西安という町の話をしたい。
唐末以降はいち地方都市だったこの町で、20世紀、歴史の流れを変える大イベントが起きた。そのあたりの話をするために、その前後の話をする。
この時代はダブル主人公だ。1人は、辛亥革命を起こした孫文の中国国民党、もう1人は、コミンテルンの出先機関として陳独秀が建てた中国共産党。
中国各地には、列強の支援を受けた軍閥が割拠し、国民党の勢力はわずかに広州を支配するのみだった。
北伐と上海クーデター
孫文は1924年、国民党の方針として連ソ・容共を掲げ、共産党員を国民党に加入させる第1次国共合作をすすめた。コミンテルンは、国民党主導の民族解放運動に期待を寄せ、共産党に国民党との合流を促したのだ。
そんな中、孫文は25年に病死。彼の死に際に放った一言が、人々を国民革命に駆り立てた。「革命なお未だ成らず。」世はまさに大革命時代!
ということで、この年、上海の日系紡績工場でのストライキが、大規模な反帝国主義デモに発展した(5・30運動)。この追い風を受け、国民党は広州で国民政府を樹立。さらに、翌年、孫文死後に汪精衛(汪兆銘)らを抑えて実権を握った蒋介石は国民革命軍を指揮し、(第1次)北伐を開始した。
国民革命軍は、湖南の呉佩孚、江西の孫伝芳ら軍閥勢力に連戦連勝し、27年正月に武漢に遷都し、その年前半には上海、南京まで到達した。
もっとも、武漢政府では共産党が次第に力を増し、英租界の実力回収に走るなど急進化し、南京で列国の介入を招く。国民党右派の蒋介石はこうした共産党勢力と次第に対立し、27年4月1日、上海で共産党を弾圧した(上海クーデター)。蔣が国民政府を南京に移すと、コミンテルンは対決路線を指示したが(5月指示)、当初武漢政府側だった汪精衛の離反により、共産党は完全に切り離され、国共は分裂した。
南京国民政府の勝利
蒋介石は一時下野するも、復帰後の28年に北伐を再開(第2次北伐)。日本の支援する奉天軍閥の張作霖が守る北京を攻略し、国民党の党旗を掲げた。この間、日本の田中内閣は山東出兵を繰り返し、また、北京から満州に敗走する張作霖を爆殺した。
この事件は関東軍の独断で行われ、これを皮切りに、日本は、現地軍が勝手に動いて既成事実を作り、中央がそれを追認する、というなし崩し的な大陸侵略を進める。しかしながら、「暴支膺懲」の題目のもと、国民世論もこうした大陸進出を支持していた。
北伐が完了する頃には米英は国民政府に接近し始めたが、対照的に、日本は軍事的挑発を激化させる。中国の反帝運動の主要敵は、この時期以降、イギリスから日本にシフトしていく。
張作霖死後、息子の張学良が奉天軍閥の後を継ぎ、国民党への合流を宣言した(易幟)。ここに国民党の中国統一は一応達成された。
南京国民政府は、日本や、共産党のバックのソ連とは緊張関係が続いたが、浙江財閥や米英の支援を受け、権力の統一や経済発展を画策。内政では混乱が続いたが、通貨の統一等により経済の安定・成長はある程度実現された。
当時の中国は、地域社会の組織化が進んでいない、という問題を抱えていたようだ。識字率が低い上、相互扶助の仕組みも未整備で、農民はコミュニティの問題に概して無関心だったようだ。村の家で火事が起きても誰も助けない、ということもあったらしい。国語で習った魯迅の『故郷』もそんな感じだったな。*1
そういう問題があったので、国民党は保甲制という農村の相互扶助制度を導入し、農村の組織化を図ったようだ。他方、このような農村の状況は、後述する農村への共産党の浸透にもつながる。
満州事変
