あかりの日記

おっ あっ 生きてえなあ

笈川博一『物語 エルサレムの歴史ー旧約聖書以前からパレスチナ和平まで』①

 

 

エルサレムの歴史」と題しているが、エルサレムだけというよりは、エルサレム市を軸にしつつ、パレスチナ/カナン*1全体の古代から現代までの歴史が網羅されている本である。ちょっとだけ世界史も復習しつつ、見ていこうと思う。

 

と、その前にことわっておくんだが、僕はネットで時事ネタについて語るのがどうもニガ手というか、いまいち好きになれないのだ。時事ネタ自体は割と興味ある方だと思うんだけどね。

ということで、時事ネタに渡らない話を書く。時事ネタの話をしたい人は、現実世界の僕に話しかけてくれや。僕は、相手を見て、アタリサワリのない話をするだろう。その話が弾むことは多分ないだろう。それはとても良いことだ。それは、いいことよ。アタリサワリのないことは実に平和で民主的だ。民主主義とは、「みんなが幸せになるにはどうすればよいか」よりも前に、まず「人に迷惑をかけないこと」が先行するのだと、たしか薫くんが言っていたが、僕はまことにそのとおりだと思う。やはり薫くんは最高や。ああ、また前置きがこんなに長くなってしまった。参った参った。

 

 

天地創造出エジプト

パレスチナ(古代には「カナン」)について人類が初めて書き残したのは多分旧約聖書である。旧約聖書というのは、ユダヤ人の民族史がその中心であって、紀元前4世紀くらいまでに成立したとされる。古事記と同じで、どのへんまで伝説なのかよくわからん。多分あったと言えるのはバビロン捕囚くらいから*2

新約聖書はもちろん、イエスが生まれてから処刑されて復活するまでの、紀元前1世紀末〜紀元1世紀半ばくらいまでのパレスチナのお話である。この頃になると、ローマ側の史書(『ユダヤ戦記』)にもユダヤ人が出てくる。

 

恥ずかしながら僕は聖書とか西方の宗教をほとんど知らない*3のだが、つけやきばの知識で概観する。繰り返すが、どこかまでは伝説でどこかからは多分事実なのだ。それを区別するのはここではあまり意味がないと、思ってくれや。

神がアダムとイブを作って、楽園を追放され、カインとかノアとかを経て、紀元前15世紀くらい(?*4)のアブラハムに至る。アブラハムは神からの啓示を受け、神への信仰をする代わりにアブラハムの一族がカナンの地に住むことを約束するという契約を結び、カナンの地に移住した(アブラハム契約)。アブラハムは神によく帰依し、神に言われれば一人息子イサクを殺そうとした。イサクの子ヤコブの12人の子の子孫12部族の末裔が、現在まで続くユダヤ人である。…ということで、今のイスラエルに住んでるユダヤ人の直接の祖先はアブラハムとされてるわけね。

そこから、ユダヤ人の一部は新王国時代のエジプトに移住するが、同地で迫害に遭ったことから、紀元前13世紀くらい*5に、族長モーセを中心にエジプトを脱出しカナンに戻った(出エジプト)。このときモーセシナイ山十戒の刻まれた石板を授かったとされ、古代イスラエル王国ではこの石板を入れた箱(契約の箱)が重要アイテムとなったが、このオーパーツはいつしかどこかに行ってしまった。

 

第一神殿時代

紀元前1000年頃、12部族を併せた統一イスラエル王国が成立し、王としてダヴィが即位した。ダヴィデは南部ベツレヘムの出身だが、色んな理由でエルサレムに都した。これがエルサレムの歴史の始まりである。次のソロモンエルサレムに神殿を造り(第一神殿)、ユダヤ人の神の祭祀は専ら第一神殿で行われるようになり、エルサレムの宗教上の地位が極めて高くなった。

