長野県立歴史館でとても古い仏像が観られると聞き、行ってみた。

銅像半跏菩薩像
像のお姿は上の記事参照。小柄だが宝冠などの細部の装飾まで作りこまれており、美しい仏像だ。
重要文化財であるこの銅造菩薩半跏像は、6世紀後半に百済から伝来したとされる。止利仏師より前、まだ仏像が国産化されていない時代だ。同時期の像として、法隆寺献納宝物などがあるが、アルカイックスマイル、スリムな体形、後頭部から生えてるタイプの光背など、基本的な特徴は共通している。南朝の様式?なのかな。
この像は、普段は北安曇郡松川村*1の観松院という寺にある。ググってみるとそれほど大きな寺ではなさそうだ。このような田舎の寺に、当時の首都たる飛鳥の法隆寺と似た仏像が存在するのは、古代の科野が渡来人とゆかりの深い土地だったことと関係しているに違いない。
信濃武士と仏像
そのほか、上記企画展には、重文である真光寺阿弥陀三尊や、覚音寺千手観音立像・多聞天立像が展示されていた(画像は上記リンクを参照)。
前者は13世紀初頭の作で、はやくも慶派の清新な風がうかがわれる。幕府御家人である滋野氏の命で作られたらしい。慶派は早くから御家人の造像を担当していたりもするので(願成就院とか)、作風の東国への伝播も早かったのだろう。
後者は12世紀末、地域の名族仁科氏発願での制作。千手観音の丸く優しい顔は平安後期の中央の像の特徴(いわゆる定朝式?)。この寺には持国天もおり(画像はこちら参照→覚音寺 | _寺・神社 | _寺・神社 | トリップアイデア | Go NAGANO 長野県公式観光サイト)、腕を前で組むポーズは珍しいが、興福寺北円堂の四天王像(平安初期)と共通するようだ*2。中央の様式がよく伝わっている辺りに、仁科氏と朝廷とのつながりがうかがわれて興味深い。
しかるに、この持国天、本年4月の地震で破損してしまったそうだ。
お寺が修復のための寄付を募っている。おれは微力ながら募金した。支援サイトのリンクを貼っておくので、この日記を読んだおまいらも募金するように。いいね?
真田安房守の書状
常設展で、真田昌幸の書状が期間限定で公開されていた。
書状の中身は、関ヶ原で敗れて九度山に蟄居中の昌幸が、元家臣の妻殺しの嫌疑について、奉行に対し適切な判断をするよう指示するものである。流罪になった後も旧領に影響力を持っていたことが窺える。ヒモ編んでただけじゃないんだね()
しかして、この文書、行方不明だったものが県外の古書店で発見され、県立歴史館がクラファンで資金を募って買い付けたそうだ。このご時世、文化財の回収ってそういう感じでやるんだな。大変興味深い。