あかりの日記

おっ あっ 生きてえなあ

マンダラ

六大無礙にして常に瑜伽なり。

四種曼荼各々離れず。

三密加持すれば即疾に顕わる。(『即身成仏儀』)

上野の東京国立博物館神護寺展をやっている。最近修復作業が終わった国宝の高雄曼荼羅をはじめとし、本尊の薬師如来とか、「灌頂暦名」、「十住心論」、「風信帖」といった、空海最澄関連の重要テキストとかがきているぞ。マンダラは、前期では胎蔵マンダラが、後期では金剛界マンダラが来るというんで、おれは2回見に行った。見ておきたかったんだ。

ということで、おれはマンダラについて少しだけ勉強した。覚えて、ただ忘れるだけ、ってのもなんだから、少しメモしておく。

 

密教及び空海

仏教の歴史から簡単におさらいする。インドで紀元前6世紀くらいに釈尊が説いた原始仏教は、その死後部派によってアビダルマ仏教として展開し、これへの対抗として1世紀頃から大乗仏教が発生する。中観・唯識といった空思想が発展するとともに、(おそらくは在家信者により)大乗経典が生まれ、多くの如来菩薩が生み出された。

そのような仏教だが、5世紀くらいになると、ヒンドゥー教に押されて衰退し始める。そこで、おそらくは仏教側の対抗策として、ヒンドゥー教の神秘・象徴・儀礼を導入したのが、密教の始まりだったらしい。

インド密教は5世紀くらいに萌芽してから、13世紀にヴィクラマシラー僧院の陥落により滅亡するまでの間、じわじわと変化、発展していった。このうち、7世紀前半に成立した大日経や、それに遅れて成立した金剛頂経理趣経などが、シルクロードを通じて唐の長安に伝来し、唐でも密教ブームが訪れた。そして、9世紀初頭に入唐した空海が、恵果からこれらの教えを授かって日本に持ち帰った。空海は、大日経系の教え(胎蔵部)と、金剛頂経系の教え(金剛部)を統一する両部密教の教義を確立させ、これが今に伝わる真言宗の教えということになる。教義や実践の具体的内容については然るべきところで検討することにする。

なお、最終盤の密教までを導入し、現代に継承するのはチベットであるが、チベットの側から見た分類によれば、密教は成立年代及び内容から4段階に分けられるらしい。古い方から、所作タントラ、行タントラ、瑜伽タントラ、無上瑜伽タントラ。チベット仏教の主流派であるゲルク派(ツォンカパが創始し、現代のダライラマ14世にまで連なる。)の根本経典は、無上瑜伽タントラに位置する「秘密集会(ひみつしゅうえ)タントラ」というお経だ(なんと厨二病心をくすぐる名前だろう。)。そして、大日経は行タントラ、金剛頂経理趣経は瑜伽タントラに位置する。日本の真言宗の教えは、密教全体の歴史からすると、中ほどの時代に生まれた密教(中期密教)である、というわけだ。*1

両界(両部)マンダラとは

マンダラというのは、密教の教えの示す世界を図式的に表したものであり、密教の瞑想のために使う道具だ。チベットにはチベットのマンダラがあるし、インドネシアのボロブドゥールがマンダラなんてのも有名だよな。だけど、日本の寺には「両界マンダラ」が多い。直接的にそうでないものでも、仏像を並べた立体マンダラも含めて、両界マンダラに着想を得ていたり、両界マンダラの一部を表していたりするものが多いように感じる。ということで、この両界マンダラというものを理解するのが重要か。

両界マンダラは、空海が両部密教とともに唐から持ち帰ったものをベースにしている (神護寺の高雄曼荼羅空海が製作に直接携わったというからたいへん貴重なものだ。)。後でまた述べるが、「両マンダラ」という用語法は明確な誤りであり、正しくは「両部マンダラ」というべきものらしい。大日経系の教えを表したのが胎蔵マンダラ、金剛頂経系の教えを表したものが金剛界マンダラだ。マンダラとは、抽象画のように想像力に任せてなんでも包摂する世界なのではなく*2、お経の教えを忠実に示したものであり、カタがちゃんと決まっているものなのだ。

