3日目 敦煌見物
この日はベルトラという代理店で敦煌1日ツアーを手配してもらった。朝7時30分、夜が明けたばかりのホテルのロビーで、日本語ガイドの孔さんと合流。長い1日が始まる。


莫高窟
午前中に莫高窟を見学。
莫高窟はガイド必須である。スタンダードなチケットでは、見られる窟は8か所で、ガイドが選び、こちらから選ぶことはできない。ただし、96窟(北大仏)と16・17窟(蔵経窟)はほぼ確実に観られるようだ。その他、一部の窟は特別窟とされ、かなり高い料金を払ってようやく参観できる。
まずミュージアムで敦煌についての2つの映像を視聴。1つ目は莫高窟の成立についての映像で、2つ目が石窟の説明だった。
2つ目の映像では、おれの手元のメモだと、285窟(西魏)、428窟(北周)、420窟(隋)、220窟(初唐)、45窟(盛唐)、61窟(五代)、130窟(盛唐、南大仏)について、プラネタリウムのようなスクリーンに映されて説明があった。このうち420と61以外は上記記事で触れた。61窟は後述のとおり実際に観ることができた。




見学した8か所について記す。
29窟(晩唐、莫高窟第29窟-敦煌研究院):もと晩唐、848年の窟。塑像は18世紀前半、清代に補修で、目は切れ長。青色の顔料はこの時期に欧州から来たものだそう。(やはり清代の像はややチープ感が否めない。)
壁面には千仏が描かれる。もとの晩唐の壁画の上に、11世紀に西夏が描き直したもののようだ。西夏人は敬虔な仏教徒であり、既にある窟の補修を積極的に行った。後世の学者は補修がまずいとかなんとか言っているけど、西夏人には知ったこっちゃないわな。千仏の絵のうち、赤色は鉛を用いたため、変色して黒ずんでいる。天井には蓮の花の中に竜が描かれる。
窟の見学もそこそこに、ほんとうに莫高窟まで来てしまったのだと感激がこみあげる。
328窟(初唐、莫高窟第328窟-敦煌研究院):有名な328窟を見学できた!そのことだけで、おれは満足である。
如来に2比丘、2菩薩、さらにその外に3菩薩、いずれも初唐の頃のままの姿だ。如来の印は説法印とはちょっと違う。衣の模様はかなり写実的になりつつある。如来の髭は皇帝の姿を模したものとのこと。
左右の脇侍像は向かって右が迦葉、左が阿難。特に苦行に耐える迦葉の表情はなかなか深みがある。
そのすぐ脇の脇侍菩薩は半跏で、体躯は細身でどこか女性的である。瓔珞や天衣の表現が細かいところ、上半身はインド、下半身は漢民族の服装らしい。
さらにその脇の供養菩薩のうち、向かって左の1体は20世紀、ウォーナーによりハーバードに持ち去られた。その取り外した痕跡もよく分かる。そろそろ返してもいいんじゃね?(これは我が国を含むあらゆる列強のあらゆる文化侵略についていえることだが…)
すべての像の表情からアルカイックスマイルが消え、厳しい表情が厳かな雰囲気を出している。仏教美術のピークの時代にふさわしい、美しい像群であった。
壁画の方は西夏の修復が入るが、鉛で描いた赤色は激しく変色していた。
334窟(初唐、莫高窟第334窟-敦煌研究院):塑像は清代の修復で、目にはガラスがはめてある。ややコミカルな表情になっている。
仏龕の下には寄進者の姿が描かれ、名前の記載の痕跡もある。この窟が地元の有力者等の寄進で造られたことがわかる。
壁画は初唐のものが残る。東壁の十一面観音は状態良く残り、莫高窟最古の密教的菩薩像だそうだ。北壁の説法仏は、半跏の姿勢から弥勒とわかるが、かなり変色している。南壁には阿弥陀三尊の極楽浄土が描かれる。経典に従い水が描かれるが、この青色はラピスラズリで描かれたためよく残っているのだそう。ラピスラズリはアフガニスタン産のものがシルクロードを通ってきたとか。
入口の壁画は五代期のもので、菩薩の名前が回鶻文字で書かれる。この頃のこの辺は、甘州回鶻が帰義軍と勢力を争っていたから(長澤和俊『敦煌≪歴史と文化≫』 - あかりの日記参照)、ウイグル人も結構住んでいたのだろう。
