心理学者である著者は、ユダヤ人として強制収容所に入れられる。本書は、収容所での過酷な体験にさらされた人間の心を心理学者として分析したものだ。とくに、過酷な環境で希望を失わないためには、人生の目的を見失うなということが繰り返し説かれる。
割と薄い本なのでサッと読めます。
ユダヤ人たちが、ぎゅう詰めの汽車でアウシュビッツに運ばれていく。僕は、朝8時半のぎゅう詰めの地下鉄で運ばれながら読んだ。
なるほど、この本が何十年も世界中で読まれているわけだ。
この満員電車の死んだ目のおっさんやおばさん達が、これを読んで、ああ自分は番号で呼ばれる被収容者なんだと気づく。堕落した同僚や悪を積極的になす者になってはならんのだと。自分を見失わないために
わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ
と、問題を問う。
毎日をなんとなく生きている人には結構刺さる。
僕自身も、この先困難に直面したとき、この本のことばを何度も思い出すだろうなあ。
「わたしが恐れるのはただひとつ、わたしがわたしの苦悩に値しない人間になることだ」
思いつくかぎりでもっとも悲惨な状況、できるのはただこの耐えがたい苦痛に耐えることしかない状況にあっても、人はうちに秘めた愛する人のまなざしや愛する人の面影を精神力で呼び出すことにより、満たされることができるのだ。
生きる目的を考える「べき」なんですかね
とまあここで終わってもいいわけなんだけど、ちょっとひっかかったところがある。
著者は、収容所の過酷な環境にあって、人は天使と悪魔にぱっきりと分かれた、と述べる。他人や死体のモノを盗むのはもちろん、被収容者の中には収容者の手先として他の被収容者を監視する役の者(カポー)の中には、好んで残虐行為に及んだ者もいる。そこまでいかなくても、人生に絶望して自殺したり、無気力になったりする者は多かった。
その一方で、収容所でも気高さを失わなかった少数の人もいる。モラルを維持し、他の被収容者を励まし、なけなしのパンを他の被収容者に譲った。このような人々は、収容所の地獄のような生活ですら、自らを成長させる糧とした。
そこで、後者のような人間になるためには、生きる目的を見失うな、と言う。そしてこの文脈で、上に引用した「人生が私たちに何を期待しているか」を考えよ、との話が出てくるわけだ。
つまり、有名な一節の「人生がわたしたちに何を期待しているかを考えよ」には、「困難を糧にして成長をしたいのなら」という条件節がついているわけだ。
僕は、個人的にはこの義務を賦課することを実践しようと、そういう気持ちになったが、だけど僕の方から他の人にそういう生き方を勧めるのはちょっと違うと思った。
人間というのはそんなに強くないと思うんだよな*1。
強制収容所は結構とんでもない環境である。飯はほぼ水みたいなスープが1日1食、それで1日12時間の過酷な肉体労働、夜はそこら辺の板の上に鮨詰めになって糞尿まみれで寝る、もちろんまともな医療なんてない、そこら辺に死体が転がってる、働けなくなったら即ガス室行き…
こんな状況で一体どうやって、それを糧にして成長しようと思えばいいんですかね。
僕は、こういう状況で人生に絶望して自殺したり、気力を失ったり、さらには進んで悪に手を染めた人々ですら、「徳が低い」人間だとは思わない。そういう人たちのことをそのまま肯定したいと思っておるわけだ。どんな状況でも常に自己実現を目指し、目標に向かって邁進し続ける人間は理想的かもしれないが、そうすべきだ、そうでなければならない、とは思わない。
頼むからこれだけはやってくれ。髭を剃るんだ。できれば毎日。…そうすれば若く見えるし、頬がひっかき傷だらけでも血色はよく見える。病気にだけはなるな。病人のように見えちゃだめだぞ。命が惜しかったら、働けると見られるしかない。靴ずれみたいなほんのちょっとした傷で足を引きずったら、ここでは命取りだ。
人間はなにごとにも慣れる存在だ、と定義したドストエフスキーがいかに正しかったかを思わずにはいられない。
番号で呼ばれ続けて人生の目標を喪失し、日々をただ生き延びるためだけに、病気に怯え、怪我を隠し、毎日髭を剃り、ネクタイで首をばっちり絞めて、満員電車に揺られ、そういう日々に慣れきってしまった、目の前のおっさんのその毎日を、僕はそのまま肯定したいと思う。それでいいと思う。
まあ、僕がそう思うのは、それこそ強制収容所みたいな過酷な環境で人間の汚ねえところをつぶさに目撃したりしていないからかもしれんがね。
とにかく、実存的な悩みに今まさに苦しんでいる人がいるとして、その人に、この本をぜひと勧めることはできない、今の僕は。
そういう人は、心がげんきになったら、その時読んでほしいと思う。
われわれの信仰?
ちょっとまた別の話だが。
いや、もしかしたら別の話ではない可能性があるのだが。
著者の語る徳の高さ、内面の強さの源泉として、信仰の存在が、明示されてはいないが、ほの見える。
収容所の中では、信仰があり内面が豊かな人の方が強かったようだ。
「人生が私たちに何を期待しているか」を考えろというのも、人生に意味があることを当然の前提にしており、極めて信仰的色彩が強い。
ちょっと断っておくが、僕はここで、この本がユダヤっぽいとか言いたいわけではない*2。著者は自分が「ユダヤ人」であることを一切強調していないし、それはあとがきにあるように、この本を「ユダヤ人の体験」じゃなくて「人類の体験」から語れること、という形で普遍的なものにしようと意図的にやっているんだろう。その著者の意図は成功していると僕は思う。
ただ、西洋っぽいものの考え方だな、とは思うんだよね。
閑話休題、信仰がある人の方が収容所で強い、というのは、われわれの信仰、日本的霊性においてもそうなんだろうか?
西洋の神は多分、生きる意味を与えてくれるんだろう。だから、「人生が私たちに何を期待しているか」という問題設定はすっと腑に落ちるんじゃないかと思う。
だが、それと比べて我が国の宗教はというと、まず仏教は、人生の意味を否定し、苦しみでしかないと認めることを最初の出発点にしている。仏教の最終目標は「生きること」からの究極的な脱出だ。このコンセプトは、我が国で魔改造された仏教でも変わらない。
参ろうや、参ろうや
パライソ(天国)の寺に参ろうや
パライソの寺とは申すれど……
遠い寺とは申すれど
(遠藤周作『沈黙』)
仏教じゃないけど。これなんか、状況は強制収容所に近いかもしれないが、『それでも生にしかりと言う』*3というよりは、むしろ極楽往生を望んでいるよな。ロドリゴさんには悪いけど、西洋の宗教というよりは、やはり僕の思い描く「われわれの信仰」に、かなり近い感覚だと思う。
それから、神道というのも、体系化された教えがあるのかしらんが、あるがままを受け入れる宗教観であると考えれば、これもなんかこう、あるべき理想を実現しようと前進する、という観念と折り合いが悪い気がする。
だけど、そういう我々の日本的霊性についても、やはり信仰がある人は強いと思う。上の「パライソに参ろうや」だって、現世の生を否定して彼岸に期待しながら、それでも現世で抵抗するエネルギーになっているからね。
結局僕は、我々の信仰がどういうものか知らないのだ。生の否定を出発点にして、どうやって「今この生」を善く生きようという論理を導出しておるのか。
どうなんでしょうねえ。
…え?さっきから言ってる「日本的霊性」とは何かって?
…
…
えーと…なんだっけ…
…
その話はまた今度にしようや。
最寄り駅に着いてしまったからね。