宋
★中国の近世は宋に始まる、とのことである。その意味を考えてみる。
宋の統治体制と異民族
趙匡胤が960年に建国した宋は、周の天下統一事業を継いでこれを成し遂げた。
中国は宋代からが「近世」といわれる。ここでいう「近世」の特徴としては、①唐までの身分制が緩み、庶民が活躍した時代であること、②文人官僚を用いた皇帝独裁政治の時代であること、③貨幣経済の時代であること、④先進的な文化を誇ったこと、⑤民族主義の時代であることが挙げられる。
太祖(趙匡胤)は中国統一事業を進める傍ら、節度使の兵権を削って禁軍を強化した。代わりに科挙を整備し、官僚が皇帝の手足として統治する体制が確立した。科挙の試験科目が進士等に絞られた結果、文明の学問的関心が専ら経典の研究や詩作の能力に向かったことはすでに述べた。
太祖、仁宗、英宗の3代の間、統治は安定したが、五代期に遼に奪われた燕雲十六州の回復には失敗した。かえって遼からの侵攻にも悩まされ、11世紀初めに、互いに国境を侵さない代わりに宋が歳幣を支払う澶淵の盟が結ばれた。また、同時期に長城内西方にタングートの李元昊が建てた西夏も侵入し、宋はこちらも歳幣を支払う和約を結んだ。平和は維持されたが、こうした異民族との国境紛争は宋の財政を次第に逼迫していった。
宋は経済発展を続け、草市・鎮という商業都市が発展し、銅銭や紙幣が国内外で流通し、首都開封は大いににぎわった。
王安石の新法
11世紀後半、英宗の次の神宗は、官僚王安石を抜擢して改革に当たらせた。彼の一連の改革は新法と呼ばれる。具体的内容は省くが、民力回復と財政規律の回復を目指した富国強兵策であり、一定の成果を見たといわれている。
もっとも、急激な改革は反発を招き、神宗死後に太皇后や反対派の官僚によって新法は廃止されていった。その後も官僚は新法党と旧法党に分かれて対立し、12世紀に入って徽宗の時代になると、新法派の蔡京が権力を握り、旧法党を弾圧したが、もはや政治の混乱は回復困難であった。
靖康の変と南遷
そんな中、12世紀前半、遼の北方で金が勢力を伸ばし、遼の背後を脅かした。宋は燕雲十六州回復の好機ととらえ、金と結んで遼に侵攻。だがこの判断は非常にまずかった。金は怒涛の勢いで遼を攻めたが、宋は宋江(水滸伝の元ネタの実在の人物。)等の内乱の鎮圧に苦労したこともあり、なんと滅びかけの遼軍に負けてしまう。宋は遼を滅ぼした金と和平を結ぶが、金を侮った宋の方から和平を破ろうとし、これに怒った金は華北に侵攻。金は開封を占領し、徽宗と禅譲した欽宗を捕え、華北全土を占領した(靖康の変、1127年)。皇統の高宗が江南に逃れ、臨安に都して南宋をたてた。
南宋では岳飛ら主戦派に勝った和平派の秦檜らが金と和睦し、淮河を国境として、宋が金に臣下の礼をとり歳幣を払う、という屈辱的な和約が結ばれたが、1世紀の平和を得た。
南宋の時代には江南の開発が進み、長江下流域の稲作が盛んとなって、「蘇湖熟すれば天下足る」といわれた。景徳鎮の製陶(青磁・白磁)を中心とする手工業や商業も盛んで、また対外貿易も盛んであった。
文化と儒学
北宋・南宋を通して豊かな経済力をもとに高度な文化が発展した。
木版印刷、羅針盤、火薬といった発明が進み、この時期までは中国が科学の先進国だった。
首都開封の賑わいは、東京夢華録(本)や清明上河図(絵)に描かれた。史学では司馬光(※旧法党の官僚)が資治通鑑を編纂し、文壇には欧陽脩や蘇軾(※いずれも旧法党)が出た。美術では、宮廷画たる院体画*1や士大夫の文人画が流行した。
仏教分野では、中国発祥ともいえる浄土教と禅が民衆にも流行。我らが道元上人も南宋に留学して心塵脱落を会得したのだ。金においては王重陽が道教系の全真教が成立した。北魏とか元とかもそうだけど、征服王朝では儒教はぱっとしないね。
