あかりの日記

おっ あっ 生きてえなあ

慧立、彦ソウ『玄奘三蔵』(長澤和俊訳)

 

中国が誇る高僧、玄奘の生誕から、西域の旅からの帰国まで。

中国の旅行で読了。

一応前に描いたシルクロード図を貼っとく。

 

出生から出国まで

玄奘。隋文帝の602年、河南省の役人の家に生まれる。幼少期より聡明だったが、役人ではなく出家の道を選ぶ*1。隋末の混乱*2で都を離れ蜀に学び、受戒後は各地を巡って中国中の経典を学びつくした。

玄奘の旅の動機について。

こうして法師は、あまねく各地の高僧に会い、つぶさにその説を聞き、くわしくその釈義をかんがえてみると、それぞれ自説をほしいままにし、また聖典を調べてみても、また陰に陽に異なった点があり、どちらが適当であるかよく分からない。

そこで法師は西方(西域、インドを含む)におもむいて、疑惑をただし、また『十七地論』ーすなわちいまの『瑜伽師地論』-をもってきて、もろもろの疑問を解決したいと誓った。(p22-23)

これはこれでよくわかるが、おれ的には、この話には2つ注目すべき点があると思う。1つは、玄奘は、仏教の教義が色々ぐちゃぐちゃなのを、「もともとそういうもんなんだ」とは思わず、訳経や解釈論の未熟に帰責したということだ。教相判釈などによって、いろんな経典を統一的に理解しようと苦心していた当時の中国人の仏教観が端的に表れている。

もう1つは、玄奘の関心は飽くまでも唯識にあったということだ。当時の中国ではアビダルマ(「倶舎」)や中観(「三論」)はすでに割と研究されていたが、唯識はまだ未熟だった。玄奘は、上に述べた教義の混乱の解決を、新興の唯識思想に求めたのである。そして彼は、唯識の教えを中国に持ち帰り、法相宗の祖となる。

この後玄奘は旅の道中で多くのお坊さんをロンパしていくわけだが、「小乗」の比丘だけでなく、竜樹系の学者も論敵としている描写があるのだ。当時のナーランダーはアビダルマ、中観、唯識三者鼎立状態だったのかな、などと空想すると結構興味深い。別にそんなことはないかもしれないが。

 

シルクロードの旅

ゴビ横断

ということで、インドに行きたい玄奘だったが、朝廷からの許可がなかなか下りない。当時は太宗李世民貞観初めころ。唐朝は未だ草創期、不安定な国内情勢に鑑み、外国旅行は一切禁止であった。玄奘は仕方なく、629年、たった1人で密出国を敢行、ここに西域求法の旅が始まった。仏教に篤い太守の厚意で出国は認めてもらえたが、お伴の胡人はすぐに逃げ、一人ボッチで莫賀延蹟を横断することになる。

蜃気楼がみえるゴビ砂漠(いい写真なくてすんません)

空には飛ぶ鳥もなく、地上には走る獣もなく、また水草もない。このとき、あたりをみまわしても、ただ1つ自分の影があるのみである。法師はただ観世音菩薩と『般若心経』を心に念じた。(p36)

これは法顕『仏国記』からの引用か。

さて、そんな玄奘に最大のピンチが訪れる。道中で、水を入れた袋をひっくり返してしまったのだ!一瞬引き返そうかと考えるが、

「私は先に願を立て、もしインドに到達しなければ、ついに1歩も東に帰るまいとした。いまどうして引き返しているのか。むしろ西にむかって死ぬべきである。どうして東方に帰っておめおめと生きられよう」(p36-37)

これが有名な「不東」の誓いである。玄奘はついに砂にぶっ倒れるが、そこに表れた観音菩薩の叱咤激励を受け、なんとか意識を維持して歩き続けると、奇跡的に池を発見し、一命をとりとめた。いやしかし、高僧の伝記にしてはハード過ぎるw

