あかりの日記

おっ あっ 生きてえなあ

あかり芸術家列伝・円山応挙

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www.mitsui-museum.jp

 

日本橋三井記念美術館にて開催中の円山応挙展に行ってきた。

同館の会館20周年企画とのことで、同館所蔵作品以外にも有名な作品が多く来ており、大変満足度の高い展覧会であった。

だが、それほど混んでいなかったのだ。会期末の直前の、とりわけ3連休だったにもかかわらず、だ。まあゆったり観れてよかったんだが、だが…

かつては京都画壇の押しも押されぬ一番人気、しかるに、今やその知名度若冲ら「奇想」の画家にも劣る。今日はそんな悲しい画家・円山応挙のお話をする。展覧会の感想も交えつつ。

展覧会で観たものについては、出品目録番号を引用するから、適宜参照するのこと→

https://www.mitsui-museum.jp/exhibition/images/250926/catalog250926.pdf

 

応挙以前の京都

応挙のキーワードを挙げるとすると、18世紀、京都の人、写生画、円山四条派、という感じだろうか。いつものように、画業を追いながらもう少し詳しく見てみよう。

始めに、応挙が影響を受けた人たちについて概観する。

まず、当時圧倒的な影響力をもっていたのはやはり狩野派である。絵描きを志す者の多くはまず狩野派で修行をし、応挙も例外ではない。たしか京都には京狩野ってのもいたと思うが(山楽、山雪とか)、どうも応挙は探幽の系統の門人になるらしい。すなわち、探幽の弟子の鶴沢探山という人が上洛し、その子探鯨の門人石田幽丁に応挙は師事していた。この探鯨の工房は結構自由な画風だったらしい。

それから、渡辺始興という写生を得意とした画家がいたようで、彼の鳥類写生帖を応挙は忠実に模写した(目録4-22、23)。

さらに無視できないのが、中国人の写生画家・沈南蘋の影響である。彼は2年弱の滞在でいくつかの写生画を残し、日本絵画に大きな影響を与えた。応挙も彼の絵を模写したと思しき作品を残した。

 

尾張屋時代まで(1733〜1765頃)

応挙は1733年、丹波国穴太の貧農の家に生まれ、8,9歳の頃に口減らしで金剛寺に奉公に出され、のち10代で上京。尾張屋という雑貨屋(?)で働く。この頃から、65年(33歳)に後述する円満院と出会うまでを「尾張屋時代」と呼ぶことがある。

この時代の応挙は、先述したように、石田幽丁に学び、渡辺始興や中国写生も学習した。しかし何より、この時代の応挙のもっとも重要な体験は、眼鏡絵の制作である。眼鏡絵とは、舶来のおもちゃである「のぞき眼鏡」に使う絵である。これは、西洋風の遠近法で書かれた風景画(これが眼鏡絵)を、覗き穴から凸レンズを通して見るというものだ。応挙は、尾張屋でのぞき眼鏡を扱うにあたり、京都の風景を眼鏡絵として多数書いており、このことが、応挙が奥行きを意識するきっかけとなったといわれている。

artsandculture.google.com

こういう誇張された透視図法を使った絵ね。

展覧会では、実際にのぞき眼鏡で応挙の眼鏡絵を観ることができたが(目録3-7)、ぶっちゃけ現代人の感覚からすると、凸レンズで覗いたからといって立体感が増してるのかよくわからん。だが、この別冊太陽によれば、レンズを通して覗き見るという鑑賞体験自体が当時の人には稀有であり、没入間を生んでいたのだそうだ。なるほど、確かにそれはそうか。

眼鏡絵制作の経験はしかるに、応挙を(司馬江漢とか秋田蘭画のような)完全な洋画の道に進ませることはなかった。応挙はここで学んだ奥行き感を使って独自の作風を確立していくのだ。

 

尾張屋時代の応挙の、作風以外で特筆すべき点は、蓮池院尼公という貴人と関わることで、皇族や公家とのコネができたことだ。これが大きなパトロンを得ることにつながっていく。応挙の年代記を通してみると、彼はかなり人付き合いに恵まれている。研究者の間では、彼は温厚で人当たりの良い性格だっただろうと推測されているようだ。まあワンコをあんなに可愛く描くおっさんが性格悪いわけないわな。うん?

