あかりの日記

おっ あっ 生きてえなあ

山本勉『運慶講義』

 

運慶講義

運慶講義

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東博の運慶展、もう始まってる。

www.tnm.jp

ということで、予習。今年8月末に出たばかりの本で、最新の研究を反映している。おれがこれまで(古い本に基づいて)この日記にメモしてきた情報も、ちょいちょいアップデートされているので、その辺りも含めて見ていこう。

 

運慶の生きた時代

運慶の生年は不明だが、円成寺像の着手年から逆算して、1150年代くらいと考えられている。保元の乱のあたり。それから、没年は1223年との記録がある。承久の乱の少し後。

すなわち、運慶は、院政末期、武家の台頭から幕府権力の確立までの、動乱の70年くらいを生きた。この時代背景のもと、彼は、院、摂関家、幕府関係者といった各勢力をパトロンにして、奈良や鎌倉で造像につとめた。

 

大まかな流れをつかむために、運慶の有名な事績を並べていくとこんな感じである。

円成寺大日如来像→(南都焼討ち)→運慶願経→興福寺西金堂諸像→願成就院諸像→浄楽寺諸像/半蔵門ミュージアム大日如来像→東大寺大仏殿諸像(現存せず)→東大寺重源像、金剛力士像→興福寺北円堂諸像

今回東博に来てるのは運慶晩年の作品ということだな。

じゃあ少し詳しく見ていこう。

 

運慶まで

9世紀末の遣唐使廃止後、仏像界でも「和様」が意識されるようになる。和様を完成させたのが、11世紀に道長・頼通父子に重用された定朝。代表作は平等院鳳凰堂阿弥陀如来像。

www.byodoin.or.jp

それまでの一木造に代わる寄木造・割矧造を確立しただけでなく、優しい丸顔、薄い胸板、力の抜けた姿勢などのスタイルが「定朝様」と呼ばれ、当時の貴族に大流行。

定朝の弟子たちは、院派、円派、奈良仏師の3派に分かれ、それぞれの活動領域で定朝っぽい仏像を作っていく。そのような前例踏襲をうちやぶるムーブメントが、12世紀半ば頃、奈良を中心に活動する奈良仏師の傍流の一派から起こる。それが、運慶の親父・康慶の工房であった。

康慶は後白河法皇政権下で、蓮華王院本堂(※三十三間堂)や五重塔の造像に関わり(※現在のものは13世紀の補修。)、僧綱の法橋位を賜る*1

ここにまだ10代の運慶も関わっている。自分がデビューした時点ですでに、親父は官位もちで、法皇からデカめの仕事をもらってる。まあ割と恵まれたところからのスタートじゃないですかね。

 

円成寺像~興福寺西金堂像

円成寺

運慶の最初期の作品といわれるのが、奈良・円成寺大日如来坐像だ。1175年。

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ポーズは智拳印で、金剛界大日如来だと分かる。モトドリが高く、創建当時の東寺立体曼荼羅大日如来をもとにしたという説があるようだ。

厳しい表情、胸を張って高い位置で印を結ぶ姿など、定朝様式とは一線を画する作風である。平安初期の古典に学びながら、写実性などには明確な進歩がみられる。

運慶願経

1180年、南都は平家の炎に包まれた。以仁王の令旨に呼応した興福寺に対し、平重衡が焼討ちを行ったのだ。興福寺とお隣の東大寺の多くの古像が焼失。南都では直後に復興が始まり、東大寺重源などが活躍していく。

運慶はこの頃、京都にて法華経全巻を写経する(いわゆる運慶願経)。お経の軸には焼けた東大寺の柱の残りを使ったといい、南都復興を祈願したものとわかる。そして、このお経の奥書に、礼拝結縁者の名前が列挙されており、そこには、快慶をはじめとして、「なんとか慶」さんの名前がずらっと並んでいる。この辺りまでに、康慶・運慶の工房が、奈良仏師の正統から独立して独自の工房となっていたことがうかがわれるのだ。これこそこんにち慶派と呼ばれるものである。

興福寺西金堂

さて、興福寺諸堂の復興にやや遅れて、その中の像の再興が開始されると、運慶は興福寺西金堂の大仏師に抜擢された。ここで造られたのが本尊釈迦如来像であり、現在は仏頭として残る。興福寺国宝館にいるぞ。

https://www.kohfukuji.com/property/b-0051/

木造で、表面は漆塗り。元の仏像は天平仏(光明皇后が有名な八部衆十大弟子と一緒に作ったやつ)であり、それへの復古を目指しつつも新様式を目指したものだという。

このように南都復興に功績を残した運慶は次第に有名になっていくのだ。

 

東国での造像

成就院

それまで仏教美術の舞台の中心は奈良か京都であったが、頼朝が鎌倉に入ると、中央の仏師は東国に活動の舞台を広げていく。奈良仏師・成朝が頼朝の依頼で鎌倉に下り、勝長寿院の丈六阿弥陀仏(現存せず)を造ったのは、象徴的なイベントといえるようだ。