さて、その儒学の分野は、科挙の全盛期においてきわめて重要な進歩を遂げる。北宋に周敦頤が現れたのち、南宋の朱熹が朱子学を大成させたのだ。
朱子学とは何か。欧米では「新孔子学派」と呼ばれるらしい。儒学は、漢代以来、五経を中心とする経典の字句の解釈学(訓詁学)に終始してきた。これに対して、朱熹は、①孔子中心・四書中心とし、②仏・道を異端とする護教的対抗意識を持ち、③訓詁ではなく合理的思弁を方法として理論を構築した。経典全体を通底する思想を探究した、という感じだろうか。
んで、その思想とは何なのか。よく言われるのが、「大義名分論」という、華夷・君臣・父子の区別を強調し、秩序を重視したということだ。ある種素朴な道徳論だった儒学が、思考のフレームワーク、哲学の域にまで達した、ということか。この朱子学は東アジア全体の価値観を大きく規律することになる。今日一般に儒教的とされるものは実は朱子学の教えである、ということが多いらしい。
滅亡
このように、政治三流・経済一流な感じの南宋だったが、13世紀に入ると、金がさらに北のモンゴル帝国に攻められていると聞き、和議を破って北征したものの失敗。インフレの侵攻や、1234年に金を滅ぼしたモンゴルの圧迫を受けた。
モンゴルは、4世モンケ、次いで5世フビライのもと侵攻を強め、6年にわたる襄陽・樊城*2の戦いで勝利すると、首都臨安を攻略した。一部皇族は広東の崖山島に逃げて抵抗するが、奮戦むなしく全滅。ここに南宋は滅亡した。民族主義を強調した朱子学の影響か、南宋への殉死者はほかの王朝交代時と比べて圧倒的に多かったという。
※「中国の近世は宋に始まる」という説
この説を提唱したのは内藤湖南という有名な京都帝大教授である。
以下おれの雑駁な感想だが。この議論を聞いてパッと思うのは、そもそも「古代、中世、近世、近代」という時代区分の設定は極めて恣意的であり、かつ、西洋的、とりわけマルクス主義的な発想に基づいている、ということだ。文明はある一方向に向かって発展していて、その発展段階に応じて時代を区分する、という考え方をしている。
で、この発想というのは、とりもなおさず、各文明の発展の早い遅いの比較、ひいては、その優劣の比較につながる。19、20世紀に西洋の史学に触れたアジア人は、こういう発想も受容して、西洋に比べ近代の到達が遅れた自文明への自信を喪失していったのだろう。
そうした状況の中、20世紀はじめに提唱された「中国の近世は宋から」論は、前近代の中国文明の優位性を示すために提唱されたことがうかがわれる。というより、そういう動機があまりに見え見えである。よく「中国の史書は次の王朝のポジショントークが入ってる」なんてことが言われるが、近代歴史学も同じようなものだとよくわかるだろう。
面白いのは、最初にこれを言い出したのが日本人なことだ。中国文明の名誉を守ることが、東アジア文明全体の名誉につながる、という発想だろうか。もっとも、内藤博士はこの後、この「宋すごい論」をも理論的支柱として、日本の中国への侵略を肯定する議論をしたようだ。ちょっとどういう理屈なのかよくわからないが、機会があったら研究してみよう(多分しないな(笑))。
征服王朝の時代
★11世紀以降、勢力を伸ばした遊牧民は征服王朝を打ち立て、漢民族の文明を動揺させた。
北方の諸民族
時代を少し戻して、中国文明の北側の話をする*3。唐代には突厥やウイグルといったテュルク系が活動していたが、キルギスがウイグルを滅ぼして、テュルク人はモンゴル高原を追われた(これによってテュルク人は中央アジアに移り(いわゆるトルコ化。)、さらに西を目指して移動していくことになる。)。
その後のモンゴル高原では、契丹(遼)が耶律阿保機の下で勢力を拡大し、前述のとおり中華王朝を圧迫してその土地の一部を支配した。北部を部族制、南部を州県制で統治したり、独自文字の発明したりと、その後の征服王朝の統治方法を構築した。
