あかりの日記

おっ あっ 生きてえなあ

西安・敦煌に行ってきた話③

 

5日目 漢中・三国志ツアー

この日もベルトラのツアー。西安北駅で日本語ガイドの曹さん*1と合流。

高鉄で西安から南に1時間ほど移動すると漢中駅に着く。

高鉄は秦嶺山脈をぶち抜いたトンネルを通る。孔明が何回北伐しても届かなかった西安~漢中の道のりだが、現代ならたった1時間だ。むなしいかな。

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峻険な秦嶺山脈

上の写真の手前に見えるのは、道路に敷かれたもみ付きのコメだ。道行く車を利用して脱穀させようとしている。めちゃくちゃ危ないと思う。

西安周辺では農地のほとんどが麦畑だったが、秦嶺山脈の南側に来ると一面の水田が広がる。文化や気候を含めて中国の南北を分かつ、険峻な山脈だ。だからこそ、孔明はこれを迂回して北伐を行った。魏延は山脈を突っ切って進軍するルートを提案したが、聞き入れられることはなかった。

でも魏延ルートでいけば成功してた可能性もなくはないよなー。

★中国の交通マナー

中国は交通マナーが非常に悪い。ギリギリの割り込み等は普通だし、クラクションは人をどかすために使う。鳴らすことに一切の抵抗がなく、都市部では常に鳴り響いている。この旅行期間だけで交通事故を3、4回は目にした。中国に旅行するときは保険に入ることをつよく勧める。

 

まずは勉県武侯祠に向かう。

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定軍山にある孔明の墓(武侯墓)の近くに造られた、孔明の祠だ。武侯祠は中国中にあり、成都のものが有名だが、ここ勉県のものは唯一蜀漢時代からある。劉禅蜀漢滅亡の直前の263年に建てたらしい(現在の建物は後世に建てられた。)。

孔明像。両脇侍像は張苞関興

花のお供え。お賽銭はアリペイで。礼拝は三跪。

長安の土 小粋なお供え物だ

諸葛亮の功績をたたえる博物館

隆中、天下三分の計

赤壁前、呉の官吏とのレスバ

武侯祠の中にいた三兄弟はこれだけ。

かと思いきや、出口の外で三顧の礼をしていた。イカす演出だ。


武器の博物館が併設されていた。左から、連弩、青龍偃月刀、倚天の剣、方天画戟。


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木牛流馬のゴミ箱



その近くには馬超の墓がある。

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馬超はもと西涼の猛将。演義では、父馬騰曹操に誅殺された後に挙兵し、潼関の戦いでは曹操を一時追い詰めるも敗北。漢中の張魯を頼るも、劉備の入蜀に伴って劉備につき、五虎大将軍となる。その後は漢中を守るが、北伐開始前に病死した。

潼関の戦い

馬超

馬超、もうちょい長生きしてればなー。北伐に従軍してれば、歴史が変わってたかもなー。

 

定軍山に登り、武侯墓(諸葛亮の墓)へ。

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桃園の誓いから三国統一まで、演義の絵巻物が並ぶ

白帝城 如し其れ不才なれば、君自ら取るべし

ここ定軍山は、219年に黄忠夏侯淵を斬ったところだ。要衝・定軍山を取った蜀軍は、救援に来た曹操の本隊も撃破して漢中を確保。劉備は漢中王を名乗る。その辺りが蜀のピークだ。

夏侯淵を斬る黄忠

しかるに、この直後、蜀は関羽荊州を失い、落ち目になる。ここから夷陵まで辛い話が続く。

荊州を失陥した蜀は、漢中を起点に北伐を繰り返した。

234年、孔明五丈原で陣没すると、その遺言に従い、蜀軍は楊儀の指揮下に漢中へ撤退。 死せる孔明云々。

北伐継続派の魏延が反乱を起こすも、馬岱がこれを斬る。

ここにいるぞ!

その後、孔明の亡骸は、遺言に従って、定軍山のこの場所に埋葬される。敵を常に睨めるように、とのことだ。

 

原寸大の木牛流馬

漢中市内に戻り、飯を食った後、魏延が斬られた虎頭橋へ。

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この辺りがかつての漢中城の城門の外であった。「ここにいるぞ」の舞台だ。

魏延、もうちょい孔明と仲良くしてればなー。

 

漢中市の博物館を見学。

漢代の副葬品

孔明の北伐ルート

左の「228年春」が第1回北伐。馬謖が街亭で孔明の命に背き、孤山に陣を張ったせいで敗戦(泣いて馬謖を斬る)。「228年冬」が第2次で、郝昭が陳倉をよく守った。「231年」が第4次で、祁山で張コウを討ち取った。魏延の提案した子午谷ルートはこの地図よりもっと東。

魏将の曹真は演義では無能キャラだが、史実ではよく諸葛亮を防いだようだ。演義の被害者の1人といえるだろう。

蜀の桟道の模型

桟道には古来より多くの石碑が彫られた。有名なのが、曹操の真筆とされる「袞雪」(コンセツ)の字だ。

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曹操が漢中に進駐した際、滾々と水が流れる様子を表して記した。サンズイがなくて誤字じゃないかと思われるが、近くに川が流れていることからあえて省いたらしい。曹操ってこういうトンチ好きだよね。

 

おれは結構三国志が好きだ。三国志には歯がゆいエピソードも多い。曹操関羽劉備孔明も、周瑜陸遜も、みんな大業を成せずに微妙な感じで死ぬ。普通、「君と余」(劉備曹操)のどっちかは勝つ話だと思うじゃん。でも違うんだよなー。

だが、まさにその歯がゆさが、三国志をここまで人気コンテンツにしたのだと思う。だって、「もしこうだったら」という妄想が捗るもの。

中国の人も同じように三国志を愛でているようだ(まあ当たり前だが)。そのことが感じられて、妙にうれしくなった。

 

続く

 

*1:最近、東海オンエアというユーチューバーの西安旅行のガイドをやったらしい。調べてみると果たして本当にそうであった。