高昌国

最大の危機を脱した玄奘は、何とか伊吾(ハミ)に到達。そこで高昌トルファン)王麴文泰の使者に請われ、高昌に来訪。王は仏教の熱心な信者で、玄奘を引き留めようとする。玄奘は断り続けるが、王は、言うことを聞かないと唐に送り返すと脅しをかける。すると玄奘もハンストで対抗。結局王は折れ、「仁王般若経」を講義することと、帰りに3年滞在することを条件に、西域行きを認めたのだった。

西突厥

玄奘の出発に当たり、麴文泰は西突厥の可汗に玄奘を手厚く遇するよう手紙をしたため、沢山の贈り物を添えた。玄奘パミールを越え、イシック・クル湖の辺りを通って、可汗のテントに着いた。このときの可汗、本書では「葉護可汗」と表記されているが、ウィキペディアで見ると「肆葉護可汗」という人の時代なんじゃないかと思われる。まあいいか。こののち、玄奘は西突厥の庇護のもとに天山北路を通って旅を進め、インドに入ることになる。バーミヤンでは大仏を観たとの記載あり。当時の西域はまだ西突厥の影響力が強かったんだね。

 

インドでの遊学

仏跡巡り

玄奘は、仏跡を巡り、各地の僧を訪ね(論破し)、ときに盗賊に殺されそうになったりしながら旅を進める。

シュラ―ヴァスティ(舎衛城)の祇園精舎釈尊生誕の地・カピラヴァストゥルンビニ釈尊入滅の地クシナガラ初転法輪サールナート(鹿野園)、アンバパーリーや維摩ゆかりのヴァイシャーリーアショーカ王が都したパータリプトラなどを歴訪するが、どこもこの時代には既に荒れ果てた遺跡になっていた。これには玄奘は大層がっかりしただろう。

そして玄奘釈尊成道の菩提樹に到達するが、これも悪王により伐採され、小さな木が残るにすぎない。玄奘はいよいよ声をあげて大泣きする。

「仏成道のころ、私はどこでどのような生を送っていたか自分でも分からない。いま像季(末法の世)にいたって、ようやくこの地を訪れることができた。思うに、私はなぜかくも罪業が深いのであろうか」(p149)

若干趣旨が分かりにくいが、経典に説かれるような生き生きとした仏跡を想像して、文字通り命がけでインドまで来たのに、どこも荒れた遺跡しか残っておらず、そのことの無念を嘆いているのだろう。

ナーランダー

が、この時代のインドでは、ハルシャヴァルダナ王の安定した支配のもと、まだまだ仏教は盛んである。その近くのナーランダー僧院にVIP待遇で迎えられる。僧院のトップの正法蔵・シーラバドラ(戒賢)は余命わずかであり、玄奘が来ることを夢のお告げで聞いていたのだ。(なんか空海と恵果にも似たようなエピソードがあった気がする。)

こうして玄奘はナーランダーで3年にわたりみっちり学び、その合間にさらに聖跡を巡っていく。ラージャガハ(王舎城)で法華経や観経の舞台となった霊鷲山などのほか、南インドも一巡し、スリランカ渡航も試みたようだ。

玄奘はシーラバドラに瑜伽論を中心に、因明論(仏教論理学)やアビダルマ、サンスクリット言語学なども広く学び、摂大乗論などを講義する。そのかたわら、①竜樹の「中論」などを引いて無著の「瑜伽論」を批判したシムハラシュミを論破し、②ヒンドゥー教バラモンを論破し、③ハルシャ王の依頼で、大乗を攻撃した「小乗」のプラジュニヤグプタを論破した。

ナーランダー講義と帰国

こうして名声極まった玄奘は、そろそろ中国に帰って教えを広めようとするが、クマーラ国王次いでハルシャ王にとどめ置かれ、ナーランダーで盛大な大法論が催される。

それが終わったあとも、ハルシャ王は大規模な無遮大施を行い、玄奘をなかなか帰さなかったが、法師は強い意志で断り、たくさんの経典や物産をもって、いよいよ帰国の途についた。

