ゴッホというとどんなイメージだろうか。狂ってる、怖い絵、メンヘラ、死後に評価された。まあこの本を読んだ感じ、そういうイメージはおおむね正しいと思う。が、それじゃあ、なぜそういうイメージが形成されたのか、という、評価根拠事実を拾っていくことにしよう。
牧師になりたかった
まず、ゴッホは1853年、オランダ生まれである。名前にvanってあることからも明らかなんだけど、恥ずかしながらおれにはそのイメージがなかった。当時のオランダはまだプロテスタント教会の影響がかなり強かった。ヴィンセントは、牧師の父のもとで敬虔なプロテスタントに育ち、伝道師を目指す。無償の施しとかにすごくあこがれていたようだ。彼はそれなりに教育を受けており、英語とフランス語を自在に操れた。しかしながら、職は定まらず、学業も途中で投げ出し、伝道師の職にはついぞ就けなかった。ゴッホの宗教観と、聖職の挫折経験は、彼の作風を大きく方向付ける。
その後ゴッホは27歳で絵描きになることを決意。ミレーの種をまく人などを模写したり、「掘る人」のモチーフを繰り返し描いたりした。
ここには聖書の記述が影響しており、「掘る人」のモチーフはしばしば楽園追放とも結びつけて考えられてきた。ゴッホは掘る人を繰り返し繰り返し描いた。短いアルル時代を除いて・・・
ゴッホの手紙によれば、「土を掘った手」というのをめちゃくちゃ意識しているらしい。思う職に就けなかったゴッホは、失恋したり、娼婦との同棲生活が破たんしたりと、既に精神的には厳しい生活を送っていた。この時期の絵はとにかく暗いな!ミレーとかの影響もあるんだろうけど。
そうそう、ゴッホは弟のテオと極めて頻繁に書簡をやり取りしており、これを見ればだいたいの足取りがつかめ、作品の意図もわかるのだ。
ヴィンセントの行く末を案じ続けた父は85年に亡くなる。彼は自分とキリスト教との関係を見直すことになる。
ゾラの黄色い本は、当時流行していた自然主義文学を象徴している。教会の伝統的権威からの解放的なニュアンスが込められているのか、ゴッホはゾラを「闇を照らす光」と呼んだ。ゴッホの絵の色彩が、暗い色から、黄色を基調にした明るいものに変わっていく過程の作品でもあるらしい。
神(とか太陽とか)に対する強烈な信仰心をもちつつ、教会にはかなり批判的、というのが、ゴッホの基本的な態度ということか。
印象派と日本
1886年、ゴッホは突然、パリで生活していた弟のテオのもとに住み着く。親とうまくいかず、後年にはゴーギャンとの共同生活もすぐさま破綻したゴッホだったが、テオとはずっと仲良かったんだよなあ。
ゴッホは印象派や、さらに進んだ新印象派(スーラとか)の色彩の描き方を吸収する。
こういう点描はスーラとかの技法だ。なんとか島の日曜日みたいなやつね。
当時のモネはもうあんまり人を描かなくなっていた。人を描くというのはゴッホの特徴であって、ゴッホはこの時点で印象派とはすこし違う方向を向いていたようだ。ところで、この、黄色い麦わら帽子、青い服(ツナギ?)、というのはゴッホの自画像の特徴らしい。
それから、パリ時代の彼の最大の出来事は、浮世絵との出会いである。鮮やかな色彩表現や太い輪郭線は彼に衝撃を与え、彼は「日本」をある種の理想化した世界とみるようになる。
https://www.artsha.jp/product16475_0.html
広重の亀戸の梅の模写。横の漢字は別な絵から持ってきたものだが、ゴッホ自身は意味は分かっていなかったらしい。
この画、有名だけど、タンギー爺さんはパリのしがない絵の具屋さん。ゴッホの他、ゴーギャンやセザンヌなどのポスト印象派の売れない画家を、私欲を捨てて支援しており、ゴッホはそんな彼をとても尊敬していた。しかし、タンギーと浮世絵には直接の関係は指摘されてはいない。何で浮世絵が背景に描かれているんでしょうね。
パリ時代にゴッホはひまわりを描き始める。南仏への憧れが生じ始めていたのだろう。この時代は、テオと同居していたために手紙のやり取りがなく、記録の少ない時期らしい。といっても2年くらいだけどね。
アルル時代
ゴッホは影のない浮世絵を観て、日本は赤道に近くてとても暖かい国だと思ったらしい(ホントかわからんが。)。そして、彼はフランスの中の「日本」を求めて、1887年、南仏のアルルに移ったのであった。著者はゴッホのアルル時代を「ユートピア時代」と呼んでいる。
ゴッホはアルルに画家の理想的な共同体を造ろうとし、仲間たちを呼び寄せた。しかし、それに加わったのはゴーギャンただ一人だった。逆に、かように荒唐無稽な話に付き合ってあげたゴーギャンはなかなかいい奴だな。
ゴッホはアルルの明るく美しい景色を次々に描いていく。
構図が安定しているのは、メンタルが安定していたからだろうか。
夜のカフェは遠近法がちょっとおかしいよな。あとランプの光もぼうっと広がっている。「居酒屋の闇の力」を表そうとしたらしい。
