あかりの日記

おっ あっ 生きてえなあ

定方晟『須弥山と極楽』

仏教はこの世界をどう説明したか?

200ページちょいの文庫本で1100円。ちょっと高いかな?まあでも、それだけの価値はある本だったと思う。面白かった。

 

須弥山の世界

この世界を記した仏典

須弥山とか地獄とか、仏教特有の世界観は、まず、どのテクストに書いてあるのか?どうやら、原始仏典である長阿含の中に、この世界のことを記したお経があるらしい。

そして、それについて、5世紀頃に世親が記したアーガマの注釈書である阿毘達磨倶舎論(倶舎論)が体系的な解説をしているようだ。ということで、以下の説明は、基本的には倶舎論に従う。

俺たちのいるところ

俺たちの立っている大地から話を始める。この世界の下の一番の基礎部分には、巨大な円柱上の風の輪(風輪)がある。その上に、水の円柱(水輪)が載っており、さらにその上に金属の円柱(金輪)が載っている。そしてこの金輪の表面の円盤部分に我々は暮らしているのだ*1

金輪の表面上は、海で覆われている。中心に巨大な山があり、その東西南北に4つの大陸が浮かんでいる。真ん中の山が須弥山である。海抜高度56万キロメートルで、神々(天)が暮らす場所だ(後述する)。南の大陸が贍部州であり、我々人間はみんなここに住んでいる。他の3大陸にも人類は住んでいるが、俺たち贍部州の人類が一番小さくて寿命も短く、酷い暮らしを送っているらしい。

贍部州は北を上にして逆三角形をしているらしい。大体わかると思うけど、贍部州はインド亜大陸で、須弥山はヒマラヤ山脈をモチーフにしている。仏教の世界観はインド中心主義的なのだ。まあそれはしょうがないよね。

この金輪上の円盤の上方を、太陽と月が回っている。風輪、水輪、金輪、太陽と月。この上に天の世界がある。

地獄

でも天の前に地獄の話をする。古代インド人は輪廻を信じる。悪いことをした人が行くのは地獄だ。地獄は贍部州大陸の地下に広がっている(ただし、地上と地獄の間にはもう一つ、「餓鬼」の住む国があるらしい。)。

地獄は沢山ある。まず、メインの熱地獄が8個(「八熱地獄」という。)。直方体の形で、贍部州の地下に、縦方向に8個繋がって存在していて、深くなるほどひどくなる。刃の上をえんえんと裸足で歩かされたり、熱した金属を口から流し込まれて内臓をグジュグジュに焼かれたり、地獄の描写は、じつに多彩でなまなましい。最も深く、最も悪いことをした人が行くのが無間地獄。その名のとおり、絶え間ない苦しみを味わう。サンスクリットではアヴィーチーという。

アヴィーチー。地獄にはロックかメタルってのが相場だが、ヒップホップはどうなんだろね。

熱地獄の4つの側面には、1つの面につき4つの副地獄がつながっている。それから、熱地獄のとなり(?)に、8つの寒地獄がある。とても寒いので、肉が裂け、弾け飛んで、色鮮やかな花が咲いたようになっているらしい。

熱地獄、副地獄、寒地獄で、つごう、8+4×4×8+8=144個の地獄がある。昔のお坊さんは、暇だったので、様々な地獄を夢想して、嗜虐的な感慨に浸っていたのかね。

仏教において、ほんらい、「天」とは空間を指す言葉ではない。天とは神々のことである。主として、当時のバラモン教から取り込んだ神々である。こいつらは、仏教では、人間よりはレベルは高いが、煩悩を捨てきれずに輪廻を繰り返す存在、という扱いになっている。では、天はどこに住んでいるのか。

まず、須弥山の中腹に、4層のベランダが張り出していて、そこに住んでいる天がいる。一番上のベランダには四天王(持国天増長天広目天多聞天がおり、下の階には四天王の手下たちが住んでいる。

それから、須弥山の頂上に、いわゆる三十三天という天が住んでいる。中央の忉利天に住むのが帝釈天バラモン教でいうインドラ神である。地上にいる生物の中ではこいつが一番格上なわけね。

で、この先、須弥山の上の空中にも世界がどんどん続いている。ここから上に4段階の天の世界がある。一番下が夜摩天の統治する世界。ヤマってのはエンマさまのことだ。いやエンマ様は地獄でしょ?どうやら、エンマ様は天だが、地獄にもいることになってるらしい。後述する。

その次が兜率天。あの有名な弥勒菩薩がいるとこやな。56億7000年後にここから降りてきて地上を救うというね。

で、その上にもまだ2つある。須弥山の中腹、頂上、そしてその上の4つの天界。この6箇所に住んでる天は、人間よりはレベルが高いけど、まだ煩悩を捨てきれてないので、総称して六欲天といったりする。