運慶は、1186年、頼朝の義父で後に初代執権となる北条時政の依頼を受け、北条氏の本拠地伊豆の成就院の諸像を制作する。阿弥陀三尊像のうちの阿弥陀如来坐像、不動明王像と脇侍の2童子像、毘沙門天像が現存する。

www.city.izunokuni.shizuoka.jp

阿弥陀如来坐像は、厚みを意識した体躯やうねる衣紋線などが平安後期の作風と一線を画している。両目は後世の補修だが、当初は玉眼をはめてあったらしい。

不動・毘沙門については、まず、阿弥陀の随侍が四天王などではなくこの2尊ということ自体が新しいらしく、武家の好みの反映かもしれない。躍動感があり、毘沙門天には玉眼が貫入されて写実的だ。そして、阿弥陀以外の4尊の像内には五輪塔形の木札が納入されていた。このような納入品はこの時代の作品からみられるものらしい。

なお、この頃運慶は上記の興福寺西金堂像を並行して造っていたため、運慶自身は奈良にとどまっていたようだ。

浄楽寺像

この頃(1190年前後)、父康慶は興福寺南円堂の諸像を造り、次いで危篤の後白河法皇の発願の諸像を造って、その功績で弟子が法橋になったとされている。この弟子は運慶ではないかと推測されている。いよいよ運慶も官位もちになったわけだ。この間、頼朝は鎌倉の永福寺造立のために康慶を呼んだが*2、色々あって実現しなかった。著者によれば、このとき、官位もちになった運慶が代わりに鎌倉に行って、永福寺造像を指揮したのではないかとのことだ。

ともかくも運慶は、1189年から、侍所別当和田義盛の発願で、横須賀の浄楽寺の諸像を造っていた。阿弥陀三尊の他、不動明王毘沙門天が現存する。

www.jorakuji-jodoshu.com

著者的には出来栄えは願成就院像と比べると今一つらしい。

一方、作り方としては、上げ底式内刳りという新工法がみられる。ちょっとこの本の説明だといまいちよくわからないが、おれの理解したところによると、仏像の一番下の部分からちょっと浮いたところに底板を残すように作る、ってことだろうか。そもそも、前提として、それまでの仏像は内刳りといって、中を空洞にするんだが、そのときに底板をつけないらしい。下から見るとぽっかり穴が開いてるってことだ。しかし、像内納入品を堅固に入れるために、内刳りの下に板を残すようにしたらしい。この工法は後の像でも使われるようになる。

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半蔵門ミュージアム大日如来

さて、もう一つ、この永福寺造像期の作品とみられるのが、半蔵門ミュージアム大日如来坐像だ。

www.artagenda.jp

これは、足利義兼の依頼で制作され、下野国・足利荘の寺にあったものとされている。

足利義兼。頼朝と同様、河内源氏嫡流八幡太郎義家の子孫という超名門。それに加え、石橋山の敗戦の後くらいに頼朝に参陣した古株だ。そういうことで、頼朝のおぼえめでたく、北条政子の妹をめとり、幕府内の重要人物と扱われた(のわりに鎌倉殿の大河では出てこなかったけど。)。この名門の家から、のちに足利尊氏が出ることになるのだ。

話がだいぶそれたが、この像も上げ底式内刳りで密閉されており、底板からは上部が五輪塔の形になった長い木札が立っている。さらに水晶製の玉と五輪塔が貫入され、玉は蓮華台がついているから心月輪、五輪塔には舎利が入っている。

このほかにも、この時期に運慶により造られた可能性のある像が、関東にいくつも残っているそうだ。

しかしながら、北条時政和田義盛、足利義兼、そして鎌倉殿。幕府の最有力者達の造像を一手に請け負っている。運慶、坂東武者に人気すぎじゃないか。

 

東大寺大仏殿~東大寺南大門

大仏殿

1194年頃になると、康慶工房は東大寺大仏殿の造像を独占し、造仏界の頂点に立った。大仏自体はすでに復興されていたが、大仏殿の他の像の復興がここになされる。この頃は運慶も奈良で活動している。

まず南中門二天像が造られ、ここに運慶の同僚、「アン(梵字阿弥陀仏」と号する快慶が登場する。翌年には運慶は法眼に昇進した。1196年には、大仏殿の両脇侍と四天王像が完成する。四天王はそれぞれ13mを超える巨像であり、後世に広く様式が参照された。様式には重源の強いこだわりがあったらしい。

この、東大寺大仏殿の四天王、現存しないわりに、いろんなところで名前を聞くんだよなあ。オリジナルが残ってないのに二次創作はたくさんある。「善光寺如来」と似てる?*3

この頃、運慶は、東寺と神護寺の再興にもとりかかる。両方空海ゆかりの真言寺院だが、この頃にはすっかり荒れ果て、文覚の尽力で復興が進められた。

同じころ、高野山金剛峯寺八大童子も作成された。

wanderkokuho.com

玉眼が極めて効果的に使われている。像内には心月輪の形の木札が納められる。

光得寺像

この辺りで、運慶は、足利義兼の依頼でもう1つ大日如来坐像を造っている。それが光得寺の大日如来坐像だ。

koutokuji.ashikaga.org

上げ底式内刳り、五輪塔をかたどった木札と水晶製の心月輪の納入物と、基本的なつくりは半蔵門ミュージアムのやつと同じだ。体の上部には歯と髪の毛が納められており、義兼のものかもしれない。

