あかりの日記

おっ あっ 生きてえなあ

あの人をなんと呼ぶべきか問題

 

 

この人ね

 

最近僕はこの人について考えることが多くなったのだが。

ところで、あなたはこの人をなんと呼んでいるだろうか。他の多くの例と同様に、この人の呼び方のうちで人口に膾炙したいくつかのものについては、専門家に言わせると問題があるらしい(専門家というのはえてしてこういう細かい言葉遣いで専門外の人間にまでマウントを取ってくるものだ。参った参った)。この人について、なんと呼ぶのが最も適切で、かつ、最もこなれているかを考えてみたい。

 

1 仏、仏さま

 ほとけさま。悟り、真理に到達した人。この「仏さま」というのは我が国で一番使われている呼称かもしれないが、仏教を少し齧ったことのある方なら、この人を指す言葉として「仏さま」が若干不適切であることはわかるだろう。たしかにこの人は仏さまではあるが、大乗仏教の我が国においては仏さまはこの人だけではない。阿弥陀如来大日如来薬師如来、未来仏である弥勒さん・・・とたくさんの「仏さま」がいる*1。それどころか我々だって死ねば「成仏」して「ホトケ」になるわけだ。「仏さま」がこの人以外にはいない上座部の国ならともかく*2大乗仏教の我が国では、多くの仏さまの中からこの人を特定するための呼称を用いるべきだろう。

 

2 ブッダ

  では「ブッダ」はどうか。ブッダサンスクリット語であるところ、その音写が「仏陀=仏」なので、意味は1と同じである。しかしながら、我が国の慣習上はこの人以外を指すときにブッダの語は用いない気がする。「阿弥陀ブッダ」とか言わないよね。そうすると、人物の特定の問題は事実上クリアできているように見える。

 もっとも、専門家に言わせると、ブッダと呼ばれていた人はこの人だけではないらしい。ブッダとは古代インドにおいて「真理に目覚めた者」の意であるところ、これは一般名詞として用いられていたようだ(その後歴史を下ると、ブッダ=この人、となっていくらしい。)。例えば、ジャイナ教の始祖マハーヴィーラヴァルダマーナ)も「ブッダ」と呼ばれていたし、同じくジャイナ教の典籍ではあの仏弟子のシャーリプトラ(舎利子)も「ブッダ」呼びされている箇所もあるらしい。そうすると、厳密には「ブッダ」でも1と同様に人物の特定の問題が生じそうである。(そのくらいいいじゃないかという気もするが。)

 

3 ガウタマ・シッダールタゴータマ・シッダッタ

 本名。サンスクリットだと「ガウタマ・シッダールタ」、パーリ語だと「ゴータマ・シッダッタ」。これなら特定はばっちりであるが、問題が2点ある。

まず、リスペクトがない。あなた先輩とか上司とか呼び捨てで呼べますか(本人の前でなければ呼べるかもしれないが)。我が国の学校はジャイナの始祖とかも尊称のマハーヴィーラじゃなくて本名のヴァルダマーナの方で教えるよな。まあそっちはいいかもしれないけど、仮にも一応我々が信じてる(ことになってる)宗教の開祖だからまあ、呼び捨てにするのはどうなのかね。かといって「ガウタマさま」とかつけるのもヘンだし。

それからもう一点、こちらがより重要だが、あんまり言い慣れてない(知識としては殆どの人が知ってはいると思うけど)。初めにも少し書いたが、僕はこういうよく使う言葉については「こなれ感」というか、もっと言うと「相手に確実に違和感なく伝わる表現か」が大事だと思うんだよな。友達と仏教の話してて「シッダッタさんがさ」とかまず言わないだろ。あんまり良い例えではないかもしれんが、麻原彰晃のことを「智津夫氏」とか呼ぶようなもんだぞ。それで「え?」と聞き返されるようならそれはもう「適切な」表現とは言わんのだ。これは僕の感覚だけど。(そもそも僕には友達がいないので、友達と仏教の話をすることはないが)

そうすると、「ガウタマ・ブッダ」もダメだ。これなら、人物の特定とリスペクトの2つは問題なく解決できるが、やはり少し耳慣れない表現なのでこなれ感の問題が残るといえる。

 

4 釈迦、お釈迦さま

 それなら「お釈迦さま」がいいじゃない。これはガウタマ・シッダールタを指す呼称である。彼が「シャーキャ族」という部族の出身だったことから、その音写である「釈迦」を、彼を指す表現として使っている。そのため、まず特定の問題はOKのように思える。それから、「さま」をつければリスペクトもOKだし、極めてよく使われる表現なのでこなれ感の問題もクリアだ。ナイスでーす。これでいいのでは?

