あかりの日記

おっ あっ 生きてえなあ

あかり芸術家列伝・モネ

たとえば女と美術館とか行くだろ。印象派とか観るだろ。だいたいさあ、行く前に本とか読んで、サロンが〜とか筆触分割が〜とかぺらぺら話すじゃん、話すよな?普通は。ところが、そうすると、驚いたことに、舌噛んで死んじゃいたいとか言われるわけだ。いや言われないけど、少なくとも腹の中ではそう思うわけよ向こうは。おれはこれをエンペドクレスのサンダル現象と呼んでいるが、今からそう呼ぶことにするが、まあともかくね、予習とかしない方がいいんだよ。素朴な感想を言っておくのがいいんだよ。いや、男は女はみたいな話じゃなくて(おれはそういう話は大キライだ。)、別にもしおれが女で、男と出かけるとしてもおんなじだと思うが、そう、端的に、おれと世界との適切な向き合い方の話をしているのだ。で、なんだったっけか、そうそう、明日観に行くので、モネを予習するぞ。

パリでサロンに挑戦

1840年にパリで生まれたモネは、幼少期にセーヌ河口の港湾都市ルアーブルに移り住み、18歳まで過ごす。モネの画家人生はパリ、アルジャントゥイユ、ジヴェルニーと展開していくが、いずれもセーヌ川沿いの水辺の町。幼少期から水に親しみがあったのね。

1859年、19歳のとき画家を目指してパリに引っ越したモネは、サロンへの出品を目標にする。

 

少し背景的な話をする。当時のフランス絵画はいわゆる「アカデミズム」が支配していたわけだ。17世紀のバロック期、ルイ14世の時代にアカデミーが作られ、ラファエロとかプッサンとかの絵が至上とされた。おれは素人なので、アカデミズム絵画の定義を聞かれてもはっきり答えられないんだけど、方向性としてはとにかくホンモノっぽく描くということではなかろうか。筆致が分からないようにするとか、遠近法をちゃんとやるとか。それから、絵画にヒエラルキーがあった、というのも有名だ。偉い方から歴史画→肖像画→風景画→静物画、みたいな。んでそういう伝統が、プッサンとかのバロック時代から、ロココ(ヴァト―、ブーシェフラゴナール等)→新古典主義ダヴィッド、アングル等)と、19世紀後半まで脈々と受け継がれておったわけだ。

アカデミー主催で行われていた展覧会が「サロン」である。アカデミー会員による審査に合格した者だけが出展でき、ブルジョワとかが観に来て、いいのがあると買っていく。当時の画家はここに出品することがキャリアの第一歩だったわけだが、ここでは当然、アカデミズムの視点でよい絵画でないと入選できなかったのだ。この時期のフランスの画壇は、かなり権威主義的な雰囲気が支配していたということだ。

そういうことで、19世紀も後半になってくると、アカデミズムに反発する画家も現れ始める。有名なのがバルビゾン派写実主義とか、マネとかである。まあその辺はまた機会があったら話そう。以上がおれの知ってる(ごく教科書的な)時代背景である。

 

んでモネも最初はサロンへの出品を目指し、いくつかは入選したんだが、大半は落選し苦戦を強いられる。1866年には草上の昼食*1という大作も作ったが結局出品せず。色々あって現在は一部切り刻まれたものが残っている。

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他方でモネはこの頃、既にアカデミーに逆らって物議をかもしていたマネや、ルノワール、バジーをはじめとする仲間と知り合い、また、愛妻カミーユとも結婚する。ほんと昔のやつらはカネなくてもすぐ結婚するよな。まあいいんだが、カミーユは、のち生まれる息子ジャンと共によくモデルになる。下のカミーユは1866年作、サロン入選。

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妻子とそれなりに幸せに過ごしていたようだが、とにかく絵は売れず金がなかった。そんな中でも、盟友ルノワールと共に、戸外制作や、いわゆる筆触分割といった、印象派の基本的な制作スタイルに挑戦し始める。下の作品は1869年作、筆触分割を初めて使ったやつらしい。

