あかりの日記

おっ あっ 生きてえなあ

中村元『ブッダ伝』

中村元先生による原始仏教の入門書

 

仏教というのは、生をくるしみと定義して、その積極的な意味を否定するところから出発しているのだと思っていた。輪廻とか無常とかそういうのを字面通りに受け取るとそういうことになりそうだし、あと、西洋の人が仏教思想を引用するときなんかは、ペシミズムというのか、どうもそういう側面にかなりフォーカスしているところがあるよな*1

で、それはもちろん間違ってはいない。一番最初の、ブッダ*2が直接説いた教えにおいてもそうだ。

だけども、ブッダ自身が言いたかったことというのは、現状がくるしみであるという分析を前提として、たのしく生きよと、あるいは、生とはたのしいものであると気付けと、そういうことだったようだ(少なくとも、中村大先生はブッダの教えをそういう風に解釈している)。

 

と、そんな感じで、ブッダの最初の教えは意外にもポジティブで、自己啓発的な色彩に満ちている。本書は、そのさわりの部分を、経典を多めに引用して紹介している。時系列に沿ってまとめたブッダの伝記(例えば、手塚治虫のマンガ的なもの)というよりは、ブッダの思想の入門書って感じ。

 

ブッダの出発点

まず、「生とはくるしみである」という命題。ブッダの教えはここから出発しており、仏教思想の根幹といえるテーマ。これは、なんなのか。

これは、「天地は神がつくったものだ」みたいな、形而上学的な世界観を作る上でのドグマではない。

そうではなくて、これは、ブッダが「生」とか「人間」とかに関して経験的に得た知識についての、ブッダなりの捉え方、ということだと思う*3*4

 

では、ブッダは生や人間をどういうものと認識したか。

①人間は必ず死ぬものである。

見よ。見まもっている親族がとめどなく悲嘆に暮れているのに、人は屠所に引かれる牛のように、一人ずつ、連れ去られる。(『スッタニパータ』)

②人間は欲望に突き動かされている。

欲望をかなえたいと望み貪欲の生じた人が、もしも欲望を果たすことができなくなるならば、かれは、矢に射られたかのように、悩み苦しむ。(『スッタニパータ』)

 

人はこれらに引きずられながら生きているから苦しいんだ、ということをブッダは言う。これに他の要素が付け足されていって、「四苦八苦」となっていく。そして、⑴これらをもう少し、抽象的な理論を使って分析していきつつ、⑵どうすれば苦しみがなくなるのか、という検討をしていったわけだ。

 

僕はここに一つ、重要なポイントがあると思うんだが、ブッダは「人生は苦しい」と思ったところから仏教を出発させている。ということは、仏教の教えや理屈というのは、ブッダと同じように人生に苦しみを感じている人に向けられたものである。そう思わない人、人生に積極的な意味を見出して、前向きに努力し、欲しいものを手に入れ、なりたい自分になる、というような人生を邁進し、葛藤に突き当たっていない人は、はなから対象にしていない。

つまり、原始仏教の教えというのはひとに押し付けるものではない(他の宗教とか政治信条とかは知らん。)。原始仏教は、教えを求めていない人をも対象とするような普遍的な真理である、というような論理を内包してはいないんじゃないかな。

 

無常であると知れ

さてブッダは、上記①についてもっと一般化して考えて、「世の中にあるあらゆるものは全て移り変わる」(「諸行無常」)と説く。

生成したものは本体なく、つくられたものであり、動揺し、つねに浮動していることを、よく見究めた。このことを知ってわたくしは、念いを正しくして、自己より生ずる寂静を知った。(『テーラガーター』)

死せるものばかりをなんじら嘆き、死せんとするものをぞ嘆かざる。なべて身体をもてるもの、次々と命をば失いゆく。(『ジャータカ』)

 

で、じゃあ、この苦しみからはどう逃れればいいのか。もうすでにちょっと出ちゃってるけど、この「無常である」ということを正しく認識すれば、それでもう苦しくなくなるよ、と言っておられるのである。

世間の人々は死と老いによって害われる。それ故に賢者は、世のなりゆきを知って、悲しまない。(『スッタニパータ』)

 

自分がこわれていく存在だ、必ず死ぬ存在だ、と認識すると、憂いや苦しみに見舞われない、という。うーん、そうなのか?という気もちょっとするが。

人々が忌み嫌う老病死があるからこそ、人間はどう生きたらよいかを反省し、逆縁が順縁となって真の人生を求めるのです。

著者の中村大先生はこうおっしゃっている。まあブッダもそういうことが言いたいのかな、という風にも思える。

 