 しかし、専門家に言わせると特定の問題が残っているらしい。漢訳仏典において、この「シャーキャ族」とは別の部族である「サカ族」の訳語としても「釈迦」の字が使われてしまっているらしいのだ。三蔵法師だか鳩摩羅什だかわからんが、そこはもうちょっと気を遣って訳してくれよな・・・と、千年以上も前の人に言っても仕方ないね。

どうせ原典や漢訳のお経を読む人なんてほとんどいないんだし、日常会話ではこの「お釈迦さま」でいいんじゃね、という気もする。しかし、気を遣うなら、例えば、釈迦族ブッダとして「釈迦仏」とかならOKか。しかしそうするとどうもこなれ感がなあ。「仏(ブツ)」という表現は主として大乗の諸仏を表現するときに使う感じがして、諸仏の中の一人として列挙するときに「釈迦仏」と言うのはアリだけど、そういう文脈じゃないときにあえて「釈迦仏」と言うのは少し違和感があるかな。

 

5 釈尊

 「釈尊」。「釈迦」にいろんな称号が付いたバージョンである「釈迦牟尼世尊」の略語。これは意味合いとしては「釈迦仏」と近く、特定とリスペクトの問題はOK。問題はやはりこなれ感だ。僕は「釈尊」という言葉を、少なくともお寺のお坊さんとかが自然に言っているのをあまり耳にしたことはない。中村元とか、その影響を受けた仏教学者たちの本の中でしか見たことがない表現だぜ。これは僕の偏見だけど、「釈尊」の語は、そこに含まれるアカデミックな匂いが、ともすると、「現在の日本の仏教はダメダメであるから、原始仏教上座部仏教を通して我が身を見つめ直せ」というような、一定のイデオロギー的なニュアンスをも醸し出すのかもしれない。そんなことはないかもしれないが。しかしどうも、戦後に書かれたいくつかの仏教の本を読むと、そういう「今の日本仏教への厳しい視線」を感じることがままある。そういう人は大抵「釈尊」と呼んでいる。『正しい』『正統な』仏教を追求していくと、お釈迦さまの呼び方は「釈尊」になり、今の日本仏教は「堕落している」という評価に行き着く、ということなのだろうか*3。繰り返すが、これは単に僕の思い込みかもしれない。

 少し話が逸れたけど、「釈尊」は、アカデミックな文脈では一定のこなれ感がありそうだ。肩肘張った文章を書くときには「釈尊」が良いだろう。しかし、日常会話で使うのはどうもね。一応伝わりはする?・・・いや、会話の文脈によるのかもしれないけど、「シャクソン」という音を聞いてなんのことだか分からない人もまあいなくはないのではないかと思う。

 

6 まとめ

 以上の検討からすると、会話では「お釈迦さま」を使って、こことかに書く文章では「釈尊」を使うのが穏当か。じゃあ、これからはそうします。

 

7 おまけ

この、「適切でかつこなれた表現がない」という問題はいろんなところにある。今の天皇を何と呼んだらいいか。会話の相手の配偶者を何と呼んだらいいか。気にする人は気にしそうだが、気を遣って「キンジョウ」なんてこなれない表現をしたら、逆に通じないかもしれない。もし通じたとしても、なんか強いイデオロギーをもっていると思われるのも嫌なんだよな。相手に嫌な思いをさせたくはないが、それを超えてコミュニケーションによどみが生じるのは望ましくないと思うのだ。参った参った。

 

 

参考文献はこれでした

 

 

 

*1:それぞれベツモノなのかは色々議論がある。法華経を読むと全部おんなじ人だと書いているようにも見える。

*2:ここは本当に面白いところで、タイの人は死んだら天国に行くとは思っているが、多分、仏になれるとは思っていない。我が国の人間はタイ人に比べると全く修行をしないが、誰もが、「世俗の人生を全うすれば」「この1回きりで」仏になれると思っている。それが、空海最澄親鸞日蓮道元等の祖師が頑張って説いてきた日本仏教の本質なんじゃないかと思う

*3:学問関係者の一部がもしこのような態度であるとするならば、それはやや尊大なのではないかという気がしないでもない。僕の考えすぎかもしれないが。この話題はいずれ、もう少し知識がついたら、詳しく検討するかもしれない。