 

円満院時代(1765頃〜1773頃)

さて、その大きなパトロン円満院祐常は、応挙30代の頃に現れた。祐常は二条家出身の風流人で、当時流行の本草*1にはまっており、写生の重要性を感じていたが、彼自身は絵がヘタクソであり、指導を求めていた。そして、65年頃、知合いの蓮池院から、絵が上手い奴を知っているぞと応挙の紹介を受け、召し抱えることになったのだ。ここから祐常の没する73年頃までを「円満院時代」と呼ぶことがある。

円満院時代、応挙は様々な画法を試すとともに、写生画家としてのスタイルを確立していくことになる。応挙自身はあんまり文章を書かなかったんだけど、指導を受けていた祐常が日記(秘聞録)に色々書き残しており、ここから応挙の考えがかなりうかがい知れるのだという。その辺りは後で少し触れる。

応挙は祐常の指示で社寺の装飾を多く手掛けることになる。いくつか例を挙げる。

 

相国寺・牡丹孔雀図

dr-exhibition.geidai.ac.jp

後ろの孔雀の首は正面方向に伸びており、短縮法という技法で表現されているらしい。応挙はこのように、「正面から描く」という構図が好きであり、それによって奥行き感を演出しようとしたようだ。

 

相国寺・七福七難図

www.shokoku-ji.jp

 

相国寺・大瀑布図

bunka.nii.ac.jp

これは3.6mの大作。掛け軸をかけるとちょうど滝つぼの辺りで床に着くようで、L字に折って飾る用のものらしい(ホコリとか積もりそうだし、その飾り方は抵抗あるけどなw)。これに限らず、屏風など、応挙の作品は、作品の構造や飾られ方を意識して制作されていることがうかがえる。(まあこれは日本の絵画一般の特徴かもしれんけど)

 

個人蔵・雲龍図屏風

https://jp.pinterest.com/pin/26740191523799382/

雲とか波の表現や、奥行きの感覚はそれまでの絵と一線を画するものだったようだ。雲には、琳派などが得意とした「たらし込み」という技法も使われているらしい。

たらし込みのやり方

www.youtube.com

 

安永年間(1773頃〜1781頃)

73年に祐常が亡くなると、それと前後して、応挙は、新興商人である三井家の4代当主・三井高美という新たなパトロンを得る。この頃40代の応挙の名声は増し、工房は巨大化し、大型の屏風絵に取り掛かれるようになった。当時の京都画壇の番付である「平安人物志」において、応挙は、68年年版では2位だったが、75年版では堂々の1位である。応挙の画業の第1のピークが訪れる。

この時代を代表する2つの屏風絵が、京都圓光寺の雨竹風竹図屏風と、根津美術館藤花図屏風(目録4-02。ただしおれは展示期間外で観られなかった。非常に残念だ。)である。

雨竹風竹の方は、雨や風を一切描かず、竹の感じだけで気象を表現しているところが特徴的だ。空気遠近法による奥行き感も演出しており、これは長谷川等伯の松林図にも通ずるな。

藤花図屏風

www.nezu-muse.or.jp

藤花図屏風は、藤の花は極めて精巧に描かれている。対照的に、幹は淡泊だが、墨をはじく金屏風を逆に利用した空気遠近法が表現されている。また、幹には応挙が得意とした「付立て」が使われている。

付立てとは、筆の根元の方に薄い墨を、先の方に濃い墨をつけることで、一筆の中に色の濃淡をつける、というような技法である(多分。)。

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このほかにも、応挙は三井家の依頼で多くの作品を制作している。商売繁盛祈念の絵(目録5-05)、三井家当主の絵(目録5-06)に加え、蒔絵の下絵や工芸品の絵付(目録7)などもやっているのだ。応挙と三井家の浅からぬ関係から、今でも三井が多くの応挙作品を所蔵しているというわけなのだ。

しかし、応挙は三井家専属の画家だったわけではない。先の番付にあったように、応挙は信仰の商人層などに広く人気の絵師だったのだ。そこには、必ずしも教養がなくともわかりやすい「写生」というスタイルであったことが影響しているのだろう。

 

天明〜寛政年間(1782頃〜1795頃)

50代に入り、既に京都画壇のトップに登り詰めた応挙は晩年に入っても衰えず、第2のピークというべき時代に入る。

この時期の作品はなんといっても、国宝・雪松図屏風である(目録4-01)!