前述のとおり、陝西・甘粛ではタングートの西夏が成立し、西夏文字を造って多くの仏典を訳した。
やがて遼の東方でツングース系の女真が独立し、完顔阿骨打が金を建てた。前述のとおり金は遼を滅ぼし、余勢をかって華北も占領した。金は元の領土では猛安・謀克という統治制度を維持したが、華北では州県制をとった。金でも女真文字が造られた。契丹は西に逃れ、耶律大石が西トルキスタンに西遼を建てた。
モンゴル帝国
そんな中、13世紀初頭にテムジンがモンゴル高原の部族を統合し、1206年のクリルタイでチンギスハンとして即位した。モンゴル帝国(イェケ・モンゴル・ウルス)の成立である。チンギスハンは征西を行い、西遼や、西トルキスタン(いわゆるマー・ワラー・アンナフル)のホラズムを征服し、晩年には西夏を滅ぼした。チンギスは、契丹系の耶律楚材*4をブレーンとして用いたように、先に文明に触れていた諸民族を登用し、この流れはのちに受け継がれた。チンギスの後を継いだ子オゴタイは金を滅ぼした。さらに、チンギスの孫の代のバトゥがロシア~東欧を、フラグがイラン~トルコを征服し、パミール高原のオゴタイハン国、中央アジアのチャガタイハン国、ロシアのキプチャクハン国、イランのイルハン国などの地方政権が樹立して、帝国はこれら地方政権の連合体となった。
オゴタイ没後、その子のグユクが即位するも3年で没し、その後、オゴタイの兄弟トゥルイの子であるモンケが4代目大ハンとなった。王統がオゴタイ系からトゥルイ系へ移行したわけだが、このことがのちに禍根を残すこととなる。
モンケは南宋征服に乗り出すが、途上で病死。モンケの兄弟間で、アリクブケとの帝位争いに勝利したフビライが5代目大ハンとして即位した。フビライは国号を元と定め、前述のとおり、ついに南宋を滅ぼした。
話を少し戻す。オゴタイはチンギス死後の分封で、パミール高原というハズレの弱小国を割り当てられてしまった。オゴタイ系が大ハン位を継いでいたうちはよかったのだが、前述のとおりトゥルイ系に王統が移ると、オゴタイの子ハイドゥは強い不満を抱いた。そして、トゥルイ家内でフビライとアリクブケの争いが起こると、その機にハイドゥはキプチャク・チャガタイ両国を味方につけて反乱を起こした(ハイドゥの乱)。元朝はこの対応に苦慮し、フビライ死後の14世紀に入ってから、ハイドゥの死によりようやく終息する。もっとも、この乱ののち帝国は統一を回復できず、各ハン国はそれぞれ独立した各地域の国家として歩んでいくことになる。まあ流石にデカすぎだわな。
元朝の支配
ということで中華王朝になった元朝は、さらにチベット、高麗を服属させ、ベトナムや日本等にも出兵する(いずれも失敗。)。中国の統治はモンゴル人の他、西方系の色目人を重用し、漢人(金にいた漢族)や南人(南宋の漢族)は冷遇された。科挙もほぼ行われなかった。色目人を用いたことで税制も西方風になり、華北では中唐以来の両税法(土地単位の課税)を改めて人頭税を敷いた。通貨は宋以来の銅銭を廃止して交鈔という紙幣に統一され、利便性が高く経済発展を助けた。また、フビライは儒教や律令とは距離をおいてチベット仏教に帰依し、教主パスパにパスパ文字を作らせるなど重用した。
魏晋南北朝時代も含めて、ここまでの異民族王朝は、中華を領域支配すると漢民族化していくことを避けられなかった。しかし、元朝のこうした政策は、漢民族への同化を拒むものだったといえる。そして、元朝がこういうスタイルをとりえた理由について、著者は面白い説明をしている。
(チンギス以来の)西征をつうじて、モンゴル族は中国を制圧する前に、中国のそれに匹敵する高度の文明が世界各地に存在することを知ってしまったからである。彼らにとって、中国の文明はもはや唯一最高のものではなく、幾つもある文明の1つにすぎず、それに心酔同化される必要はなかった。(p201)
なるほどね。
