あかりの日記

おっ あっ 生きてえなあ

ドストエフスキー 『罪と罰』(上)(新潮文庫)

 

 

の話は…しません(タイトル詐欺)

 

感想は下巻まで読んだら書くことにして、今日は全然違う話をメモしておく。

 

僕は本というのは、本屋で買うのがいいと思う。積ん読でも買うのはよい。電子書籍でもいいけど、図書館で借りるよりは金を出して買った方がいい、という話だ。他人にどうこうしろと命じるつもりは一切ないし、その権利もない。僕はそう思う、というだけの話をする。

 

 

僕はこの作品、新潮文庫版のものを読んでおるのだが、はて、いつ買ったものだったか。帯(僕は捨てたり捨てなかったりするのだが)には、故・三浦春馬氏の顔がでかでかとプリントしてある、「舞台化決定」の文字と共に。どうやら三浦氏主演の舞台をやったらしく、調べてみたら、2019年初頭くらいだった*1。舞台化の決定が公表されたのは半年前くらいだと想定すると、かわいそうな2冊はじつに4、5年もの間、開かれないままに本棚の中で眠っていたことになる。

 

その期間、本当にいろいろなことがあった。僕は都会の狭いアパートにひきこもり、親を泣かせるようないくつかのことをしでかし、一方では西洋近代のリベラリズムなるものや、またある面ではそれを実定化した「法律」についてなどをわずかにだけ勉強し、そのおかげか奇跡的になんとか職にありつき、孤独な学生から孤独な労働者に昇格できたが、その間も世の中はどんどん貧しくなり、失われた富は決して元には戻らず、疫病や戦争に人々の心は日に日に凶暴になりつつあり、いつしか三浦春馬氏は自殺した。流石に少し脚色したが(笑)、僕の主観では、ここ4、5年の自分と世の中というと、そんな時代だったんだぜ。いやもうね、学生の頃の思い出なんてのは、こうして独りで惨めな感傷に浸るために使うだけならいいが、他人との話の種に、なんてのはまっぴらごめんなんだぜ、ほんというとさ。

 

閑話休題、そういう自分や世の中のこととはとくに関係なく、今になって僕は、なんとなく、本棚を開けて、これを読んでみようと手に取った。そして中を開いてみて、はじめて気づいたんだが、まあこれは、今だから読める部分もあるかもしれないってことだ。もちろん、買ったその時に読んでれば、その時なりの発見があっただろうけど、今ここで初めて開いたら、それはそれで、上に書いたようないろんなことが経過した今でしかわからないところをわかって読める(どうせ2回は読まないしな。)。例えばラズミーヒンが政治談義でまくしたてているところを読んで、あ、ehカーが言ってたのはこれか、なんて思うのは、それは今読んだからこそだろう。

 

しかしそれにしたって、そもそも家に置いてなければ、なんとなく読んでみようかな、なんて思うこともないんだぜ。自分で買って積んでおくことで、おいいつになったら読むんだよ、と、霊圧を感じる。そういう意味では、電子書籍よりは紙のほうがちょっといいかもな。僕の家にはあまり物がないが、昔虚栄心のために買ったいくつかの古典や、知人から送られてきた油紙をまいたぼろぼろの全集が、異様な霊圧を放ちながら、開かれるのを待っている。今でもたまに、街に繰り出して、虚栄心から岩波文庫なんかを買い足しては、積む。ハタから見たら、金を無駄にする愚かな行為だと思われるかもしれない。しかしながら…いや、まあ、そのとおりだな。僕は5年もの間霊圧を浴び続けなければ、自分で買ったものを開きすらしない愚か者だ。聡明な諸君は図書館で借りて、経済合理的な人生を送ってくれ。僕が悪かった。だが僕は、人間は、いや、少なくとも僕自身は、そこまで合理的な行動をとるとは信用できないので(この点では、僕の考えは、近代合理主義ぎらいのドストエフスキーと一致するんだぜ)、そうであるからして、今日も積む。それが僕のリアリズムってやつだ。