bunka.nii.ac.jp

6曲1双の本作は金屏風ではない。背景に金泥を塗っており、白い雪の部分を塗り残しによって表現しているのだ!松の幹や枝は例の付立てで表現されているが、左隻は細かく点のように塗られているのに対し、右隻はすっと1筆で描かれている。この技法により雪の質感が極めて写実的に描かれている。右隻の松は上が見切れているけど、それがかえってダイナミックな感じを演出している。

これはマジですごかった(ぼきゃ貧)。屏風の折り曲げがより立体感を出しており、折り曲げによる効果を想定して描かれたことがわかる。もう展覧会は終わってしまったが、おまえらも死ぬまでに一度はリアルで観た方がいいぜ。バケットリストにいれとけ。

 

さて、応挙の襖絵が残る有名な寺社が金刀比羅宮大乗寺だが、この2社から依頼を受けて制作中の88年、京を天明の大火が襲い、京都市中はほとんど全焼した。応挙のアトリエも焼失し、制作中の作品がいくつか燃えてしまった。

このことは応挙の画業に大きな影響を与えたが、けしてマイナスだったわけではない。応挙は気を取り直して上2社の依頼の制作を再開。のみならず、この大火で焼けた内裏の壁画制作担当に、狩野派等と並んで、応挙工房(円山派)が選ばれたのだ!このときの作品は、19世紀半ばの再びの火事により、残念ながら現存しない。

そうして応挙は、94年、何とか金刀比羅宮の依頼を完成させる。そのうちの1つ、遊虎図襖が展覧会に来ていた(目録2-01)。応挙の虎については後述する。

www.konpira.or.jp

 

翌95年には大乗寺の方の仕事も完成させる。有名な松孔雀図襖だ。既に応挙の最晩年であり、目を患いながらの制作だったという。

museum.daijyoji.or.jp

 

こののち、同年の6月には保津川図屏風を制作。これが絶筆となり、翌7月に63歳で没する。

webarchives.tnm.jp

水の描写など、これが絶筆とは信じがたい完成度である。屏風を内向きに並べてその間に立つと川下りをしているような感覚があり、そのような鑑賞の仕方を狙って作ったのではないかという説もあるらしい。

 

応挙の作風の特徴

ここまでである程度見てきたが、応挙の作風について少し詳しく見ていこう。

①人間

・人の描き方

前述した祐常の秘聞録には、応挙の絵画制作の秘訣が色々書いてあり、これが後の円山派の準拠するところになったわけだ。

で、それによると、まず人間描写については、「まず裸体を書いて、そこから服を着せろ」とのことだ。実際そう描いていたのが窺われる作品がある(目録5-09)。

hyakko.ikuei.ac.jp

これ、近くで見ると裸体のラインが見えるんだよね。こういうのは美術館で実際に見ないと分かんないよなあ。

 

・幽霊

あと、何より応挙といえば幽霊画である。足のない幽霊を最初に描いたのは応挙らしい(目録5-13)。これを著名な弟子の芦雪とかが真似して(目録5-14)、あっという間に幽霊の描き方のスタンダードになっちまったというわけよ。

kudoji.com

足以外は人とおんなじように描く。前述した龍の図もそうだけど、応挙の写実は、現実にいないものもいるかのように描くという説得力をもっていたのだ。

 

②動物

・虎

現代人の目から見て応挙の虎が写実的かというとどうなんですかね。ネコを巨大化した、いわゆる「ネコトラ」である。しかし、日本に虎はおらず、応挙は虎の骨格を入手できなかったから、止むを得んのだ。その代り、応挙は虎の毛皮を入手して模写しており(目録4-20)、毛並みや模様は極めて精密に描いた(前述した遊虎図襖、目録2-01)。

当時において、応挙の虎はその迫真性や雄大さで絶大な人気があった。だからこそ、例えば蕭白なんかは、あえてヘンな虎を描いて差別化を図らねばならなかったのかもしれない。

search.homma-museum.or.jp

 

・子犬

きょうび応挙の絵で一番人気があるのは子犬かもしれん。そのつぶらな瞳、愛くるしい表情やポーズ(目録4-10、11、12)。

当時から応挙イヌは大変人気があり、後世にも絶大な影響を与えた。弟子の芦雪はこれを受け継ぎ、芦雪イヌも大変愛らしい。その他、司馬江漢の蘭画の中にも、なぜか応挙イヌが出てきたりするのだ。

応挙イヌ

www.miho.jp

グッズでおなじみの芦雪イヌ

suzuri.jp

 

・鯉

応挙が得意としたのが鯉である。そもそも、水面の上から見た水中のものを表現するのがまず難しいと思うんだが、応挙は最低限の描写でうまく表現する。

また、鯉には川を登って竜になるという伝説があるが、応挙は川を登る鯉を実にユニークに表現している(目録4-18、会期の関係で観られず。)。

www.kyotobenrido.com

このまんなかのやつ。(これは完全におれの私見だが)速度を絵で表現する、というのは、イタリア未来派みたいな現代の前衛芸術にも通ずるところがあるような気もするんだが、どうだろう、それは言い過ぎですかね?