当時の交通は海路の方が安全だ。玄奘より前に天竺入りした法顕は帰りは海路だった。だが、玄奘には麴文泰との約束があったので、帰りも過酷な陸路を選択。インダス川を渡るとき、船が転覆して、持ってきた経典の半分をロストしてしまった。

その後も過酷な旅路を続け、クスタナ(ホータン)に着いた際、太宗に帰国を請う手紙を送る。帰りは西域南道を通っていたと分かるな。

この帰国要請が容れられて、敦煌から迎えの役人が到着し、玄奘はVIP待遇で帰国するのだった。

なお、このときには太宗は外交政策を転換し、高昌を攻撃して滅ぼしてしまっていた。そのため、玄奘と麴文泰の約束は果たされることはなかったのだ。悲しいかな。

 

またちなみに、玄奘帰国後のインドでは、647年にハルシャ王が崩御し、ヴァルダナ朝が断絶、長い分裂時代(ラージプート時代)に入る。その混乱度合いは、使節として派遣された王玄策が伝えるところである。仏教も(とくに顕教は)じわじわ衰退していくことになる。玄奘が留学したのはいいタイミングだったといえるだろう。

 

帰国後の事績

645年に帰国した玄奘は、高句麗遠征に向かおうとしていた太宗にかろうじて謁見。密出国のおとがめはなく、多くの文物や経典を持ち帰った功をたいそう褒められた。

玄奘の持ち帰った文物は長安城の南の朱雀門に並べられ、人々はこれに大興奮し、一大インドブームが巻き起こる。最近のおれの関心に重ねていえば、このとき玄奘が持ち帰った仏像から、中原で新たな仏像様式が発展。それが伝播して、かたや敦煌の初唐・盛唐窟が、かたや我が国の天平仏が生まれる。東アジアの仏教美術の全盛期が到来するのだ!

話を戻して、太宗は玄奘の優秀さを認め、自らに仕えることを求めるが、玄奘はこれを断り、訳経のための寺を所望。太宗はこれを容れ、長安弘福寺を与えた。ここからの後半生、玄奘はひたすら訳経にいそしむ。太宗の死後、高宗の代には大慈恩寺を与えられ、また経典の保存などのために大雁塔が建立された。武則天の頃には、安産祈願の祈祷を行ったりもした。

大雁塔

663年、62歳のときに「大般若経」106巻を訳し終えた玄奘は精根尽き果てて筆をおき、翌年に息を引き取るのであった。

玄奘が生涯に訳した経典は1338巻で、これは鳩摩羅什、真諦、不空、護法、義浄の5人の合計よりも多い。これと並行して大唐西域記も書いてたわけである。なんというシゴデキ。これは玄奘個人の翻訳能力もさることながら、玄奘が翻訳グループをよく組織したということを意味する。玄奘は経典の理解力や語学力、西域を旅行する胆力だけでなく、集団を統率するリーダーとしての資質にも優れていたということなのだ。まさに完璧超人なのであった。

 

この本について

玄奘の自伝として有名なのは『大唐西域記』であるが、これは地理の紹介という側面が強いらしい。この『玄奘三蔵』は自伝ではなく、弟子の慧立とそれを継いだ彦ソウがしたためた伝記である。しかしまあ、砂漠で水ひっくり返して死にかけた話とか、妙なリアリティがあるよな。弟子たちに武勇伝として語ったりしていたのだろうか。

 

*1:孔子の頃から、中国知識人は世俗の役人として身を立てたがる人が多い印象がある。トップエリートが仏教を志したこの時代は、中国史の中では珍しいんじゃないだろうか。

*2:「かつて漢代に王莽と董卓が僭逆をはかったときも、五胡時代に劉淵と石勒が華北を混乱させたときも、これほど人民を斬殺し国内を消耗させたことは、いまだかつてなかった。」(p16)唐時代の人の歴史認識が窺われて面白かったので引いてみた。