浄土系の基本的理解
この本の話に入る前に、僕の浄土系思想の基本的な認識を書いておく。あくまで僕の認識です。おかしなことを言っていたら指摘してください。
そもそも仏教というのは、2500年くらい前のインドで釈迦が始めた宗教であるが、この最初のころの仏教というのは以下のような教えである。
まず、生きることの本質はくるしみである。そして、古代インドの常識として、生き物は輪廻している*1。釈迦は、色々修行をして、このくるしみでしかない生の輪廻から脱出するすばらしい考え、すなわち悟りに至った(これを「成仏した」という)。この悟りというのは、生の世界の色々な欲望への執着を捨てることが肝要らしい。その悟りに至りたいのであれば、我々も出家して修行生活を送らなければならない。
このような出家者集団が修行生活を送る、というのが初期の仏教のスタイルだった*2んだが、時代が下って仏教の教えが広まったことにより、出家していない人(「在家者」)を救う感じの思想のニーズが高まり、仏教の基本的な世界観を同じうしながらも教えの内容が変質し、発展した。これを大乗仏教という。
そして、そのいっぱいいる仏のなかの一尊、「阿弥陀如来」を信仰するのが浄土系思想だ。
この仏のことは、仏説阿弥陀経等のいわゆる「浄土三部経」にくわしく書いてある。
曰く。阿弥陀如来は、仏になる前の修行中、色々と誓いを立てたのだが、一番注目すべきものが18個目の、「仏を信じ、念仏を唱えても極楽浄土に往生できない人がいたなら、私は仏にならない」という誓いである。これは単に「十八願」とか「本願」とか呼ばれたりする。また、こういう仏の慈悲の心を「大悲」と呼んだりする。
阿弥陀は大悲をもって本願を立てた。そして、その後にちゃんと仏になったわけだ。
と、いうことは、我々は仏を信じ、念仏を唱えさえすれば*4、阿弥陀のいる「極楽浄土」なる場所に行けるらしい。
ではこの、極楽浄土とは何か。
それはどんな欲望でも叶うような贅沢三昧の世界ではない。
むしろその逆で、一切の生の世界への執着、煩悩が生じない世界なのだという。
んー、そんな所に行きたいかなあ?
先に述べた通り、仏教の目標は修行をして生への執着を捨て、最終的に生の世界から脱出することである。
しかし、愚かな凡夫である我々にはそういう厳しい修行は無理であり、現世で悟りを開くのは不可能だ。そうすると我々はまた、どこかに生まれ変わらなければならない。
しかし、阿弥陀の本願の力によって、我々が次に生まれ変わるのは「極楽浄土」に決定している。そして、ここに行けば煩悩が全然生じないわけだから、そこでは簡単に悟りに至ることができるだろう。
すなわち、浄土教の思想を、仏教の基本的なコンセプトとの関係で見ると、
「愚かな自分は、自力で修行して今回で成仏するのは無理だが、阿弥陀を信じれば次は浄土に行けて、その一回限りで絶対成仏できる」
ということになる。
「極楽往生」と「成仏」の関係をこういうふうに考えると、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」というのは割とスッと理解できるのではないかなあ。「善人」は浄土に行かなくたって成仏できる人なわけで、浄土は「悪人」のためにしつらえられた場所だからな。
以上が、この辺りを斜め読みした僕の理解です。
「日本的」「霊性」とは
ようやく本書の検討に入ろうと思う。
作者は鈴木大拙翁。どういう人かはググってくれ。
「日本的」「霊性」というタイトルであるが、要するに何についての本なのか。
まず「霊性」という部分であるが
霊性を宗教意識と言ってよい。
ということである。
この霊性は、「思想や論理を媒介としないで、意志と直覚とで邁進する」力に優れている。
また、
霊性は民族が或る程度の文化段階に進まぬと覚醒せられぬ。
のだそうである。
本書は「日本的」というが、別にヨーロッパやインド等の人の霊性と日本人の霊性を比較して、日本の特徴を明らかにしようとするものではない。
そうではなくて、日本に霊性がなかったころと、霊性が芽生えたあとを比べて、日本の霊性を明らかにしようとするものである。
そして著者は
日本的霊性の情性的方面に顕現したのが、浄土系的経験である。またその知性方面に出頭したのが、日本人の生活の禅化である。
と述べる。
要するに、日本人の宗教感覚は、鎌倉時代に「浄土系思想」と「禅」という形をとって、霊性と呼べるレベルまで発展した。だいたいこういうことだろう。
本書は、とくに浄土系思想にフォーカスして、日本的霊性のなんたるかを検討していく。
日本的霊性とは大地性である
著者によれば、万葉の時代や平安時代にも日本人には素朴な宗教感情はあったが、「霊性」と言えるレベルにはなっていなかった。それは、当時の文化の担い手であった貴族階級が、「大地」に根ざした暮らしをしていなかったからである。
平安人というは、大地を踏んでいない貴族である。京都を養っていた土地は、どこか遠いところに在るものである。
霊性は大地に根ざした暮らし(具体的には第一次産業従事者を想像すれば良いと思う)から生まれる。それは、そのような暮らしが、我々の命が我々自身の手に負えない、制御できないものに全面的に依拠しているということを直接に感じさせるからだろう。大地は人間にとって大教育者である。この辺りの理屈は感覚的にもよくわかる。
貴族とは異なり、農民や武士は、大地に根ざした暮らしをしていた。だからこそ、彼らの間に仏教が広がった鎌倉時代において、日本人の霊性が開花したのである。
ここで一つ、著者が強調するポイントがある。それは、著者によれば、仏教という外来の思想が日本に輸入されて、それが鎌倉時代に定着したのではなく、日本人の中にもともとあった霊性が、仏教を媒介にして姿を現した、ということらしい。
草木の成長は雨にも太陽にも風にも土壌にもよることあるが、それだけでは草木がでない。草木は依然として草木である。
そういえば、法華経(薬草喩品第五)でお釈迦様もこのように言っていたな。
この三千大千世界に生えている草や、灌木、薬草、樹木、小樹、大樹は、若くて、柔らかい茎、枝、葉、花を持ち、その全ては雲によって放出された雨水から、能力に応じ、立場に応じて、水を吸い上げる。それらは、同一の雲から放出された同一の味の雨水によって、それぞれの種類に応じて発芽し、生長し、大きくなる。それぞれに花と実をつけ、それぞれに名前を得るのである。
この島の大地と、そこに元々植わっていた種に、仏教という雨が降った。そうして生えてきて、花開いたのが日本的霊性。
お釈迦様自身も、まあわたしの教えってのはそんな風なものと思ってもらえればそれで結構と、おっしゃっておる*5と、こういうことかな。と僕は思いました。
ちょっと長くなっちゃったから、ここで一旦切ろうかな。