色界

仏教によれば、この世界は、精神修行のレベルに応じて3つに分かれる。低い方から、欲界色界無色界。この3つを併せて三界という。「女三界に家なし」の三界ね。

おれ仏教は好きなんだけど、こういうミソジニーが至る所にあるのは大変悲しい。原始仏典も法華経も浄土系経典も、女性蔑視が通底している。男にならんと成仏できんとか、極楽には男しかいないとか。「当時の社会を前提にすれば」とか「現代風に解釈すれば」とか、あの手この手で擁護されてるけど、まあそんなこと言われたって女の人納得できんやろ。やはり仏教がある種の差別を含んでいたという事実は直視せざるを得ないと思う。

ついでにもう一つ脱線。「極楽に女はいない」は、現代人にも受け入れられる価値観に合わせると、例えば、「極楽には人を苦しめる性欲がない」となるのかな?だけど、もしこのように解したとしても、俺はやはり、このような極楽をあまり魅力的だと思わない。それは煩悩を肯定したいというわけじゃなくて(笑)、なんていうのかな、「欲望はあるけど、それを意思の力でガマンしてガマンして何とかかいくぐる」というのじゃなきゃ、意味がないと思うんだよな。もし極楽があって、そこに行けば、ただぼーっと生きているだけでも悟りを開けるんだったら、悟りなんてものには、それを目指す価値はそんなにないように思うのだ。スライムしか(あるいはスライムすら)出てこないドラクエみたいな。それ面白いか?まあ、俺の個人的な感覚の問題だけどさ。

とりあえず話を戻して、ここまで見てきた、風輪、水輪、金輪とその上の4つの天界までが欲界で、そこより上が色界だ。色界と欲界は何が違うのか?色(ルーパ)とは、物質のことだ。「色即是空」の色ね。色界の生き物は姿かたちをもっている。いや、欲界もあるじゃん。それはそうなんだが、俺たち欲界の生き物は、姿形に加えて、欲望に溢れている。色界の生き物にはそれがないのだ。肉体はあるけど欲望から免れている。

で、この色界には、また4つの階層があり、下の方から、初禅二禅三禅四禅とよばれる。

初禅天界にはまた3つのゾーンがあり、その一番上を梵天という。そう、初禅は梵天が統治する世界なのだ。梵天バラモン教最高神の一柱であるブラフマー神だ。仏伝の中で、悟りを開いた釈尊に、衆生に教えを説くように促した梵天勧請が有名だ。あのシーンの梵天は、初禅天界の一番上から、この贍部州くんだりまでわざわざ降りてきていたわけね。

その上に、さらに精神修行の高いレベルまで到達した天の住む、ニ禅〜四禅があるのだ。

ところで、三千大千世界(三千世界)という言葉がある。「三千世界のカラスを殺してなんちゃら」の三千世界ね。これを、ここまでの説明で理解できる。

ここでいう「一世界」とは、欲界の全て+色界の初禅まで、と考えられている。我々のいるところから、そのずーっと上の梵天のところまでが一つの「世界」。んで、仏教はパラレルワールド的な世界観に立つので、この「世界」がいっぱいあると考えている。世界が1000個集まったのが小千世界。それが1000個集まったのが中千世界(または二千世界)。それがさらに1000個集まったのが大千世界(または三千世界)。非常にややこしいが、つまり、三千大千世界ってのは、「三千世界すなわち大千世界」のことであって、さらに、この「三千世界」というのは、3000個の世界ではなくて、1000^3=10億個の世界ってことだ。

でもこの言葉、現代人だけじゃなくて、歴史的にみても、多分誤用されてるケースあるよな。「3000個の『大千世界』という世界」って意味で使ってた人、絶対いただろ。*2

ちなみに、二禅より上は一つしかないってわけでもなく、二、三禅は中千世界とか大千世界ごとにあるらしい。これに対し、四禅以上は1個しかない。ということで、以下は四禅より上の話。

無色界

色界のさらに上に無色界がある。…という言い方はやや語弊がある。無色界とは、色がない、すなわち、精神だけの世界だ。無色界は空間的な概念をもたない。この領域の生き物(?)は、肉体をもたず、精神的な活動だけをする。(という西洋風のことばづかいが適切なのかわからんが。)

無色界にも4つの階層がある。低い方から、空無辺処識無辺処無所有処非想非非想処。それぞれどういう精神状態の生き物がいるのかは、いつの日か検討しようと思うけど、ざっくりいうと、思考の対象をどんどん否定していって、さらには否定することすら否定する。そういう作業を繰り返せば繰り返すほどレベルが上がっていく。ということのようである。