「無常」をさらに発展させた考え方として「空」の思想がある。これは大乗仏教で発展したと言われるが、原始仏教においてすでにその萌芽がある。

「空」とは、万物は生成流転して、固定的な不変の実体があるわけではない、ということである。「無常」というと、「今あるものは必ずなくなってしまう」という点だけにフォーカスしているけど、「その分新しいものもどんどん生まれてくるよ」というところも含めて考えるのが「空」、ということらしい。

で、この空のメカニズムの中で、生成流転する万物をいっとき存在させる力が「縁起」なのだそうな。

 

万物は変わりゆくが、変わらないものがブッダの説いた「理法」であるらしい。

「空」を踏まえて、変わりゆくものに執着せず、変わらない「理法」を求めるというのが「空を生きる」ということで、これが「仏道」であるそうだ。

その具体的な実践の方法として「中道」「八正道」がある。

 

欲しがるな

さて、②の方である。ブッダはこの点をもっと抽象的に考える。

最初期の仏教では、我ならざるもの(非我)を我(アートマン)と見なすところから苦しみが生ずるのだといっています。

わがものとして執着したものを貪り求める人々は、憂いと悲しみとものおしみとを捨てることがない。それ故に諸々の聖者は、所有を捨てて行なって安穏を見たのである。(『スッタニパータ』)

この「非我」というのはまず、「モノ」とか「他の人」についてであれば、よく分かる。本来自分に帰属するのでないモノを、自分のモノだ(自分のモノであるべきだ)と思いこんでしまうから、執着が生じる。また、自分じゃないから思い通りになるはずがない他人を、思い通りになると思い込んでしまうから、執着が生じる。思い込みを捨てなさい。こんなところですかね*5

 

まあここまでは納得ですわ。しかるに、この「非我」の教えはそんな単純な話だけには留まらず、もっと深淵なことも説いているらしい。

モノとか他人とかが「我」でないとすると、「我」とはじゃあ、自分の身体とか精神とかなのか。いや、ブッダは、精神や肉体も「我」ではないと述べている。

五種の構成要素(五蘊)を、〔アートマンとは異なった〕他のものであると見て、アートマンであるとは見ない人々は、微妙なる心理に通達する。-毛の尖端を矢で射るように。(『テーラガーター』)

この「五蘊」というのが(よく理解できなかったのであまり詳しくは書けないが)身体と精神の作用のことらしい。要するに、肉体とか、世界を認識して何か考えている作用だとか、そういうのは「我」ではない、ということを言っているようだ。

 

じゃあ「我」、真の自己というのは一体なんなんだ。これについてはブッダは黙して語らず。

一つ言えるのは、ブッダは「我」の存在自体は否定せず、むしろ積極的に肯定しているように見える、ということ。

著者によればこういうことらしい。当時のインドの宗教では、アートマンを形而上的な実体として定義する例が多かった。これに対して、ブッダ形而上学的なアートマンを説くと、それが執着の対象になってしまうと考えた。そのため、具体的に把握しうるものは全てアートマンでない、とだけ語った。

 

ただこの「非我」は、時代が下ると、前述した「空」の理論の発展により、「アートマンも絶えず生成流転している」ために不変の固定したアートマンは存在しない、という「無我」の考え方に変わっていく。

ブッダは「執着するな」というあくまで自己啓発っぽい話をしていたが、だんだん時代が下ってくると「実体は存在しない」という哲学の存在論みたいな話になっていった、ということだろうか。

 

優しくしなさい

慈悲

 

友達を大切にしなさい

友達を選べ

 

ニルヴァーナとは

ニルヴァーナには、「悟り」という意味と、「死ぬ」という意味がある。この辺りは、いずれ『大パリニッバーナ経』を読んだときに改めて検討する。

 

 

 

 

*1:ショーペンハウアーとか、シオランとか、西洋人で仏教好きな人は大体重度の精神疾患を患ってる(偏見)

*2:なお、この記事ではお釈迦様、ゴータマ・ブッダのことを「ブッダ」と言う。「ブッダ」=ほとけ、というのは一般名詞らしいが、原始仏教ではほとけは一尊だし、今回は問題ないよね。

*3:事実の摘示じゃなくて評価、ということか。

*4:なお、一応言っとくけど、原始仏教の中にもこのテのドグマは存在するとは思う。「輪廻」とか「六道」なんかはまさにそうで、「原始仏教は宗教じゃない」ということを言う人がいるらしいけど、僕はそうではないと思う。

*5:ただ、僕は「所有権」やら「契約」やらを扱う商売をしていて、「このモノはこの人に帰属するべきなので明け渡しなさい」とか「やりたくなくても相手の求めに応じてカネ払いなさい」などとやらなきゃいけないので、この立場を突き詰めると深刻な葛藤を生じるんだよなあ。参った。