誠にあつうござるな。
あつうござるが、俺は急遽奈良に行ってきた。色々勉強したのでこれから話す。
まずは興福寺。
★略史
興福寺は藤原鎌足の発願。不比等のとき奈良に移り、以降、藤原氏の氏寺として勢力を拡大。中世には僧兵の武力を背景に大領主に。
興福寺は何度も災難に見舞われたが(火災だけで7回に上る)、その度に再建された。治承の平重衡の焼討ち(1180年)ではすべての堂宇と多くの古仏が焼失したが、直後に復興がなされ、ここで大活躍したのが慶派である。そのため、興福寺には、天平の生き残りの古像に加えて、慶派の仏像が多く残る。
しかし、勢力の衰えた1717年の火災の後には再建が進まず、明治維新の廃仏毀釈の影響も受けて壊滅状態に。ごく最近になって、ようやく天平伽藍の復興の機運が高まってきている。

現在仏像が安置されているのは、北円堂、南円堂、中金堂、東金堂、国宝館(旧食堂)である。各堂宇について詳しく見ていく。
おれはあまり拾った画像を上げたくないので、仏像の画像はここを参照してくれ。→https://www.kohfukuji.com/property/
三重塔、南円堂、北円堂
三重塔は12世紀前半創建で、治承の兵火で焼失するも、直後に再建。後述する三重塔と並び興福寺伽藍最古の建造物で、国宝。

北円堂は、720年に亡くなった藤原不比等の供養のため長屋王が建立。治承の兵火で堂と仏像が全滅したが、13世紀初頭に復興。お堂はこのときのものが残り、国宝。
現在北円堂に残る国宝は、運慶工房の弥勒如来、無著、世親のほか、8世紀末制作の四天王(もと大安寺の像らしい。)。

南円堂は9世紀初頭の創建。やはり治承の兵火で焼けたが、こちらは康慶工房により復興し、不空羂索観音、法相六祖(いずれも国宝)、四天王(重文)が作られ、いずれも現存。

これら3つの建物は期間限定公開であり*1、おれは中を見られなかった。


だが、北円堂の諸像はまもなくトウハクに来るようだ。上野でじっくりお目通りするとしよう。
東金堂の瑠璃光浄土
8世紀前半、聖武天皇が叔母さんの病気平癒を願い建立。東なので、瑠璃光浄土を模して薬師三尊が置かれた。11世紀半ばの火災の後の復興は定朝が担当したらしいが、やはり治承の兵火で堂も像も全滅。定朝、ビッグネームなのに、作品があんまり現存してなくて悲しいなあ。もっとも、現存する板彫十二神将(国宝。現在は国宝館。)はこの時期の作品とされ、定朝制作の可能性もあるらしい。
治承の兵火の後の復興はやや遅れ、業を煮やした興福寺の僧兵は、飛鳥山田寺から薬師三尊像(白鳳時代制作)を運び込んで本尊とした。堂内の脇侍の日光・月光菩薩(重文)はそのときのものである。本尊は1411年の兵火で焼けて再建されたが(重文)、1937年、台座の中から、山田寺像の頭部が発見された。これこそ有名な興福寺仏頭である(国宝。現在は国宝館。)。金銅仏で、落下の衝撃で頭の左半分がへこんでいるが*2、くっきりした目鼻立ちなど、白鳳仏の典型的作品とされる。
薬師三尊以外は康慶の弟子、定慶*3工房により再建。定慶の作品は、文殊と維摩の他、十二神将(いずれも国宝)が全て揃って残る。維摩経のシーンを表す2尊は宋時代に好まれたモチーフのようだ。台座や光背を含めて、丸く若々しくどこか理想的な文殊と、老いて角ばった感じの写実的な維摩が対照的だ。
北円堂-運慶、南円堂-康慶、東金堂-定慶。試験に出そう(なんの試験だ。)。
そのほか、堂内には9世紀初頭頃の四天王像(国宝)が残る。なお建物は上記15世紀の火災の直後の再建のもので、これも国宝。

中金堂
中金堂は、不比等により平城遷都と同時に創建された最古のお堂。で、あると同時に、「最新の」お堂でもあるのだ!
当初の中金堂はお堂の周りに回廊があった。当時の寺は、回廊の中に「お堂+何か」を配置するのが一般的だった(②以降で詳しく見る。)ので、金堂だけを回廊で囲む方式は新しかったのだろう。この方式は東大寺大仏殿に受け継がれる。
中金堂は7度火災で焼け、7回立て直された。しかし、7回目、永禄の火災の後のお堂は仮堂に留まり、現在の立派な金堂ができたのは実に2018年のことである。
現在再建中金堂に置かれるのは、もと西金堂の脇侍像だった薬王・薬上菩薩(重文)と、江戸時代の釈迦如来坐像である。脇侍菩薩は奈良仏師の作とされる。慶派よりやや保守的な作風ということかな。そのほか、慶派作とされる四天王像(国宝)が置かれる。どの堂にあったか分からず、制作者につき諸説あるようだ。