もっとも、ソロモン死後の紀元前10世紀後半にはイスラエルは南北に分裂し、北王国は紀元前8世紀後半に、オリエントを統一したアッシリアに滅ぼされた。エルサレムを有する南王国はもう少し頑張るが、紀元前586年、アッシリア分裂*6後に勢力を伸ばした新バビロニアネブカドネザル2世により滅ぼされ、第一神殿は破壊された。ユダヤ人、特にそのうち支配層のエリートは*7カナンから遠く離れたバビロンまで強制連行された(バビロン捕囚)。

捕囚はユダヤ人の信仰に2つの変化をもたらした。⑴まず、当時の人にとって神は部族の守護神であり、負けた神に用はない。捕囚を受け、神殿を失った民族は、移住先の神に乗り換えて同化してしまうのが普通だ(捕囚はそのためにやっているのだ)。しかしユダヤ人の信じる神は他の神より格上だった。絶対神を戴くユダヤ人がバビロニアに負けるというのは矛盾しているのである。この矛盾の解消のため、ユダヤ人は「捕囚は神が与えた試練だ」と考えざるを得なかった。⑵次に、神殿を失ったユダヤ人は信仰の方法を変えざるを得なかった。彼らは、神から自分達にまで繋がる民族史の系譜を書き残し、それを読み聞かせて伝える、という方法での信仰を始めた。

まとめると、ユダヤ人は「試練を与える神」について「書き残す」という、新たな信仰を創始したのである。すなわち、旧約聖書、律法のプロトタイプのようなものの聖典化がこの捕囚中に進行したのではないか。

 

第二神殿時代

幸いにも(?)捕囚は半世紀で終わった。紀元前538年、新興のアケメネス朝キュロス2世新バビロニアを征服し、捕囚を解き、ユダヤ人をカナンに帰らせた。オリエントを統一した彼(そして以降のアケメネス朝)は宗教寛容政策を採り、エルサレム神殿を再建した(第二神殿)。アケメネス朝治下でユダヤ人はカナンに落ち着き、紀元前4世紀には旧約聖書が成立して、現在のユダヤ教の基礎が概ね完成した。

紀元前4世紀後半には、マケドニアアレクサンドロス大王がアケメネス朝を滅ぼしてオリエントを征服した。大王死後王国は分裂し*8、東地中海はセレウコス朝の治下に入り、いわゆるヘレニズム時代に入る。パレスチナにもギリシャっぽい文化が入る一方、セレウコス朝ユダヤ人を迫害した。その後紀元前1世紀には、ローマの支配に移る。ローマは反発を考えて現地人に支配させる方法をとった。ローマ時代のユダヤ人の王で有名なのが、子供殺しでおなじみの(?)ヘロデ王である*9。ヘロデは暴君として有名だが、もう一つ有名なのは建築オタクだったことである。彼はエルサレム市の城壁を超堅固に造ったほか、第二神殿のあった小高い丘を巨大な台地に造成し、そこにめちゃくちゃデカい神殿を建て始めた。このヘロデ神殿はヘロデ死後に完成する。彼が造成した台地が現在の神殿の丘であり、現在では西側の壁は嘆きの壁としてユダヤ教の聖地とされ、台地の上にはアルアクサモスク岩のドームといったイスラームの聖地がある。

ヘロデ王の死後、その子は人気がなく、パレスチナはローマ直轄領としてローマ総督の統治下に入る。有名な総督は福音書に登場するピラトである。このヘロデからピラトにかけての時代に、エスが(ダヴィデと同じ)ベツレヘムに生まれ、パレスチナ中に信者を集め、弟子に密告されてパリサイ派から異端とされ、ピラトに十字架にかけられた。パレスチナを追われた使徒たちは世界で布教を始め、キリスト教世界宗教になっていくのである。

…という話からも分かるように、ローマ総督はユダヤ人にある程度気を遣って統治していたいたようなのだが、ユダヤ人は多神教を奉ずるローマ人の統治に不満を隠せず、66年にはパレスチナユダヤ人の大きな反乱が起きる(ユダヤ戦争)。エルサレムユダヤ人はヘロデの築いた城砦に籠って抵抗するが、ローマの圧倒的な軍隊の前に敗北した。虐殺が行われ、完成したばかりのヘロデ神殿は更地にされて、ユダヤ人はエルサレムへの居住を禁じられた。エルサレムは荒廃した。

