あかりの日記

おっ あっ 生きてえなあ

長澤和俊『敦煌≪歴史と文化≫』

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おれの今年の夏休みの自由研究はシルクロード敦煌の通史がよくまとまっている本をみつけたので、読んでみる。1960年代の古い本なので*1、最新の知見とは異なるところがあるかもしれないが、許してくれ。地名はおれの手書きのこの図を参照しなさい。



敦煌文書の発見

敦煌概説

敦煌は、中国甘粛省の都市。いわゆる河西回廊の西端であり、タクラマカン砂漠の東端にある、辺境のオアシス都市である。少し西の玉門関陽関を出るといわゆる西域。古くから漢族と胡族の雑居地で、西方文化の入口になってきた。

市域の郊外、鳴沙山なる砂山の断崖に、莫高窟千仏洞という洞窟がある。4世紀から約千年にわたって、膨大な仏像や壁画が創られ、約400窟が現存する(中の仏像等の話は、それ専門の本を読んだときにしようと思うので、今回は割愛。)。

もっとも、千仏洞自体はクチャなどほかの都市にもあるようだ。しかしながら、こんにち、敦煌シルクロードのオアシス諸都市の中でも一際有名になっている。なぜだろうか?

それは、20世紀初頭、この莫高窟から、世界中の歴史学者を驚愕させるお宝、敦煌文書が見つかったからなのだ!!!これぞ世界史のロマン!!!

敦煌文書の発見と持出し

敦煌文書とは、莫高窟で見つかった膨大な古文書群である。これらは、16窟の壁中に塗り込められた小部屋(17窟)に、約900年もの間隠されていたのだ。

1900年、莫高窟に住み着いていた無学の道士・王円籙が、偶然これを発見。彼自身は価値が分からず、郷里の学者や官吏に聞いて回ったが、その貴重さを正解する者はなく、ただ役所から封をするよう命じられた。だが、噂はやがて広まっていった。

時あたかも、英露のグレート・ゲームの真っただ中で、列国は地理・軍事の調査を兼ねて、中央アジアに探検隊を続々派遣していた。各国隊は、「敦煌で古文書発見」の噂を聞きつけ、続々と莫高窟に押し寄せた。王道士は慎重に対応したが、各国の粘り強い交渉を受け、ロシア隊にわずかな書物を与えたのち、英のスタインと仏のペリオに重要な文書を売り渡した。

遅れて気付いた清朝政府は、あわてて残りの文書の北京への搬出を命じるが、狡猾な王道士はまだ相当数を隠していた。そのため、その後訪れた日本の大谷探検隊やロシアのオルデンブルグ等にも一定数の古文書が引き渡された。辛亥革命後も文化侵略は続いたうえ、アメリカのウォーナーは唐代の石窟壁画や塑像を切り取って持ち帰った。

敦煌文書、運の悪いことに、20世紀初頭の政治的混乱が極まった時期に発見されたため、列国にやりたい放題されてしまったのだ。ひどい話だ。日本もやってるけど。

敦煌文書とは

上記の経緯を経て、現在敦煌文書は各国に散らばっている。英、露、中に約1万点、仏に約6000点、日本に約1000点、合計4万点近いが、学問上重要な文書の多くはスタインとペリオが持ち去った英仏のコレクションの中にある。

8割は漢文だが、チベット語をはじめとした胡語文書も含まれる。年代は唐代~11世紀頃までで、多くは仏典だが、戸籍や契約文書など、社会経済にかかわる文書や、子供の習字の残片が残る文書まである。その価値について、著者は以下のように言う。

本来ならば、後世に伝えられるはずのない日常の平凡な記録が、そのまま残されたということが、これらの文書群に不朽の価値を与えることになった。まず第1にこれらの文書群の分析によって、正史に見られない古代敦煌の日常生活の姿態が、まざまざと蘇ることになった。(略)第2に乾燥しきった石室内の空気が、とにかく1千年近く昔の文書をほとんどそのままの形で現代に残したことによって、貴重な実物を目のあたり見ることができるという奇跡をもたらした。(p91-92)

敦煌文書から、社会、経済、文化等にわたる広範な研究が進み、敦煌とも呼ばれる。

これがどのような経緯で隠されたのかは不明だが、1036年に西夏が侵攻した頃に慌てて隠されたと推測されている。井上康の小説もこの説に基づいておるな。

まあしかし、子供の習字に使う雑紙も入ってるわけだし、貴重品だから隠したのかは正直わからんよな。その辺りは今後も永遠に謎のままだろう。

さて、敦煌の歴史は、敦煌文書の貢献もあって研究が進んでいる。中華帝国の西の端っこの田舎都市の歴史について、軽くみていこう。

漢代までの敦煌

歴史以前の甘粛には、月氏なる民族が勢力を有していたが、前3世紀末ころ、匈奴冒頓単于がこれを追い払い、河西一帯を支配する大帝国を築いた。冒頓は打ち取った月氏の王の髑髏を盃にしたといい、バクトリア(アム川上流らへん)に逃げた月氏遺民(月氏)は匈奴を激しく憎んだらしい。