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当時、戸外制作は珍しかったわけだが(なぜか・・・は調べたらすぐ出てくるから省略)、モネは戸外制作にこだわった。また、筆触分割とは、色を作るときに絵の具をパレット上で混ぜず、そのままの絵の具を並べて塗って、観る人の視覚効果にゆだねるという手法だ。

モネがなぜこういうところにこだわったのかというと、彼が光を描くことを重視したからなのだ。実際の光を感じるには戸外で制作した方がいい。パレットで絵の具を混ぜると色が暗くなってしまうので筆触分割を用いる。というわけだ。

 

印象派展とアルジャントゥイユ

1870年、普仏戦争が起きる。バジールなど命を落とした画家もいた。・・・世界史の話をめっちゃしたいが、今回は省略して、モネは徴兵逃れのためロンドンに逃げ、そこで、印象派の大パトロンである画商デュラン・リュエルと知り合う。帰国後、フランスは復興の好景気に沸き、モネの絵はリュエルやオシュデなど画商の顧客がついた。

こういった時代を背景に、モネは1874年、同じくサロンに批判的な画家仲間と一緒に、画家、版画家、彫刻家等芸術家による『共同出資会社』第1回展、通称第1回印象派を開くのだ。1世代上のマネは出品を断ったが、ルノワールドガピサロなどが出品した。

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同展に出品された本作を見た批評家は、「まさに印象を描いた適当な絵」みたいな批評をしたが、逆にこれを好意的に見た人たちから「印象派」という名称が使われていく。印象派展は商業的に成功したかは微妙であり、また内部対立もはらみながらも、断続的に第8回まで行われた。

モネは家族でアルジャントゥイユに引っ越し、カミーユやジャンとともに多くの自然を描く。

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まさに光というか空気を描いてるという感じだな。実にえもい。

 

フランスでは、1867年のパリ万博以来、浮世絵などの日本趣味(ジャポネズリージャポニスムという言葉もあるが、そのうち触れるかもしれない。)が流行していたが、モネも日本をフィーチャーした作品を書いている。

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カミーユにKimonoを着せて描いている。この絵は高く売れたらしい。

 

もう一つ、アルジャントゥイユ時代のモネが好んだテーマが、鉄道である。文明の象徴として当時の画家が好んだテーマではあるようだが、具体的にはターナーとかの影響があったりするんですかね?イギリス行ってるし。

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「貨物列車」は日本にあるぞ!ダイナミックな構図がイカすな。

 

さてそんな中、1875年に不景気が訪れ、モネも急に羽振りが悪くなる。画商オシュデが破産すると、モネ家はオシュデ一家と同居することに。さらに悪いことに、カミーユが体調を崩し、1879年に32歳で亡くなってしまう。ここまででわかるように、モネは相当に愛妻家だったとみられるから、これはかなり堪えただろう。

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モネ一家(同居していたオシュデ一家含む)はアルジャントゥイユを出て、1883年、終の棲家であるジヴェルニーに引っ越した。しばらく後、オシュデが亡くなると、モネはオシュデの妻アリスと再婚した。

 

ジヴェルニーへ

80年代のモネは旅行を繰り返し、人物画は減り、風景画が増えていく。

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人物も、カミーユ存命中とは打って変わり、「風景のように人物を描く」ことを目指すようになっていく。

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これ、「散歩日傘をさす女」と構図が同じだけど、人物の描き方には明確な差があるよな。顔が描いてなくて、背景の一部みたいになっている。

 

80年代末頃には、さらに進んで、風景画を連作で描くようになっていく。光の効果を追求した果てに、おんなじ風景について、違う時間帯や天候の時の異なる見え方を描く、という、連作のスタイルがあったのだ。

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最初に連作で描いたのが積みわらである。(藁というが実際には麦の穂を備蓄しているところらしい。)同じものを、季節や時間帯を変えて何度も何度も描いている。カンディンスキーがこの画を観て衝撃を受けて抽象絵画に目覚めた、というのは有名である。

 

