※2/12頃追記 この記事の内容について、改めて考えてみると、自分は結構的を外したことを言っていたのではないかと思い、大幅に内容を修正した。
上山春平、服部正明『仏教の思想4 認識と超越〈唯識〉』② - あかりの日記の続き。
前回、唯識以前の外界実在論を検討した上で、これに対するヴァスバンドゥやディグナーガによる批判をみた。では、唯識において、我々が認識しているこの世界(認識の対象)はいったい何なのか。
これに対するディグナーガの解答は、「知識」である。
…???知識の対象は何か、と質問しているのに、その答えが知識ってのはどういうこと?
ディグナーガ曰く、「知識は自己認識を本質とする」とのことである。
…意味が分からんと思うが、この「知識は自己認識を本質とする」という命題が唯識の外界非実在論のキモであり、いわば唯識版の「歩く人は歩かない」と言っても過言ではないと思う。
と、いうことで、今回は丸1回かけて、「知識は自己認識を本質とする」というワンフレーズの意味を探っていくことにしよう。
灯は自らを照らす?
まずね、本書ではもっぱら「知識」という言葉が使われているが、ここでいう「知識」は、「認識」とか「知覚」という言葉に言い換えても、多分それほど大きな問題はないと思われる(もし違うということであれば教えてほしい。)。そのつもりで、おれはあまり区別せずに使う。
ディグナーガはこのように述べている。
「知識の内部に認識されるものの形があたかも外界のものであるかのようにあらわれるが、その形が認識の対象である」(p114)
うーん。
ディグナーガは、知識を灯にたとえている。暗闇の中にともされた灯は、周りのものだけでなく、灯自身をも照らしている。それと同じように、知識には常に認識される対象自体が含まれている、というのである。…うーん、頑張って説明しようとしていて、このたとえでしっくりくる人もいるかもしれんのだが、おれ個人的には、この灯のたとえで逆に混迷したような気もする。
ディグナーガの言っていることについてのおれなりの解釈を、具体例を挙げて説明してみる。飽くまでもおれなりの解釈である。
例えば、いまおれは白いコップを見ている。このとき、おれは、①「自分が白いコップを見ている」ということを認識している。そして、それと同時に、②その認識の中にある白いコップをも認識している。
このことと同じことが、あらゆる認識の場面で起きている。我々は、何かを認識するとき、①必ず「私が○○を認識している」ということを認識する。そしてそれと同時に、②その認識の中の「○○」を認識するわけである。逆にいうと、「私が○○を認識している」の認識を介さずに、直接に外界に存在する「○○」を認識することはできない。
「客観」「主観」という言葉を使うなら*1、「我々は客観的に存在する対象を認識しているのではなく、主観の中に現れた対象を認識している」という感じになるだろうか。
多分、「知識は自己認識を本質とする」とはこういうことを言っているのではないかと思う。
「知識は自己認識を本質とする」の論証
「知識は自己認識を本質とする」を言い換えると、知識の内部に、①知られるもの(「対象の形象」といわれる)と、②知識それ自体(「(知識)自らの形象」や「(知識)それ自体としての顕現」などといわれる)の両者を含む、ということになる(らしい)。上のコップの例だと、「私がコップを認識している」ことが②「知識自らの形象」、認識されているコップが①「対象の形象」に当たるだろうか。
ともかくも、ディグナーガをはじめとする唯識の一派は、このことを論証しようとしたのだ。
論証ねえ…以前、「歩く人は歩かない」の論証のパート(立川武蔵『空の思想史』④ - あかりの日記)で心が折れそうになった記憶があるが(そういえばあっちでディグナーガが出てきたな。)、また論証である。参った参った。
本書で、ディグナーガの論証のうちの1つを論理式みたいなもので書き表しているので、そのまま写してみる。
ある対象の知識とは別に、その知識を対象とする知識があることはだれでも認めている。たとえば、「きのう彼を見た」ということを想起する知識は、きのう生じた彼を対象とする知識を対象としている。(略)
C1(対象の知識)、O1(C1における「対象の形象」)、S1(C1における「自らの形象」)
C2(対象の知識の知識)、O2(C2における「対象の形象」)、S2(C2における「自らの形象」)
C1がS1とO1との両者を含むことをC1=(S1ーO1)とあらわせば、C2=(S2ーO2)となる。C2はC1を対象とするから、O2=(S1ーO1)である。したがって、C2={S2ー(S1ーO1)}となり、C2がC1と異なることは明白である。(あかり注:⑴)
知識が対象の形象を自らの内部にふくまない場合......C1=S1、C2=S2.しかるにS2=S1.したがってC2=C1.(あかり注:⑵)
知識がそれ自体としての顕現を内部にふくまない場合……C1=O1、C2=O2.しかるにO2=C1=O1.したがってC2=C1.(あかり注:⑶)
