あかりの日記

おっ あっ 生きてえなあ

山本勉『日本仏像史講義』②

 

②では平安時代をみていく。美術史では、前半と後半に分けて語られるようだ。

 

平安時代前半(平安遷都〜10世紀前半)

新仏教

桓武天皇長岡京平安京への南都大寺の移転を禁じ、最澄空海が新仏教を生んだ。こうした新仏教の中心地でも仏像制作が発展した。

長岡京時代の像の代表格が神護寺薬師如来立像である。カヤ材のいわゆる代用檀像*1であり、厳しい形相や、太ももを極端に強調する体躯などに特徴がある。俺は去年トウハクで観た(マンダラ - あかりの日記)。同じ時代の木彫像としては、宝菩提院菩薩坐像も有名である。

平安京初期の作品としては、木彫像の薬師寺薬師如来など、木心乾漆造りの仏像としては、唐招提寺薬師如来立像、千手観音立像などが挙げられる。この辺から現存する作品が増えてきて覚えるのがしんどくなってきた(笑)

 

承和様式

空海は嵯峨帝の庇護の下で、神護寺別当、ついで東寺別当となり、仏像制作も指揮する。

代表的な作品が東寺講堂の諸尊である。中央の五仏をはじめとして、五菩薩、五大明王、四天王、梵天帝釈天の合計21体が整然と配置されている。この仏像群は、仁王経の思想を金剛界マンダラ(マンダラ - あかりの日記参照)で表したもので、仁王経マンダラとも呼ばれているらしい。

五菩薩はカヤの一木造り。この時期の密教の影響の濃い作風を、元号をとって「承和様式」と呼ぶらしい。

類似の作例に、神護寺五大虚空蔵菩薩(やはりおれは去年トウハクで観た。)や、観心寺如意輪観音像、広隆寺講堂阿弥陀如来坐像、法華寺十一面観音菩薩立像などが挙げられる。密教的なコンセプトの造像が多く、この時期の中央でいかに空海密教がブームだったかよくわかるな。

しかし、承和様式は比較的短命で衰退し、仏像制作は新たな典型への模索を続けていく。

和様

9世紀末にはいわゆる和様の萌芽があった。仁和寺阿弥陀三尊像は、柔和な表情やゆったりした姿勢が特徴である。定印のポーズも後の流行の先駆けとなった。唐風と奈良時代以来の日本風を融合した和漢融合の様式がみえる。清涼寺阿弥陀三尊像、室生寺薬師如来立像・十一面観音菩薩立像、獅子窟寺薬師如来坐像等にも、同様の傾向が見られる。

また、天平仏の特徴を意図的に取り入れた天平復古の傾向も目立つ。醍醐寺上醍醐薬師堂の薬師三尊像には、ポーズの一部などに奈良時代の様式が見られるようだ。

 

平安時代後半(10世紀前半〜12世紀後半)

和様と中国からの仏像

さっきから出てくる「和様」というのは、一言で表すと、優しくて圧がない、という感じだろうか。

平安時代後半のへき頭に当たるのが法性寺千手観音菩薩立像である。優しい表情、重量感のない体躯。当時の貴族の好みが伺える。空也上人作と伝わる六波羅蜜時十一面観音菩薩立像などにも、古典を摂取しつつ穏やかな雰囲気のある作風がみられるらしい。

この流れとは別に、10世紀後半には、宋代に突入した中国から、1体の仏像がもたらされた。それが清凉寺釈迦如来である。顔立ち、衣、水晶の玉眼をはじめとする技法など、同時代の日本の仏像とは大きく異なっている。この仏像は大いに朝野の崇敬を集めたが、しかるに、わが国のその後の仏像制作にはあまり影響を及ぼさなかったようだ。

清凉寺像の請来が造形の展開に直接的には影響しなかったことに、和様成立を目前にした、当時の日本の仏像の方向性がよくあらわれている(p104)

のだそうだ。へー、おもしろい。

仏師の台頭と康尚

飛鳥時代からここまで、「仏像の作者」の名前はほぼ残っていない。止利仏師を除くと、せいぜい、有名なお坊さん(空海とか)が仏像も作ってた、というパターンが多少あるくらいだ。

だが、この平安後期辺りから、独立した工房を営む仏師の名前が、銘記などに表れはじめる。その最初が、有名な定朝の師匠の康尚である。また、このころから、制作年代の明らかな作品もかなり増えてくる。(なので取り上げる作品も適宜間引いていく(笑)。)

