あかりの日記

おっ あっ 生きてえなあ

久野健『敦煌石窟の旅』

 

敦煌石窟の旅

敦煌石窟の旅

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莫高窟の壁画や塑像を勉強しよう。

莫高窟の総論や敦煌の歴史は長澤和俊『敦煌≪歴史と文化≫』 - あかりの日記を参照。

また、美術系は写真がないと分かりにくいが、このサイト(敦煌研究院)で丁寧に解説されているし(解説は中国語だから読めないが、)、こっち(数字敦煌)では、なんとストリートビューの形式で窟内を観ることができるのだ!適宜リンクを貼っていこう。

なお、本書は炳霊寺石窟や甘粛省博物館にも触れているが、そっちはちょっと割愛させてもらう。

北涼

5世紀初頭、匈奴・沮渠氏の北涼は仏教を篤く信仰し、多くの石窟が造営された。

275窟莫高窟第275窟-敦煌研究院)は正面に2つの仏龕が創られ、交脚菩薩像が置かれる。

敦煌石窟の仏像に共通する特徴として、まず大仏を除いて基本的に塑像である(まあ砂漠に木はないから当たり前か。)。また、光背の多くに加え、場合によっては脇侍仏までもが壁画で表されており、彫刻と壁画が一体の作品となっている。ある学者の「画塑分たず」との言葉が端的である。

その下には、仏伝の他、ピリンジェリ王、シビ王、月光王本生譚ジャータカ釈尊の前世の善行エピソード。)の壁画が描かれる。各説話の内容は割愛するが、ジャータカはいずれ詳しく検討したい。この「仏龕+壁画」が基本的な石窟のスタイルであり、古い時代の壁画はジャータカが多い。絵のタッチや生生しさはいかにも西方風である。

272窟莫高窟第272窟-敦煌研究院)には龕に曹衣出水*1の倚像*2があり、壁面には千仏が描かれる。法隆寺玉虫厨子とのつながりを思わせる。

天井は、イランやアフガニスタンによくみられるラテルネンデッケ*3の模様に彩色されている。

北魏

沮渠氏を倒した鮮卑拓跋氏の北魏は、5世紀前半から1世紀ほど華北を支配した。この間、敦煌石窟の他にも、雲崗や竜門の大仏等、多数の素晴らしい仏教芸術が創られた。

259窟莫高窟第259窟-敦煌研究院)の正面西壁の龕には釈迦・多宝の二仏坐像がある。法華経がモチーフかな?

この龕の左右に脇侍の菩薩像がいるが、向かって左の菩薩(リンク先の一番下の画像参照)は、左肩から斜めにひもをかけ、右肩から玉飾りをつけている。これこそ斜掛であり、我らが薬師寺三尊山本勉『日本仏像史講義』① - あかりの日記の日光・月光さんも着けているのだシルクロードと白鳳仏。わくわくするな。

254窟莫高窟第254窟-敦煌研究院)は、周りの壁の他、窟内に四角い柱を掘り出して、その4面にも仏像や壁画をのこす方柱窟塔廟窟ともいう)である。この方式はアジャンターなど天竺の方に多く見られるらしく、方柱は塔婆(ストゥーパ)の一種で、お坊さんがこの周りをぐるぐる回りながらお経をよみ、禅観をしたのだそうだ。

方柱各面に龕が彫られ仏像が置かれ、各壁にも仏龕が彫られる。北壁にはシビ王本生譚、西壁には禅と関係があるらしい白衣仏、南壁には有名な薩埵太子本生譚(虎に食われるやつ)や降魔図などが描かれる。虎が太子を食らう場面がかなり生生しく描かれ、西域風がうかがわれる。

257窟莫高窟第257窟-敦煌研究院)も塔廟窟で、方柱正面の龕に如来倚像が置かれる。周りの壁画は、須摩提女請仏因縁図鹿王本生図沙弥守戒自殺図。ダイナミックで生々しい壁画が続く。

