなく消すだろう。