西安で観てきた仏像についてのメモ。
仏像。1世紀頃にギリシャ彫刻の影響を受けてガンダ―ラで作られ始め、4世紀、グプタ朝の頃に純インド的な美術として昇華。
そのころ仏教そのものと共にシルクロードを通って中国に伝わる。時は五胡十六国~南北朝の頃だが、南北両方とも仏教を奨励し、造像も盛んに。6世紀前半には日本に伝来する。飛鳥期の仏像には北朝様式(法隆寺釈迦三尊とか)と南朝様式(中宮寺半跏菩薩とか)があるといわれる。
隋、唐が中国統一を達成すると、仏像も中国風に発展。日本も遣隋使・遣唐使を送って文化を輸入し、日本の仏像は中国美術の展開の影響のもとに発展していく。すごく大まかにいうと、①北周〜初唐→白鳳、②初唐〜(玄奘以降)→天平、③盛唐〜(密教以降)→弘仁貞観、ってイメージだろうか。
前置きが長くなったが、ふんわりと日本とのつながりを検討したところで、中国の仏像をみてみよう。
西安博物院
いずれも西安近郊から出土した仏像である。
北朝時代の仏像
特に断りのない像は北魏(386-534年)のもの。

杏仁型の目、微笑など、日本の止利式に通ずる特徴がある。また、法隆寺釈迦三尊の如来と同様、刀印を結んでいる。古い時代の像は刀印が多い気がする。





北周仏については後で少し詳しく見る。


金色が残っており、金(メッキ?)で塗装されていたことがうかがわれる。豪華な装飾品が描写されている。我が国の小金銅仏などで似たような装飾のものがないか気になる。

1仏2菩薩が描かれた石像。法隆寺献納宝物などにも類似のものが多い。(光背1つに3尊が並ぶ善光寺式は残念ながら見つけられなかった。)

釈迦・多宝の2如来像は法華経の有名なシーン。奈良博や献納宝物にも同じモチーフのものがあった。

赤い彩色がほのかに残っている。上で観た観音や、この後出てくる「北周五仏」もそうだが、この時期の立像は足元に2体の獅子がいる。
「清信女母子造」との銘記があったもよう。地元の有力者とかの像だったということか。



螺髪の形が特徴的で、インド的な要素が強いことがうかがわれる。
隋・唐時代
特に断りがないものは唐時代(618-907年)のもの。


(まあ唐といっても300年くらいあって幅が広すぎるんだが、)こいつは北魏時代のものに比べて面容は明らかに丸形になり、中国風になっている。日本の仏像でいうと白鳳仏(興福寺仏頭とか、夢違観音とか)にかなり近い。


龕の中に如来、2比丘、2菩薩がいる。これは敦煌の初唐以降に非常によく見られる形式だ。門の前に仁王像がいるのも様式として進んでいる。
そして何よりも、龕の下で支えている鬼みたいなやつ、これは薬師寺三尊の如来の台座にいるアイツではないか。



これ、なんだかわかるだろうか。
ジャータカのサッタ太子の話である。お釈迦様の前世、お腹を空かせた虎の前に崖から飛び降りて身を捧げ、功徳を積んだという話。

「善業泥像」とあるのみでよくわからん。後でググってみると、高僧の遺灰を混ぜた泥で作った塼仏にこのような銘記がされたようだ。大雁塔周辺から多く出土し、玄奘がインドから製法を持ち帰ったものだそうだ。

これは白鳳仏っぽい幼さを感じる。

鉄製の仏像。我が国にはないのではないか。非常に珍しい。顔には微笑はなく、白鳳よりは天平寄りか?また光背が火炎の形なのも特徴的。

蟠龍石柱。

これ、小さいものだが、3尊はどことなく薬師寺薬師三尊に似ていないだろうか。

十一面観音。観音にいろんなバリエーションが出始めるのは密教が流行った唐からだ。

宋代の送子観音。日本にはあんまいないけど、中国では各所で見かけた。中国で観音様は安産の仏でもあるわけだ。





四天王像。
西安碑林博物館の石刻芸術館
碑林博物館ということもあり、こちらは全て石仏であった。
北魏時代

田良寛という人が寄進してつくった仏・道の混合した石碑。他の面には千仏などが彫られている。以下も個人が寄進して造った像のようである。日本にも飛鳥時代の豪族の私有の小金銅仏が残っているが、あれと近い感じだろうか。

512年

上の造の側面

531年

531年


512年



以下では唐を中心とする各時代の像をみていく。


これは唐代、長安開元寺跡で発掘された大理石製の像で、四天王とみられる。華美で精巧な装飾が美しい。胸当ての連珠と花びら、胸の下の帯、腰の装飾の花形の模様などは、わが国にも似た図像がみられるようだ(唐招提寺の増長天像など)。