中国は、モンゴル人によるものとはいえ、長い分裂を経てようやく統一を回復し、好景気が続いた。大運河の大都への延長、沿岸部の海運ルートの開拓、ジャムチ(駅伝制)の整備、広、泉、明などの貿易港の整備などが進んだ。
十字軍の時代にあった西欧は、イスラムへの対抗のためにモンゴルとの接触を試み、宣教師を複数回派遣した。また、商人マルコ・ポーロが大都に滞在し、東方見聞録を記した。
漢民族の文明
人生の最大目標を失った士大夫の生きる道は2つしか存在しなかった。1つは価値観を変えて下級官吏に甘んじ、官界に入って不十分ながらも社会の指導者となる道であり、他の1つはあくまでも伝統を守って価値観に固執し、官界に背を向けて文明の維持と継承に生きる道である。(p214)
科挙に受かって役人になって国に尽くす、ということが当時の中国人の人生にとっていかに重要だったのかがよくわかる。
こういった状況のもと、失意の士大夫層は庶民にもわかりやすい文化を目指し、元代の文化は、宋を継承しつつ大衆化していく方向に進んだ。元曲という庶民向けの芝居や、染付という(宋の青磁等と比べるとかなり俗っぽい)焼き物が流行るなどであり、この大衆化の傾向は今後も続いていく。
また、東西交流の成果として、イスラームの天文学を取り入れて郭守敬が授時暦を作った。
元の撤退
フビライ以降の元朝は、チベット仏教への寄進による放漫財政や帝位争いの内訌により衰退。南人を中心に反乱が相次ぐ。14世紀半ばには、黄河が決壊し、治水に成功するも、動員した労働者が反乱を起こした。この勢力を束ねた劉福通は、世直しを訴える白蓮教徒と合流して反乱を起こした(紅巾の乱)。紅巾賊の中で頭角を現した朱元璋が独立し、応天府(南京)に本拠地を置いた。彼は有力軍閥であった陳友諒と張士誠を倒し、元を漠北に追いやると(北元)、応天府を首都として明朝を建てた(太祖洪武帝)。1368年のこと。元の支配は南宋滅亡から1世紀ももたなかった。
明
★漢民族は政権を取り戻し、王朝は繫栄する。しかし、俺のごく個人的な感想だが、この辺から文明の進歩が停滞しているような感じもする。
洪武帝~永楽帝
洪武帝朱元璋は貧農の生まれであり、同じく貧農から皇帝になった劉邦とよく比較される。
彼は統一後、皇帝の専制体制を強化し、里甲制(農村の行政制度。寄合みたいなもの。)を敷いて、検地と人口調査を実施し、租税台帳(賦役黄冊)や土地台帳(魚鱗図冊)を作った。朱子学を官学として科挙を復活させ、律令を整備し、軍政は軍戸を設けて衛所制という徴兵制を敷いた。倭寇対策の名目で海禁政策をとり、元代の自由な交易は禁じられ、朝貢貿易のみが認められた。なお、洪武より年号は一世一元とされた。
内政に功績があった洪武帝だが、やがて猜疑心を強め、大粛清を行う。官僚の他、学者や文人を含めて、敵とみなした者を次々と言いがかりをつけて殺していき、消された者の数は5万を超えたそうだ。洪武帝は暗君ではないが、血塗られたイメージがぬぐえない。晩年に韓信などの粛清にいそしんだ劉邦とも、やはり通ずるところがある。
洪武帝死後、孫の建文帝が即位するが、叔父の燕王の力を削ごうとして失敗。燕王は挙兵して南京を奪い(靖難の役)、成祖永楽帝として即位。帝は自身の本拠地である北京に都を移し、現在の紫禁城の原型が造られた。
洪武帝が内政の人なら、永楽帝は華やかな外征にその功績を認められる。モンゴル高原への親征をはじめとして、沿海州やベトナムも占領し、西のティムール朝とも交渉した。何より、鄭和の南海遠征が有名である。イスラム教徒の宦官だった鄭和は、朝貢国を得るために6度もインド洋を航海し、東アフリカへと到達した。
この航海は、ガマのカリカット到達の1世紀近く前に行われているのである。中華王朝は西洋を凌駕する航海術でインド洋に進出していた。にもかかわらず、それ以降、中華王朝がインド洋に関心を抱くことはなかった。なぜだろう?
