あかりの日記

おっ あっ 生きてえなあ

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中論によれば、「あるものが空である」というのは、ものが(客観的に)あるとかないとかの話をしているのではなくて、「そのものが存在するということを言語や論理によって認識(あるいは表現?)することは不可能だ」ということを言っているのではないか?すべてが空であるというのは、我々は言葉によっては世界を認識できないということを言っているのではないか?

つまり「空」というのは、存在論というよりは認識論の話をしている(あるいは、「我々は世界を認識できない」という認識論の議論を、「つまり世界はない」という存在論の議論に直結させている)のではないだろうか。

 

ただもしこの理解が合っているとしても、その後のインド中観派や、他の国で受容された仏教においても「空」がこのまま理解されたわけではないようにも思える。上に書いたような、「空」はもっぱら認識論の話をしている(あるいは認識論と存在論を直接に結びつける議論である)という理解を、例えば今の日本のお坊さんとかにぶつけても、全然違う、と言われてしまうのではないだろうか。