上山春平、服部正明『仏教の思想4 認識と超越〈唯識〉』① - あかりの日記の続き。
唯識は単なる唯心論か
パート1で、①外界非実在論、②識の変化、③三種の存在形態、のキーワードに沿って唯識を検討するという課題を設定した。自分自身の理解のために、もうちょっとこの課題設定について敷衍しておきたい。
唯識の世界観を最も雑にまとめるならば、仏教版の唯心論である。この世界は全て我々の心(というより深層心理に近いが)が作り出した幻である、と考える。(このことを知っている人は割といるだろう。)
唯識の外界に対する捉え方の説明は、VRとか、某有名ラノベとか(読んだことないけど)、あるいは、「実は真に存在するのは電極がぶっ刺された脳みそだけで、我々はそこから流れる電流によってこの世界の知覚を与えられているすぎない」みたいな思考実験があるじゃん、ああいうのに近い。西洋哲学だとバークリの観念論などに近い。
そのため、唯識哲学の1つの主要な考察主題は外界非実在論である。外界がない、ということの論証だ。
しかしながら、唯識は(少なくとも最初のほうは)外界の非実在を論証すること自体を最終目標にしていたわけではない。すなわち、①この世界はVRゴーグルが見せている幻だ、と言って終わりではなく、その上で、②それを見せているVRゴーグルの仕組みを詳しく分析し、③その仕組みの中で我々はいかにして悟りに至るのかを解説する。唯識思想はここまでセットで説明しているわけである(この①~③が、上で触れた①~③のキーワードにだいたい対応していると思っている。)。
もっとも、古代の坊主はやたら論争好きなので、唯識の研究は①の説明を重視する学派と②③の側面を重視する学派に分かれていくことになるらしい(一通り説明し終わった後に触れよう。)。
ということなので、まず今回は①唯識がいかに外界が実在しないと論じたのかを検討し、次で②このVRゴーグル(「アーラヤ識」という)の働きを分析し、その次で③我々が悟りに至るメカニズムを検討する、という流れで行きたい。
唯識「まで」の存在の分析
唯識における外界実在論批判は、ヴァスバンドゥの「唯識二十論」と、ディグナーガの「認識の対象の考察」で主に論じられたらしいので、これらの記述に従って検討することとする。
ヴァスバンドゥは、①ヴァイシェーシカ学派、②説一切有部及び③経量部の外界実在論を批判している。そのため、まず、これらのを含む唯識以前の各思想がどのような立場に立っていたかをみていく。
ヴァイシェーシカ学派
ヴァイシェーシカ学派は、バラモン教系の哲学の一分野であり*1、モノには、そのモノを指す言葉に対応するような実体が実在すると考える。
例えばそこに牛がいるとする。その牛には「牛」という実体があるわけである。この実在する「牛」の実体の上に、白、黒、まだら模様などの「属性」とか、歩いている、寝ているなどの「運動」といった諸要素が乗っかっている、と考えるのだ。
ヴァイシェーシカ学派においては
「牛」とは、多数の個別的な実体から一般性を抽象する主観の操作によって構成された概念であって、実在には対応しないという…ようには考えられない。多数の個別的な実体をいずれも牛たらしめる牛の普遍が、主観の外に実在し、個別的な実体はこの普遍に限定されているから牛として把握されるというのである。(p87)
ものには実体と諸要素があって、そのどちらも実在する、ということだ。
空思想のところでも検討したけど(立川武蔵『空の思想史』② - あかりの日記)、インド思想の存在論や認識論は「実体」と「諸要素(属性など)」という区分を前提にする。論争はこの土台の上に戦わされることになる。まずもうここが現代人にはない発想なので難しい。
釈迦の教え(ミリンダの問い)
このようなヴァイシェーシカ学派などの考え方に対して、お釈迦様は、「実体はない」と説いた。これは仏教一般のとるスタンスになっていく。アビダルマも空も唯識も、「モノには名辞に対応するような実体がない」という考え方は基本的に共通しているといってよいだろう。ただ、この「実体がない」の指し示す具体的内容がだんだん変わっていくことになる。
お釈迦様(アーガマ経典)が最初に説いたのはある種素朴な考え方であった。すなわち、モノは諸要素が仮に集まっているにすぎないので、我々が呼び表す言葉に対応する実体などはない、と考えるのだ。
これをよく表しているとされるのが、小部「ミリンダ王の問い」の車のたとえである。
この経典は、ミリンダ(メナンドロス)というバクトリアの王が、ナーガセーナという仏教僧と対話する話である。その中で、ナーガセーナはこのような内容を説く。