ジャータカ以外のエピソードは簡単に触れておこう。須摩提女の話は、仏教を篤く信じる須摩提女が他国の長者に嫁いだが、その国では仏法ではなく外道が信じられ、須摩提女は外道に会うのを拒んだ。困った長者の子が仏の来訪を請うと、仏は神通力で飛来し、その国の者はみな仏に帰依した。という話。

沙弥自殺の話は、あるイケメン沙弥が民家に乞食に行ったところ、その家の娘に一目ぼれされ求婚される。沙弥は断るが、既にやり取りを見た世間は誤解するだろうといってその場で自殺。娘の父が王に顛末を話すと、王は沙弥を丁重に葬った。という話。

251窟莫高窟第251窟-敦煌研究院)も塔廟窟。方柱四面の仏像は後世の補修が目立つ。南北の壁画はよく残り、菩薩の天衣が腹前でX字に交差しているのが、わが国の飛鳥の古仏との共通点らしい。法隆寺釈迦三尊の脇侍菩薩とかがそうかな。

西魏北周

6世紀の石窟群は、引き続き方柱窟が多く、西方風である。

西魏時代の249窟莫高窟第249窟-敦煌研究院)は、伏斗型と呼ばれる天井の絢爛たる壁画が特徴的である。ラテルネンデッケの周りに、阿修羅、雷神などのインドの神々や、西王母、玄武などの中国の神に加え、狩猟図等も描かれた。

285窟莫高窟第285窟-敦煌研究院)も壁画が有名。インドのシヴァ、ヴィシュヌにガネーシャ、中国の雷神等のほか、施身問偈というジャータカに加え、大般涅槃経得林眼というエピソードも描かれている。

得林眼とは、インドで暴れまわった盗賊たちが、軍隊に捕えられ両目をえぐられた。仏がこれを憐れみ、神通力で目を直してやると、彼らは歓喜し、それまで使っていた杖を地にさすと、自然と根が生え林になった。彼らは過去を悔いて山林に出家した。という話。

これらの壁画は、東西の文化の雑居地たる敦煌の特徴をよく表す作品といえるだろう。

北周428窟莫高窟第428窟-敦煌研究院)も方柱窟で、方柱各面には、如来、二比丘、二菩薩の5尊1セットの仏像が並ぶ。この時代以降このセットが増える。2比丘は、本尊の左が頭陀第一・魔訶迦葉(カーシャパ)、右が多聞第一・阿難(アーナンダ)らしい。壁画は、敦煌石窟で最も古い涅槃図のほか、薩埵太子本生図、スダーナ太子本生図がみられる。本生図にも新しいスタイルがみられ、3段に分かれ、1段目が左→右、2段目が右→左、3段目が左→右、というように物語の流れに沿って描写されている。

290窟にも428窟同様の配置の仏像がみられるが、その保存状態は極めて良い。

隋窟

隋はわずか2代30年余りだが、その間に100以上の窟が造られ、敦煌の盛況がうかがえる。

419窟莫高窟第419窟-敦煌研究院)は方柱のない仏龕窟で、像の配置は428窟と同じだが、仏像のレベルは上がっている。苦行に衰えた迦葉の姿などかなり写実的。仏龕上部には葡萄唐草文様があるが、著者によると薬師寺本尊の台座の文様とかなり近いそうだ。また、台座の下には、維摩文殊の問答の図という新しい主題が描かれる。このヴィマラキールティさんについても、いずれ詳しく検討しよう。

427窟莫高窟第427窟-敦煌研究院)は前室と後室に分かれ、これまでの窟と異なる印象を与える。前室の四天王、仁王は圧があり、後室の3つの三尊像も肉厚で丸みを帯びていて、やはりこれまでの窟の仏像とは大きく印象が異なる。後室の壁面にはびっしりと千仏が描かれる。

412窟(画像ありませんでしたorz)も前後室を甬道でつなぐ形式で、前室の菩薩立像は深みのある表情が特徴的である。

303窟莫高窟第303窟-敦煌研究院)の中心の柱は興味深い形だ。すなわち、基壇の上に方形の小柱を置き、その上に円錐をひっくり返したようなものを置いていて、倒塔と呼ばれるそうだ。須弥山を表したとの説もあるらしい。

初唐窟

唐代に入り、ついに敦煌美術の進歩は頂点に達する。

220窟莫高窟第220窟-敦煌研究院)は当初、西夏期の壁画に覆われていたが、1944年に研究員がその下の古い壁画を発見。全面的に壁をはがしたところ、銘記から、貞観16年(642年)の窟と判明したのだ!太宗李世民の時代da!!!