その後2世紀前半、市村正親ハドリアヌス*10エルサレム市を復興させ、神殿も再建すると言い始めた。前帝の拡大政策を改め、現状維持政策を採ったが、東方ではパルティアに対する前線基地としてエルサレムを利用しようとしたのだ。ユダヤ人は初めは喜んだが、後に激怒する。神殿にローマの神々を奉じようとしたからだ。ユダヤ人はバル・コクバを中心に反乱を起こし(第二次ユダヤ戦争)、エルサレムを占領するが、怒ったハドリアヌスの軍勢に鎮圧される。彼は当時「ユダヤ」と呼ばれていたこの属州の名を、あえてユダヤ人の歴史上の敵であるペリシテ人にちなんで「パレスチナ」に変え*11、聖書を焚書し、改めてエルサレムへのユダヤ人の居住を禁じた。

 

このような経緯を経て、ユダヤ人は次第にパレスチナを離れ、世界中に離散していくことになる。

もっとも、この後見ていくと思うけど、(エルサレム市への居住が禁止されていた時期はそれなりにあったものの)パレスチナをはじめとする中東一帯には、この後も歴史を通してずっと、一定の数のユダヤ人が住んでいたようである。だからなんだと直接に言えるわけではないのだけど、僕たちはなんとなく「ユダヤ人はローマによるエルサレムの破壊でパレスチナ全域から煙のようにいなくなり、そこから1800年後にシオニズムの頃になっていきなり戻ってきた」と考えてしまうが、(ある面では正しいのだろうけど、)そこまで単純な話ではないと思う。ずーっと長い間、人口比率や支配者は変わっていたものの、ごちゃごちゃとしたまま、ある時は殺し合い、ある時はそれなりの調和を保って暮らしてきた、というものなのではないか。だからといって直ちに何か言えるわけではないが。

 

ああ、またこんなに長くなってしまった。

この調子だとまたパート③くらいまで続きそうだが、まあ、誰かに読ませるために書いているわけじゃないし、ちょっと世界史を復習するという目的もあるので、これくらい詳しくてもいいか。

 

 

 

*1:地域名としては「パレスチナ」というのが中立的な呼称なのかと思ったが、「パレスチナ」という地名自体には後述するとおり語源的には「ユダヤ人の土地じゃねえぞ」というニュアンスが入っていそう(もしかしたら今はそうでもないのかもしれないが)なので、どうしようかなと思った。しかし他に適当な呼び方もなさそうなので、とりあえず地域を表すときには「パレスチナ」と言うことにする。

*2:山川の世界史の教科書にダヴィデとかソロモンとか普通に書いてあったけど、聖書みたいな主観バリバリの聖典だけが根拠なのだとすると、かなり怪しいよな。そもそも、これは僕は結構気になっていることなのだが、歴史上の事実があったかなかったかの事実認定というのはどういうルールでやっているんだろうか。学者の間ではある程度承認された基準みたいなものがあるのだろうと思うが。

*3:もっとも仏教だってろくに知らないが

*4:年代は山川の教科書に準拠

*5:エジプトではアメンホテプ4世のちょい後くらいだよな。やはり異教の民に厳しかったのかね。

*6:メディア、リディア、エジプトと新バビロニア。学生の頃はこういう用でもないものをよく覚えていたよなあ。しかして、一度頑張って頭に入れたものを忘れてしまっているというのは哀しいことだ。

*7:統治上の都合から当時はしばしば行われていたようだが

*8:アンティゴノス朝マケドニアセレウコス朝シリア、プトレマイオス朝エジプト

*9:もう新訳の時代になってしまった。捕囚解放後から前1世紀くらいまでは聖書の間隙の時期なのであんまり記録がないらしい

*10:五賢帝ネルウァトラヤヌスハドリアヌスアントニヌス・ピウスマルクス・アウレリウス・アントニヌス

*11:これもあって、ユダヤ人にとって「パレスチナ」という呼称はどうなんだろうと思ってしまう。あんまり気にしていないのかもしれないが