 

まあそれはそれとして、今回の展覧会の一つの目玉が、この応挙の鯉だったのだ。すなわち、つい昨年2024年、応挙と若冲の合作屏風が発見されたのだ。2曲1双、左隻が若冲の鶏、右隻が応挙の鯉。マジでそんなのあるんかという感じだが、それが令和に見つかるんだから恐ろしい。しかも保存状態もとてもよかった。で、この展覧会は、その屏風を東京で初公開する場だったのだ(目録4-03)。

発見時のニュース

www.artagenda.jp

これも凄かった。応挙の方は、付立てを多用した梅の木、奥行き感のある鯉の描写。若冲はリアルニワトリ、デフォルメニワトリ、いずれも大胆な筆致を織り交ぜて描かれている。それぞれの個性が出ている感じで大変面白い作品だった。

この記事によると、若冲についてみれば、どうも葉っぱに虫食いがあるのなんかもトレードマークらしい。若冲という画家についてもぜひ近いうちに検討したい。

 

・その他動物

動物一般の表現についても、応挙は色々言い残している。「動物を写生するのはムズいから模型を参考にしろ」とか、「サルは人じゃなくて犬に、鹿は馬じゃなくてヤギに似せて描け」とか。まあその内容はともかく、応挙って人は、こうやって一般的な方法論に落とし込むのがうまかったんだな。だからこそ、彼の画法はマニュアル化に成功し、彼の没後も円山四条派が京都画壇を席巻することになるのだ。

応挙はまた、いろんな動物を描いたが(目録4-21(イタチ)、目録4-05(亀)、4-08(兎)、4-14(猿)等多数。)、結構正面からのアングルが多いんだよな。短縮法という技法を使っているようだが、正面アングルの動物を見ると、(背景がなくても)絵に奥行きが感じられ、没入感を得られるのだ。

 

③自然の表現

・滝と波

前述した大瀑布図や保津川図屏風などに代表されるように、応挙は滝や波など水流の表現のリアリティにこだわっていたようだ。このことは、それ以前の日本の絵画との比較も交えてまた検討したい。

 

・天気

これまでに述べてきたように、応挙は気象の表現にかなり力を入れている(目録1-02、6-03)。

jp.pinterest.com

驟雨江村図

https://www.tobunken.go.jp/materials/pictweb/226468.html

2枚目の絵の雲などは、たらし込みを用いているように思われる。このように、技法を駆使して、実際に自分がそこにいるかのようなリアリティある気象表現を行っている。

また、そもそも、気象表現などによって、絵で情感や情緒を表現する、ということをはじめてやったのは応挙らしい。例えば広重なんかの風景画はその豊かな情感で評価されることがあるが、これには応挙の影響を看取できるようだ。

 

応挙以降の話

京都画壇で人気があった応挙のもとには多くの門弟が集まり、例えば呉春などが比較的忠実に応挙の画風を継承していく。呉春の門弟たちは工房の場所から四条派ないし円山四条派と呼ばれ、その系譜は連綿と受け継がれた。明治維新以降には日本画の主要な流派の一つに数えられ、竹内栖鳳をはじめとする著名な画家を輩出していくこととなる。

応挙の画風は確立したものであり、これを越えようと奮闘した画家たちも多いようだ。同時代の若冲蕭白といった画家の個性的な作風も、応挙が確立したスタイルあってのものである。また、応挙の門人の中でひときわ有名なのが、さっきも出てきた長澤芦雪である。彼についてはどこかで独立して取り上げたいが、師の確立した型を前提にして、これをなぞるだけでなく、越えようと挑戦をしていくことになったようだ。

なるほど、その成果が、あの芦雪イヌということだな。まあそういうことにしとくか。今日は以上。

 

*1:李時珍が作った草木を分析する学問。