仏龕窟で、本尊は従来通り如来・2比丘、2菩薩だが、迦葉の表情などは写実的。

この窟に特徴的なのは、南北の壁に浄土変相図が描かれていることだ。これは浄土教の浄土の姿を表したもので、唐代の中原でよく描かれたが、この時期までには敦煌に入ってきたことがわかる。南壁には阿弥陀の極楽浄土、北壁には七仏薬師浄瑠璃浄土が描かれる。

 

少しだけ脱線。我が国の薬師寺薬師三尊(なんか今回よく出てくるな。)には、白鳳仏説と天平仏説の対立があるが(山本勉『日本仏像史講義』① - あかりの日記参照)、従前、天平仏説の根拠の1つとして、次のようなことが言われていたらしい。すなわち、かつてこの如来の光背には7体の如来像がついていた(このことは文献上認められる。)。そして、七仏薬師信仰は、義浄が707年に唐に持ち帰ったものである。であれば、七仏薬師をかたどった薬師如来が、白鳳期に作られるはずがない。というものである。

現在では、中国の七仏薬師信仰は7世紀前半には始まっていたとの説が有力であり、上記の理屈は天平仏説の根拠にはならないと考えられている。そうであるところ、上でみたように、642年の時点で敦煌に七仏薬師の像があったことは、このことの明らかな傍証になるものだ。

塗り壁に隠れた古い壁画の発見で、新たな歴史的事実が明らかになる。めちゃくちゃロマンに溢れているなあ!!!

 

話を戻す()この浄土図という画題自体、中原仏教を反映したものだが、画面構成や仏の顔も中国風になっている。もともと西域から敦煌を通って中原に達した仏教美術は、中原で独自の進化を遂げ、初唐の頃には、逆にそれが敦煌に影響を与えたのだ。

しばしば法隆寺壁画と敦煌壁画との親近性が論じられるが、私は法隆寺壁画と敦煌壁画は、兄弟の関係で、父子の関係ではないと考えている。父は共に中国の中原の諸大寺の壁画で、1つは海を渡って大和までたどりつき、法隆寺壁画となり、1つは西にゆき敦煌の壁画となったものではないだろうか。(p136)

きわめて興味深い。

322窟莫高窟第322窟-敦煌研究院)の仏像は完成度が高く有名である。釈迦、2比丘、2菩薩のさらにわきに、2体の天部がおかれる。仏菩薩は写実的で、面相は中国化が進んでいる。天部は胡人風の顔つきだ。

323窟莫高窟第323窟-敦煌研究院)の壁画は、アショーカ王の金像出現伝説や、武帝の張騫派遣の説話などが描かれるが、前者の図の一部は白くはがれている。これはアメリカ人学者のウォーナーがはぎとったところだ。彼はこのほかにも、唐窟合計26か所の壁画を剥いで持ち帰り、現在ハーバード大学に保管されているという*4

盛唐以降の窟

盛唐以降の仏像には、わが国との共通点がはっきりわかるものも増えてくる。

328窟莫高窟第328窟-敦煌研究院)は盛唐を代表する石窟で、仏像はまことに美しい。内側から、釈迦、2比丘、半跏の2菩薩、膝をついた2菩薩、さらに龕の外に2菩薩。…向かって左の1尊が足りないが、これは前述のウォーナーがアメリカに持ち去り、やはりハーバードの美術館にある。さすがにひどすぎんか。