 

この頃の運慶は、京都の貴族社会からの依頼も多く受けていたようである。頼朝とかかわりの深かった九条兼実だけでなく、反幕府派の近衛基通などからの依頼も受けていたと記録がある。従来の研究では、後鳥羽上皇の造像は院派が独占していたとみられていたが、運慶も結構かかわっていたんじゃないかという見方も出てきているらしい。造仏界の第一人者となった運慶の下には、勢力を問わず依頼が来ていたようである。

東大寺造像の仕上げ

大仏殿が完成し、東大寺陳寿八幡宮の棟上げが終わったころ、運慶は重源上人像を制作した。

https://www.narahaku.go.jp/exhibition/special/200604_chogen/

(※写真あんま出てなかったんで上のサイトで見てください)

制作年代は生前説と死後説があるようだが、著者はあんまりリアルなので生前説を推している。そうすると1200年頃の制作らしい。顔とか衣紋とかパーツは写実的なのに、横から見ると、頭と体という2つの塊に抽象化されている。著者はピカソになぞらえている。おらキュビスムはよくわがんねえだ。

 

そして、東大寺造像の仕上げとして、1203年、運慶工房総出で、南大門金剛力士が制作される。

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阿形を快慶、吽形を運慶が担当したんじゃないかという説は、この日記でこれまでも繰り返し取り上げてきたので、詳しくは省略する。この仁王像完成により、運慶はついに僧綱のトップたる法印に登り詰め、快慶も法橋の位を得る。位人臣を極め、弟子たちの力量も充実し、まさに慶派の発展はここに極まったのであった。

 

興福寺北円堂

そのキワキワの状態の運慶工房が作成した、晩年の傑作こそ、興福寺北円堂の諸像である。1212年頃の完成だそうだ。

https://www.kohfukuji.com/property/b-0036/

https://www.kohfukuji.com/property/b-0037/

https://www.kohfukuji.com/property/b-0026/

現在、北円堂には、弥勒如来、両脇侍、世親、無著のほか、四天王立像がいるが、両脇侍は後世のものに代わり、四天王像は大安寺から持ってきた平安時代作のものだ*4。そして、現在中金堂に置かれている像がかつて北円堂のものであった可能性が高いらしい。こないだの日記(夏の古仏巡礼①興福寺 - あかりの日記)では、「もっと知りたい 興福寺の仏たち」をもとに、「慶派作で諸説ある」的なことを言ったが、著者によると、

この四天王像四躯が本来の北円堂四天王像であることは、一定期間続いた議論の結果、ほぼ確定したといってよいであろう。2025年秋に東京国立博物館で開催される『特別展 運慶 祈りの空間ー興福寺北円堂ー』に、この四天王像が弥勒仏・無著・世親像とそろって展示されるのは、その結果が社会的に認知されたことを示すといえるだろうか。それにしたがえば、この四躯も運慶作品にくわわったことになる。(p135-136)

だそうです。ほーん。最新の研究ではそういうことらしいよ。

これらの像の感想はホンモノを観たあとに取っておこうと思うが、一つ、最新の研究による面白い説の中に、「世親と無著実は逆だった説」があるらしい。

弥勒仏台座銘において二像が世親・無著と記され、担当仏師も一般には五男・六男とされる運賀・運助の順に記されることを不自然として、法相曼荼羅等の図像では無著よりも世親をより老いた相にあらわす伝統にしたがい現状の老壮を逆転させる、つまり無著が本来の世親であり、世親が本来の無著である可能性もありうる(p140)

だって。へえー。

 

その後、最晩年の運慶は、主として鎌倉など東国の仕事をメインでやっていたようだ。横浜・光明院の大威徳明王像などがある。

www.pen-kanagawa.ed.jp

 

感想など

運慶。武士の好みを受けて時流に乗りつつ、独自の造形的な感覚や創意工夫によって傑作を連発していった。足跡がある程度はっきりわかっている人物であるからこそがぜん興味がわいてきた。

しかしながら、仏像などの古美術品を観るに当たっても、やっぱり日本史の知識は大事だね。おれは日本史に暗いのがちょっとコンプなところがある。どこかでちゃんと勉強しないとな。

 

*1:定朝らへんから、仏師は僧綱の位をもらうようになっていた。ランク付けは低い方から法橋→法眼→法印。僧位 - Wikipedia参照。

*2:政所別当大江広元の手紙が残っているそうだ。

*3:善光寺如来は絶対秘仏なだけか。まあそういうことにしとくか。

*4:科野の里の百済仏 - あかりの日記で取り上げた、現在修理中の持国天立像のもとになった、手を前でクロスしている天王像は、この、「現在北円堂にある」像である。したがって、今回の東博の展覧会にはきません。残念。