③では鎌倉時代以降を見ていく。
鎌倉時代前期
運慶の御家人造像
1180年の兵火の直後に始まった南都復興は、まず大仏、次いで興福寺の主要堂宇から始まった。これらに慶派仏師が尽力したが、この頃の仏像はあんま残っていない。なお、興福寺東金堂の本尊は、再建ではなく、興福寺僧兵が飛鳥山田寺から奪取した像で代用した(これが現在の興福寺仏頭。パート①参照のこと。)。
興福寺で一仕事終えた運慶は、鎌倉に行き、幕府御家人の造像を担当する*1。鎌倉殿の13人で出てきた名前が次々と登場するぞ。
まずは初代執権・北条時政建立の願成就院の諸尊を造る。阿弥陀如来坐像、毘沙門天立像など5体が現存し、印相や着衣などに古典の様式が残る。続いて、侍所別当・和田義盛の常楽寺の阿弥陀三尊等の諸尊を、さらには、宿老足利義兼の依頼で、真如苑大日如来坐像を、それぞれ制作する。
定朝風に比べると力強く男性的で、いかにも坂東武者が好みそうな造形だ。定朝風も運慶風も、パトロンの好みが色濃く出て面白いね。
(ちなみに、真如苑大日如来坐像は東京は半蔵門ミュージアムで公開されている。常設展に加えて、企画展や仏教についてのショートムービー等、なかなか展示が充実していて、おれのような仏教マニアのもの好きには結構おすすめだ。)
康慶の南都復興
そのころ、南都では康慶工房が興福寺南円堂の復興に着手していた。南円堂不空羂索観音菩薩坐像は、焼失前の厚い崇敬を受けていた姿をよく再現できているようであり、古典学習の成果が表れている。法相六祖坐像や、今は中金堂にある四天王像もこの時期に復興された南円堂の像である。
興福寺は、焼き討ちに遭った古仏も多いけど、慶派の全盛期(かつ藤原氏もまだ力が残ってた時代)に復興したから、名作が多く残っていて、国宝も多いな。
慶派は東大寺大仏殿の大仏以外の諸尊も復興する。もっともこれらは後述の近世の焼き討ちにより焼失した。
この間の康慶工房では快慶が活躍した。彼のネームド作品は多く、いくつか紹介する。ボストン美術館弥勒菩薩立像は円成寺大日如来像(パート②参照)に似ている。兵庫は浄土寺浄土堂阿弥陀三尊像も有名である。金剛峯寺四天王像は、東大寺大仏殿の像のひな型となった可能性があるらしい。
鎌倉彫刻の完成
東国から畿内に戻った運慶は、頼朝の帰依した文覚の依頼で、東寺、神護寺の修理に携わる。また、金剛峯寺八大童子立像を造営する。さらには、鎌倉アンチの摂政近衛基通の依頼で白檀普賢菩薩像を造る。御家人、貴族、寺院と、幅広く仕事を受けていたことがわかる。
そして、運慶・快慶を含む康慶工房が満を持して制作したのが、言わずと知れた東大寺南大門金剛力士像である。この本の記述をそのまま引用しておこう。
阿形は門の限られた空間のなかに自然におさまり、細部の造形もわかりやすく整理されているが、吽形は細部にこだわらず、限られた空間に抵抗するような、やや無理な姿勢によって立体感に富む迫力を生んでいる。前者には快慶の作風を、後者には運慶の作風をみるのが自然である。(p150)
造仏界の頂点に立った運慶が次に担当したのが興福寺北円堂の諸尊である。中尊弥勒仏、脇侍法苑林・大妙相菩薩、四天王、無著・世親の二羅漢の合計9体を造り、弥勒物と二羅漢は現存する。古典に準拠しつつ運慶独特の緊張感のある作風が特徴である。今年トウハクに来るようなので(特別展「運慶 祈りの空間―興福寺北円堂」:祈り 未来へ ~興福寺五重塔 令和大修理~)、ぜひ観に行かねば。
その後は、東大寺俊乗堂の俊乗上人坐像も運慶制作と伝わる。晩年の肖像を映した写実的作品である。
運慶工房の者の他の作品としては、快慶の東大寺勧進所僧形八幡神坐像や、興福寺再興に名が残る定慶(後述する肥後定慶とは別人。)の興福寺東金堂維摩居士坐像などが有名である。
運慶は1223年に亡くなり、美術史ではここまでを鎌倉時代前期とする。これ以降も、慶派工房の活動は続いていく。