琉球、マラッカの他、朝鮮、日本、ベトナムなども中国の朝貢下に入り、東アジア国際秩序は安定を取り戻した。
万暦帝と張居正
成祖の死後、仁宗、宣宗は内政重視の統治を行い、仁宣の治と呼ばれる黄金時代を迎えた。次の英宗正統帝は、モンゴル高原で勢力を伸ばしたオイラトのエセン・ハンの侵攻を受け拉致された(土木の変)。この辺りから長城の再建が進められる。
貨幣経済の浸透により、税が銀納化された結果、インフレの進行に伴って農民は重税に喘ぎ、一部は流民化して都市住民や華僑となっていった。貨幣経済の発展により長江下流域では稲作に代わって手工業が発展し、稲作の中心は長江中流に移った(湖広熟すれば天下足る)。
15世紀末の孝宗弘治帝は英主であり、王朝を中興するが、16世紀の皇帝は人を得ず、政治は宦官等により腐敗、さらにタタールのアルタン・ハンの侵攻や倭寇に悩まされる(北虜南倭)。明は海禁を解除し、東アジアの海域は明人や日本人、次いでヨーロッパ人も参画する活舞台となった。
そうした中、16世紀後半に幼少の神宗万暦帝が即位し、これを名宰相の張居正が支えた。彼は大規模な検地を行い、税を銀に一本化する一条鞭法を拡大して、財政を大いに安定させた。
しかし、張居正の改革は地主層等の反発を招き、さらに、彼は万暦帝の教育に大失敗。居正の死後、万暦帝は政務をほぼ完全に放棄する常軌を逸した放蕩生活に入り、25年間一度も朝廷に現れず、大臣とも一度も会わないという不名誉な記録を打ち立てた。秀吉が朝鮮出兵を行うと、さすがの万暦帝も働かざるを得なかった。
万暦帝は奢侈生活を維持するために重税を課し、民衆は民変という抵抗運動に出た。
しかして、この時点で既に数千年も歴史を記録していて、何度も何度も同じことが起きているのに、愚帝の愚行を阻止するシステムを一向に開発できず、飽くまで個人の資質だよりになっている。このあたりが、中国王朝の限界だったのだろうか。政治哲学を発展させたといっても、その議論は個人の道徳レベルに終始しており、人が愚かであることを前提に仕組みを考える方向には関心が向かなかった。宦官や外戚、官僚の党争は何度も繰り返され、その度に民衆は苦しんだ。だんだん悲しくなってきたな。
陽明学と文化
明代は正統の文化領域は不毛だったとされるようだが、独自の発展を遂げた。儒教では16世紀前半に王陽明が朱子学に対抗する陽明学を打ち立てた。朱子学を外面的な知識の習得の偏重と批判して、人は生まれながらに良知を持っており(心即理)、そのことを知って(知良知)その心のままに行動する(知行合一)ことを理想とした。王陽明は武官として内乱鎮圧に功をあげるが、その合間を縫って学問を続け、門徒は増えていった。まあよくわかんないけど、批判は哲学発展の重要なエッセンスだ。しかし、陽明学は朱子学を脅かすものとして批判され、科挙の科目には選ばれず、偽学と貶められることもあった。
その他文化面では、四大奇書(西遊記、金瓶梅、水滸伝、三国志演義)や、科学技術書(本草綱目、農政全書、天工開物等)、宣教師であるマテオ・リッチ作成の世界地図である坤輿万国全図などの実学重視の風潮が挙げられる。画壇では董其昌が文人画を南画として大成させた。
党争と滅亡
神宗ののちの熹宗の代には、宦官の魏忠賢と、これに対抗する官僚の党派(東林書院という学堂で活動したので東林党と呼ばれる。)の対立が激化。魏忠賢は東林党に苛烈な弾圧を加えて権力を掌握し、皇帝の「万歳」からちょっと引いた「九千歳」を唱えて称えるよう人々に命じた。しかし、熹宗没後に魏忠賢も失脚した。
次の毅宗の代には飢饉を原因に農民の大反乱が起き、この中で頭角を現した李自成が王を名乗り、国号を順と定めた。李自成はついに北京を攻略し、毅宗は自害して明は滅亡した。1644年。
もっとも、李自成は、女真族の清と結んだ明軍の将呉三桂に大敗し、わずか40日で北京を落ちる。後には清軍が呉三桂に連れられて入城した。
伸びきった文明?