前漢は、高祖が冒頓にボロ負けして以来、匈奴にビビってきたが、前2世紀後半の武帝が反撃に出る。帝は上記大月氏の噂を聞き、これと同盟するために張騫を派遣。匈奴への恨みを忘れた大月氏との同盟は叶わなかったが、張騫は往復2度匈奴に捕まりながらなんとか帰国、西域の情報を長安に伝えた。衛青霍去病の活躍もあり、河西地方から匈奴を一時的に撃退し、武帝の西域経営が始まった。

武帝はイリの烏孫をはじめとして、西域諸国との交流を開始。大宛(フェルガナ、シル川上流らへん)への良馬の購入依頼を断られると、キレた帝は大宛遠征を開始。李広利の軍団が西域に入るが、漢軍を恐れた西域諸都市に入城を断られ、補給がないまま大宛と交戦して大敗。敦煌に帰り着いた軍勢は当初の1割ほどだったという。武帝は激怒し、玉門関を閉ざして帰国を禁じた。敦煌で態勢を立て直し、補給も整えた李広利は再度遠征を行い、今度こそ大宛に勝利。パミール以東の西域諸都市に漢の威令が及ぶようになった。

大宛遠征と前後して、武帝敦煌を含む河西四郡を設置し、敦煌の西には玉門関*2、陽関が置かれた。

このように、この当時の敦煌は、漢の辺境の軍事都市であったが、配備された兵士は大層侘しい生活を送っていたようだ。

漢の西域経営は、王莽の簒奪で一時途絶するが、後漢が成立すると、1世紀の班超の遠征で復活し、敦煌は関所の町として発展をつづけた。

魏晋南北朝時代敦煌

後漢末以降、華北が混乱すると、辺境の地である敦煌は、貿易の中継地点として栄える傍ら、独立政権(いわゆる五涼王国)の本拠地になったりする。そして、ついに莫高窟の造営が始まる。

三国時代北周

2世紀、後漢滅亡後の曹魏西晋も西域経営には積極的であり、能吏の派遣により交易が発展した。敦煌には既に仏教が入っており、晋の武帝司馬炎の頃には、この町から、敦煌菩薩と呼ばれる名僧・竺法護が出た。

しかし、3世紀に入ると五胡により華北は混乱。匈奴劉曜劉淵、羯の石勒が華北を荒らすと、漢族の張軌は河西に逃れ、事実上独立し、のちの代に前涼と号する*3前涼は西域貿易を重要な財源として奨励した。

前涼は3世紀後半に前秦に滅ぼされる。名君苻堅のもと華北を統一した前秦だが、淝水の戦いで東晋に敗れて空中分解。涼州では、西域方面の指揮官呂光前秦を裏切り、独立を宣言した(後涼)。呂光に厚遇され、政治顧問として仕えたのが、クチャの名僧・鳩摩羅什である!傑出した仏教僧侶がこの当時の中国では珍重され、時にはその争奪が戦争に発展したのだ。

後涼政権は不安定で、3世紀末には北涼南涼が独立した。さらに、北涼から敦煌太守に任じられた李暠は、400年、北涼からの独立を宣言し、敦煌に本拠地を置き、のちに西涼と号した。ついに敦煌王国というべき独立国が成立したのだ!

この時期の涼州は仏教が盛んであり、多くの碩学を輩出した。また、ちょうどこのころ、求法僧法顕が、敦煌を通り天竺への旅を始めた。彼は『仏国記』において、ゴビ砂漠の旅の過酷さを以下のように述べる。

上に飛鳥なく、下に走獣もない。(略)ただ死人の枯骨を標識とするのみである。(p142-143)

西涼は農業や交易に力を入れたが、所詮は弱小国であり、420年北涼沮渠蒙遜に滅ぼされる。北涼時代にも仏教は篤く信仰され、名僧曇無讖を重用した。当時勃興しつつあった北魏武帝も曇無讖を欲しがり、北涼に対し、彼を引き渡さねば侵攻する、と脅しをかけたほどだった。