すなわち、(現代風に少し翻案すると)「車」という名前で呼ばれるモノがあるが、これはドア、タイヤ、ハンドルといった部品が合わさっただけのものである。そして、これらの部品それぞれが単体で「車」なわけではないし、これらの部品の集合体と離れて「車」という実体があるわけでもない。「車」という言葉は、部品が合わさったものをそう呼んでいるだけで、「車」という本質的な実体があるわけではない。
注目すべきは、この話は、「『私』という実体がない」ということの説明をするためのたとえ話である、ということである。「私」(「あかり」とか)という言葉で捉えているものも、皮膚、目、鼻、耳、・・・、あるいは、知覚や認識などのいわば部品が合わさったものにすぎず、「私」という実体があるわけではないのだ。
このように、あらゆるものが諸要素の相対関係のもとにあるだけで、それ固有の実体をもたない、という考え方を「縁起」という。
ただまあ、この話から明らかであるように、お釈迦様は個々の諸要素の存在を否定しているわけではない。もちろんハンドルとかドアとかの諸要素もまた縁起で成り立っていることにはなるわけだが、それをどんどん細かく分けていったら最後はどうなるのか、ということまでは論じていない。お釈迦様はそこには関心がなかったのだろう。(当たり前だが)唯識はお釈迦様オリジナルの思想ではないということだね。
ここでおれの個人的な感想を挟むが、この辺の仏教の「あるか、ないか」の議論においては、①「言葉とモノの対応関係を分析する」的な(言語哲学的な)話と、②「認識の内容を分析する」的な(認識論的な)話とがごっちゃになっているように見受けられる。この車の譬えとか、(本稿では詳しく触れないが)中観派の「歩く人は歩かない」とかは、①「言葉とモノとの対応関係」の話の側面が強いと思われる。これに対して、この後述べるアビダルマとか唯識とかは、主として②「認識の分析」の話をしているように思われる。同じ「世界は実在しない」という命題を言っていても、①前者は「我々が日常的に言葉を用いて理解しているようなあり方で世界は実在しない」の意味で言っているのに対し、②後者は「我々が日常的な感覚で認識しているようなあり方で世界は実在しない」の意味で言っていて、ちょっと議論がずれてるんじゃないかと思うのだ。
(今回のテーマからそれるが、)前に空思想を検討していて、アビダルマと中観はそもそも話がかみ合っていないんじゃないかと思ったことがあるが、このあたりが影響しているような気がする。(的外れだったらすみません。)
説一切有部の解釈
アビダルマはアーガマ経典を細かく分析した。上記の「モノは諸要素が集まってできているにすぎず、その名前に対応する実体などない」という考え方は、最大学派の説一切有部においては次のように分析された。
すなわち、諸要素のうちには究極的な存在要素として認められるものがある。それは、ざっくりいうと、感覚器官(眼耳鼻舌身)とそれにより知覚される属性(色と形、音、香り、味、感触)である(ほんとはもっと細かく分ける。)。
よくわからないと思うので具体例で検討する。
なんでもいいが、いまここに角砂糖があるとする。これについて、「角砂糖」という実体は実在せず、「白い」、「四角い」、「甘い」、「ざらざらしてる」とか、そういう属性だけが実在する、と、こういう風に考えるのである。
これ自体難解だが、さらに話をややこしくしているのは、有部は一方で、この世界は分けていくと究極的には極小の粒でできている、という原子論を取り入れているのである。本書によれば、有部は、物質を個々の感覚与件に分析する認識論的な視点と、物質を一定の質量をもった存在として主観から切り離して捉える存在論的な視点とをごっちゃにしており、両者の関係をうまく整理できていないらしい。
まあ有部はこんな感じである。
経量部の解釈
説一切有部から分派した部派に経量部がある。ヴァスバンドゥは倶舎論のいくつかの部分において、「有部はこう考えるけど、経量部はこう批判した」と書いている。ヴァスバンドゥは倶舎論を書いてから唯識に移っていったとみられているので、彼の考えに経量部の解釈が大きな影響を与えた可能性は高い。前述した二十論にも、経量部の実在論が批判されている。そこで、経量部の外界実在論を検討する。