そんで、この無色界の4階層は、釈尊が修行中にアーラーラ・カーラーマっていう師匠から教わった瞑想の4段階(四無色定)に対応している。で、釈尊は、究極の悟りは非想非非想処よりもさらに高みにあるのだと考え、その限りで師の説を否定した。

アビダルマの世界観もこのエピソードに準拠している。すなわち、無色界の存在は認めつつ、釈尊は無色界よりもさらに高いところにいる、とされているのだ。三界の頂点に上り詰め、さらにそれを超越し、この世界から脱出する。ブッダになるってのは、そういうことなわけね。

六道輪廻

ここまでで、天、人間、地獄を説明した。倶舎論は、この世界の生き物として、他に、人間と地獄の間に、畜生餓鬼を数える。畜生は人間と同じところに住んでいる。餓鬼は上記のとおり、我々の住む地上と地獄の間のスペースに住んでいるとされる。その名の通り、いつもお腹が減っていて、争いが絶えないらしい。

倶舎論においては、生き物が死ぬと、生前の(こころ、ことば、行動)の力によって、この5つのどれかに生まれ変わる。五道輪廻だ。のちの時代に、人間と畜生の間に阿修羅が加えられて、馴染みのある六道になったようだ。アシュラとは、バラモン教から導入した悪い神様だ。須弥山の北の海中に住んでいて、天や人間に度々ちょっかいを出しているらしい。

倶舎論は六道説に反論しており、六道と五道の間には学説対立があったらしいが、ふーんって感じだな。

この世界の構成要素

小さな世界の話もしておく。アビダルマが存在を分析して物事の最小単位を考えたというのは有名だ。この世界は4つの元素(四大という。火、水、土、風。)から構成されており、物質の最小単位は、四大のエネルギーによって成る原子(極微)である。あらゆる物質は極微までしか分解できない。

大乗仏教の時代になって、上の4つに「空」が加えられて五大の元素となり、五大説が広く受け入れられるに至った。空海は、さらにここに人の心(識)を加えた「六大」が物事の本体だと繰り返し説いた。

ちなみに、このような元素説+原子説というのは、古代ギリシャにもよく似た考え方がある。どちらが先なのかはよくわからないらしい。

参考図

ということで、アビダルマにおける下は地獄から上はブッダに至るまでの世界を概観してきた。それを俺なりに図示してみた。汚い図ですいません。

色々とはしょったり、実際は二禅以上は複数の世界ごとに一つしかなかったりするので、不正確な図だが、なんとなくイメージはこんな感じなのかな?

f:id:akariakaza:20240920003259j:image
f:id:akariakaza:20240920003256j:image

極楽と地獄

極楽浄土

さて、以上が阿毘達磨倶舎論に示された「世界」だった。しかして、このあとインドでは大乗仏教が生まれ、仏教的世界観はさらに拡大する。ときとして、これまでの説明と完全に整合しないこともある。

仏国土(浄土)という概念は大乗仏教特有のものだ。アビダルマの世界においては、ブッダとはこの世界から脱出した者であり、そもそももうこの世にいないのだから、当然、自らの国をもって人々を救済したりはしない。これに対して、大乗仏典は、仏を救済の主体と位置付ける。それぞれのブッダは、自らの国をもち、そこに住む衆生を救済するのだ。

ってことで大乗の諸仏にはそれぞれの浄土がある。阿閦如来の妙喜浄土、薬師如来の瑠璃光浄土(浄瑠璃浄土)など。中でも一番有名なのが、阿弥陀如来極楽浄土だ。浄土といったら極楽。

阿弥陀がなんであり、極楽がどういう所なのかは、これまでもいくらか書いてきたので、詳しくは触れない。だが、俺が長らく気になっていたのは、「極楽はなぜ豪華絢爛なのか」ということだ。浄土三部経によれば、極楽は、金銀財宝でこれでもかと飾り立てられている。ブッダになるために極楽に行くんだろ?悟りを開くんなら、あんまり世俗の欲望を反映した装いにしない方がいいんじゃね?

