あかりの日記

おっ あっ 生きてえなあ

笈川博一『物語 エルサレムの歴史-旧約聖書以前からパレスチナ和平まで』②

 

 

続きイクゾ

 

ローマ、ビザンツ

2世紀の破壊の後にエルサレム市は荒廃したが、転機は4世紀に訪れる。コンスタンティヌスキリスト教を公認したのである(313年、ミラノ勅令)。エルサレムは言うまでもなく福音書の舞台であり、イエスが処刑されたゴルゴダの丘になんか建てようということになったのだが、2度の戦争で荒廃した市のどこなのかがわからない。しかし、キリスト教を熱心に奉じた帝のおかんが必死に探したところ、イエスが架けられた十字架が発掘された(ということになっている)ので、そこに教会を建てることにした。これが現在キリスト教の聖地となっている聖墳墓教会の原型である。

4世紀後半にはユリアヌス帝多神教回帰政策を採り(辻邦夫『背教者ユリアヌス』オヌヌメ)、エルサレムへのユダヤ神殿の再建の話が出たが、完成前に帝が戦死したことで白紙撤回される。

 

4世紀末にはテオドシウス帝によりローマは東西に分裂する。パレスチナビザンツ帝国領となりキリスト教の支配が続くが、7世紀にサーサーン朝、ついでイスラム帝国*1ウマルに攻略される。ここから20世紀まで、エルサレムイスラーム政権が統治することになるのである。

 

サラセン

僕は結構驚いたのだが、アラブ人は旧約聖書に出てくるのだ。前編でアブラハムの嫡子イサクの子孫がユダヤ人だと言ったが、カナンから追放されたアブラハム庶子イシュマイルの子孫がアラブ人とされている*2。つまりユダヤ人とアラブ人は腹違いの兄弟なわけね。あとそれから、コーランではモーセもイエス預言者とされている。そういうのがあってか、歴史上のイスラーム国家の割と多くにおいてユダヤ教徒キリスト教徒もまあまあ優遇された(被支配者の2等市民としては相対的には、ということなのだろうが)。

エルサレム市を攻略したウマルは異教徒に寛容な政策をとる。ムスリムには聖墳墓教会に足を踏み入れることを禁じ、荒廃した神殿の丘の掃除をしたという。ウマイヤ朝時代にはかつて第二神殿があった神殿の丘に現在の岩のドームアルアクサモスクというイスラームの2大聖地が造られた。その後この地域の支配はファーティマ朝セルジューク朝へと移り変わる。しかし、イスラームにとっては何よりもメッカ、メディナが重要であり、エルサレムはそこまで超重要というわけでもなかった。

 

十字軍

状況が変わるのは11世紀末。時の教皇ウルバヌス2世はクレルモン公会議において、セルジューク朝に押されたビザンツの援助を名目に、聖地エルサレム奪還を唱え、第一回十字軍が起こった。十字軍は兵站の概念をおよそもたない酷い寄せ集め集団で、各地で略奪を繰り返したが、その宗教的熱気で、少数の守備隊しかいなかったエルサレムを攻略し、十字軍国家エルサレム王国を建てた。十字軍はムスリムユダヤ人を虐殺し、エルサレム市への居住を禁じた。

十字軍時代のエルサレムでは、聖墳墓教会が大規模に建て替えられ、苦難の道(ヴィア・ドロローサ)も「決定」された。すなわち、旧市街のキリスト教地区はこの時期に現在の姿になった。

12世紀後半にはアイユーブ朝サラハディン(サラディン)がジハードを宣言し、エルサレムを奪還して失地を回復した。サラディンユダヤ人のエルサレム居住を認めたから、ユダヤ人にとっても救世主だったろう。これに対抗してキリスト教側は、イングランド獅子心王リチャード、フランス王フィリップ・オーギュスト、神聖ローマ皇帝フリードリヒ・バルバロッサという超豪華な面子の十字軍を編成したが、サラディンにあえなく撃退された。強すぎィ

やはりね、イスラム側にも、一度取られたことで、大事な土地だという認識が芽生えたのではないかと思う。キリスト教側は第四回十字軍はコンスタンティノープルを略奪するなど混乱する。

13世紀前半には神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世*3教皇に破門されながらも単独でエルサレム奪還を目指す。アイユーブ朝のスルタンとの講和条約では、一定の権益と引き換えにエルサレムの領有を認められ、合意によるエルサレム奪還を果たしたのだ。

実に、歴史上で合意によるパレスチナ和平を実現させたのはフリードリヒ2世だけらしいぞ。サダトもラビンも、現代では話し合いをしようとした者はたちまちころされる。悲しいなあ。