しかして、おれはナマの回鶻文字というものを初めて見た。まあ、この先2度と見ることはないかもしれないが(笑)
11・12窟(晩唐、莫高窟第12窟-敦煌研究院):塑像はやはり清代の修復でコミカル。この窟は、晩唐・帰義軍時代の壁画がそのまま残っている。
東壁には寄進者である僧の名が記される。南壁には極楽浄土の図が描かれるが、その描写はいよいよ世俗的となり、唐の宮殿を模しているのだそう。北壁には東方薬師浄土変が描かれる。すなわち薬師・日光・月光の薬師三尊がおり、その下には十二神将が描かれる。
天井には千仏が描かれ、顔の印影が深く描写されている。その上には、敦煌のシンボルたる、琵琶などを弾く飛天の図がよく残っている。
16・17窟(晩唐、莫高窟第16窟-敦煌研究院):1階部分のもっとも北側に位置する16・17窟はいわゆる蔵経窟だ(長澤和俊『敦煌≪歴史と文化≫』 - あかりの日記、久野健『敦煌石窟の旅』 - あかりの日記で詳しく触れたので説明は省略)。17窟内部のコウベン像を拝むが、実際に見ると窟は小さい。4万巻のお経の歴史的大発見の舞台とは思えないくらい、こじんまりとした小部屋だ。
16窟はかなり大きい。中央の塑像は清代の補修。壁画の千仏は、上部は宋、下部は唐のもの。洞窟の向かって左奥の壁画の上部が侵食により失われているが、その部分の観察により、壁面にまず粘土を塗り固めて、その上に壁画を描く、という制作方法がよくわかる。
興福寺の五部浄とかもそうだけど、一部が破損した古美術品にも立派な価値があるものだなあ。
292窟(隋、莫高窟第292窟-敦煌研究院):方柱窟という前の時代の様式を受け継ぎつつ、新たな様式がみられる。すなわち、方柱正面の仏龕と、その左右の壁に、それぞれ三尊像が置かれ、これは三世仏(向かって左から、過去、現在、未来)を表している。これは大乗の信仰であり、隋代に初めて見られるものだ。仏像は清代に塗りなおされているものの、ガタイの良さや頭の大きさなど、隋代の様式が伺える。方柱の他3面にも仏像があるようだが、見学者の位置からは見えなかった。
前室には険しい表情の金剛力士像が置かれ、これも新しい様式をうかがわせる。
61窟(五代、莫高窟第61窟-敦煌研究院):最初の解説映像でも出てきた61窟は曹氏帰義軍時代の窟で、当時の帰義軍太守と妻の寄進で開かれたと考えられている。
東壁には女性の絵がずらっと描かれ、いずれも曹氏一門等の女性寄進者とか。その中には「甘州聖天可汗公主」の文字が。これはまさに、当時の曹氏が甘州回鶻のテングリ・カガンと姻戚関係を結んでいたことを示しているであろう!大変興味深い。
中央の塑像は盗掘?で失われているが、光背には獅子の尻尾が描かれている。獅子に乗るのは文殊菩薩なので、ここには文殊像があったと推測されている。
西壁には一面に五台山の全景が描かれる。現在の河北省から山西省の広大な地図を地名入りで描いたもので、当時の実際の地図に基づいて描かれたようだ。今でも現存している寺社もあるようだ。この壁画をもとに、考古学的な発見がされたこともあるらしい。五台山というと、文革の爪痕が大きそうなイメージもあるが、いつか行ってみたいなあ。
通路の比丘図には、漢字表記の横に西夏文字やモンゴル文字が併記されている。おれはナマの西夏文字も初めて見た!!!
96窟(初唐、莫高窟第96窟-敦煌研究院):この窟は鍵なくして入れるものだから、観光客でごった返していたし、35メートルの大仏を真下から眺めるので、正直観察どころではなかった。
武則天の号令で造営され、尊格は弥勒。下半身以外は後世の補修大だそう。足しかちゃんと見えなかったが、足の近くには穴が開いている。制作時の足場の後だそうだ。
窟の見学後、ここでしか買えないとのセールストークに負けて、こいつを買っちった。