だが、これは、浄土に憧れた人々の切ない願いの現れなんだろう。俺たちは、意外と俗っぽい極楽の描写にガッカリするよりも、むしろ、「厭世的色彩に包まれた原始仏教アビダルマの世界観が、次第に、世俗の価値観を肯定する現世利益的なものに変質していった」という事実に注目すべきなのだ。このことはまた後述する。

なお、極楽が西方にあるのは、ギリシャ起源説、ユダヤ起源説など、色々議論があるらしい。

地獄の発展

アビダルマのシステマチックな地獄も、大乗仏教の発展とともに次第に変質していく。

まず、閻魔が地獄の審判係に就任する。前述のとおり、エンマは六欲天の一柱であり、須弥山より上に住んでいた。それが地獄にまで格下げされたのだから可哀想だ。どうも、「地獄には審判がいるもんだ」という考え方が、おそらく他の宗教文化から、導入されたらしい。もともとバラモン教のエンマは死者の国を司っていたので、適任ということで、地獄にいることにされたらしい。

あと、地獄の入り口に三途の川があることになった。この川は「地蔵菩薩発心因縁十王経」という大乗経典に現れるが、どうもこのお経は中国か、ヘタをすると日本で作られた偽経とみられているらしい。 川を渡るとき、通行料の代わりに、奪衣婆というババアに服を剥ぎ取られ、懸衣翁というジジイがその辺の木に引っかける。

三途の川のほとりの、賽の河原はよく知られている。一つ積んでは父のため、二つ積んでは母のため。賽の河原の石積みは日本で生まれたエピソードらしい。あの胸糞悪い寓話には、こんな含意がある、と、もっともらしく語られるけど、やっぱりこの話を最初に考えた人は、サディスティックな快感を覚えていただろう。

そんな地獄で苦しむ人々の救済者として、地蔵菩薩の信仰が発展した。

アビダルマにおける抽象的・記号的な地獄描写に対して、大乗の地獄は、情緒的というか、悪くいうと俗っぽい。大乗仏教は民衆の宗教なのだ。

仏教的世界を知る意味

さて、仏教的世界を概観してきたが、今更こんなことを知って何の意味があるのか?という問いがある。現代人がこういう疑問をもつのは当然だと思う。この本の中にも示唆があったが、俺なりの答えを考えてみようと思う。

まず言いたいのは、考えてみれば、この問いは、「マンガを読んだりアニメを観たりすることに何の意味があるのか?」というのと同じくらい、ナンセンスな問いじゃないかね(笑)。しょせんは趣味の問題、意味なんてないが、逆にいえば、興味がない人は一生知らなくても全く差し支えない。

だが、それだと身もふたもないので、何かしら積極的な意味を探してみよう。まず、言葉しか知らない仏教用語の意味を知り、知識の体系の中に位置付けることができる。例えば、「四天王」ってのはあそこにいるあいつらだな、とか、そういう感じね。

それから、現代の俺たちの世界認識を相対化できるかもしれない。もちろん、仏教的宇宙観が、科学的宇宙観と並び立つほどの真実性があるとは口が裂けても言えない。しょせんはおとぎ話だ。だが、未来の人にとっては、俺たちの世界観がそうなるかもしれないのだ。世界の認識なんてのは、時代ごとに変わりうるもんだ、ということは、いえるかもしれない。

あと、昔の人のものごとの考え方や、その変遷を知ることができる。これは著者が強調していたことだ。すなわち、アビダルマの説いた世界は、原始仏教の思想そのままに、とても厭世的である。この世界は苦しみであり、脱出すべきところなのだ。それが、だんだん時代を下るにつれて、人々は、人生を苦しみだと考えなくなった。浄土の装いが世俗的価値観を反映しているのは、仏教がそれだけ世俗の価値を肯定するようになったとも捉えられるかもしれない。

我々の価値観もこの流れの延長線上にある。近代・現代に至って、人は、この世界を、苦しみどころか、自身の幸福を実現する舞台であると考えるに至った。

重要なのは、人類の歴史の中で、そうではない価値観があり得た、ということだと思う。人生が苦しみでしかない、という考えに囚われて生きている人は、今も沢山いるだろう。仏教的世界観は、それを否定してムリやり前を向かせようとするのではなく、むしろ、ペシミスムスを正面から肯定する。それが、人によっては、何らかの救いになるかもしれない。

繰り返しになるけど、別にそういう真面目な意味を探さなくても、こういう話は、趣味として面白いと思う。それで十分じゃないか(笑)。

 

*1:しょっぱなから違和感満載だ。地球円盤説はまあしゃあないにしても、風や水はどうやって形を保っているのか?また、風→水→金属、という、軽いものの上に重いものが載っているっていうのは、一体何をどう考えたらそういう発想になるのか?まあ、いちいち突っ込んでいたらキリがないし、科学的に見て間違っている、なんて陳腐な話をわざわざしたいわけじゃないので、以下では多少の変なことはスルーしていきたい(笑)。

*2:例えばさ、以前検討した、天台智者大師の「一念三千」も、カウントの仕方は違うかもしれないけど、三千って数字は絶対「三千世界」から取ってるよな。