ということで、それぞれのマンダラの意味を調べてみて、抽象画にしか見えないマンダラの解像度を、少しだけ上げてみようではないか。

大日経と胎蔵(界)マンダラ

大日経の教えのうちマンダラに関わる部分を、いまのおれの言葉で端的に表すと、(おれは経典それ自体を読んだわけではないので不正確だと思うが、)「この世界は全て空であり、その真実の姿は、大日如来に由来するなんらかの神聖なものなのだ」ということかなあと思う。竜樹以来の大乗仏教が蓄積してきた「空」の理解は、「この世界は言語によっては理解・表現できない」というところなのかなと思う(この辺りは立川武蔵『空の思想史』① - あかりの日記この本を読んだときに結構検討した)が、大日経は、その空思想の先で生じてくる「じゃあこの世界はなんなのだ」という問いに対する一つの答えを提示している、という感じかな。

(少しだけ脱線すると、大日経が特徴的なのは、密教の教えを空の思想から導いていることのようだ。密教大乗仏教の延長線上に置いている。上で見たように、大日経密教の中ではまあ割と古い密教経典である。この後時代が下っていって、金剛頂経や、あるいは無上瑜伽タントラになってくると、空思想とかは触れられなくなってくるらしい。)

そして、この大日経が説く世界観を胎蔵という。この世界のあらゆるものごとは全て大日如来に端を発するものだ。そうすると、いうなれば、この世界全体が、大日如来というママのお腹の中にいる赤ちゃんのようなものだ。そう、おれたちは皆、赤ちゃん人間だったのだ。

アババアババ。

この大日経の説く大日如来のことを胎蔵(界)大日如来という。

なお、「金剛界」と対応させる形で「胎蔵界」という言葉がよく使われるが、サンスクリットや中国語では胎蔵「界」という言葉遣いをしているところはないらしい。だから、「胎蔵界マンダラ」ではなく「胎蔵マンダラ」が、「両界マンダラ」ではなく「両部マンダラ」が正しいらしい。確かに、おれは展覧会で『灌頂歴名』などを見たが、空海も「胎蔵灌頂」とか書いていて、「胎蔵」という言葉は使っていなかったような気がするなあ。以下では一応学問的に正しい名称を使わせてもらう。

それで、いよいよ、この胎蔵マンダラを見てみよう。真ん中に中台八葉院という部屋があり、真ん中に1人、その周りに8人の仏がいる。一番真ん中がもちろん胎蔵大日如来だ。なお、手の印の形だが、胎蔵大日如来は手のひらを重ね、親指で輪っこを作っている。これは胎蔵大日如来の母性、女性性を示しているらしい。これに対して、後述する金剛界大日如来は、左手人差し指を立てて、右手で包んでいる。これは金剛界大日如来の男性性を示しているらしい。まあようはアレとアレってことだ。それから、如来ってのは普通質素な格好をしているんだけど、大日如来如来の中の如来ということで、豪華な装いをしている。

その周りには、四方に4人の如来がいて、その間に4人の菩薩がいる。如来について、この絵は上が東、下が西で、大日如来の下にいるのが阿弥陀如来、そこから時計回りに、天鼓雷音、宝幢、開敷華王(聞いたことないキャラばっかりだ。)。菩薩は阿弥陀の左が観音で、そこから時計回りに、弥勒、普賢、文殊

で、中台八葉院の外に、4重の部屋がある。上の2重目のところにはお釈迦様がいる。これは格好でわかるな。それ以外は、3重目までは、各種の菩薩がいる。そして、一番外の4重目は、外金剛部院といって、ヒンドゥー教の神が仏教に帰依したものが守っている。

それで、これは何を表しているのか、ということだが、絵からなんとなくのイメージがつくが、①このマンダラを構成する全て、すなわち全宇宙が、大日如来の表れに過ぎない、ということと、②大日如来の慈悲が全宇宙にさまざまな形で働いている、ということを表しているらしい。マンダラに書かれている仏などは、外に行くほどランクが低くなっていく(としたらお釈迦さまは低くないかという気もするが。)が、そのあらゆるものが、究極的には大日如来であり、大日如来のエネルギーで動いている、ということなのかね。

金剛頂経金剛界マンダラ

金剛とはダイヤモンドのこと。サンスクリットではヴァジュラという。密教はダイヤモンドのように硬いということで、金剛という概念を多用する。悪名高き「ヴァジュラヤーナ」とは、「金剛の教え」という意味であり、すなわち「密教」という意味に他ならないのだ。オウムはチベット仏教の教義を基礎にしていたのだ。

金剛頂経の教えは、(無上瑜伽タントラに至るその後の密教にも連なるものらしいが、)「即身成仏をして衆生を救済せよ」ということらしい。もともと釈尊以来の仏教は、修行の厳しい階梯を説いてきた。あの釈尊ですら、数多の生まれ変わりの末にようやく悟りを開いたと言われるし、アビダルマにおいては、今生で悟りを開ける能力を持っている人は一握りだという。大乗仏教の論理は、それをどう克服するかに各々取り組んできたといえそうだ。例えば浄土教は、今生での悟りはもう無理だけど、阿弥陀の力で極楽に行けばそこで悟れる、と説くよね。これに対して、金剛頂経の教えはこうである。すなわち、他の仏教のやり方ならいざ知らず、密教の修行方法(真言を唱える等。詳しくは別の機会に。)なら、即身成仏できるのだ!