釈迦は面相・体躯ともに引き締まり、表情は叡智を表す。大衣の模様は唐招提寺盧舎那仏像などと共通する。迦葉や阿難の表情も深い思索を感じさせる。

莫高窟には南北2つの大仏があるが、いずれも盛唐期に造られた。北大仏は96窟莫高窟第96窟-敦煌研究院)、武則天治下の695年創建。高さ30メートルと東大寺大仏の約2倍だが、清代の補修が目立つ。南大仏は130窟莫高窟第130窟-敦煌研究院)、玄宗皇帝の開元期(8世紀前半)創建。東大寺大仏のちょい前。こちらは後世の塗り直しがない。毛髪はガンダーラ風にウェーブし、目や口などは大きめに作られている。竜門石窟の大仏創建が675年くらいらしいから、これを皮切りに、西は敦煌、東は大和で大仏が造られた、という流れなのね。

45窟莫高窟第45窟-敦煌研究院)の塑像は盛唐窟の中でも特に完成度が高い。如来は重量感があり均整がとれ、菩薩は首を傾げてしなを作り、女性的である。外側の天部像の様相やポーズは、東大寺戒壇院の四天王像関西3国宝展行脚① - あかりの日記とかなり似ている。壁画には浄土変相図のほか、観音経のエピソードも描かれている。

158窟莫高窟第158窟-敦煌研究院)は中唐(8世紀後半~9世紀前半)の大涅槃像が置かれている。こいつを見て気付くのは、太ももが強調されている、ということだ。同時期に当たる平安初期の、神護寺薬師如来像なども似たような特徴を有している山本勉『日本仏像史講義』② - あかりの日記参照。神護寺像はおれの好きな仏像の1つ。)。

159窟莫高窟第159窟-敦煌研究院)も中唐期、吐蕃支配下の時代に造られた。本尊はないが、脇侍の阿難や菩薩は相粉といわれる白の着色を受け、表情やポーズもいよいよ女性的である。東壁の維摩変相図にはチベット王が表され吐蕃占領期であることをうかがわせる。

156窟莫高窟第156窟-敦煌研究院)は晩唐期、敦煌は帰義軍時代で、南壁にはときの権力者張議潮を描いた張議潮出行図が描かれる。帰義軍や張議潮の話は前の記事参照。

16窟莫高窟第16窟-敦煌研究院)も帰義軍時代の窟。この部屋の中の小部屋(17窟)から敦煌文書が見つかったことは前に述べた。ところで、そもそもなぜ16窟にこんな小部屋があったのだろう?

もともと17窟は、洪ベン(エ凡かんむりに言)という高僧の像を安置するための小部屋だったとされる。この僧は、張議潮が吐蕃を討ったとき、そのことを長安に伝えるための伝令を買って出た、という功績が伝えられている。現在、お経がすっかりなくなった17窟には、もともとあった洪ベンの像が戻されているようだ。

感想

莫高窟全体の歴史を見てきた。隋頃までは、仏像や壁画の技法や題材などの点で、西方、イランやインドの影響が強い。だが、初唐からは、作風は中国的になっていき、画題は浄土・法華・華厳など、中国仏教色が強くなっていった。吐蕃や帰義軍など、ときの権力者を描いた作品があるのも面白かった。

そして、何といっても、わが国の仏像とのつながりが大変興味深い。北涼~魏窟の仏像は、飛鳥・白鳳仏に連なり、唐窟は天平、平安初期の仏に連なっている。やはりシルクロードは大和にまでつながっていたのだ!

 

*1:薄い衣が体にぴったり張り付いているような着衣のこと。水に浸って出てきた後の様子を表しているのでこう呼ばれ、これが高貴なものとみられていたらしい。

*2:椅子に座ってる像。地べたに座ってるのが坐像。

*3:正方形の中に、各辺の中点を頂点とする小さい正方形を描いて、その中に…というのを繰り返す様式のことだ。言葉で説明してもよくわかんないと思うから画像を見ろ!

*4:ひでー話だが、純然たる略奪と単純に捉えてよい問題でもないと思う。列強による文化財の持ち去り、という一般的なテーマとして、いつか考えたい。また、これと同時又は別個に、文化財の破壊、というテーマについても考えてみたい。