このパレスチナ和平(?)は、東からきたモンゴル帝国*4に追われたトルコ系(ホラズム)移民の流入により崩れる。13世紀後半、エジプトのマムルーク朝エルサレムから十字軍を完全に追い出し、モンゴルも東へ追いやって、ようやくエルサレムに平和が戻った。

もっとも、マムルーク朝の退潮とペストの流行でエルサレム市は荒廃し、16世紀には北からきたオスマン帝国支配下に入った。

 

オスマントルコ

強大な帝国オスマンの統治はエルサレムに治安をもたらすとして歓迎された。帝国の最盛期を築いたレイマン1世は旧市街の城壁やインフラを整備し、エルサレムには人が(キリスト教徒やユダヤ教徒を含めて)戻ってきた。

十字軍時代にエルサレムから追放されたユダヤ人は、市街の外から祈りをささげていたが、スレイマンは神殿の丘(ヘロデが造成した台地ね)の西側にユダヤ人の礼拝所を作ってあげた。これが現在まで伝わるユダヤ人最大の聖地、嘆きの壁である。今のユダヤの聖地はスルタンが作ってあげたんだな。

なんとなくこれまでの歴史を振り返ると、サラセン、セルジューク、サラディンオスマンイスラム国家は概して異教に寛容である一方、ヨーロッパでのユダヤ人差別や十字軍国家などキリスト教国は排外的な印象があるが、まああまり短絡的に考えすぎるのもやめとこうかね。ムスリムだって見方によっては、かつてユダヤ神殿があったとこを占拠してモスクを建てて、ユダヤ人はその外壁のふもとまで追いやってる、とも言えなくもないからな。

ともかく、旧市街は3宗教の聖地が鼎立する現在の状態になった。それだけでなく、エルサレムには、カトリックだけでなくギリシャ正教アルメニア正教といったあらゆるキリスト教宗派が集まることになる。現在のアルメニア正教地区については後で簡単に触れる。

レイマンの死後辺りから、いわゆる喜望峰周りでの東方貿易ルートが開拓されたことで貿易独占の旨味が減ったことや、外政の失敗などにより、オスマン帝国は下り坂になっていく。

近代に入ると、パレスチナは一時的にエジプトで独立したムハンマド・アリー支配下に入るなど、オスマン帝国はいよいよ動揺する。ヨーロッパの民族主義の興隆の中で、ユダヤ人の意識にも変化が訪れ始める。

 

シオニズムイスラエル建国前夜

前近代からユダヤ人の多くは、ヨーロッパ社会の中で、時には迫害を受けながら生活していたが、19世紀の民族主義と、次第に激化した反ユダヤ主義は、彼ら各地に散らばったユダヤ人に共通のアイデンティティ意識を生じさせた。このようなユダヤ民族主義はやがてユダヤ人が独立国家を作るというシオニズム運動へとつながっていく。近代シオニズムの代表的な論者はヘルツルである。彼は19世紀末に第三共和制のフランスで起きたドレフュス事件に影響を受けてヨーロッパの反ユダヤ主義を目の当たりにして、主著『ユダヤ人国家』を記し、パレスチナユダヤ人独立国家を作る案を初めて提唱した。

これと並行するユダヤ民族主義として、現代ヘブライ語の創設がある。ヘブライ語はもともと古代のユダヤ人が日常語として使っていたが、時代が降るにつれて話し言葉としては使われなくなり、聖書などの書き言葉として残っていただけだった。それを復活させ、さらに近代人が利用するに耐えるように語彙を創造したのである。これを作る動きというのはまああるのかなという気もするが、実際に各地のユダヤ人に使われるようになった、というのが結構凄まじいことだなと思う。

このシオニズム思想や現代ヘブライ語などを核にして、ヨーロッパや中東などに散らばったユダヤ人の一部は、次第にパレスチナへの移住を進めることになる。

 

第一次世界大戦

第一次世界大戦は多くの「帝国」を歴史から消した。ドイツ、オーストリア、ロシア、そしてオスマン帝国である。オスマン帝国は中央同盟についたので、これと対抗した連合国の盟主イギリスは、帝国内のアラブ民族主義を焚きつけるとともに、ユダヤへの支援を打ち出してロスチャイルド卿からの資金援助を得た。

すなわち、一方ではアラブのハーシム家フセインの協力を得る代わりに、ハーシム家を王家とするアラブ人国家を約束した(フセイン・マクマホン協定/マクマホン書簡)。他方では、ロスチャイルド卿に対し、パレスチナユダヤ人の「ナショナルホーム」を建設することを約束した(バルフォア宣言)。そして、イギリスはこれらと別に、フランスと中東を分割する約束を結んだ(サイクス・ピコ協定)。これらの互いに矛盾するように見える合意は三枚舌外交と言われ、これが現在の中東問題の直接のきっかけになったのだ。