個人的な感想だが、この辺から、文明の停滞の感も感じられる。王朝交代、賢帝の善政で繁栄するも、やがて愚帝、宦官、外戚により衰退して、反乱や外敵の侵入で滅亡。おんなじことをひたすら繰り返しているように見える。文化レベルも一定水準にはなったが、自前の科学は(宣教師が色々伝えてたにもかかわらず)発展しないし、得意分野のはずの政治哲学も、学習者の知的能力の大部分は古典の暗記に注がれ、学問としての発展性には欠けている。王陽明みたいな人は異端扱いだ。
中国固有の文明(東アジア世界の文明でもある。)は、ある程度、宋代までに発展しきってしまい、それ以上の伸びしろはあんまりなかったのかな。
清(乾隆帝まで)
★清朝前半は、名君に恵まれ、世界最強国として繁栄をほしいままにした。もっとも、それは中国王朝の最後の繁栄の時代でもあった。
ヌルハチから順治帝
少し時計を戻して、17世紀初頭(万暦末年頃)。かつて金を建てた女真族は、元、明には服属したが、この時期その中の満州族がヌルハチの下で勢力を伸ばして、1616年に後金として独立。徴兵制の一種である八旗や満州文字を整備し、サルフの戦いで西洋式火砲を備えた明軍を破った。次のホンタイジ*5は朝鮮を服属させ、長城内に入って清と号した。
そして、上記のとおり明は李自成により滅亡。ホンタイジ死後、幼い順治帝を支えた摂政王ドルゴンは、1644年呉三桂を先導として北京に入城し、李自成や四川の張献忠を倒して中華を統一した。呉三桂等の建国の功臣は南方に分封され、三藩と呼ばれた。ドルゴンは正統の中華王朝の後継者として、明の行政組織や科挙を維持し、漢人も中央官吏に登用したり、減税を実施するなど、漢人にも善政を敷いた。他方、満人の服装や辮髪を強制するなど、文化面では漢人に厳しく当たった。
ドルゴン死後、順治帝が親政するが、国政を誤らず、文人としても活躍した。清の特徴は、指導者がみんな優秀だったことだ。そして、順治帝が24歳で早逝した後、史上屈指の名君とされるあの人が即位し、清は全盛期を迎える。
康熙・雍正
その人こそ聖祖・康熙帝である。康熙帝は、学問や人格陶冶に精励し、多忙な政務の合間を縫って四書五経や資治通鑑、さらには宣教師を通して西洋の学問まで猛勉強した。王朝や後宮をスリム化し、清朝ではついに宦官の専横は起きなかった。そして外征に華々しい戦果を挙げたが、一方で減税を繰り返した。
さて、ドルゴンの封じた三藩は、半ば独立勢力として振舞っていたが、康熙帝の代に取り潰しを予感すると、大乱を起こすも(三藩の乱)、鎮圧された。台湾に拠った鄭成功の一族も清に抵抗したが、康熙帝による厳しい海禁策によって干上がり、降伏した。
内憂を排除した康熙帝は外に目を向け、沿海州のロシア勢力を攻撃した後ネルチンスク条約を結び、国境を画定した。さらに外モンゴルのジュンガル部に外征をしてガルダン・ハンを破り、外モンゴルを領土に編入した上、チベットのダライ・ラマも服属させた。
康熙帝はその他にも、黄河の治水や、康煕字典、古今図書集成の編纂に功を残した。まさにパーフェクト皇帝である。
続く世宗雍正帝も、簒奪の汚名をはねのける善政を敷いた。養廉銀を支給して官僚の廉潔を維持し、軍機処を設置し行政の効率化を図った。他方、反清思想は厳しく弾圧した(文字の獄)。
明後半以降には宣教師が盛んに活動し、康熙帝の時代にはブーヴェ等が皇輿全覧図なる全国実測地図を作製するなどした。しかし、教皇庁において中国の儀礼を排除する議論が起こり(典礼問題)、これに怒った雍正帝は禁教令を発した。その結果、中国は18世紀以降に目覚ましい発展を遂げるヨーロッパの科学を受容することができなかった。
乾隆帝