国宝館
旧食堂の建物が国宝館となっており、たくさんの国宝が置かれている。(白鳳の仏頭と板彫十二神将は既に述べた。)
国宝館のメインは旧西金堂の仏像なので、先に西金堂の話をする。この堂は733年、光明皇后の発願で創建。創建時から、釈迦、脇侍、二天、四天王、十大弟子、八部衆、華原磬等があり、その後も色々増えていったが、治承の兵火で八部衆と十大弟子以外が消失。直後の復興では、運慶が本尊釈迦三尊の復興を担当した。その後、1717年の大火により、仏像の一部と堂が焼け、お堂は現在まで復興されていない。そういうわけで、生き残った仏像は国宝館に置かれているのだ。
ということで、まずは西金堂の天平仏、八部衆と十大弟子(のうち6体)。おれは修学旅行で奈良に来ていないので、これが初対面であった。八部衆ではやはり阿修羅が頭一つ抜けた完成度だ。三面六臂の複雑な像様を上手くまとめている。耳やモトドリが共有だったりと、違和感を生じさせないための細かい工夫が感じられる。三面は微妙に表情が異なる。五部浄は上半身のみが残り、破損部分から脱活乾漆造(布を張り合わせて上から漆を塗る工法)の作り方がなんとなく窺える。そのほかも八部衆は少年っぽい顔立ちが多いところ、これは光明皇后の趣味(ショタコン?)が反映されているらしい。十大弟子は年齢や表情、着衣が像ごとに異なっていて面白い。そのほか、天平時代のものとして華原磬が残る。いずれも国宝。
西金堂の鎌倉仏として、運慶制作の本尊釈迦如来の仏頭が残り、その表情は天平仏に模範をとったといわれる(素人のおれにはちょっとよくわからない。)。国宝。そのほか、仁王像(国宝)、天燈鬼・龍燈鬼(康弁作、国宝)、二天(重文)などがある。仁王像は門にはよくあるが、堂内に置かれていたものは珍しいらしい。金剛力士像って乳首が花の形だけど、なんでだろう。天燈鬼・龍燈鬼はユーモラスな表情で、玉眼が効果的に使われている。
さらに、旧食堂の本尊だった千手観音菩薩(国宝)がある。食堂も治承の兵火の後再建され、そのときこの像も作られたようだ。5m超えのどでか像で、奈良仏師の作らしい。食堂は18世紀の大火を逃れたが、廃仏毀釈のときにぶっ壊され、後に跡地に国宝館が建てられて今に至るようだ。
天平伽藍の復興へ
ここまで見てきたように、火災の度復興してきた興福寺だが、18世紀の火災の後の復興は進まず、その後の廃仏毀釈でダメージを受ける。このとき多くの寺宝が毀損・流出し、例えば快慶のデビュー作の弥勒菩薩像は現在ボストン美術館にあったりする。あな、おいたわしや…
その後明治政府は、仏像などの寺宝は保護する方向に舵を切るが、寺域は奈良公園の一部となり、植樹などが進んで公園として整備されていく。おれも実際に行ってみて、「歴史ある大寺院」というよりは「公園」感が強いな、という印象を受けた。東大寺、薬師寺、法隆寺などの他の古刹と比べると、その傾向は顕著である。
そこのところに、興福寺のお坊さんたちもかなり心を痛めており、天平伽藍の復興を悲願としているようだ。今からわずか7年前にようやく中金堂の復興が成り、今は第2次事業として、シンボル・五重塔の修復などをやっているようだ。


おれとしても、やはり天平伽藍の復興は大いにやってほしい。中金堂の回廊や南大門はちゃんと建ててほしいし、何より、ゆくゆくは西金堂を建て直して、八部衆や十大弟子はそこに置くべきではないか(そういうことが計画されているかはわからないが。)。今回の旅行全般で強く思ったのだが、仏像はただ保存していればよいというものではなく、衆生にパワーを与える信仰の対象として、衆生の心の中に根付いていることが重要なのではないか。そして、そのためには、できる限り、本来あるべきところに置き、あるべき拝まれ方で拝まれる必要があるんじゃないだろうか。
おれがどう思うかはともかく、ことはそういう方向に進みつつあるようだ。おれも微力ながら、この先も何度も奈良に行って、仏を拝み、たくさんお賽銭を投げようと思った。
まあ、まずは来月トウハクで弥勒にお目にかかりたい。