 

…と、いうことがよく言われており、まあ最近も色んなところでよくこういう話を聞く。それで、それ自体は大きく間違ってはいないと思うのだが、やや大雑把な理解だと思う。別に逆張りとかイキりをやりたいわけではないのだが、まあ上の程度の説明だったら新聞のコラムとかテレビとかでも説明されていて面白くないので、せっかくだから、この辺りをもう少し詳しく見てみよう。

 

まず、マクマホン書簡においてパレスチナは「アラブ人の土地」から除外されており、マクマホン書簡とバルフォア宣言は厳密には矛盾していない。現にフセインパレスチナには特に興味なかったらしい。なお、当時の「パレスチナ」とは、今のイスラエルとヨルダンの両方を含む地域である。他方、マクマホン書簡とサイクス・ピコ協定は、シリアのダマスカスの辺りがフランスの取り分とハーシム家の取り分で被ってしまっていた。まあしかし、3つの外交文書の矛盾は元々はそのくらいなのである。付言すれば、バルフォア宣言においては、パレスチナにナショナルホームを作った後も、ユダヤ人が「パレスチナに居住する非ユダヤ人コミュニティーの権利を害さない」ことも約束されている。まあ、イギリスはパレスチナの処理はそんなに深刻には考えてなかっただろうとは思うけど、当時の民族自決万歳の価値観からすれば、全体としてみても内容的にはそんなにめちゃくちゃおかしな合意とまではいえなかったのではないかなあ。

そして、戦後には結局、シリア・レバノンはフランスの、パレスチナイラクはイギリスの委任統治領になった。ハーシム家の三男はイギリスとの約束でシリアを割り当てられていたから、シリア王になろうとしたが、フランスがこれを拒んでしまう。イギリスは仕方なく彼をイラク王にしてあげた。そうすると、元々イラク王になるはずだった次男が押し出されてしまい、仕方なく、本来ユダヤ人の「ナショナルホーム」の一部だったはずのヨルダン側以東にトランスヨルダン王国が建設され、そこの国王にあてがわれた。結果、アラブ人が、ユダヤ人の領土となるべきだったヨルダン川東岸を占領してしまった。

と、いうのが、現在のイスラエル右派の主張である、らしい。こうしてみると、これらの約束の文言を厳密に読むなら、仮に約束間の矛盾に起因して領土分配の齟齬が生じたと解するとしても、その齟齬は、「現在のイスラエル国家の地域にアラブ人だけの/ユダヤ人だけの独立国ができなかったこと」ではなく、「ユダヤ人がヨルダン川東岸を得られなかったこと」となるようだ。なんか、世間で語られている「三枚舌外交」とはだいぶイメージが異ならないだろうか(まあもちろん、これらの外交文書にも色々の解釈があるはずであり、この解釈は一例に過ぎないのだろうけど)。

とはいえ、別にイギリスが悪くないとか言いたいわけでは断じてない。イギリスが(おそらくあんまり後先考えずに出した)バルフォア宣言を信じて多くのユダヤ人がパレスチナに移住し、それがその後の民族紛争の激化の一因になったことはそのとおりなのだろう。

 

せっかくだから、ほんの少しだけ、僕の愚見を述べさせてもらおうと思う。結局何が悪かったのかという話。上の経緯からして、じゃあ結局シリアのハーシム王権を認めなかったフランスが悪いということになるのか、あるいは、トランスヨルダンをアラブ人領としたイギリスが悪かったのか。はたまた、もうちょっと抽象化して、委任統治とか言いつつ結局勢力圏を増やしたかっただけの列強のエゴが悪いってことか。もしかしたら、部分的にはそう言えるかもしれないし、もっと別なところがあるのかもしれないけど、多分大元の元凶はそこではないんじゃないか(つまり、そういう個別の事情がなくても近現代のパレスチナは結局揉めていたんじゃないか)と思う。

そうではなくて、これはほんとに典拠とかもない完全独自見解なのだが、問題のおおもとは、当時の戦勝国が(おそらく良かれと思って)、前近代の帝国の潮が引いて権力の空白になったパレスチナに、「民族自決の原理に基づく国民国家の建設」という枠組みを無理矢理はめちゃったことなのではないかと思うのだ*5