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続いて、ポプラシリーズやルーアン大聖堂シリーズを制作する。ルーアン大聖堂は、構図も厳格に同じで、時間帯と天候だけが違う、という感じ。

80年代頃には、画商デュラン・リュエルの営業努力が実を結んだこともあり、モネをはじめとする印象派の絵画は、まずアメリカで商業的成功を収めるようになってくる。この辺以前のアートの価値が、アカデミー等の伝統的権威によって決まっていたとしたら、この辺以降のアートの価値は画商の営業活動によって決まるようになった、という面もなくもないかもしれない。その辺りはまあまたじっくり調べよう。

 

睡蓮を描きまくる

93年頃から、モネは自宅に池を造成し、睡蓮を植えて、とにかくそれを描きまくるようになった。

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モネは池に太鼓橋をかけ、「日本の橋」と呼び、また藤棚や枝垂れ柳を植えた。モネは自分の庭に「日本」を造ろうとしたのだ。この「睡蓮+太鼓橋」の構図の連作については、空が全く描かれていなかったり、池は遠近法を守っているのに橋に遠近感がなかったりと、あえて平面的に描こうとしている、という点が指摘されることがある。

ちなみにこの庭は今でもジヴェルニーに再現されているらしい。

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1907年作、ポーラ美術館の睡蓮。画面が正方形なのが珍しいらしく、縦に長い印象を与えている。全く同一の構図の作品が複数あるが、画面の形が円のものなどもあるらしい。

 

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この構図の睡蓮もお気に入りだったらしい。遠近法的に見て、睡蓮は奥に行くほど小さくなるが、反射している木は手前に来るほど小さくなっており、2つの遠近法が交錯して複雑な感じを与えているのが良いらしい。ふーん。

 

モネはずっと引きこもっていたわけではなく、たまには旅行にも行き、ロンドンやヴェネツィアなども描いている。

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モネのヴェネツィアの感想だが、「もっと若いときに行っとけばよかった」だそうだ。水辺大好きなモネだから、まあそう思うだろうな。

帰国後、モネは家族の死や白内障に見舞われ、しばらく制作をストップする。しかし、それを乗り越えて晩年に挑んだ大作が、オランジュリー美術館の睡蓮だ。

1918年、モネは友達のクレマンソー首相に、戦勝記念の作品を寄贈すると伝えると、おりしも計画が進んでいたオランジュリー美術館にでかい展示室を設け、そこに飾るという壮大なプロジェクトになっていった。

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2室まるまるぐるっと睡蓮、という超大作である。

 

1926年に亡くなったモネだが、当時はすでに印象派は時代遅れになり、モネの作品はあまり顧みられなかった。しかし、1950年代にはモネ再評価がかなり進み*2、オークションサイトで睡蓮が極めて高額で売買されたりすることもあるようだ。

 

ちょっと話逸れるんだが、晩年のモネは「隠居」している。そういう話を聞いてつくづく思うのが、隠居というのは友達が多くないとできないよなあ、ということだ。モネは面倒見てくれる家族がちゃんといて、旅行にも行っているし、友達もよくジヴェルニーに遊びに来てるからね。人間、他人との交流がないとどうしてもおかしくなるから、隠居生活を維持するには、「こちらから出向かなくても向こうから来てくれる人間関係」が不可欠だと思うのだ。そうすると、かなり交友が広く、人望がある人でないと、健康に隠居するというのは中々難しいのではないか。諸葛亮とか西行法師とか、古今東西のあらゆる隠居生活にいえることだけど。多くの日本人が老後も働くのも、金の問題もあるかもしれないが、仕事がないと人間関係がなくなってしまう人が多い、というのもあるのだろう。いいかお前ら。例えばfireしたって、信頼できる家族や友達がいなきゃ、健康な人生は待ってないぞ。おれはそう思う。

 

*1:マネの同名の作品が有名だ。どこかで話す機会があろう。

*2:当時流行していたポロックとかの抽象表現主義とモネの睡蓮などが結びつけられたらしい。現代アートについては言いたいことがいくつかあるが別の機会にしよう。