(p117ー118)
いや、勘弁してください(涙)
…が、ここに挙げてしまった以上は頑張って解説するぞ。
本書では、最初に具体例を挙げたくせに、その例に即した説明があまりされておらず、ちょっと不親切に感じた。おれの方で、引用部分の最初に挙がっている具体例を活用して、この式?の意味を解読してみよう。
まず、おれが昨日A君を見たとする。そして、今日になって、ふとそのことを思い出したとする。このとき、昨日における「今A君を見ていること」と、今日における「昨日A君を見たこと(を認識していること)」という2つの知識(認識)がある。この2つが別の知識であることは自明である。ここを出発点にする。
そうであるところ、もし、「知識が『対象の形象』と『知識自らの形象』のどちらかでも欠いていると仮定すると、上の2つが別の知識だということと矛盾する」ということが成り立つならば、知識は両方を含んでいることになる。そのため、このような仮定を置いて、上の2つが別の知識だと説明できるかどうかを検討する。すなわち、上の式⑴~⑶は背理法による論証を試みているわけだ。
順にみていこう。
⑴は、記号の意味を説明したあと、知識が『対象の形象』と『知識自らの形象』を両方含むとすると、上の2つが別の知識であるということを説明できる、ということを述べている。一応説明すると、「今A君を見ていること」(C1)は「A君」(O1、対象の形象)と「A君を見ていること」(S1、知識自らの形象)を含む。「昨日A君を見たこと(を今日認識していること)」(C2)は、「A君を見たこと」(O2)と「昨日A君を見たことを認識していること」(S2)を含む。O2はC1と同じなので、C2はO1、S1、S2を含むことになり、C1とは別ものである。ということを言っている。
(ただ、これは背理法なので、⑴は必ずしもいう必要はないと思われる。)
⑵は、知識が「対象の形象」を欠き、知識とは専ら「知識自らの形象」だ、と仮定した場合を検討している。このときには、「S1=S2」となってしまうようである。これは、少し難解だが、知識が「対象の形象」を含まないとすると、あらゆる知識(認識)は、「我々がなにかを認識している」ということだけになり、その「なにか」の部分がないことになる。そうすると、すべての知識(認識)の内容はおよそ区別のない無個性なものになってしまう。こういうことを言っているのだと思う。具体的に言うと、知識が「対象の形象」を含まないなら、コップを見ても角砂糖を見てもパソコンを見ても、あるいはコップを触っても角砂糖をなめても、「私は何かを認識した」ということ以上には何も感じていない、ということになってしまうのである。これが「S1=S2」の意味だと思われる。で、そうすると、当然、昨日見たA君も今見ているA君も同じ知識になってしまう(C2=C1)ので、これらが違う知識だということと矛盾する。*2
⑶は、知識が「知識自らの形象」を欠き、もっぱら「対象の形象」だけを含むと仮定した場合を検討している。このときには、「O2=C1=O1」となる、と言っている。これは、知識が、「私が認識した」ということを含まないとすると、「過去の認識を対象とする知識」と、当該「過去の認識」との対象が同じものになってしまう、ということを言っていると思われる。この仮定のもとでは、昨日における「今A君を見ていること」も今日における「昨日A君を見たこと(を認識していること)」も、認識の対象はともに(昨日見られた)「A君」になる(O1=O2)。そのため、この2つの知識は区別がつかなくなり(C2=C1)、これらが違う知識だということと矛盾する。
よって、知識が「対象の形象」と「知識自らの形象」のどちらか一方でも欠くと矛盾してしまうので、知識はその両方を有していると認められる。証明終了。
こんな感じではないかと思われる。
本書にはディグナーガのもう1つの論証と、ダルマキールティの論証も挙がっているのだが、もういいよね(涙)
とにかく唯識研究者のうちの一派は、「知識は自己認識を本質とする」をあの手この手で論証しようとした、ということだ。(最初におれが「唯識版『歩く人は歩かない』だ」と言った意味がなんとなく分かってもらえただろうか(笑))
「知識が自己認識を本質とする」としても、やっぱり外界は必要ではないか
…まあ、そこまでいうんなら、「知識が自己認識を本質とする」ことは認めてやってもいいだろう。しかし、ここで1つ疑問がわいてくる。知識が自己認識を本質とするとしても、やっぱり外界は必要ではないか?
何度も繰り返して恐縮だが、「知識は自己認識を本質とする」とは、(おれの理解が正しければ)我々は世界を認識するとき、①対象の形象(コップ)と②知識自らの形象(「私はコップを見ている」)を同時に認識している、ということである。が、この①対象の形象(コップ)は、いつでもどこでも好き勝手に出てくるものではない。必ず時間的・場所的に限定されている。そうすると、我々に①の原型となるものを与える外界は、やっぱりないといけないんじゃないか?