一応当時の連合国は、ウィルソンを筆頭に、民族自決原理の実現を一つのテーゼに謳って、それを妨げて他民族を虐げる悪の帝国からなる中央同盟を倒すぞと、こういう大義名分でやっていたわけだ。戦後処理としてもそれを実現することが一つのテーマだった。それでヴェルサイユ条約で東欧とかにちっちゃい国がいっぱいできたし、今すぐの独立が難しい地域は列強の委任統治領になり、独立の準備ができたら独立するということになったわけだ。委任統治という仕組は結局植民地支配と変わらんだろという、実現方法についての批判はあったかもしれないが、そもそもの「民族自決」の理念自体は正しいことだと、少なくともその点は、ウィルソンを筆頭にこの時代の人はそれほど疑ってなかったんじゃないだろうか。

しかしながら、歴史上で国民国家形成が比較的うまくいったように見える地域というのは、西洋や日本といった、大体が近代に至るまでに域内の人が(言語や宗教などの面で)それなりに均質になっていたごく限られた地域だけなわけだ*6。ひるがえって、このパレスチナという土地の歴史を見ると、まあ有史以来色々な民族の通り道になっていて、ユダヤ人は太古の昔には一応独立国を持っていたけど、ある時期からはほとんど常に周辺民族の大国の支配下に入り、その庇護の下にあるときだけ政治的に安定する、という地域になっている。民族構成にしても、パート①でも少し触れたが、キリスト・イスラムユダヤといろんな宗教・言葉が混在している状態が常に例外なく続いているのである。こういうごちゃっとした地域において、「一つの民族に一筆書きできる土地からなる一つの国」という理念を持ち込むこと自体が無理があったのではないかなあ。パレスチナが政治的に安定していたのは、統治の原理と民族とか宗教とかがあんまり強く結びつかなかった時代である。「民族」という概念をアイデンティティとする国家形成の理念にしがみつく限り、際限ない殺し合いが続くとまでは言わずとも(歴史的に見ても、どんな戦争でも必ず終わりはくる。)少なくともこの緊張状態が究極的に解消することはないのではないか。

じゃあどうすればいいのかというのは、よくわからない。それを解決できる実用的な概念を、21世紀の人類はまだ持ち合わせていないんじゃないかと思う。

いや、ほんの少しのつもりだったのに、長くなりすぎた。まあどうせ誰も読んでないからいいか。

 

第二次世界大戦

とまれ、委任統治領時代のパレスチナでは、ユダヤ人とアラブ人の民族抗争が激化する。バルフォア宣言によってユダヤ人移民は加速度的に増え、他方でユダヤ人右派組織エツェルはテロを繰り返した。アラブ人によるパレスチナ独立戦争が勃発すると、イギリスはパレスチナを2か国に分けて独立させる案(ピール案)を出したが、アラブ人側が拒否した。耄碌のイギリスにはもはやパレスチナ問題を処理するだけの能力は残っていなかった。

第一次対戦の戦後処理と並んで、ユダヤ人国家形成に大きな影響を与えたのが、ナチスドイツのホロコーストである。こないだ「夜と霧」というものを読んだが、ユダヤ人の虐殺の凄惨さは目を伏せたくなるものだ。世界はこの悲劇に同情してユダヤ人国家の建設を急ぎ、第二対戦後設立された国際連合パレスチナ分割決議を行った。イスラエルは、パレスチナの実に51パーセントという、ピール案より大幅に拡大した領土を認められることとなった。

 

決議の翌日からパレスチナは内戦状態になった。収拾をつけられなくなったイギリスは1948年5月14日にパレスチナから撤退し、同日イスラエルは独立を宣言した。翌15日にはさっそく、周辺のアラブ15か国がイスラエルに宣戦布告し、第一次中東戦争が始まった。イスラエルアラブ諸国との、長い長い、誰の手にも負えないたたかいの始まりである。

 

 

*1:正統カリフ時代アブーバクル、ウマル、ウスマーン、アリー。ちなみに僕の時代はもう「サラセン」とは習わなかった。

*2:アラブ人的にその扱いでいいのかはよくわからないが。

*3:「フリードリヒ2世」というのはプロイセン国王でも有名な人がいてまぎらわしいな。

*4:チンギスハンはホラズムを征服し、その後のフラグはアッバース朝(つかまだあったんかい)などを滅ぼしてウルスを建てる。東地中海がフラグに征服されるまでには至らなかったが、まあすぐそこまで来てたわけだね。

*5:僕は「危機の20年」というのを読んだので、WW1の後の戦後処理はやっぱ理想主義的すぎて上手くいってないんじゃないか、という目で見ちゃってたりする

*6:その理由がなんでなのかは僕は結構疑問なのだが、「一国あたりの大きさが大きすぎず、ちょうどいいサイズ」「大陸の端っこの方にあって歴史的に民族移動がそんなに頻繁になく、民族構成がそこまでごちゃごちゃしなかった」とかはあるのかなと思う。もっとも、民族が均質的というのは、少数派が徹底したクリアランスに遭ったということでもあるのだろう。