次の高宗乾隆帝も名君であり、18世紀後半に清は世界最大最強の帝国であり、かつ最高の文化国家となった。ジュンガルを討伐して新疆を領土に編入し、今日の中国の領土の原型が形成された。また、国を挙げて修書を行い、四庫全書という大叢書を編纂した。
三藩の乱鎮圧後、海禁が解除されると、漢人や西洋人による貿易が発展し、中国は茶などの豊富な輸出産品を背景に銀が大量に流入。一部商人は東南アジアなどに進出して南洋華僑になった。また、乾隆帝は国家による貿易独占を図り、広州に公行を設置して貿易を管理させた。農村にも銀経済が浸透し、トウモロコシ等の商品作物の生産や、地丁銀制という税制の導入がされた。
清代、儒学では、顧炎武の理論を受け継いで文献学である考証学が発展し、文学では紅楼夢や儒林外史が記された。また、宣教師カスティリオーネにより円明園が造営された。中国文明は宣教師を通じてヨーロッパにも伝えられ、一種のブームを引き起こした。
清(19・20世紀)
★19世紀以降、中国は長い苦難の時代に突入する。本書は辛亥革命までで終わっているので、ひとまずそこまでを見ていく。
アヘン戦争
18世紀に対中貿易の中心になったイギリスは、茶など中国の豊富な産品に大幅な貿易赤字を被っていた。この状況を打開するため、イギリスは、インドで生産した嗜好性麻薬であるアヘンの輸出を拡大。
清はアヘンの輸入を禁じ、イギリスはマカートニーを派遣して自由貿易を求めたが、乾隆帝は拒絶。しかし、アヘンの密輸はどんどん拡大し、銀が出超になっていった。18世紀末からの白蓮教徒の乱もあり、体制には綻びが生じつつあった。
19世紀前半、清は林則徐を広州に送ってアヘンを厳しく取り締まらせ、これに対抗したイギリスは1840年に艦隊を派遣、アヘン戦争が始まった。清軍は近代兵器をもつイギリスに完敗。香港の割譲、5港開港、公行廃止、賠償金支払などを内容とする南京条約を締結し、さらに関税自主権喪失、治外法権、最恵国待遇を定めた不平等条約を結び、次いで米仏とも不平等条約を結んだ。アヘンの輸入も黙認となり、安価な輸入品の流入で国内は失業者に溢れた。中国にとって屈辱の近代史が幕を開けた。
薬物を押し売りして、拒否されたら軍艦で叩き潰す。奴隷貿易や強引な入植もそうだけど、近世以降の西洋人の外道さと言ったらない。それでいて掌を返して人権がどうだとか言ってんだから、笑わせちゃうよなほんと。まあ、日本や中国も西洋にかぶれて外道の側に行くんだけど。
太平天国
そうした中、キリストの弟を自称する洪秀全率いる拝上帝会が1851年に太平天国の乱を起こす。太平天国軍は南京を落として天京とし、都に定めた。滅満興漢を掲げるとともに、儒教を否定し、纏足などの悪習の廃止や土地の均分(天朝田畝制)を敷き、男女の民衆に支持された。八旗軍は弱体であり、代わりに漢人官僚の義勇軍(郷勇)が鎮圧に一躍買った。曽国藩の湘勇や李鴻章の淮勇などが代表である。諸外国も鎮圧に加勢し、ウォードやゴードンの常勝軍も加勢した。太平天国は内訌に苦しみ、1864年にようやく鎮圧された。
この間即位した同治帝は幼く、生母の西太后が執政した。西太后は以降半世紀、清朝の滅亡まで実権を握り続けた。そして、太平天国との戦争中の1856年、英国商船への清兵の国旗侮辱事件をきっかけに、英仏連合軍が清に出兵した(アロー戦争、第二次アヘン戦争)。英仏軍は広州を落として天津に迫り、58年天津条約を結んだが、清が批准を拒んだことで英仏軍は北京を占領、60年北京条約を結んだ。公使の北京駐在、開港、外国人の旅行の自由、キリスト教布教の自由、賠償金、アヘン貿易の公認などを内容とした。調停役を務めたロシアは見返りに沿海州を奪取した。北京攻略の際に円明園は破壊され、略奪が行われた。以降中国は列強の反植民地化の憂き目に遭う。
洋務運動~日清戦争