康尚工房は藤原摂関家パトロンにして勢力を拡大。康尚の有名な作品は、木彫像の同聚院不動明王広隆寺千手観音像である。無骨さを排した優しい面貌や全体的な彫りの浅さなどに和様がみられる。また、後者はのちに定型化する寄木造りである。

定朝

康尚の弟子として燦然と現れたのが、日本仏像史の大スター、定朝である。藤原道長の法成寺九体阿弥陀(現存しない)の作成で大いに名声を高める。そして、現存する彼が手掛けた大作が、頼通の依頼で造った、平等院鳳凰堂阿弥陀如来である。

当時の京の貴族は、末法思想のもとに浄土信仰が強かった*2。ということで、この平等院も浄土思想を表現し、極楽を模して造られたといわれる。その堂宇の阿弥陀如来は、超優しい表情である。姿勢もゆったりとして硬い緊張感がない。奥行きが薄く、平べったくて圧迫感がない。造法も日本独自の寄木造である。当時の貴族の趣味趣向に突き刺さったのだろう。この作品が和様の完成形といわれ、しばらくの間圧倒的なブームになる。

鳳凰堂の雲中供養菩薩像も定朝工房の作と伝わり、阿弥陀像と共通する柔和な見た目をしている。でも、定朝の作だと分かっている現存作品は意外とそんなに多くないようだ。あらら。

三派仏師

定朝が完成した和様の作風を「定朝様」と呼び、これがこの後圧倒的なブームになる。定朝系の工房は代を重ねるにつれ、11世紀後半の院政時代には、院派、円派、奈良仏師の3系統(三派仏師)に分かれた。それぞれの代表作をかいつまんでみていこう。

円派は、仁和寺旧北院薬師如来坐像が有名である。定朝の阿弥陀と似ているが、あれよりもっとずんぐりして丸顔である。大倉集古館の普賢菩薩騎象像*3なども同系の作だ。

院派の作としては法金剛院阿弥陀如来坐像などがある。

奈良仏師の作としては、康助の高野山金剛峯寺大日如来坐像や、玉眼が用いられた最初の作品である長岳寺阿弥陀三尊像などが残る。

いずれもそれなりに定朝の伝統に忠実な様式と捉えられているようだ。

康慶と運慶

平安時代の末期、奈良仏師の傍系から、次なる大スターが表れる。それが、上記の康助の弟子たる康慶と、その子運慶である。

運慶のデビュー作ともいわれる名作が円成寺大日如来坐像である。面貌の穏やかさは定朝風だが、ピシッと胸を張って印を結ぶ姿勢には清新な感覚が認められる。

康慶は静岡の瑞林寺地蔵菩薩坐像に銘を残す。源平合戦より前だが、この時点ですでに康慶工房が東国武士と関係を持っていたことを表している。

その後、治承4(1180)年に平重衡が清盛の命で南都焼討ちを行った。以仁王の挙兵に伴って南都の寺が平家政権に楯突いたので、その報復らしい。この辺りは今度じっくり勉強したい。

ともかく、東大寺興福寺が焼かれ、大仏をはじめとする奈良時代の古像が多く失われた。これの復興の中で、康慶・運慶らいわゆる慶派仏師が本格的に活躍することになる。運慶はこの時期、南都復興の願いもかけて、妻子と協力し、法華経の写経を完成させる(いわゆる運慶願経)。

南都復興以降のことは、パート③で詳しく見ることにする。

地方の造像

この時期の地方の造像もみておく。九州は大分の臼杵摩崖仏や、岩手中尊寺金色堂の諸像が有名である。俺は昨年のトウハクの中尊寺展に行き、今年は中尊寺にも行ったが、仏像のみならず金色堂本体も素晴らしい完成度だった。古代末期の東北にこれだけの建築物を造る政治権力があったことに驚きだ。

上記は中央の影響を受けた地方での造像の例だが、それとは別に、地方特有の造像も行われた。立木仏鉈彫りといった、粗削りな風体をあえて残す作風が、東北や関東などで多く見られる。伝統的な自然信仰との関わりもありそうだ。

 

*1:大陸の仏像は香りのある白檀で造られていたところ、わが国には白檀がないため、質感の似たカヤなどを代用することがしばしばあったようだ。

*2:浄土といっても、まだ平安時代なので、親鸞のナムアミダブツじゃなくて、恵心僧都の天台浄土教である。

*3:奈良の作品じゃないけど奈良の国宝展に来てるらしい。