南京政府の統一と前後して世界恐慌が起こり、経済危機にあえぐ日本は大陸侵略に活路を見出す。31年、関東軍参謀石原莞爾らの画策で、柳条湖で鉄道を爆破し、これを口実に南満州の主要都市を占領。大陸の軍部は政府の不拡大の方針を無視し、32年には東三省全土を占領、溥儀を執政に満州国を建国した(満州事変)。日本軍はこの時期上海でも軍事衝突を起こした。中国は国際連盟に提訴し、リットン調査団が派遣されると、「満州を列国の共同管理に」というまあまあ融和的な案が出たにもかかわらず、満州国を承認していた日本は国際連盟を脱退。日本は孤立したが、あからさまな侵略の前に連盟は無力だった。
日本は33年には熱河作戦を行い、塘沽協定で長城以北の占領を事実上認めさせた。この後も日本は侵略的行動を続け、その度に国民政府は譲歩した内容の協定を結んだ。
国民政府は、中央政府同士で直接交渉する形ではなく、現地に出先機関を作ってそれを関東軍と協議させるという「現地解決方式」をとり、中央政府が屈服しているとの印象を和らげようとしたが、日本側にとっては組みしやすくなった。東北部を中心に、抗日運動が起こっていった。
中華ソヴィエトと長征
少し時計を戻し、共産党の動きを見ていく。27年、5月指示で国民党と喧嘩別れした共産党は、コミンテルンの指示で武装蜂起路線に走るが、悉く失敗。毛沢東は敗残兵を率いて井崗山に入り、農村に革命根拠地(ソヴィエト)を築く路線にシフトした。
前述のとおり、当時の中国農村は組織性がかなり低かったため、共産党の組織は順調に農村に浸透していった。農民の若者を中心に紅軍が組織され、ゲリラ戦術を叩き込まれた。
毛はこのような農村組織路線を進め、コミンテルンやその影響の強い党中央からの抑圧を受けつつも勢力を拡大した。31年には毛を主席とし、江西省瑞金で中華ソヴィエト共和国の建国を宣言したが、実権は依然として党中央が握っていた。
蒋介石はこれを受け、共産党根拠地掃討作戦、囲剿(いそう)を繰り返した。紅軍は抵抗を続けたが、33年からの第5回囲剿で大敗。翌34年、紅軍主力は瑞金を捨てて西に移動、長征が始まった。
国民党軍の攻撃を受けて兵力を激減させながらも、紅軍は貴州省遵義に着き、兵力を整える。ここでの軍議(遵義会議)の中で毛沢東が党の実権を握ったらしい。紅軍は、友軍と合流しつつ、共産党の根拠地のある陝西省北部を目指して北に転進し、ついに延安に到達し、36年頃までに長征を終えた。
長征の過程で、コミンテルンから、反ファシズムのために国民党と手を組め、という路線転換の指令が来る。これを受け、共産党は35年、8・1宣言を出し、抗日民族統一戦線の結成を呼び掛けた。
西安事件
満州事変後も蒋介石は対共産党を優先し、長征の後は、張学良の東北軍に陝西北部を攻めさせた。
もっとも、紅軍の頑強な抵抗に東北軍は苦戦。本拠地を日本に追われて抗日色の強い東北軍は、内戦を優先する蒋に不満を表し、国共合作に向け張を突き上げていく。張自身も、共産党と接触を重ねて一致抗日の意思を固める。当初は東北軍と共産党の連合が画策されたが、国民政府なき統一戦線の構想はコミンテルンの反対で頓挫。張は蒋介石の説得を決意する。
そんな中、36年12月、蒋は第6回囲剿を発動。国民政府軍を増派して、自らも西安に入り、華清池に滞在した。張学良と、同じく軍閥出身の楊虎城は、国共合作を進言するも聞き入れられない。内戦停止を求めるデモも起こる中、12月12日、張の命令を受けた東北軍が華清池を急襲し、蒋を拘束した。西安事件の勃発である!