太平天国鎮圧後に国内は小康状態となり(同治の中興)、曽国藩や李鴻章ら漢人官僚の下で西洋化を進める洋務運動が起きた。もっとも、この改革は中国の政治体制や道徳倫理は維持しながら技術だけ導入する中体西用をスローガンとしており、国政の改革は起きなかった。同治帝が病没すると、西太后は甥の光緒帝を傀儡として即位させ、垂簾政治を継続した。
清は北京条約ののちに外務省に当たる総理各国事務衙門を設置し、伝統的な朝貢貿易を見直した。しかし、光緒時代には、84年清仏戦争の敗北で朝貢国ベトナムをフランスに奪われ、さらに、94年日清戦争で敗北し、朝鮮の朝貢を失って台湾を日本に奪われた。しょぼい島国と思われていた日本への痛恨の敗戦は、国内外に洋務運動の失敗を印象付け、列国は中国分割に動き、国内では新たな改革運動につながった。
義和団の乱
日清戦争後、ロシアは三国干渉の見返りとして清に東清鉄道の敷設権を認めさせ、内蒙古・満州に進出した。さらに、ドイツが膠州湾、ロシアが遼東半島南部、イギリスが威海衛や九竜半島、フランスは広州湾をそれぞれ租借し、さらにそこを拠点に、ドイツが山東半島、イギリスが長江流域、フランスは広東・広西地域、日本は台湾の対岸の福建地域に権益を得た。米西戦争で出遅れたアメリカのジョン・ヘイが門戸開放を提唱すると、1900年頃には中国分割はひとまず収まった。
さて、こうした危機的状況に遭って、漢人官僚で公洋学派の康有為は、日本の明治維新に倣って根本的な制度改革を行う変法を提唱して光緒帝を説得し、1898年に改革が断行されたが(戊戌の変法)、西太后のクーデターにより失敗、光緒帝は幽閉され、またも垂簾政治が復活した。
列国の侵略が強まる中、国内では反キリスト教の排外運動が強まり、1900年、扶清滅洋を掲げた義和団が山東で大規模な反乱を起こし、教会を破壊しながら北上して北京を占領、外国人に攻撃を加えた。
列国は当然鎮圧を要求したが、なんと西太后はこれを拒否。むしろこの機に列国を追い出そうと考え、列国に宣戦布告。日露中心の8か国連合軍が共同出兵して北京を占領し、01年に辛丑和約が結ばれ、清朝は莫大な賠償金を負った。
04年には日本はイギリスと組んで日露戦争を開始、これに勝利し、中国を含めたアジア諸民族の自身を高めたが、以降、日本も帝国主義国の一員として中国に本格的に進出することとなる。
辛亥革命
義和団事件後の西太后はようやく改革に踏み切り、科挙の廃止、憲法大綱の公表や国会開設の公約をしたが(光緒新政)、あまりにも遅すぎた。08年に光緒帝と西太后が相次いで亡くなり、後を溥儀が宣統帝として継いだ。俗にいうラストエンペラーである。
19世紀末から興中会を起こして革命運動をしていた孫文は、05年東京で中国同盟会を組織し、革命宣伝をした。
11年(宣統3年)、干支は辛亥、鉄道国有化に反対する四川暴動の中で、武昌の軍隊の中の革命派が蜂起、辛亥革命が勃発する。革命が波及して中華民国が建国され、宣統帝は退位した。
300年弱続いた満州族の支配の終わりは、2000年以上にわたる皇帝専制や、儒教を基本的教学とする文明社会の終わりでもあった。
感想
1つ。中国文明は、宋代くらいまでに世界最先端の文明(の1つ)になったが、その後停滞し、そうこうしている間に西洋に抜かされた。「文明」という観点から見ると、一応そういう見方ができそうだ。その停滞の原因を儒教に見るむきもあるようだ。
2つ。内藤湖南教授の名前が出てきたが、近代以降の中国史研究は、(中国人だけでなく、日本人にも、)西洋に負けない文明を有している、というプライドを原動力として進められてきた面があるのではないか、ということだ(まああらゆる歴史研究にはそういう面があると思うが。)。