その後、北魏の太武帝によって439年に北涼は滅ぼされ、華北はようやく統一を回復した。その後、華北西側は西魏北周が支配し、6世紀末に至って隋の勢力に入る。

莫高窟の開窟と発展

仏教の興隆や多くの旅人の通過を背景に、この時期、天竺で盛んな窟院がこの地でも作られる。それこそが莫高窟であった。

創建は前秦時代の366年頃が有力*4。僧楽僔が、鳴沙山に千仏の姿を見たのをきっかけに造窟し、次いで僧法良が造窟したという。

現在残っているもっとも古い窟は北涼時代のものだが、それ以降の各時代のものが残る。北涼窟は現在観光客への開放はされていないようだ。この時期の窟は、インドやイランなど西方文化の特徴を強く受けたものだった。

この時期の造窟は、都落ちした失意の地方長官の寄付などに支えられて盛んに行われたようだ。現世の苦しさに喘ぐ人々の、信仰の一つの表れであったのであろう。

隋~盛唐期の敦煌

3世紀ぶりの統一王朝の下、東アジア古代文明は完成を迎え、敦煌も大発展を遂げる。

政治と社会

隋の文帝は仏教を篤く保護し、また煬帝は積極的な西域経営を行った。隋唐交代の混乱に乗じて、河西は一瞬自立するが、唐の高祖李淵により征服。

そして、太宗李世民貞観時代、中国仏教イチの高僧・玄奘三蔵が、西域を通って天竺に向かったのである!玄奘の旅はいずれ詳しく取り上げたいが、ここでは、彼は勅命に背いて密出国しようとしたにもかかわらず、河西・西域の諸領主はみな玄奘の旅を応援し、出国を手助けした、ということに触れておこう。西域に仏教が深く浸透していたことがよくわかる。

玄奘の出国を認めなかったように、当初西域経営に消極的だった太宗だが、反抗したトルファンを征伐したのち、タリム盆地一帯を平定。安西都護府を置き、いわゆる羈縻政策のもと西域進出をすすめた。

次いで武則天玄宗のいわゆる盛唐期には、西方との交流は極めて活発になり、長安の繁栄はピークに達して、敦煌もその中継地として大いに栄えた。

この時期の敦煌の社会は、敦煌文書の中の戸籍や租税台帳などの分析により、比較的細かく研究されている。「唐代は均田制だった」というが、(わが国でも失敗してるし、)本当にちゃんとやってたかは疑問が呈されてきた。その辺りも、敦煌文書の分析により次第に明らかになりつつあるようだ。

仏教と莫高窟への影響

それまで西域の学問の輸入にとどまっていた中国仏教は、この時代になると独自の文化として花開く。隋から初唐にかけて、天台(立川武蔵『空の思想史』⑤ - あかりの日記立川武蔵『最澄と空海』① - あかりの日記)、華厳(木村清孝『華厳経入門』 - あかりの日記)、浄土教や禅が成立・発展し、さらに玄奘が天竺から大量の仏典を持ち帰って訳したことでますます盛んになった。

そのこともあって、従前イランなど西方の文化の強かった敦煌や西域には、中国仏教の影響が色濃くなっていくことになる。それは石窟の作り方にも表れる。

すなわち、北魏~隋には窟の中の方柱の四辺に仏像を置く方柱窟が多いのに対し、唐代以降は窟の奥に小部屋を作って仏像を置く仏龕窟(ぶつがんくつ)が多くなる。南北に石の大仏が創られるが、面相は純中国的である。さらに、壁画も、隋窟には樹下説法図等インド風の壁画が多かったのが、盛唐窟には南壁に西方阿弥陀浄土を、北壁に東方薬師浄土を必ず描き、さらに法華経華厳経維摩経を描くことが増えていく。これはきわめて興味深い!

 

吐蕃以降

吐蕃時代

初唐期のチベット高原では、ソンツェンガンポ王が統一国家吐蕃を建国。唐の西域南道(楼蘭、ホータンを通るルート)へ圧力をかけ続けた。755年に安史の乱が起こると、吐蕃は混乱に乗じて河西回廊に侵入し、8世紀後半までに敦煌を含む河西一帯を占領した。ここから約70年の間、敦煌吐蕃支配下に置かれる。吐蕃の地方組織や税制が敷かれたほか、漢人吐蕃の服で生活したようだが、その辺りも敦煌文書で明らかになりつつある。

敦煌にとって幸いだったのは、吐蕃も熱烈な仏教国家だったことであり、この時期も名僧が庇護を受けて活動した。8世紀末、漢人摩訶衍吐蕃チソン・デツェンにより敦煌からラサに招聘され、中国禅を伝えるも、インド招来のカマラシーラと論争をした(いわゆるラサ宗論立川武蔵『空の思想史』④ - あかりの日記で少し触れた。)。同時期の敦煌僧曇曠も意見を照会されたらしい。