莫高窟は撮影禁止である。「数字敦煌」があるとはいえ、美しく大きな写真の載ったこの図録は、今回の旅行最大の戦利品だ。今、帰国してこれを眺め、離愁の念抑えがたし。いつになるかわからないが、また行きてえなあ。
玉門関
ガイドの孔さんによれば、おれ達が行くちょうど前日には、唐招提寺の西山長老という方の見物を案内していたそうだ。そういうビッグネームも文化交流に来るところなのだ、ここは。
莫高窟を出て昼飯を食った後、いわゆる莫賀延蹟を超えて、玉門関を目指す。
法顕は「天に飛鳥なく、地に走獣なし」と言った。玄奘三蔵は水筒をひっくり返して死にかけた。そういう、死の砂漠である。

玉門関に到着。前漢・武帝時代の建物が未だ残る(長澤和俊『敦煌≪歴史と文化≫』 - あかりの日記を参照。)。


漢代の人はここで手荷物検査を行い、シルクロードを通ったのだ。中国からは、絹の原料たるカイコの持ち出しなどが厳しく取り締まられたであろう。
その少し北には、やはり前漢の長城の跡が残る。

漢代の長城は、東は遼東から、西はこの玉門関まで、本当に1万キロを超えて伸びていたようだ。低くね、と思われるかもしれないが、当時の敵は騎馬遊牧民・匈奴である。馬で越えられなければ十分な高さなのだ。
ところで、玉門関も長城も、何で残っているのだろうか。それは、土と葦を交互に重ね、これを叩いて固める「版築」という製法で、極めて頑丈に築かれたからなのだそうだ。写真をよく見ると、ミルフィーユのような形になっているのがわかるだろう。
鳴沙山・月牙泉
敦煌の風光明媚な砂漠、鳴沙山。風が吹くと砂が鳴くような音がすることから、この名がついたらしい。その間には、1000年間形を変えずに残る、三日月型の湖・月牙泉がある。

この山でラクダ乗り体験をした。なかなかに揺れが大きく、これに何か月も乗ってシルクロードを渡った商人の苦労を思わずにはいられない。

鳴沙山では現在、夜になるとコンサートが開かれているようであり、山は観客の席取りでいっぱいになっていた。

夜の敦煌
夜には敦煌の町を散策。どっと疲れた。



4日目 ゴビ砂漠横断(2日ぶり2回目)
東京からマル2日かけて来たのに、たった1日観光して、もう帰る。早朝に出立。正気の沙汰ではないが、致し方ない。西安でも色々見て回るのだ。
早朝、まだ外が暗いうちに、有名な店に行き、羊肉泡馍(ヤンロウパオモウ)を食らう。これだけは食っておきたかった。


そして、高鉄で11時間かけて西安に戻る。景色などは行きと同じなので割愛。
この電車で、慧立・彦ソウ著、長澤和俊訳『玄奘三蔵』 を読了。いずれ感想を書く。

夜半にようやく西安北に到着。そこから地下鉄2号線で鐘楼駅に移動し、宿に入る。


おれはもうおじさんだ。体力が限界に近い。キューピーコーワゴールドαをオーバードーズして、元気を補充したのであった。参った参った。
続く