実は、経量部はこのように考えた。彼らは「知識は自己認識を本質とする」説に立ちつつ、やはり外界は必要だ、と考えたのである。
これに対するヴァスバンドゥの反論はこうである。a 夢の中では、対象がないにもかかわらず、時間的・場所的な限定のある知識が生まれる。b それから、地獄にいる人は、実際には極卒や責め苦が実在しないにもかかわらず、業によって責め苦などを見ている。だから、現実世界で知識に時間的・場所的限定があるようにみえるからといって、必ずしも外界がある必要はない。
どうだろう。bは、そもそもおれ達は地獄のことなんて知らんので、唯識説に立たないと「獄卒や責め苦は存在しない」という命題は出てこないと思われ、結論先取りになっていて、有効な論拠になってないことは明らかなんじゃないかと思う。だが、aについてはまあ理解できる。
というか、このaが唯識の基本的な世界認識といえるだろう。唯識説によれば、我々は寝ても覚めても夢の中にいるようなものなのである。
このほか、「知識の原因が知識と同時に生じるのはおかしいので、外界は必要ではないか」という議論もあるようだが、これについては、おれ的には、この疑問自体がよく理解できなかったので、この話はとばさせてもらう。
「知識が自己認識を本質とする」としても、外界はあってもいいんじゃないか
で、上のヴァスバンドゥの議論から、外界は「なくてもいい」ということは分かった。しかし、別に本当に外界があったとしても唯識説と矛盾はしないのではないだろうか。という次の疑問がわいてくる。
経量部に対するディグナーガやアサンガ(摂大乗論)の反論は、この問題についての一つの立場を示している。経量部は、外界は「知覚されたとおりに存在する」と考えた。しかし、「知識は自己認識を本質とする」説に立てば、我々が知覚しているのは、それぞれ個々人の主観が与えた見え方による世界なのであるから、そうすると、1つの存在が多くの本質をもつことになってしまう。これはおかしい。こう考えるのである。
まあこれはこれで理解できるが、そうだとしてもやっぱり、各々に見え方が違うとしても、個々の見え方の共通の「もと」みたいなものとしての外界(カントのいう「物自体」みたいなもの?)は、別にあっても矛盾しないんじゃないだろうか?
で、おれが本書を読んだ感じだが、唯識説は、この点については、そこまで積極的に否定しているわけではない。唯識が言っていることは、突き詰めると、「外界は、あるかないか分からないが、あると考える必要はない、なくても完璧に説明がつく」ということなのではないかと思われる。外界が「ある」可能性を積極的に否定できるかどうかは極論どっちでもよく、この後の話に関わってこないのである。(また、次回以降に述べるが、少なくとも他人(自分以外のアーラヤ識)は、実在すると考えられているのではないかと思う。)
「外界非実在論」と言っておきながらなんじゃそのオチは、という感じだが、まあおれはこのように理解した。
知識を作り出しているもの
順番が前後するが、「外界の存在が必要ではないか」説から、もう1つの疑問が呈されている。それは、お釈迦様は「視覚器官と物質的存在によって視覚的認識が起こる」と説いており、それと矛盾するのではないか、という疑問である。
これに対してのディグナーガの解答はこうである。我々は、感覚器官が物質を認識していると思っているが、実際のところ、認識されたという結果があるだけであり、感覚器官や物質はそこから推測されただけである(お釈迦様が言ってるのもこの推測の結果にすぎない、ということだろうか。)。我々自身の(知識それ自体の)中に、認識という結果を生じさせる能力があるのであれば、外界の存在を要請する必要はない。
これは極めて卓見であると思われる。我々に分かっているのは、「世界が認識された」という結果だけである。我々自身の中に、認識を生じさせる能力があるのであれば、それとは別に外界がある必要はないのである。そして、唯識説は、こういう能力があると考えたわけだ。
さて、世界には知識があるだけで外界はない(そう考えても一切矛盾がない)という話を延々と見てきたが、最後に、その知識を生じさせる能力の話が少し出てきた。唯識の坊主たちは、この能力をもつアーラヤ識というものを考え出した。次回からは、このアーラヤ識の働き、すなわち識の変化(パリナーマ)について検討していこう。面白くなってきたな。
*1:おれ、本当はあんまり仏教を西洋哲学とか科学とかで例えるのが好きじゃないんだよな。「なじみ深いはずの東洋思想なのに、西洋の思考法を借りてこないと理解できない」というのがなんか癪なんだよ。まあナショナリズムじゃないけど、それに近い非合理的な感覚だ。…しかしそうはいっても、この後も西洋とのアナロジーの話はまあまあ出します。アビダルマ→中観→唯識がヘーゲルのディアレクティークじゃないか、みたいな浅~い話も多分します。
*2:まあ、言ってることはやや難解だが、知識が対象の形象を有していることは常識感覚に十分即しているので、こっちの方はあんまり主たる問題ではないと思う。唯識のメインテーマは知識が「知識それ自体の形象」を有している、ということの方なのだ。