経量部は、有部が色、音、形といった観念的なものを実在と捉えたことを批判する。それらは「仮象」であって、その代わり、視覚的認識を生ずる能力のあるものを実在と捉える。そして、原子は、1粒ごとには目に見えないが、集まると視覚的認識を生ずる能力を有するに至る、と考えるのである。経量部はこの「仮象」の概念を用いて、全体や持続体(一人の人の子供時代、青年期、老年期とか)などの観念的なものの実在を否定していった。
経量部はこのように、物体をもっぱら存在論的に捉えた上で、最小単位の原子は実在すると考えた。実在論に立ちつつも、観念的なものの不存在を説いたという点において、経量部は唯識哲学への架け橋となったらしい。また、ディグナーガは仮象の概念を借用し、外界において日常的に経験されるあらゆる存在物が仮象であると説く。
誘引としての空思想
ここまでで分かるように、そもそもお釈迦様以来、外界そのものの実在を完全に否定するという発想は特になかったわけだ。なぜ唯識が外界の実在を否定しなければならなかったか。それは、一番最初のマイトレーヤの唯識が、そもそも大乗仏教、とりわけ般若経などの空思想を出発点にしているからであろう。
中観思想自体は、上でも述べたように(おれ的には)言語哲学的な側面が強いように思われ、唯識のとりわけ外界非実在の論証にはあまり関わってこない。しかし、そもそもなぜ非実在でないといけないのか、という、議論のおおもとの動機のところに空思想があるのは疑いようがないだろう。
また、中観思想は、とりわけ竜樹から時代が下ってくると、空の論証にダルマキールティなどの唯識派の論証方法を導入し始める。両派の間には思想的交流がちゃんとあったわけだ。
唯識における外界実在論の批判
ヴァスバンドゥの主張
さて、ようやく唯識の外界実在論批判に入っていく。最初に言ったように、ヴァスバンドゥは「二十論」で①ヴァイシェーシカ学派、②説一切有部、③経量部の外界実在論を批判した。
①については、仏教の伝統にのっとり、「部分とは別に単一の(我々が呼んでいる名前に対応するような)全体は存在しない」という批判をした。
②については、有部の原子論を批判した。有部は、単体では知覚されない原子が互いに隙間を開けて集まっている、と考えたところ、個々の原子が知覚されないのに、それが多数集まると知覚されるようになるのはおかしい、と述べるのである。また、(仮に原子論を採用しないとして)上述する「色」や「形」などの属性を実在とみる見方については、もしそう考えてしまうと空間的広がりを捨象してしまう点がおかしい、というようなことを言っている。原子論をとっても認識の対象を属性に分析する考え方をとってもどちらも破綻が生ずる、というようなことを言ったようである。
③については、経量部は最小単位である原子が互いに隙間をおかずくっついていると説いたらしいが、もしそうだとすると、原子が上下左右などの部分を持つことになるが、そうするとさらに細かく分けられることになるはずなので最小単位にならず矛盾する。というようなことを説いたらしい。
ディグナーガの主張
ヴァスバンドゥのしばらく後の唯識学者のディグナーガも、有部と経量部の実在論を「認識の対象の考察」で批判している。
ディグナーガによると、認識の対象は、①認識を生じさせる原因であること、②表象と同一の形象をもつこと、の2要件を満たさねばならない。そして、①を満たすためには、認識の対象は実在でなければならず、②を満たすためには、認識の対象は、1つの認識をほかの認識と区別して内容的に限定するものでなければならない。
この観点で有部の原子論をみると、触れ合わずに集まった原子には表象と同じ形象がないから②を満たさない。また、経量部の原子論をみると、触れ合って集まった原子にある形象は仮象であって実在しないので①を満たさない。よって、有部の説明も経量部の説明も、認識の対象を正しく説明したものではないのである。
・・・本書p112あたりにこのような説明が書いてあったが、正直あまり意味が分からなかった。ままええわ。
このようなヴァスバンドゥやディグナーガの反論が奏功しているか否かは各人の感覚に任せるとして(おれは、「歩く人は歩かない」と同じで、あまりすっと腑に落ちはしなかった。)、ともかく、唯識によれば、有部や経量部の説くような「原子の集まり」みたいなものは、我々の認識の対象ではないらしい。では、我々の認識の対象は実際には何なのか。次の話に移りたいのだが、すでに6000字に差し掛かっており、まだまだようわからん議論が続くので、いったんここで切らせてもらう。このシリーズは長くなりそうだ。
*1:このあたりの、仏教以外のインド思想もいずれ検討しなければならないだろう。
