音声に驚かない獅子のように、網にとらえられない風のように、水に汚されない蓮のように、犀の角のようにただ独り歩め。(『ブッダのことば ースッタニパーター』71)
交わりをしたならば愛情が生ずる。愛情にしたがってこの苦しみが起る。愛情から禍いの生ずることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。(36)
妻子も、父母も、財宝も穀物も、親族やそのほかあらゆる欲望までも、すべて捨てて、犀の角のようにただ独り歩め。(60)
けだし無理難題だ。しかし出家とは、初期仏教そして南伝仏教とはこういうものだ。
僕たち日本人は、おそらくは古代からずっと、きわめて世俗的な人生を生きている。そんな僕たちが信じてきたのは、釈尊
別に僕は、だからといって、日本の仏教はニセモノだ、なんていうつもりは全くない。
学識ゆたかで真理をわきまえ、高邁・明敏な友と交われ。いろいろと為になることがらを知り、疑惑を除き去って、犀の角のようにただ独り歩め。(58)
まあしかし、在家の人生でも、「付き合う人は選ぶ」というくらいなら、できるよな。
ところで、「犀の角」と聞くと、思い出す景色がある。
寒さと暑さと、飢えと渇えと、風と太陽の熱と、虻と蛇と、ーこれらすべてのものにうち勝って、犀の角のようにただ独り歩め。(52)
数年前、四国八十八ケ所を歩いていたとき。高知県の、足摺岬の先っちょのお寺から、西海岸に沿って歩くルートで、宿毛というところのお寺に向かう。この区間は、あるところまでほとんど人影がない。
そのあたりに、「小才角(こさいつの)」という土地がある。そこの近くに、灯台のある叶崎という岬があって、その上に、観音堂がある。そのお堂で一泊した*1。
水も電気*2ももちろんトイレもない。もっとも近い民家でも、歩いて数キロはかかる。日が落ちた後、何か獣の声がした。灯台の光のほかには、明かりと呼べるものは皆無。それこそ、「虚空蔵菩薩がクチの中に落ちてきそうな」くらいの、星が燦然と光る夜だった。
そのとき僕は、「世界には自分以外には存在しないのではないか」という、一種の離人症のような感覚になったものだ。もちろん、それで悟りに至ったなんて不遜なことをいうつもりは、毛頭ないのだけど。
まあ、しかしながら、こんなロマンティックな話をした後でこう言ってはなんだが、その地名と、釈尊の言葉は、特に関係はないだろうな。うん。