ここからは唐の密教寺院・安国寺跡から出土した仏像群である。同寺は710年に建立され、多くの仏像が造られたが、9世紀の会昌の廃仏の時に荒廃。
時代的にも、わが国の弘仁貞観期の密教美術はこういうところに学んだとみてよいのではないか。
これは金剛手明王。

業三世明王

不動明王。このような憤怒の形相をした密教の尊格は遣唐使たちに強烈な印象を与え、東寺諸尊とかにつながっていくのだろう。


菩薩頭部。頭の飾りは金剛杵であり、密教像であることがうかがわれる。耳のところとかに金箔が残っており、往時は金ぴかだったことがうかがわれる。
しかしながら、この顔つきは、なんていうのかな、ガンダーラ的というか、アジア人っぽくないところがある。和辻哲郎は、「中国の人は仏像が伝来すると(文化様式の発展の流れとは逆に)まず漢化させて、唐代になって後からガンダーラの良さに気付いた」的なことを言っていたような気がするけど、まあそういう面もあるっちゃあるのかな。(おれは基本的にこのテの観念的な言説は話半分に聞くようにしてるんだ。ぶっちゃけどうとでも言えるからな。だからおれは哲学とかもイマイチはまれなかったんだが。)

北魏の仏頭。オモナガの四角い顔。
このようにみてくると、だんだん、年代ごとに顔つきにかなりはっきり差があることが分かってきた。わが国の「飛鳥」、「白鳳」、「天平」の差も、感覚的に理解できてきた気がする。
仏像の顔を見て年代を当てるクイズとかやったら、結構当てられるんじゃないだろうか(笑)


496(北魏太和20)年

北魏頃の仏像。この辺は顔が面白いから撮ってきた。

北周仏。すでに丸顔、若めの顔立ちになっており、白鳳仏っぽい特徴が出始めている。


唐代の菩薩立像。長安の大明宮跡から発掘された。明らかに女体であり、服は体にぴったり張り付いていて、なんというか、かなりなまめかしい。この感覚は和辻哲郎的には「グプタ的」なのだろう。表面はつややかで、上体が後ろに反っている。日本の仏像だと向源寺の十一面観音とかが近いかな。


唐代、長安の開元寺跡から発掘。

唐代、弓を引く菩薩の像。日本では見ない構図だ。



唐時代、蓮を持つ観音の像。台座には楽天が彫られる。穏やかな慈悲に満ちた表情。中国の仏像は我が国のものよりいろんなポーズをとっていて面白いな。
以下は「北周五仏」と呼ばれる仏である。



これらは、2004年5月にレンガ工場で発掘された仏像であり、台座の元号の銘記から北周時代のものと判明したそうだ。顔立ちは丸顔、童顔で優しく、やっぱ白鳳っぽいね。また、平べったいモトドリ、簡素な衣紋、低い頭身など、ディテールの中国風が顕著になりつつある。

隋代の仏像。


これは隋代の仏像。顔の若々しさは北周仏に近いか。


隋代の交脚菩薩像。
中国の仏像
北魏、唐代、密教美術など、日本の仏像の源流がみられて、非常に学びの多い見学であった。特に、北周〜隋という比較的短い期間に、その前(北魏)とも後(唐)とも結構異なった様式がみられ、しかもそれと白鳳仏とのつながりを見いだせそう、ということは、非常に面白い発見だった。
さて、ここで見たものはほぼすべて、土の下から出てきたものである。寺に代々伝わる仏像、みたいなのがない。博物館で観たんだから当たり前だろ、と思うかもしれないけど、大きな石窟みたいなのを除けば、古刹に残ってる寺宝、というか古刹自体があんまない。西安全土、中国全土を見渡しても少ない。莫高窟も清の頃に「発掘」されたものだ。
唐では武宗のときの廃仏で仏教文化はかなり打撃を受けた。そのあとも、易姓革命のたびに都市は破壊され、極めつけは文化大革命だ。
わが国でも、平重衡の焼討ち、「東大寺大仏殿の戦い」、明治期の廃仏毀釈とか、まああるっちゃあるけど、それでもかなり多くの伽藍や寺宝が現存している。島国だった、革命が起きなかった、ウォーナーが助けてくれたとか、色々理由はあるんだろうけど、いずれにしても、文化財や古刹がこれだけ残っているというのは、世界的に見てもかなり貴重なことなのだ。大事にしないといけないね。
それとともに、わが国の文化の生みの親である中国の文化についてもがぜん興味がわいてきた。いわゆる4大石窟寺院はコンプリートしてえなあ。以上。