この宗論でインド派が勝ち、その後のチベット仏教が方向付けられた。敦煌にはチベット僧法成が招聘され、チベット仏教を伝えた。

仏教内部では色々あったが、仏教自体は奨励され、石窟の開窟も順調に進んだ。この時期、唐では会昌の廃仏という仏教の大弾圧があったから、吐蕃支配下に入っていてよかったな。

帰義軍時代

9世紀半ば、吐蕃本国の混乱に乗じて、敦煌土豪張議潮は反乱を起こし、吐蕃軍を追放した。彼は唐朝に後ろ盾を求め、唐が河西回廊に設置した帰義軍の将軍に任じられ、実権を握った。ここから2世紀弱の間、河西を事実上の独立政権が支配した時代を帰義軍時代という。

帰義軍時代にも莫高窟の造窟は盛んに進められた。張議潮もデカい石窟を開き、その雄姿を壁画に描いた。研究では、造窟の意味合いについて、このように分析されている。

敦煌の人々は、生涯の念願の1つとして、千仏洞の石窟造営に無上の法悦を感じていた(略)当時の敦煌では有力者は大規模な華麗な窟を、豊かでない人々は乏しい財を出しあって小さな窟を造営した。古く続いた家では、伝来の窟を修復し、廃絶した家々の窟は荒れはてたり、潰されたりしてしまった。敦煌が衰えたときには千仏洞の造営も衰え、活況を呈したときには、大きく華麗な窟が造営されている。つまり千仏洞は、敦煌の歴史の反映であり、社会の縮図にほかならない(p228)

だからこそ、張議潮のような地元の有力者は、その権力の現れとして、デカい窟を作ろうとした。これは大変興味深い。

帰義軍は張氏が継ぎ、唐滅亡後には西漢金山国として一瞬独立したが、張氏の間の内訌や、甘州ウイグル涼州吐蕃との戦いで疲弊し、10世紀前半には曹議金がとってかわった。相次ぐ混乱で敦煌は小国になったが、曹氏の下で統治は安定し、1世紀あまりの平和を謳歌した。

西夏以降

そんな中、11世紀に入ると、タングート族の西夏が霊州(黄河が北に湾曲した辺り、オルドス)から勢力を伸ばし、李元昊が河西地域に侵攻。1036年頃までにこの地域を平定した。敦煌文書がおそらく西夏の侵入時に隠されたことは前述のとおり。

西夏の侵入をもって、張氏から続く帰義軍時代は終わりを告げ、敦煌はこれ以降、ほとんど歴史上に名前が出てこなくなってしまう。宋は西方への関心を失い、元代にもタングート系の支配が残ったようだ。明代には敦煌より東の嘉峪関が国境とされ、敦煌は回教徒のトルファン支配下に入った。この頃には莫高窟は放棄され、荒れ果てた姿になってしまった。

18世紀、清の康煕年間に、敦煌はようやく中華王朝の支配に入り、住民を中心に文化財の復興にも徐々に関心が向けられた。王道士もその流れの1人といってよい。その後、列強の文化侵略もあったが、現在では莫高窟世界遺産になり、多くの観光客で賑わっている。

 

感想

シルクロード、行きてえなあ。以上。

 

*1:司馬遼太郎や井上康を筆頭に、20世紀の日本人はシルクロードへの憧れが強いよな。しかるに、令和びとは、めっきり関心を失ってしまった。対中感情の変化とかもあるのかもしれないけど、おれたち、全般的に、かなり内向きになってるよなあ。やっぱ金がないからかな。非常に切ないぜ。

*2:現在、玉門関は敦煌の西にあるが、上のエピソード(もとは『史記』の記述)だと、「李広利が敦煌に入った後で、武帝が玉門関を閉めて帰国を禁じた」ことになっている。そうすると、当時の玉門関は敦煌より東にあったのでは、という疑問がわいてくる。ここから、玉門関は最初敦煌の東にあったが、漢の西方拡大に伴って敦煌の西に移された、という説が、かつて有力視されていたらしい。

もっとも、現在は文献の検討が進み、この説は否定されているようだ。当時の敦煌の町には、玉門関を通らなくても入れたらしい。

*3:五胡十六国の国号はおぼえよう 五胡十六国 - あかりの日記を見よ。

*4:敦煌のすぐ西、ロプノールの鄯善では、仏教が極めて盛んだった。このことから、創建をもっと遡る説も有力なようだ。