事件後、張らは各地の軍閥に同調を求めたが、反応は芳しくなく、コミンテルンの反応も懐疑的であった上、国民政府は速やかに軍事行動を決定した。しかし、蒋の義兄で浙江財閥の代表・宋子文が西安入りすると流れが変わる。宋は蔣を説得しつつ、西安、南京双方をとりなして、ついに蔣の説得に成功、解放にこぎつけた。
こうして国共は接近したが、南京に帰還した蔣は、事件直後に共産党が一方的に合意内容を公表したことに激怒し、事件関係者を厳しく処罰。張学良は実に半世紀も軟禁されることになった。指導者張を失った東北軍は空中分解し、せっかく統一戦線ができたのに、その後の日中戦争に一丸となって参加することはできなかった。切ない話や。
日中戦争
37年7月、北京郊外盧溝橋で演習中の日本駐屯軍部隊に対する発砲があり(盧溝橋事件)、これをきっかけに戦端が開かれた。近衛内閣は当初不拡大方針を打ち出すが、のち増派を決定。全面衝突となり、日中戦争が始まった。日本軍は上海にも上陸して攻勢を強め、中国軍は徹底抗戦をしたが、37年末までに上海、南京、華北一帯を失った。日本軍は南京で大量の中国人を殺害し(南京事件)、国際社会の非難を浴びた。この軍紀の乱れは、日本が対ソを見据え、中国には練度の低い予備役を派兵したことが原因だともいわれる。
上海戦後、国共は本格的に軍事協力で歩み寄り、第2次国共合作が成立した。38年末までに、日本は武漢や広州まで占領したが、国民政府は重慶に拠点を移し、国民のナショナリズムを背景に徹底抗戦をした。日本の支配は都市と鉄道網、いわば点と線に限られ、大半を占める農村の掌握には失敗した。日本軍支配地の後背の農村に共産党の抗日根拠地ができ、共産党の勢力基盤は拡大した。
日本は汪精衛を半ばだます形で重慶から脱出させ、南京に傀儡政府を作ったが、民心の掌握には失敗した。日本軍は、明確な目標なしに戦線をダラダラ拡大し、戦争は泥沼化した。
重慶を中心とする国民政府の支配地は大後方といわれ、経済的には窮乏したが、米英ソの支援でなんとか持ちこたえた。この援蒋ルートの遮断のため、日本は北部仏印進駐を行い、それを皮切りに米英と関係が悪化、ついに太平洋戦争に突入する。中国は連合国に加盟し、租界の返還など不平等条約の改正を取り付け、国際社会に大国としての存在感を示していった。
43年、蒋はローズヴェルト、チャーチルとカイロ会談で対日戦後処理を協議したが、45年、中国が呼ばれなかった米英ソのヤルタ会談ではソ連参戦の条件として満州での権益保持が勝手に合意され、しぶしぶ受け入れた。
44年には日本が大陸打通作戦を実施し、国民政府軍は弱った日本軍にまさかの大敗。アメリカは反抗の進まない中国戦線にいらつき、一時、スティルウェル将軍に指揮を譲るよう蒋介石に迫った(のち撤回。)。大陸打通作戦は、日本には大局的には何ももたらさなかったが、国民党の権威は大いに失墜させた。国民党と、華北に力を伸ばしつつあった共産党との力関係が徐々に変わりつつあった。
45年8月、日本はポツダム宣言を受諾し、降伏した。国民党も共産党も、戦争は今少し長引くと考えており、降伏は寝耳に水であった。そして、その瞬間から、解放を喜ぶ民衆の裏で、次なる戦いに向けて、勢力圏や日本兵の残置した武器等の争奪戦が始まっていた…
まとめなど
孫文死後、国共まっぷたつに割れた中国。それを1つにまとめたのは日本の侵略であり、そのことを劇的に象徴するイベントが西安事件だった。その過程で、中国は弱小国から、大国の一角としての地位を確立した。
しかしこうしてみると、日本があからさまに侵略を繰り返しているのに、ぎりぎりの瀬戸際まで仲間割れを続けてたようにも見えるな。そんな国共なので、その後どうなったかも推して知るべし。…という話は、また機会があったらしよう。
*1:この辺り、日本の近世の農村とかと比較してみると面白そうだ。