そして、密教で早く仏になって、仏として人を救え、と、こういうことを説いているらしい。まあなんだろうな、金剛頂経の世界だと、密教は教え方がうまい塾で、他の教えを信じる人はめっちゃ多浪してる受験生、みたいな感じなのかな。いや、違うか・・・

そして、この教えにおける大日如来は、この世界の真の姿とか源泉とかというよりは、衆生救済をする主体であり、かつ、合一すべき主体、というイメージだろうか。おれたちは大日如来になって、大日如来のように人を救わなければならないのだ。

ここに、大日経からの飛躍がある。金剛頂経の説く大日如来やホトケは、「この世界の真の姿であり、空なるもの」というよりは、ここではない別の世界(アビダルマ以来の仏教の世界観から言えば、須弥山からつながる仏の世界なのだろう。)に厳然として存在する救済の主体なのだ。「空」の話はどこかにいってしまったのだ。

この仏たちの集う理想の世界を金剛界といい、そこにいます大日如来金剛界大日如来という。そして、金剛頂経が説く金剛界のあり方を図式的に表したのが金剛界マンダラというわけだ。

金剛界マンダラは9個の絵からなる。9つの場面を一つの絵にまとめて描いているという感じなのかな。それぞれが経典に説かれた世界を示しているらしい。

真ん中が①成身会。5体の如来がおり、真ん中が大日如来、周りに4体。これを「五智如来」という。胎蔵マンダラと違って上が西であり、阿弥陀如来。そこから時計回りに、不空成就如来(釈迦如来)、阿閦如来宝生如来。それぞれが個別の仏の知恵を示しているらしい。それぞれの如来の周りには4体ずつ菩薩がいる。多くは「金剛なんとか菩薩」という名前で、いかにも密教らしい。成身会は人々を救済する仏の究極の知恵を表している、という感じか。

その下が②三摩耶会、そこから時計回りに、③微細会、④供養会、⑤四印会、⑥一印会、⑦理趣会、⑧降三世羯磨会、⑨降三世三摩耶会。おれは美術館でほんものの高雄曼荼羅を見ながらぶつぶつ唱えて覚えた(笑)。もっと他にやるべきことがあるだろうに。

②は仏の衆生救済の誓いを表し、アトリビュートで表される。③は仏の微細な知恵を表し、細かい金剛杵の中に仏が描かれる(よくわからなかった。)。④は①の簡略版で、⑤はさらに簡略版(大日如来1体)。⑦は理趣経の内容で、煩悩の中にも知恵が宿ることを表す。⑧は煩悩を鎮圧するために仏が明王に変化した姿であり、⑨も同様だが、⑨は②と同じくアトリビュートで表されている。

それで、この9つの絵は、⑨→①の順番で、凡夫が悟りを開いて仏になる流れを表し、①→⑨の順番で、仏が知恵の力で凡夫の救済に向かう流れを表しているのだという。

 

 

そして、この胎蔵の教えと金剛界の教えが、二つに一つ、というのが、空海の教えということだ(なんか一見あんまり繋がりはなさそうだけどな(笑))。

 

なんとなく、マンダラや密教のことが、ほんの少しだけわかってきた気がするぞ。この世界の全ては大日如来であり、かつ、おれたちは、即身成仏して衆生を救済しなければならないのだ。マンダラを眺めていると、なんだか、そんなような気がしてくるな。…してこないか。まあいいか。

 

*1:なお、チベット側に言わせると日本の密教は不十分であり、日本の側に言わせるとチベットの仏教は行き過ぎ(左道密教)であるとして、お互いにディスりあっていた時代もあるらしい。今はそうでもないだろうけどな。

*2:一番最初に両界マンダラを描いたインド人か中国人は、想像力に任せて描いたのかもしれないが、日本で制作されたマンダラは全てしっかりした形式に従っているだろう。