鎌倉時代中期
運慶・快慶の二代目
運慶の長男湛慶が慶派仏師を率いて活動を継続する。高知・雪蹊寺*2の毘沙門天三尊像などを制作。代表作は蓮華王院千手観音菩薩坐像である。
運慶の四男康勝は、東寺西院大師堂弘法大師坐像を造り、これは以降量産される弘法大師像の原型となった。ほかにこの時期の慶派仏師として肥後定慶がおり、鞍馬寺聖観音菩薩立像などを制作した。快慶の弟子の行快なども知られる。
鎌倉中期と宋風
鎌倉中期でも、京都周辺では、貴族等の支持を得た院派・円派の勢力はいまだ健在であった。この時期の京都には入宋僧がもたらした宋風の伽藍が少なからずあったという。各派の仏師は宋風を取り込んで造像していくことになった。
鎌倉においては、高徳院阿弥陀如来坐像、いわゆる鎌倉大仏が建立された。極端な猫背の体形などから、当時の宋風の影響が強くうかがえるらしい。この時代の鎌倉は慶派仏師の影響が強かった。
蓮華王院本堂の再興
13世紀の後半に、後嵯峨院の発願で蓮華王院本堂の再興がされた。前述のとおり当初は湛慶が大仏師を担ったが、最終的には円・院派の参加が多かったようだ。最終的には本堂の千体千手観音菩薩像の再興がなった。
美術史では、本堂の再興がなった13世紀後半をもって、鎌倉時代中期の終わりとするらしい。これ以降、王朝文化圏による大規模な仏像制作は行われず、日本の仏像の栄光の時代はここで幕を閉じるらしい。
その後の時代
鎌倉時代後期から、最大のパトロンである朝廷・院政の衰退に伴って、日本の仏像制作はだんだんと勢いを失っていく。各時代をかいつまんでみていく。
鎌倉時代後期
この時期の仏像制作は、概念的な造形が増え、一部では中国風への傾斜がいよいよ強まったそうだ。
慶派では、康円の東京国立博物館文殊五尊像や、善春の西大寺興正菩薩坐像などが知られる。
中央のパトロンが没落した院派や円派も地方進出をしたようで、地方にも造像の例がある。
南北朝時代
鎌倉以来の伝統的な諸派の活動が未だ盛んであった。
鎌倉幕府滅亡後、新たな権力者たる足利幕府といち早く結びついたのは院派であった。院吉は方広寺釈迦三尊像を制作した。癖の強い面貌、箱を重ねたような体形、曲線を多用する衣紋など、独特の形式美だが、どことなく中国風の感がある。
慶派は七条仏所と呼ばれ、運慶様に従った造像を続けていたようである。
南都では工房(仏所)が細かく分かれる傾向が表れ、その中で椿井(つばい)仏所などが勢力を増していった。
室町時代
仏像にとっては造形から写実性が失われ、衰退が進んだ時期とされる。
慶派七条仏所や、院派、円派の活動は続いていた。奈良では椿井仏所の活動が盛んであったが、その衰退後も、長谷寺十一面観音菩薩立像などの名作が残されている。
この時代には、松永久秀の兵火により東大寺大仏殿が焼け落ち、諸像が失われている(いわゆる東大寺大仏殿の戦い。)。
桃山時代
信長は比叡山焼き討ちなど仏教にきつく当たったが、秀吉は方広寺大仏の建設など、仏教に概して友好的であった。豊臣氏以来の造像の例は多い。
七条仏師の康正は、秀頼の命により、東寺金堂薬師三尊像を復興した。
江戸時代
徳川幕府は檀家制度により寺院を統治に組み込んだので、幕府の庇護のもとに盛んに造像が行われた。幕府御用の七条仏師の造像としては、東京国立博物館の四方四仏坐像(もと東照宮五重塔)などがあげられる。
黄檗宗の范道生や松雲元慶の黄檗様、円空や木喰の造像など、伝統的な枠組みを超えた個性的な造像が行われたのもこの時期である。
その後、明治維新における廃仏毀釈の時代に至り、日本仏像史はひとまず終わりを迎えることになる。
終盤雑になってしまったが(もっとも、これは俺のやる気の問題だけでなく、仏像史そのものが尻すぼみなのだ。)、なんとなくの流れはつかめたので、実際に仏像を観ながら理解を深めていきたい。