この時期のゴッホの絵には、「掘る人」が現れないのだそうだ。「掘る人」は失楽園のモチーフだという研究者もいる。そうだとすると、ゴッホはアルルにいた時期だけは、失楽園を意識せずにいられたのだろう。まさにユートピア時代だ。
アルルのまぶしい太陽のもとでは、種をまく人もこうなってしまう。
彼は複数のひまわりを描いた。
ひまわりは向日性があると信じられており、信仰や愛の象徴とされてきた。ゴッホは友愛に充ちた画家共同体のシンボルとして、複数の「ひまわり」で黄色い家を飾った。
アルルに「黄色い家」を借りたゴッホは、ここを画家共同体の拠点にしようとする。ゴッホはここにテオも誘う。彼はテオを画家の道に繰り返し誘ったのであった。
が、坊主である。どこかの本の挿絵で見た日本のお坊さんに似せているらしい。つり目で、頭の周りに円光がある。かれは日本の宗教に憧れを抱いていたらしい。彼の理想の中の日本の宗教だが。
で、ゴーギャンが来るわけだが、共同生活は困難を極めた。あんまりこの本には詳細を書いていないが、とにかく上手くいかなかったらしい。あるときゴッホはゴーギャンを剃刀で襲おうとし、ゴーギャンが出ていくと、ゴッホは自分の耳を切り落としてゴーギャンの行きつけの娼婦に送り付けたらしい。共同生活はわずか2か月で崩壊した。
この辺りの経緯は、まあきっとどこかで詳しく知る機会があるだろうからこのくらいにしておこう。
精神病院
ゴーギャンが去った後、1889年になると、ゴッホは精神病の発作が酷くなり、南仏のサンレミの病院に入院する。幻覚を見たり絵の具を食べようとしたり、とにかく狂い散らかしていたようだ。その影響もあり、作風は激変し、荒々しいタッチに変わる。
ゴッホと言えばこの糸杉。グニャグニャと曲がり、炎のようにも見えるが、ゴッホ曰く、「ぼくに見えているように描いた人がいないのが不思議に思える」。彼は見たままを描いているのだ。
ゴッホは病院内で、テオにコピーなどを送ってもらい、ミレー等の模写を沢山行う。その中には、一時期現れなかった「掘る人」のモチーフが再びたくさん現れる。
おそらくゴッホのもっとも有名な作品のうちの一つはこれだろう。
星月夜。MoMAにある。英語だとThe Starry Night。病院の窓から見える景色(をもとに創作したもの)らしい。宗教的な幻覚を表したという説や、何か社会風刺的な意味をもっているという説など、いろんな解釈があり得る。著者は、ゾラの「ムーレ神父の罪」という作品内のエピソード(巨大なナナカマドが教会をやっつける)に題材があるのでは、と言っている。さらにこの作品とゴッホの人生自体を重ね合わせて解釈している。おれはそれはロマンチック過ぎると思うが、まあ、ゴッホの人生そのものが、まるで一つの物語のような劇的さを有していることは確かだろう。だからこそゴッホは人気なのだ。鑑賞者、とりわけ現代のおれたちは、アートをその背景の物語と一緒に消費する。ゴッホ自身には申し訳ないが、彼の人生は面白すぎる。あまりにも大衆向きなのだ。
そんな苦しみの中でも、彼はほほえましい作品を作っている。
病棟の彼はテオに子供が生まれたと聞き、この画を送っている。テオが家庭をもつということは、ゴッホにとっては、まあ切ない話だが、自分の最大の支援者からの援助が打ち切られるかもしれないという不安材料でもあっただろう。しかるにゴッホはこの報せに大いに喜び、この毒気のない清々しい絵を送っている。グッとくるものがあるな。
晩年
1890年になると、ゴッホはパリ近郊のオーヴェール・シュル・オワーズに移り、ガシェ医師の診察を受けながら制作を続ける。
彼は約2か月で100点ほどの作品を残したらしい。
そして、オーヴェールへの移住から約2か月後、彼は自分の胸を銃で撃ち抜き、その2日後に息を引き取った。
これが絶筆、ということが、確たる証拠もないのに、ずっと言われていたらしい。実った麦畑はキリスト教では死の象徴でもあり、空やカラスも不吉である。そのことから、創作物では、ゴッホの自殺の場所を麦畑にするものが多い。
もっとも、最新の研究だと、絶筆は別の作品のようだ。
彼の物語は、いま語られているものについてですら、こうあってほしいという大衆の願望をある程度反映して誇張されている部分があるような気がする。まああらゆる歴史の記述というのはそういうもんだと思うが。説明しやすいように、単純化、捨象、誇張などが多分に加えられているのだ。
死後のゴッホ
ゴッホの死の直後、テオは精神のバランスを崩し、半年後には妻子を残してなくなってしまう。ゴッホの作品の大半は、テオの妻のヨハンナが引き継ぎ、その子孫を経て、アムステルダムのファンゴッホ美術館に収蔵された。ゴッホの作品は死後に次第に注目されていき、ヨハンナは相続税対策のためにやむなくいくつかを手放した。また、ゴッホとテオの膨大な書簡集も、ヨハンナにより編集されて出版され、ゴッホ研究に大いに貢献したのであった。
なぜ、死後とはいえ、ゴッホが評価されたのか。その点は別の機会に検討することにしよう。おそらく、表現主義、フォーヴィズムなど、ゴッホより後の画家たちの話をする必要があるだろうからな。
